世界史41 アメリカ独立革命 - ART+LOGIC=TRAVEL [旅を考えるweb]

世界遺産と世界史41.アメリカ独立革命

シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。

なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。

 

■電子書籍『世界遺産で学ぶ世界の歴史 ~海外旅行から世界遺産学習まで~』

 1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編

 

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<アメリカ独立戦争>

イギリスによるアメリカ植民の解説動画

■ボストン茶会事件

アメリカの世界遺産「独立記念館」
アメリカの世界遺産「独立記念館」。1749年に建てられたペンシルベニア州の議事堂ですが、13の植民地の代表がここに集まって独立宣言に署名したことからこの名がつきました。1787年にはここで合衆国憲法が承認されています (C) Rdsmith4

アメリカの東海岸ではイギリスの13植民地を中心に開拓が進められ、北部では商工業や自営農業が、南部では黒人奴隷を用いたプランテーションが発達しました。

 

18世紀後半からイギリスとフランスの間でアメリカの支配権を巡る戦争が続きましたが、イギリスは1763年のパリ条約で、カナダ、ミシシッピ川以東のルイジアナ、西インド諸島の一部、セネガルを獲得し、スペインからフロリダを入手します。

一方、フランスは上記に加えてスペインにミシシッピ川以西のルイジアナを割譲し、アメリカの植民地をほとんど失いました。

 

イギリスはフランスとの戦いに決着をつけると戦争による財政難を解消するために、受益者であるアメリカの植民地に対する課税を強化します。

これが不満を呼び、1765年に成立した印紙法(印刷物に印紙を貼らなければならないという法律)に対して「代表なくして課税なし」と、植民地の代表が本国の議会にいないことから課税権がないという論理で拒否します(ヴァージニア決議)。

人々はイギリス製品の不輸入運動を展開し、翌年には撤廃に追い込みました。

 

1767年にタウンゼンド諸法で茶や紙・ガラスに対して税が課せられると不輸入運動を強化。

さらに1773年の茶法で東インド会社に茶の独占販売権を与えたため、その不平等に反発して東インド会社の船舶を襲撃して積み荷の茶を海に捨てる事件が起こりました(ボストン茶会事件)。

アメリカ人が紅茶よりコーヒーを好むのはこの頃からといわれています。

 

■アメリカ独立戦争

アメリカ独立戦争を描いたローランド・エメリッヒ監督『パトリオット』予告編

世界遺産「シャーロットヴィルのモンティセロとヴァージニア大学(アメリカ)」、モンティセロ
第3代大統領トマス・ジェファソンの私邸モンティセロ。イタリア旅行で目にした宮殿や庭園をもとに、ジェファソン自らデザインを行いました。世界遺産「シャーロットヴィルのモンティセロとヴァージニア大学(アメリカ)」構成資産 (C) Martin Falbisoner

これに激怒したイギリス王ジョージ3世はボストン港を封鎖して対抗。

植民地側は翌年、フィラデルフィアで第1次大陸会議を開いて抗議し、不輸入運動を続けました。

 

1775年、植民地側が武器を用意しているという情報を得たイギリスはコンコードに軍を派遣。

イギリス軍はレキシントンで攻撃を受け、多くの兵士が殺害されました(レキシントン・コンコードの戦い)。

これによってアメリカ独立戦争の火蓋が切られ、同年の第2次大陸会議においてワシントンが大陸総司令官に任命されました。

 

1776年7月4日、フィラデルフィアのペンシルバニア州議会議事堂(後の合衆国議会議事堂。独立記念館※)で開催された大陸会議でトマス・ジェファソンらが起草したアメリカ独立宣言を全会一致で採択。

この日はいまでもアメリカの独立記念日として祝われています。

 

8月に入るとイギリスが反撃に出て、ロングアイランドの戦いに勝利してニューヨークを占領。

1777年にはアメリカ軍の本拠地となっていたフィラデルフィアを落とします。

 

アメリカは同年10月にサラトガの戦いで大勝すると盛り返し、1778年にはフランスのルイ16世がアメリカ側で参戦して軍を送り込みます。

1779年にスペイン、1780年にオランダがやはりアメリカ側について参戦します。

 

こうした動きに対してイギリスはアメリカの海上封鎖を行いますが、ロシアのエカチェリーナ2世が武装中立同盟を提唱し、中立国の船舶の航行と物資輸送の自由を主張。

プロイセンやポルトガル、スウェーデン、デンマークが同盟に参加したためイギリスは孤立し、狙い通りの効果は生みませんでした。

 

1781年、ヴァージニアのヨークタウンに侵攻したイギリス軍に対してワシントンが総攻撃を開始。

フランスのラファイエットの義勇軍が呼応し、フランス海軍も海からの砲撃で支援しました(ヨークタウンの戦い)。

イギリス軍はついに降伏し、1783年のパリ条約でアメリカの独立が決定。

13州に加えてミシシッピ川以東の土地を手に入れました。

 

こうして1763年のパリ条約で完成したイギリス第1帝国は、1783年のパリ条約とヴェルサイユ条約によって終わりを告げました。

※世界遺産「独立記念館(アメリカ)」

 

■連邦体制の確立

世界遺産「自由の女神像(アメリカ)」
独立支援を行ったフランスが、アメリカ独立100周年を記念して1886年に贈った世界遺産「自由の女神像(アメリカ)」。左手に持つ銘板には独立記念日である1776年7月4日とフランス革命の1789年7月14日の日付が刻まれています

アメリカは独立後に国家体制を急速に整備します。

 

1787年にはフィラデルフィアの憲法制定会議で合衆国憲法を制定。

人民主権をベースに君主を置かない共和政を掲げ、各州の自治を州政府に任せながらも外交・軍事・通商などについては連邦政府が強力な力を持つ連邦主義を採用しました。

1789年には合衆国憲法に基づく連邦政府が発足し、ワシントンが初代大統領に就任しています。

  

合衆国憲法はイギリスのような王制や貴族制・身分制を否定し、法の下の平等や自由をうたったまさに市民階級(ブルジョアジー)のためのものでした。

このような市民革命が成功したのはもともと植民地に国王や貴族がおらず、産業革命を経て資本主義や自由主義が浸透して自由・平等を求める高い意識が醸成されていたからでしょう。

 

ただし、身分制が否定されたといっても奴隷制はイギリスが廃止したあとも続いており、イギリス統治時代には比較的守られていたアメリカ先住民の権利もほとんど無視されました。

アメリカはこのあと西部開拓時代を迎えますが、以前イギリスやフランスの植民地人が先住民と結んだ条約などは反故にされ、土地の収奪を開始します。

 

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次回はフランス革命とナポレオンによるヨーロッパ征服を紹介します。

 


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