世界遺産NEWS 24/10/15:彦根城のプレリミナリー・アセスメント評価報告
2023年9月にプレリミナリー・アセスメントと呼ばれる事前評価制度を申請した日本の世界遺産候補地「彦根城」。
文化庁は10月9日、世界遺産委員会の諮問機関であるICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)からそれに対する事前評価報告書を受け取ったことを発表しました。
報告書は彦根城が世界遺産としての顕著な普遍的価値を満たす可能性を認める一方で、その証明が不十分であり、他の城と合わせた推薦なども検討する必要があるとしています。
彦根市や滋賀県といった自治体や、文化庁をはじめとする関係省庁は、来年中にその方針を定めることになりそうです。
■世界遺産目指す彦根城「登録基準満たす可能性」 ユネスコ諮問機関(朝日新聞)
今回はこのニュースをお伝えします。
* * *
現在、UNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の世界遺産委員会は世界遺産の登録プロセスの変更を進めています。
2028年の世界遺産委員会から完全施行されるのがプレリミナリー・アセスメントと呼ばれる事前評価制度で、2027年の推薦分から必須となります。
ただし、2023年から移行期間がはじまっており、希望する物件はUNESCOの世界遺産センターに申請することができます。
そして昨年9月に「彦根城」が申請を行い、日本ではじめてこの制度を利用することになりました。
制度の詳細は過去記事「世界遺産NEWS 23/02/02:導入迫る世界遺産のプレリミナリー・アセスメントとアップストリーム・プロセスの概要」を参照していただくとして、ここでは簡単に概要を紹介します。
プレリミナリー・アセスメントは推薦前に導入される事前評価制度です。
申請を行った物件は世界遺産委員会の諮問機関、文化遺産なら主にICOMOS、自然遺産ならIUCN(国際自然保護連合)が約1年を掛けて調査を行い、具体的なガイダンスとアドバイス・勧告を含んだ「事前評価報告書(プレリミナリー・アセスメント・レポート)」を作成します。
完全施行後は推薦に際してこの事前評価報告書の提出が必須となります。
現在、推薦の締め切りは毎年2月1日で、翌年の夏に開催される世界遺産委員会で登録の可否が決まります。
推薦から決定まで約1年半掛かっているわけです。
しかし、プレリミナリー・アセスメントが導入された場合、その申請から事前評価報告書の受け取りまで約1年、推薦まで最短でさらに1年半、推薦から登録可否の決定まで1年半で、最低でも約4年を要することになります。
スケジュール的には以下のようになっています。
■プレリミナリー・アセスメント・フェーズ
- 9月15日まで(1年目):プレリミナリー・アセスメントの世界遺産センターへの要請期限
- 10月15日まで(1年目):世界遺産センターが要請を確認し、不備がなければ受理を締約国に通知し、諮問機関に要請を送達
- 10月~翌年9月(1~2年目):諮問機関による調査
- 10月1日まで(2年目):諮問機関は事前評価報告書を世界遺産センターに提出。その後、世界遺産センターは締約国に送達
- 締約国は事前評価報告書を受け取ってから12か月間は登録推薦書を提出することができない
- 事前評価報告書の有効期間は5年で、5年目の2月1日までに推薦しない場合は新たにプレリミナリー・アセスメントを受ける必要がある
「彦根城」は2023年9月に申請を行っており、約1年後のこの10月に事前評価報告書を受け取りました。
日本はこの報告書の内容にかかわらず推薦を行うことができますが、1年間は保留期間があって推薦できないので、世界遺産リストへの推薦は最短で2027年の世界遺産委員会の締め切り日である2026年2月1日までに行うことになります。
プレリミナリー・アセスメントを利用しなければ2025年2月1日までの推薦が可能ではありますが、予定されていません。
■「彦根城」最短の推薦スケジュール
2025年
- 関係自治体と文化庁が今後の方針を決め、翌年推薦する場合は9月までに世界遺産条約関係省庁連絡会議が推薦を正式に決定し、暫定推薦書を世界遺産センターへ提出
2026年
- 1月:内閣にて推薦を閣議了解
- 2月1日まで:登録推薦書をUNESCO世界遺産センターへ提出
- 夏~冬:ICOMOSが現地調査を含む専門調査を実施
2027年
- 4~5月:ICOMOSが勧告を含む評価報告書を世界遺産センターへ提出
- 6~7月:第49回世界遺産委員会で世界遺産リストへの登録の可否が決定
事前評価報告書の内容ですが、文化庁の報道資料から抜粋しましょう。
■「彦根城」ICOMOS事前評価の結果概要
①結論
- 「彦根城」は日本における徳川(江戸)時代の地方政治拠点として機能した、建築及び土木の傑出した見本であり、大名統治システムを有形遺産で示すものとして提案されている
- 「彦根城」は、日本の暫定一覧表に約30年前から記載されており、その間日本はどのようにしてその顕著な普遍的価値(OUV)を最もよく示すことができるかについて検討を行ってきた。示された比較分析の枠組みは適切であるが、比較の指標をさらに広げ、より厳密な分析とすることを提案する
