哲学的考察 ウソだ! 21:意識・心・魂・霊とは何か?
今回は哲学的に意識・心・魂・霊を問うてみたい。
ただし、ここでいう意識・心・魂・霊はそのような言葉を使ってしか示せない論理的必然性を持つものである。
したがって、オカルト的な存在を意味しない。
意識・心・魂・霊という言葉はさまざまに定義されているが、ここでは論理的必然性を根拠に独自の定義を行う。
これらの言葉はどの言語にも見られるが、それはこの論理的必然性によると考えている。
そして論を進める過程で観念論・実在論・唯物論・唯識論・唯心論といった認識論や、神や死・埋葬といったものも考察してみたい。
* * *
■観念論的世界観
最初に基礎となる観念論的世界観について書いておきたい。
ここにリンゴがある。
リンゴは光を反射し、その反射した光を人の目が捉える。
光は目の神経に刺激を与え、刺激を受けた神経がセンスデータ(感覚器で得られたデータ)を脳に転送し、それを脳が統合することで「リンゴを見る」という現象が起こる。
しかし、光や目・神経・感覚器・脳もそうして生み出された観念だ。
したがって脳がリンゴの像を、この世界の観念を創造しているわけではない。
少なくともいえるのは、この物理的な現象世界は人の感性が外部の情報を捉え、知性が統合した観念にすぎないということだ。
人がこうした世界の展開形式を持つかぎり、観念論的世界観はけっして否定することができない。
そうした意味で観念論は唯物論に対して強い優位性を持つ。
そして現象世界は三次元空間+時間=四次元時空によって表現されている。
四次元時空は存在するものではなく、感性と知性が表現を行うための形式なのだ。
ちなみに、人の知覚から独立した客観的な存在の実在性を認める考え方を「実在論」、物質など物理的な存在の実在性のみを認める考え方を「唯物論」、客観的な世界の在り方は観念に依存しているという考え方を「観念論」、自らの自我とその観念の実在性のみを認める考え方を「独我論」という。
そして実在論や唯物論の立場に立ち、現象世界の性格を解き明かそうという活動が科学だ。
それに対して哲学は現象世界の原理・原因を探究する活動といえる。
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■意識とは何か?
意識とは、いままさに起きている事物を認識している状態を示す。
より具体的には、「私は長谷川大である」「私は生きている」といった自己認識や、赤い色や痛み・美味しさ・くすぐったさ・痒みといった感覚、したいことや欲しいもの・悲しいこと・考えていることなどの感情・意志・欲求・思考などを認識している状態を表す。
重要なのは、「今この瞬間」の心的な状態であるという点だ。
現在生起している心や精神といわれる人の内的な状態であり、今この瞬間にまさにそう思っている・そう感じている・そう考えているということだ。
意識はつねに今この瞬間の心的作用だ。
だからこう言える。
意識には間違いがない――
たとえば、あなたが今この瞬間に痛みを感じているとする。
この場合、たとえ医者が「それは幻覚だ」と言おうと、あなたが今この瞬間に痛みを感じているのであれば、間違いなくあなたは痛いのだ。
たとえば、あなたが誰かを好きだと思っている。
この場合、この世界が夢だったりシミュレーション世界だったとしても、たとえその相手が存在しなかったとしても、今この瞬間にあなたが誰かを好きだと思っていることに間違いはない。
いわゆる「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」だ。
デカルトが言うように、 たとえこの世界のすべてが悪魔が創り出した幻であったとしても、そうした幻を見ている私のこの意識を否定することはできない。
私が思い感じ考えている内容は幻だったとしても、今この瞬間に私がいて、さまざまなことを思い感じ考えている現実だけは否定することができない。
逆に、こう言い換えることもできる。
人の心的作用はつねに今この瞬間に起こる――
人が何かを思ったり感じたり考えたりするのはつねに今この瞬間であり、それ以外で起こることはない。
生きるということは、あるいは生命というものは、つねに今この瞬間とともにある。
逆に、この立場から「死」を見た場合、死は存在しない。
あるいは、毎瞬毎瞬が誕生の瞬間であり、同時に消滅の瞬間でもあるから、毎瞬が死であるともいえる。
仏教でいう「刹那生滅(せつなしょうめつ)」あるいは「刹那滅(せつなめつ)」だ。
ちなみに、今この瞬間の意識しか存在しないという考え方を「唯識論」という。
唯識論では今この瞬間以外の時間の存在も認められないため、時間から見れば「唯今論」「独今論」とでもいうような考え方になる。
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■心とは何か?
