世界遺産NEWS 25/06/12:イギリス湖水地方の世界遺産抹消を求める自然保護活動
イギリスで自然保護活動家らが「イギリス湖水地方」の世界遺産リストからの抹消を求めるキャンペーンを開始しました。
この世界遺産は「自然と人間の共同作品」としての文化的景観が高く評価されています。
しかし、ここで評価された歴史的な農業景観は持続不可能で、世界文化遺産としてのステータスが自然環境の回復や地域社会の発展を阻害していると主張しています。
■Conservationists call for Lake District to lose Unesco world heritage status(The Guardian)
非常に考えさせられる問題で、富士山をはじめ日本の文化的景観の在り方に関する議論の参考にもなると思われます。
今回はこのニュースをお伝えします。
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湖水詩人ワーズワースが「自然界でもっとも美しい形」と評した湖水地方のウィンダミア湖
このところ湖水地方ではさまざま環境問題が持ち上がっています。
特に大きなニュースになったのがウィンダミア湖の廃水・下水排出問題です。
ウィンダミア湖では近年、緑色の藻類が大量発生する現象が頻発しており、景観を損ね、魚を大量死させることが問題となっていました。
2021年には下水処理場の廃水や、住宅・別荘・キャンプ場などから未処理の下水が湖に排出されている事実が明らかになりました。
何人かの学生が湖の調査を行った結果、もともと貧栄養湖(水に溶けている栄養塩類が乏しく生物の少ない湖)であったはずが、富栄養化していることがわかりました。
これを受けて「湖が死にかけている」と発表したことから全国的なニュースになりました。
下水処理場を持つ水道会社=ユナイテッド・ユーティリティーズは調査に対して積極的な協力をせず、逆にデータの公開を拒否するために提訴を行いました。
一方、近隣では住民を中心に「セーブ・ウィンダミア」が組織され、草の根キャンペーンが開始されました。
2024年には水道会社が3年間にわたって未処理の下水を違法に排出していたことが明らかになりました。
同年9月の水質調査の結果は「優良」でしたが、これに対しても疑いの目が向けられました。
2025年3月、スティーブ・リード環境相は会見で、このイングランド最大の湖に流入する水を将来的に「雨水のみ」に限定することを明言。
水道会社もこれまで以上に投資を行って協力をする旨を表明しました。
ウィンダミア湖を正常化するために一説では約400kmもの下水網や処理施設が必要とされ、資金や水道料金への影響が懸念されています。
それでも政府の主導でプロジェクトが進められており、2030年までに一定の成果を出したいとしています。
しかし……
湖水地方には廃水・下水問題以上に深刻な問題があると指摘する学者もいます。

2025年5月、生態学者で自然保護活動家でもあるリー・スコフィールド氏はイギリスのUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)国内委員会に「イギリス湖水地方」を世界遺産リストから抹消することを求める書簡を送りました。
その理由ですが、「(世界遺産登録は)農業に対する誤った認識を助長し、経済的に持続可能でなく、自然環境の回復や気候変動の影響緩和という重要な取り組みに逆行するもので、農家の生計維持に役立たず、地元住民にも必要とされておらず、深刻なオーバーツーリズムの被害さえ招いている」としています。
これはランカスター大学のカレン・ロイド氏、カンブリア大学のイアン・コンヴェリー氏らとともにWHW(ワールド・ヘリテージ・ウオッチ/世界遺産ウオッチ)に発表した報告書を元にしています。
この世界遺産の顕著な普遍的価値はダイナミックな自然景観と農牧地の調和、その美しさを発見・進展させた18~19世紀のピクチャレスク運動、この環境を守ろうというナショナル・トラスト運動などにあります。
しかし、スコフィールド氏はそもそも現在の農業が持続可能なものではないと指摘します。
本来この地方ではウシ、ブタ、ウマ、ヒツジの牧畜が行われていましたが、現在では湖水地方に673,000頭のヒツジがおり、同地の中型哺乳動物のバイオマス(空間あたりの生物量)の90%を占めていると見ています(野生の哺乳動物はわずか3%)。
