哲学的考察 ウソだ! 19:なぜ人を殺してはいけないのか? ~人を殺してはいけない論理的&非論理的理由~
誰もが当たり前に思っていながら、さまざまな議論を生むひとつの問いがある。
- 問い:なぜ人を殺してはいけないのか?
多くの人はこの問いに対し、自分の思想・信条を表明することで解答する。
しかし多くの場合、それらの思想・信条は論理的根拠が希薄で、ただそう「考えている」「信じている」にすぎない。
真理を探究する哲学において、この問いはどのように答えることができるのだろう?
それとも答えることができないのだろうか?
ここではこの問いに対して論理的解答と非論理的解答を提示する。
そしてぼくは前半に提示する論理的な解答ではなく、非論理的に解答されるべきだと考えている。
* * *
■「人を殺してはいけない」という思想・信条
哲学の問いとして、以下を問うてみたい。
- 問い:なぜ人は人を殺してはいけないのか?
こうした問いに対し、多くの人はそれぞれの立場表明を行う。
- 倫理的に悪だから
- 宗教的に悪だから
- 社会的に悪だから(殺人を認めたら社会が成立・安定しないから)
- 自分がされたくないことは人にするべきではないから
- 「生きる」ことは人の根源的な権利であり奪うことは許されないから
- 法律や慣習でするべきでないと定められているから
- 法的・社会的な罰を受けたくないから
- 生命は尊いものだから
- 人の根源的な性(さが)であるから
さまざまな意見が出るが、こうした理由に論理的な根拠はあるのだろうか?
そしてそれはどのように証明されるのだろう?
- 倫理的・宗教的に悪であるのはなぜで、どのように証明されるのか? すべての人がそのような倫理観や宗教観を持たなければならないのか?
- 社会が成立・安定しなければならない理由は何か? 戦争や死刑があっても社会は成立しているではないか? あるいは社会を不要と考えたり不安定な社会を求めることがなぜいけなくて、それはどのように証明されるのか?
- 自分がされたくないことを人にするべきでないのはなぜか? 日常的に人は自分にされたくないことをしているのではないか?
- なぜ権利を奪うことが許されないのか? 行政や法律の強制力は人の権利を奪っているのではないか?
- 法律や慣習でするべきでないと定められていたら、なぜしてはいけないのか? 罰を覚悟したらしてもよいのか?
- 生命が尊いもので人の根源的な性であることはどのように証明されるのか?
もちろん、これらに対しても多くの反論が予想できる。
しかし、その根拠は何か?
それはどのように証明されるのか?
これらの問いに対して「○○だから人を殺してはいけない」と解答した人は「○○」のみを根拠として答えなくてはならない。
哲学的な究極の解答として「○○」を提示したからだ。
問いつづけられて意見を変えるのであれば最初からそちらが答えだったのだ。
こうして「○○」は掘り下げられ、より究極に近づいた「○○」が提示される。
しかし、その「○○」もさらに「その根拠は何か?」「それはどのように証明されるのか?」と問われつづけるとやがて根拠は尽きる。
結局、これらの解答は「私はそう考える」「私はそう信じる」という自らの思想・信条の表明でしかない。
自分が善であり正義であると信じる前提・定義から演繹して解答しているわけだが、その前提・定義の絶対性・普遍性は証明することができない。
そのため、それらを認めない人に対しては人を殺してはいけない理由になりえない。
それを認める者同士の約束事にすぎないのだ。
たとえば。
社会規範として法律や慣習で禁じられているから、という解答に対して、法律や慣習の価値を認めない立場の人には効果を持たない。
しかし、法律や慣習の価値を認めない人は人を殺してもよいのだろうか?
社会の安定や進歩に必要だから、という解答に対して、社会や進歩の必要性を認めない立場の人にはやはり効果を持たない。
しかし、社会や進歩の価値を認めない人は人を殺してもよいのだろうか?
罰が科されている悪事であり罰を受けたくないから、という解答に対して、罰を覚悟したり、罰を受ける可能性がない人には効果を持たない。
しかし、罰を覚悟したら、あるいは罰せられなければ、人を殺してもよいのだろうか?
「人を殺してはいけない」は価値観を同じくする者同士の約束事にすぎないのだろうか?
* * *
■人を殺すことが認められる条件
逆に、こう問うてみよう。
- 問い:どのような条件下で、人を殺すことが認められるのか?
