文学2:春の唄

春。

春が来るのだ。
君よ春が来るのだ。


■有島武郎『小さき者へ・生れ出ずる悩み』収蔵「小さき者へ」より
そして僕は、同時に、この地球の上のそこここに君と同じ疑いと悩みとを持って苦しんでいる人々の上に最上の道が開けよかしと祈るものだ。
この切なる祈りの心は君のみの上を知るようになってから僕の心の中に殊に激しく強まった。
ほんとうに地球は生きている。
生きて呼吸している。
この地球の生まんとする悩み、この地球の胸の中に隠れて生れ出ようとするものの悩み――それを僕はしみじみと君によって感ずる事ができる。
それは湧き出で跳り上る強い力の感じを以て僕を涙ぐませる。
君よ!
今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。
太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。
春が来るのだ。
君よ春が来るのだ。
冬の後には春が来るのだ。
君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春が微笑めよかし……僕はただそう心から祈る。

 


■川端康成『古都』より
花は三つ、多くて五輪、毎春まあそれくらいだった。
それにしても、木の上の小さいくぼみで、毎春、芽を出して、花をつける。
千重子は廊下からながめたり、幹の根もとから見上げたりして、樹上のすみれの「生命」に打たれる時もあれば、「孤独」がしみて来る時もある。
「こんなところに生れて、生きつづけてゆく……。」
店へ来る客たちは、もみじのみごとさをほめても、それにすみれ花の咲いているのを気がつく人はほとんどない。
老いの力こぶのはいった太い幹が、青ごけを高くまでつけて、なお威厳と雅致とを加えている。
それに宿るささやかなすみれなど目につかぬのだ。
しかし蝶は知っている。
千重子がすみれの花をみつけた時、庭を低く飛んでいた、小さく白い蝶のむれが、もみじの幹からすみれ花の近くに舞って来た。
もみじもやや赤く小さい若芽をひらこうとするところで、その蝶たちの舞の白はあざやかだった。
二株のすみれの葉と花も、もみじの幹の新しい青色のこけに、ほのかな影をうつしていた。
花ぐもりぎみの、やわらかい春の日であった。

 


■三島由紀夫『鏡子の家』より
僕は片手に水仙を持ったまま寝床から立って、久しくあけない窓をあけに行った。
すると早春の日ざしのなかに、今年はじめての和やかな風の運んでくる、ものの匂いや音のかずかずが、俄かに僕の耳を領した。
家は高台になっているので、遠いデパートやビル街やそこにうかぶ広告気球や、高架線の上を光って走る電車までがはるかに見える。
風の加減で、雑多な物音もまじってきこえる。
すべてが今朝は洗われているように見える。
僕は君に哲学を語っているのでもなければ、例え話を語っているのでもない。
世間の人は、現実とは卓上電卓だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い国々で展開されている民族運動だの、政界の角逐だの、……そういうものばかりから成立っていると考えがちだ。
しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、いわば現実を再編成したのだ。
われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで支配しているのは、他でもないこの一茎の水仙なのだ。
この白い傷つきやすい、霊魂そのもののように精神的に裸体の花、固いすっきりした緑の葉に守られて身を正しくしている清冽な早春の花、これがすべての現実の中心であり、いわば現実の核だということに僕は気づいた。
世界はこの花のまわりにまわっており、人間の集団や人間の都市はこの花のまわりに、規則正しく配列されている。
世界の果てで起るどんな現象も、この花弁のかすかな戦(そよ)ぎから起り、波及して、やがて還って来て、この花蕊(かずい)にひっそりと再び静まるのだ。
僕は遠い陸橋へ目をやった。
そこを通る一台の自動車が朝の日光に光った。
するとその一台の自動車も、一気に距離を失って、僕の存在とごく短かい糸で結ばれているような気がした。
それも水仙のおかげなのだ。
僕は庭のすがすがしい空気を吸った。
見たところはまだ緑の兆はないが、枝々の尖端がかすかに赤味を加えだした枯木という枯木は、もう冬のあいだのきびしい輪郭を失っていた。
これも水仙のおかげなのだ。
まことに玄妙な水仙!
うっかり僕がその一茎を手にとったときから、水仙の延長上のあらゆるものが、一本の鎖につながっているように、次々と現われて、僕に朝の会釈をした。
それは水仙の謁見の儀のようだ。
僕は僕と同じ世界に住み、水仙と世界を同じくするあらゆるものに挨拶した。
永らく僕が等閑にしていたが、僕が今や分ちがたく感じるそれらの同胞は、水仙のうしろから続々と現われた。
街路をゆく人たち、買物袋を下げた主婦、女学生、いかめしいオートバイ乗り、自転車、トラック、巧みに街路を横切る雉子猫、あの陸橋、広告気球、ビルディングの群の凹凸、高架鉄道、その遠い汽笛、アパートの窓の沢山の干し物、人間の集団、人間のあらゆる工作物、大都会そのもの、……それらが次から次と、異常なみずみずしさを以て現われた。