牧場や牧草地は機械を導入して大型化しており、森林や沼・湿地帯・ヒース(荒れた低木帯や草原)が牧草地や草原に姿を変えています。
イギリスにおいて羊毛や羊肉の需要は減りつづけており、湖水地方のような高地での牧畜は赤字が通常で、補助金によってようやく維持されているそうです。
加えて牧草の作り方や種類も変化しており、景観は維持されているように見えてもその中身は健全ではないとしています。
そもそも湖水地方は非常に貧しい土地で、険しい山地に森林や草原・湖沼が広がっているだけで、産業になるようなものはありませんでした。
そんな土地を苦労して開墾し、農業と牧畜を並行させ、さらには鉱業・林業・漁業にも手を出すなどさまざまな工夫によって定住が可能になりました。
困難な土地だったからこそ独特の文化、類のない景観が育まれたとも言えるでしょう。
しかし、いまとなってはあまりに非効率的で、そのような生活を望む者はいません。
補助金がなければ農業は回らず、文化的景観も失われていくでしょう。
それでも農業は変化しつづけるほかなく、インバイやインテークといった歴史的な石垣は意味を失い、ただ保存されるだけの遺構になりつつあります。
無理に農業を行わなければ森林が回復していくはずです。
本来の自然を取り戻した湖水地方にも価値はあるのではないでしょうか?
あるいは、かつてそうしたように、現在に対応した農業を実践することもまた、ひとつの価値なのではないでしょうか?
スコフィールド氏は、世界文化遺産に登録されたことで自然環境の回復が難しくなったと指摘しています。
農地の維持が自然の回復力を阻害しており、また植樹や堤防の撤去といった手段を取りにくくさせています。
湖水地方を訪ねる観光客は増えつづけて年1,800万人(ウィンダミアに限ると700万人)を超えており、2040年には2,200万人に達すると見積もられています。
しかし、利益は農家に還元されておらず、先の廃水・下水問題のように環境に負荷を与えています。
そうした意味でスコフィールド氏は、世界遺産でありつづけるために持続不可能な農業を無理に維持しようとしており、自然回復と地域社会を犠牲にしていると主張しています。
なお、これとは別に廃水・下水問題を受けてワイルドフィッシュと呼ばれる慈善組織がUNESCOに申し立てを行っています。
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自然と調和した農業関連の文化的景観というのはとても美しいものです。
世界遺産リストにはブドウ畑や茶畑、コーヒー園、棚田、放牧・移牧地、牧草地、漁場をはじめ、さまざまな農業景観が登録されています。
そうした景観を見ると「美しいな~」と思う反面、「これって自然の景色じゃないんだよな」とも考えます。
周囲の自然と調和しているから「自然と人間の共同作品」であるところの文化的景観であるわけですが、そうした農地が次第に使われなくなるのはある意味、当然です。
だいたい現代的な生活を送るのには不便な場所にありますし、そこで苦労して従来通りの農業を続ける人がどれだけいるかという話です。
その結果、農業景観を維持するために公的な資金を投入せざるをえず、それでも農地として使われることは減りつづけ、徐々に遺跡化・テーマパーク化していくわけです。
そして牧場にしても棚田にしてもつねに修復が必要なのですが、使われなくなった農業施設を修復していけば、いずれ使われていた時代の素材はなくなって、新しい時代のものに入れ替わってしまいます。
自然に囲まれた農業景観を放っておけば、いずれ森に飲み込まれて自然に還っていくでしょう。
それなのに自然回帰を認めず、博物館の展示物のように保存することが本当に正しいのでしょうか?
世界遺産リストへの登録によって、湖水地方の文化的景観に顕著な普遍的価値があることが認められました。
しかし、森林を取り戻した湖水地方本来の自然景観にも価値はあるはずです。
そしてまた、回復した自然に対応した新しい持続可能な農業にも価値が出てくるかもしれません。
もともと湖水地方の農業景観はそうした挑戦の賜物(たまもの)なのですから。
さまざまなことを考えさせられる問題です。
※世界遺産リストからの抹消に対する賛成・反対を表明するものではありません
[関連サイト]
イギリス湖水地方(世界遺産データベース)