中国の報道によると、8月下旬、中国北部・山西省朔州市の右玉県で「三十二長城」と呼ばれる明代の長城の一部が破壊されました。
公安が拘束したふたりの実行者は「近道を造るために壊した」と話しています。
この遺跡は中国の世界遺産「万里の長城」には含まれていませんが、近年、長城の一部が破壊されたり撤去される事件が相次いでおり、問題となっています。
今回はこのニュースをお伝えします。
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「長城」は国境沿いに巡らせた城壁を意味します。
万里の長城以外にもローマ皇帝が築いたハドリアヌスの長城やアントニヌスの長城はよく知られています。
このふたつの長城は世界遺産「ローマ帝国の国境線(イギリス/ドイツ共通)」に含まれています。
万里の長城は紀元前8~前3世紀の春秋戦国時代、春秋五覇や戦国七雄といった列強が国境に築いた長城を起源とします。
当時の長城はウマの侵入を食い止められるだけの簡単な土塁だったようで、これにより隣国や騎馬民族の侵入を防ごうとしました。
そして紀元前221年に始皇帝が史上はじめて中国を統一すると、各地の長城を結んで主に北方の国境線としました。
紀元前100年頃に編纂された司馬遷の『史記』に「万余里の長さ」と記されたことから「万里の長城」の名が知られるようになりました。
漢の時代に武帝が匈奴を討伐して領土を西に大きく延ばすと、それに伴って長城も延長されました。
この一部は世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」に含まれています。
さらに北魏の時代に1,000kmが延長されるなど、時代時代に増改築が繰り返されました。
そして1368年に洪武帝が明を建国し、久しぶりに漢民族の大国家が誕生しました。
続く永楽帝の時代に金陵(現・南京)から北京に遷都すると、北方民族の侵入に備えて万里の長城の大増築を行いました。
明代の長城は満洲や朝鮮半島に接する虎山や山海関からゴビ砂漠の嘉峪関まで総延長8851.8kmに達し、主要区間は切石や焼成レンガを用いて巨大・堅牢かつ優美に築かれました。
写真などでよく目にする立派な長城はすべてこの時代のものです。
これまでに築かれた万里の長城の総延長ですが、中国国家文物局は21,196.18kmと発表しています。
ただ、すでに失われたものや南部に築かれたものも含めると地球の円周40,000kmを超える50,000kmに達するという説もあったりします。
関連の遺跡は約44,000箇所に及び、15の省にまたがっています。
この中で世界遺産「万里の長城」に含まれているのは北京市郊外の八達嶺、秦皇島市の山海関、嘉峪関市の嘉峪関の3件で、城壁の長さは30kmほどにすぎません。
さて、今回のニュースです。
8月24日、中国北部・山西省朔州市の右玉県で明代の長城の一部が破壊されているという通報が入りました。
公安当局が確認すると三十二長城の一部が取り壊されており、道路が長城の内外を貫いていました。
三十二長城は山西省でもっとも状態がよいとされる長城のひとつで、幽州から32番目に築かれた望楼が立っていたことから名付けられました。
山西省の文化財に指定されており、保護対象となっていました。
公安はまもなく重機で破壊した50代と30代の男女を特定して逮捕しました。
ふたりは近道を造るために破壊したと述べています。
過去記事「世界遺産NEWS 16/09/24:万里の長城に衝撃的な修復」に一例があるように、実はこのような長城の破壊は各地で起きています。
世界遺産に登録されている八達嶺、山海関、嘉峪関や、北京近郊の居庸関や慕田峪などのように監視カメラで厳重に管理されている例もありますが、少数にすぎません。
国家レベルの長城であっても管理体制の整っていないいわゆる「野良城」を勝手に散策したりといった被害は毎年報告されています。
まして地方の長城は省レベルの文化財であっても管理が十分とは言えず、ダムや鉱山開発のために破壊されたり、建材として石やレンガが持ち去られるといった被害がしばしば報道されています。
ハッキリと形が残る明代の長城ですらこうした状況なのですから、自然の丘と見分けることさえ難しいそれ以前の長城の被害は予想が付きません。
中国の学術団体は2006年の段階ですでに長城の半分以上が消滅し、多くがその途上で、有効に保存されているのは2割以下に留まるという報告を出しています。
政府は長城の破壊に対して50万元以下の罰金または10年以下の禁錮刑などと罰則を強化することで対応していますが、もとより4万件・2万km以上の遺跡のすべてを保護するのは容易ではなく、抜本的な対策が求められています。
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万里の長城(All About 世界遺産)
世界遺産NEWS 16/09/24:万里の長城に衝撃的な修復