心とは、意識の元となるものであり、意識を統合するものだ。
意識とは、自己認識や感覚・感情・意志・欲求・思考の認識といった今この瞬間の認識だ。
瞬間は厚み0であり、意識は時間的なものではない。
これに対し、心は時間的連続性を持つ。
心はさまざまに思ったり感じたり考えたりするものであり、時間とともに揺れ動くものだ。
ミクロから見れば心は瞬間瞬間の意識を結んで「私」として統合したものであり、マクロから見れば心の瞬間瞬間の在り方が意識だ。
たとえば心の作用のひとつである感情について。
感情は時間的かつ論理的に起こるものだ。
「リンゴが好き」という感情が起こるためには、リンゴの知識やリンゴの味の記憶が必要だ。
過去、リンゴを食べて美味しかったという記憶から、今この瞬間の「リンゴが好き」という意識が生まれる。
意志や欲求も同様だ。
「明日のサッカーの試合に勝ちたい」という意志・欲求は、明日・サッカー・試合・勝利に関する知識や、過去に経験した勝利の喜びや敗北の悔しさの記憶を統合した結果として生じるものだ。
そして一本一本のセンテンスが一編の小説を編み上げるように、一つひとつの感覚・感情・意志・欲求・思考といった意識が心という「私」の物語を紡ぎ上げていく。
ただ、意識に間違いはないが、心は間違いうる。
「痛みを感じていたと思っていたが、勘違いだったかもしれない」「リンゴが好きだと思っていたが、好きなのはナシだった」「1+1=10は間違いだと考えていたが、2進数だったので正解だった」、といった具合だ。
ある瞬間に起こった意識はその瞬間において間違いはないが、それを時間軸の上に置き、別の時間から眺めた場合、たとえば未来からその瞬間を思い起こした場合、間違いが起こる可能性が生ずる。
ただし、その瞬間に実際どうだったかは推測するしかなく、証明も反証も不可能だ。
意識は時間性を持った途端に真実性を失い、不安定な記憶にすり替わってしまう。
記憶が意識を保持できるものであれば、昨日味わった蕎麦の味を今この瞬間に味わうことができるだろう。
しかし、意識の実在性は今この瞬間に限定されており、持ち越すことも伝えることもできないのである。
先述したように、時間は人の表現形式であるから、時間性は絶対的なものではない。
そうした意味で、時間性を持たない意識は時間性を持つ心よりも厳密な実在性を持つ。
今この瞬間に痛みを感じていたら、痛いという意識には間違いがない。
しかし、過去の自分の痛みは幻覚なのかもしれないし、そもそも過去など存在せず、過去の記憶も今この瞬間に創り出されたものかもしれない。
ただ、人は時間の中で生きるものであるから、意識があることを認めるのであれば、必然的に心の存在も想定せざるをえないのだ。
ちなみに、心しか存在しないという考え方を「唯心論」という。
唯識論と唯心論の違いは時間の扱いにある。
心的作用の中で、今この瞬間しか認めなければ唯識論、時間的連続性を認めるのであれば唯心論の立場に立つことになる。
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■魂とは何か?
意識や心はきわめて論理的なものだ。
痛みのように、何かを感じているときでさえ、感じていることを知らなければ意識することはできない。
意識や心という作用が起こるためには感性と知性が不可欠だ。
逆にいえば、感性と知性によって意識や心といった心的作用を起こさせるものが必要になる。
これが「魂」だ。
たとえば感情。
飼っていたイヌが死んだので悲しい――
この感情が起こるためには、少なくともその「イヌ」に関する記憶と「死」という概念の理解が必要だ。
そしてイヌの記憶が死の概念と論理的に結びつくことで「悲しい」という感情が起こる。
感情にはこのように「言語」と「記憶」が必要になる。
感情はきわめて言葉的なものであり、論理的なものなのだ。
しかし、言語と記憶だけでは感情は起こらない。
コンピュータに言語システムを組み込み、記憶としてテキストや画像・動画を与えてもコンピュータには感情や意志は発生しない。
そこに何かが走らなければならない。
言語と記憶によって心的作用を起こさせるもの――
これが「魂」だ。
意識や心は言語と記憶に関わるものであり、言語と記憶、少なくとも記憶は身体システムに関わるものだ。
したがって身体システムが滅びると、つまり死ねば消滅してしまう。
しかし、言語と記憶によって意識や心を起こさせるものは言語や記憶とは独立したものであるから消滅するとは限らない。
古代から人はこのことを理解していた。
これを端的に表しているのが「埋葬」だ。
埋葬とは、故人の心との別れを惜しみ、魂の平穏を願う儀式だ。
別れを惜しむのは心が消滅するからであり、平穏を願うのは魂が不滅であるからだ。
心と魂が共に滅びるものであれば、あるいは心や魂が存在しないのであれば、そもそも埋葬など必要ない。
身体はただの物質なのだからどこへなりとも捨てればよい。
心と魂が共に永遠であり普遍であるなら、別れを惜しむ必要はない。
存在しつづけるのであるから悲しいことはない。
埋葬は、死が心の滅びであり、魂が普遍であるから必要なのだ。
といっても、魂については必然性が述べられるだけで、その内容については言及することができない。
魂が言語システムを使用するものであるということは、言語を超えた存在であり、言語では捉えられないことを意味しているからだ。
言語を超越した存在を言語化することはできない。
いっさい言及できないもの、存在-非存在という範疇にさえないもの。
それが魂なのだ。
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■霊とは何か?