- 「彦根城」の事前評価は、評価基準(iii)を満たす可能性はあることを示唆するものの、現時点では、単独の資産で大名統治システムを完全に表現できているかどうかという点がある。今後推薦書を作成する過程ではシリアル推薦も考えるべきであり、シリアル推薦でない場合には、大名統治システムにおいて彦根城が重要であり、彦根城によりこのシステムの運用が説明できることについて、よりしっかりと示すことが必要である
②資産について
- 「彦根城」自体の構成要素は明確であり、本提案は豊富な史資料に基づいてよく説明されているが、大名統治システムの根底にある思想的基礎、幕府と大名との関係(参勤交代など)、何によって大名統治システムが日本列島における長期間の安定と繁栄とを可能にしたのか、何によってそれぞれの所領における大名統治システムが機能したのか、といった大名統治システムの運用方法について説明を充実させることが必要であると考える
③価値について
- イコモスは、推薦戦略を徳川期日本における大名統治システムの重要性に置いたことを支持する。事前評価において生じた中心的課題は、どうすれば世界遺産の推薦においてこの大名統治システムをもっとも良く表現できるかという点である
(1) 適用する評価基準について
・評価基準(ⅲ)に基づいてさらに検討を深めるべきだと考える
(2) 推薦戦略について
・「彦根城」単独で大名統治システムを説明する戦略もあり得る。他方、彦根城を含め、完全な形で残っている城郭はなく、また城郭には様々なものがある中で、単独の城郭で十分に大名統治システムを表現できるのかなどの弱点もある。シリアル推薦の可能性についても注意深く検討することが必要と考える
(3) 比較分析について
・比較分析の枠組みは明確である
・他方で、比較分析の指標について再検討し、彦根城と他の徳川期の城郭との比較を厳密に説明する必要があると考える。その際、比較表の指標を増やし、厳密な比較を行うほか、比較分析で示そうとしている内容について文章による説明も行う必要があると考える
・城郭の物理的要素は一定程度共通するものの、日本の城郭及び城下町はいずれも独特のものであり、藩主の軍事的・政治的・経済的戦略に基づいて立地・レイアウト・城郭の構成・城郭建築の意匠・城下町プランが設計されている。現段階で比較分析はこの多様性を限定された数の共通指標で表現しており、この点について検討が必要である
(4) 完全性・真実性について
・完全性・真実性の評価は正式推薦がなされた後に現地調査により行われるものではあるが、事前評価申請書を読む限り、完全性に関して、開発圧力は良く管理されており、提案されたアトリビュートの保存状況も良好なようである
・真実性に関しては、今後の推薦書作成過程において、例えばかつてどのような建物・要素が存在し、どのような変遷を経て、(考古学的遺構を含めて)現存しているのか否かすべてリスト化するなど、さらなる情報が必要である
(5) 保存・管理について
現時点で課題はなさそうである
(6) 地域コミュニティの参画について
現時点では、地域コミュニティの参画について特段の心配はないが、正式版推薦書には、管理体制に関する地元コミュニティの参画についてさらに詳細が述べられることになると考える
(7) 史資料について
大名統治システムの機能に関するより包括的な説明、井伊家の重要性、近代期における調査・保護の歴史、城下町に関する記述、の諸点について、さらに発展させることが必要であると考える
簡単にまとめると、顕著な普遍的価値の可能性は認められるものの、その証明が不十分である、といったところでしょうか。
「彦根城」は特に江戸時代の「藩」「大名」という切り口からその価値を訴える内容となっています。
2022年に作成された登録推薦書の素案では要点として以下を掲げています。
■「彦根城」世界遺産登録推薦書素案の要点(2022年)
彦根城の価値は、世界的にも注目されている「江戸時代の250年間の安定・平和」に注目している。それには「藩」という存在が大きな役割を果たした。
「藩」は、将軍によって近世城郭に配置された大名が組織する地方政府である。
その統治拠点となる城郭の内部には、大名の御殿と、重臣の屋敷が構えられ、政治の意思決定や儀礼の空間など、藩の運営に必要な全ての施設が、その内部に営まれていた。また、天守を頂点に櫓や石垣、水堀が重なり合う象徴的な形態を持ち、周囲の町や村、琵琶湖の湖上などから見ることができた。
この二つの特徴を持つ近世城郭は、単に統治拠点として機能したのみならず、将軍から配置された大名が、武力や伝統に拠らず、将軍の権威を唯一の根拠として、領地の安定に専念したこと、また、大名と重臣たちが形成した藩は、在地の権利や権益から離れ、一体的になって「藩」の政治を行ったという、江戸時代の統治の仕組みを、具体的に示すものでもあった。そして、この仕組みこそが、世界に類を見ない独特のもので、戦国時代からの争乱に終止符を打ち、その後の安定の維持を可能にした。
全国150の近世城郭の中でも、彦根城は、江戸時代初期に、その仕組みを忠実に反映して築造され、その後も長くその姿が維持され、現在までその特徴を良好に伝えている。
○彦根城の顕著な普遍的価値の概要
- 17~19世紀の世界と日本