 

 

谷川俊太郎『春に

この気もちはなんだろう

目に見えないエネルギーの流れが

大地からあしのうらを伝わって

ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ

声にならないさけびとなってこみあげる

この気もちはなんだろう

枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく

 

よろこびだ しかしかなしみでもある

いらだちだ しかもやすらぎがある

あこがれだ そしていかりがかくれている

 

心のダムにせきとめられ

よどみ渦まきせめぎあい

いまあふれようとするこの気もちはなんだろう

 

あの空の青に手をひたしたい

まだ会ったことのないすべての人と

会ってみたい話してみたい

あしたとあさってが一度にくるといい

 

ぼくはもどかしい

地平線のかなたへと歩きつづけたい

そのくせこの草の上でじっとしていたい

大声でだれかを呼びたい

そのくせひとりで黙っていたい

 

この気もちはなんだろう

 


■中原中也『汚れっちまった悲しみに』収蔵「春宵感懐」より
雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。

なんだか、深い、溜息が、
 なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、掴めない。
  誰にも、それは、語れない。
 
誰にも、それは、語れない
 ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか、
 けれども、それは、示かせない……
 
かくて、人間、ひとりびとり、
 こころで感じて、顔見合せれば
につこり笑ふといふほどの
 ことして、一生、過ぎるんですねえ
 
雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。

 


■トーマス・マン著、高橋義孝訳『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』より
よろしいですか、私だって春はいけない。
春が呼び起す思い出や感情のやさしい平凡さにかかっては私だって混乱してしまいます。
ところが、そうだからといって、私には春を非難したり、さげすんだりする勇気がないのです。
つまりこうです、私は春に恥じる、春の純真な自然さ、春の圧倒的な若々しさに赤面するというわけなんですよ。

 


■ドストエフスキー著、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』より
春先の粘っこい若葉や、青い空を、俺は愛してるんだよ、そうなんだ!
この場合、知性も論理もありゃしない。
本心から、腹の底から愛しちまうんだな、若い最初の自分の力を愛しちまうんだよ……こんな愚にもつかない話でも、何かしらわかるかい? アリョーシャ、わからないか?

 


■チェーホフ著、小笠原豊樹訳『かわいい女・犬を連れた奥さん』収蔵「いいなずけ」より
庭は静かで涼しく、ひっそりとした黒い影が地面に落ちていた。
どこか遠くで、たぶん町はずれだろう、非常に遠い所で蛙の啼きかわす声が聞えた。
まさしく、五月、いとしい五月!
深々と息を吸いこめば、ここではなくどこかの空の下、木立ちの上、遠い郊外の野原や森に、罪深く弱い人間には思いも及ばぬ春の生活が、神秘的で美しく、豊かで清らかな生活が今や繰りひろげられているのだと思いたくなる。
そしてなぜか泣きたくなるのだった。

 


■トルストイ著、木村浩訳『復活』より
何十万という人びとが、あるちっぽけな場所に寄り集まって、自分たちがひしめきあっている土地を醜いものにしようとどんなに骨を折ってみても、その土地に何ひとつ育たぬようにとどんな石を敷きつめてみても、芽をふく草をどんなに摘みとってみても、石炭や石油の煙でどんなにそれをいぶしてみても、いや、どんなに木の枝を払って獣や小鳥たちを追い払ってみても――春は都会のなかでさえやっぱり春であった。
太陽にあたためられると、草は生気を取りもどし、すくすくと育ち、根が残っているところではどこもかしこも、並木道の芝生はもちろん、敷石のあいだでも、いたるところで緑に萌え、白樺やポプラや桜桃もその香りたかい粘っこい若葉を拡げ、菩提樹は皮を破った新芽をふくらませるのだった。
鴉や雀や鳩たちは春らしく嬉々として巣づくりをはじめ、蝿は家々の壁の日だまりのなかを飛びまわってみた。
草木も、小鳥も、昆虫も、子供たちも、楽しそうであった。
しかし、人びとは――もう一人前の大人たちだけは、相変わらず自分をあざむいたり苦しめたり、お互い同士だましあったり、苦しめあったりすることをやめなかった。
人びとは神聖で重要なものは、この春の朝でもなければ、生きとし生けるものの幸せのために与えられた、この神の世界の美しさ――平和と親睦と愛情に人びとの心をむけさせるその美しさでもなく、互いに相手を支配するために自分たちの頭で考えだしたものこそが、神聖で重要なものだと考えているのだった。


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