霊と魂の区別は一様ではない。
日本では生命の根源となる超越的な力=霊力としてチ(霊)があり、人の場合は死後も独立した霊力としてタマ(玉・魂・魄)が存在すると考えられることが多いようだ。
他の文化圏でもギリシアのプシュケー、インドのプラーナ、アラブのジン、ポリネシアのマナ、中国の気や魂魄をはじめ、霊力を示す言葉は一般的に見られる。
中には古代エジプトの五魂や中国の三魂七魄のように多数の霊魂を想定することもある。
この場合の魂は本サイトでいう霊に近い。
魂は意識や心といった心的作用を起こさせる超越的な存在だ。
それは意識や心から独立したものであり、したがって人のような存在ではありえない。
だから魂は無垢なのだ。
生まれたばかりの赤ん坊は無垢だ。
言葉を持たないから論理がなく、したがって善も悪もない。
善悪は価値観を定めた後、その価値観の中で事物を論理的に判断することで生まれるものだ。
魂も同様だ。
人生の中でさまざまな体験を行い、知識を得て、判断を行う過程で善悪が生まれ、罪が生まれる。
魂は超越的かつ無垢だ。
だから多くの宗教で魂は神と結びつけられる。
魂は神の御魂や息吹であり、人の心を創り出す元となるものである――といった具合に。
ここで、死してもなお言語や記憶を引き継ぐ存在を想定する。
それは言語や記憶を持つので無垢ではない。
これが「霊」の根源的な発想だと考える。
霊はさまざまな感情や意志・欲求・思考を持ち、人のように振る舞う様が描かれる。
そして生前の生活の中で積もり重なった善悪が刻まれている。
このような存在は本来、ありえない。
少なくとも記憶は身体システムに属するものであって、身体システムなしでは起こりえないし、死によって滅びるものであるはずだ。
そのため、一般的に霊はこの世に存在してはならぬものであり、迷えるものであると考えられる。
だから、霊は穢れであり、祓(はらい)の対象なのだ。
そして祓われた霊は無垢な魂に戻り、神の元へ帰るのである。
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■神とは何か?
意識・心・魂・霊はそのような言葉を使ってしか示せない論理的必然性を持つものである。
そして論理的必然性とは、事物が原因-結果という因果律で結びつけられるということだ。
意識の原理・原因として心が想定できる。
心の原理・原因として霊や魂が想定できる。
そして霊や魂のさらなる原理・原因も想定可能だ。
あらゆる事物に原理・原因が存在するという考え方を「充足理由律」という。
そして究極の原理・原因が「神」と呼ばれる。
「神の原理・原因は何か?」
当然、こう問いたくなる。
多神教の場合は神の神を想定する。
たとえばヒンドゥー教最高神は創造神ブラフマー、維持神ビシュヌ、破壊神シヴァの3神だが、「三神一体(トリムルティ)」という考え方があり、これによるとシヴァこそ神の神であるとする。
ギリシア神話ではカオス神、神道では天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)がこの役割を果たしている。
一方、一神教のユダヤ教やキリスト教・イスラム教では多神教の神々の役割を聖霊や神の被造物であるところの天使や聖人・福者らが担っている。
結局、一神教と多神教に大差はない。
一神教は神に準じる存在を想定し、多神教は神をまとめる存在を想定する。
これは充足理由律からあらゆるものに原理・原因が想定可能で、最終的に神でまとめるしかないからだ。
そして神は論理を超越した存在なので、充足理由律は適用されない。
神にはこのような論理的必然性が存するのである。
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意識・心・魂・霊・神という言葉が世界のあらゆる言語にあり、埋葬や、墓や廟・神殿・寺院といった施設があらゆる文化に存在するのは、そこに強い論理的必然性があるからだ。
そしてこの論理的必然性のベースに観念論的世界観と充足理由律がある。
今回はこれを明らかにしたかった。
そしてこの結論は多くの哲学的問題に展開することができる。
いずれさらなる展開を記してみたい。
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