16世紀は、大航海時代の結果、地球規模のネットワークが形成され、社会の変化が促された。その結果、17世紀~19世紀は、世界の各地、各国で、国や社会の在り方が再編成され、現代にも通じるような社会や文化の在り方が形成された。日本の江戸時代もその一例であり、2世紀半にわたって安定した社会秩序を維持することに成功し、数多くの日本文化や伝統が生み出された。そして、この江戸時代の統治において重要な役割を果たしたのが「藩」である。
- 江戸時代の統治の特徴
地方の政府である「藩」を組織したのが大名である。大名は、将軍の権威によって、各地に配置され、それを根拠に領地の統治を進めた。また、大名は、本来、個別の領地を持っていた重臣層を大名のもとに集め、一体となる統治のための組織を形成し、合議によって政治を進めた。その結果、大名は武力により統治の権威を示すことも、領地を守ることも、他の領地を攻める必要もなくなり、領地の安定に専念できた。
- 江戸時代の統治の特徴が反映する近世城郭
全国に約150営まれた近世城郭は、それぞれ個性的な存在であるが、その空間構造と象徴的な形態という二つの特徴で共通し、この二つの特徴が、江戸時代の統治の特徴、「藩」の特徴を表現していた。
①周辺から隔絶した一体的な空間構造:石垣と水堀などによって明確に区画された空間の中に、大名と重臣が集住し、政治や儀礼に必要な施設も営まれた。この空間は、大名と重臣たちが藩の政府を組織し、領地全体を一元的に統治していたことを示す。
②象徴的な形態:天守を頂点とし、櫓や石垣、水堀、樹木が折り重なった城郭の形態が、城下町や周辺の村から効果的に見えるようにつくられた。この形態は、幕府から権威を与えられ、統治の権限と責任を持つ藩の存在を象徴する
- 当初の形態が維持され、保存された彦根城
彦根の藩主・井伊家は、常に将軍の近くで将軍を支えるべき、最も重要な地位の大名の1人である。そのため、江戸時代の初期に、幕府の命令によって彦根城の築城が開始された。井伊家は、幕藩体制の仕組みを反映した城郭の特徴である空間構造と形態を典型的に備える彦根城を、17世紀のうちに完成させ、19世紀半ばまで、その状態を維持し続けた。さらに、江戸時代が終焉した後、統治拠点としての役割を終えた全国の多くの城郭が失われた中で、地域の人々の総意によって破壊を免れ、地域の人々の心のよりどころ、町のシンボルとして現在まで大切に保存されてきた。
これに対しICOMOSは、彦根城の何が大名や藩といった江戸時代の統治システムをどう説明しているのか、その証明が不十分であるとしています。
さらに、日本では近世に約150もの城が営まれていましたが、彦根城単独でその証明が可能であるのか、他の城と合わせて証明を行うべきではないのか検討が必要であると記しています。
事前評価の結果概要に書かれている「シリアル推薦」とは、複数の構成資産を有する「シリアル・サイト "Serial Site"」としての推薦、いわゆる「シリアル・ノミネーション "Serial Nomination"」を示します。
シリアル・サイトは珍しいものではなく、たとえば日本の世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市]」は二条城や清水寺、平等院など17の構成資産を有していますし、東京の国立西洋美術館は7か国の17の構成資産をまとめた「ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献」に含まれています。
日本には国宝五城(松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城)を筆頭に12天守が現存していますし、松本城、犬山城、松江城は世界遺産登録活動を進めています。
もちろん彦根城単独で証明できるならそれで構わないのですが、こうした城を構成資産に含めることも検討するべきであるということです。
これに対して三日月大造滋賀県知事はコメントの中で、「『徳川の平和』(パクストクガワーナ)の謎を解き明かす鍵である徳川幕府による『大名統治システム』が世界的な観点から見て顕著な普遍的価値を持ち基準(iii)を満たす可能性があるとしていただいたことは大きな成果であったと感じています」とし、課題については「文化庁や彦根市と協議し、詳細を詰めてまいります」としながらも、基本的には単独での推薦を目指す方針を示しています。
文化庁は関係自治体とともに来年2025年9月までに方針を決める予定です。
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江戸時代の大名統治システムを軸に世界遺産としての顕著な普遍的価値を証明するとき、「なぜ彦根城単独なのか?」という疑問は当然、持ち上がるものでしょう。
彦根城はそれに対して「一体的な空間構造」「象徴的な形態」「保存状態」を軸に説明していますが、現状では弱いということになります。
他の城を加える場合、推薦戦略の抜本的な見直しを迫られて、推薦前にさらに数年が必要になるでしょう。
一方、単独で推し進める場合は最短で2027年の世界遺産登録を目指すことになります。
彦根城は1992年に暫定リストに記載されてから32年も経っているわけですから、関係者としてはこのまま進めたいところでしょう。
しかし、問い掛けられた課題はそう簡単に解決できるものではないようにも思えます。
今後の方針に注目です。
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