この問いに対する論理的な解答は、「○○だから人を殺してはいけない」に対して「○○が失われたとき」、ということになる。
理由は以下だ。
- 人を殺してはいけない究極の理由として「○○」を提示した
- したがって「○○」が維持されている状況では人を殺すことは容認されない
- また、「○○」が破られてさらに人を殺すことが認められないのであれば、その理由こそが究極の理由となる
- 以上より、「○○」が究極の理由なのであれば、これが失われた場合に人を殺すことが認められる
それが究極の理由であるか否かは置いておいて、一般的に挙げられる理由に適用してみよう。
- 倫理的・宗教的に悪だから←倫理・宗教が破壊された場合
- 殺人を認めたら社会が成立・安定しないから←社会が破壊された場合
- 自分がされたくないことは人にするべきではないから←自分がもっともされたくないことをされた場合
- 「生きる」ことは人の根源的な権利であるから←生きるという人の根源的な権利が奪われた場合
- 法律や慣習でするべきでないと定められているから←法律や慣習に反して人を殺害した場合
人は自分の思想・信条が、ひいてはその根拠である自らの善や正義が根底から覆されるような危機に直面した場合、相手を「悪」と断じ、その悪に対して人を殺すことを認めるのである。
当たり前の話で、「○○」は人を殺すことを禁じる根源的な理由として挙げたものであるから、その根源が失われる危機に対しては最高度の報復が認められる。
戦争や死刑も同様で、個人の価値観の基盤となる根源的な善や正義、自分の家族や自分が所属する社会が失われる危機に対し、それらを最重視する立場から戦争や死刑を容認し、それが正義の行為であると正当化するのである。
たとえば。
「この悪人を殺害することで地上から悪が消える」と信じている人は、自分の正義を確信し、人を殺すことをためらわない。
正義感が強いほどに攻撃性を増し、敵を傷つけることをいとわない。
ソ連の大粛清や中国の文化大革命・大躍進政策、カンボジア大虐殺やルワンダ大虐殺といった虐殺も、それを行使することが正義であると信じたからこそ多くの人が手を貸したのだ。
この理論は悪一般にも拡張できる。
悪行は、あるいは犯罪は、自分が正義であるとき、少なくとも正当であるとき行われる。
どんなに理不尽な犯罪に見えても、「あいつが悪い」「社会が悪い」「生きるためには仕方がない」などと正当化を行い、自分が正義あるいは正当であると主張する。
このように、人が悪をなすのは自分が正義・正当である場合に限られる。
この世界に純粋な悪は存在しえないのだ。
こうした意味で、人は悪をなすことができない。
悪の行為には必ずそれを正当化する理由がある。
本来、悪と正義は矛盾するが、価値観を転倒させて悪であるはずの行為を正義の立場から正当化する。
人を殺すという行為は悪であるはずなのに、自分が正義である場合はその善悪を転倒させて人を殺すことに正当な価値を見出す。
そしてこれを演繹するとこのように結論することができる。
- 悪の行為はつねに正義・正当から生まれる
人は自分を正義・正当だと信じるときに罪を犯すことができる。
その極限で、人を殺すことさえできるのである。
言い換えると、正義・正当こそが人を殺すことを容認するのだ。
戦争でもっとも多くの人が犠牲になった世紀は、終了した最新の世紀である20世紀だ。
しかも、人権概念がもっとも発達していた20世紀の先進国で、史上最悪の犠牲者を出した戦争が2度も勃発した。
第2次世界大戦の犠牲者は世界で3,000万人とも8,000万人とも言われており、日本人犠牲者も300万人を超えるとされる。
戦争に参加した人はこの数倍に及び、そのうちの相当数の人が人を殺した。
その誰もが信じていたはずだ。
自分は正しい、自分は正義であると――
正義を貫くことで、あるいは悪を減らすことで平和を実現するというアプローチは完全に失敗した。
結局。
「○○だから人を殺してはいけない」という解答は、次のような意味であると捉えることができる。
- 人を殺してもよい。ただし、「○○」を侵害された場合に限る
○○のためなら人を殺してもよい、ということだ。
人を殺すことを認めないその理由こそが、人を殺してよい理由になるのだ。
「○○だから人を殺してはいけない」という解答は自分の思想・信条、つまりは正義の表明であり、「人を殺してもよい」という意見にすぎない。
ただ、そこに条件を付しているだけだ。
もちろん、そういう主張もありえるだろう。
* * *
■「人を殺してはいけない」の理論構造
以下のような命題を論理的に考察してみよう。
- 命題:人は××をしてはならない
この命題に対し、理由Aを述べる。
しかし、こうした倫理的な問いに対して理由Aの絶対性・普遍性は証明することができない。
証明あるいは反証(間違いであることの証明)は前提・定義との矛盾とトートロジーによって行われることは以前記した(「哲学的考察 ウソだ! 17:論破とは何か? ~論破の技術と議論の考察~」参照)。
最初に前提・定義を置くから真偽の判定が可能になるのだ。
だから人は自らが信じる思想・信条を前提・定義として置き、そこから演繹して証明を試みる。
しかし、その前提や定義、思想・信条が置かれた根拠を問うてもそれに答えることはできない。
あるいは答えることができたとしてもその解答の根拠が問われ、循環論に陥ることになる。
これは文法上の問題だ。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対しても同様だ。
理由として倫理や宗教、社会や人権、法律や慣習を前提に立てようと、それを否定する立場の人には通用しない。
できるのは自らの価値観からそのような人を否定し、悪と断ずることだけだ。
この過程はきわめて非論理的だが、きわめて現実的だ。
社会とは、根源的な部分について同じ価値観を共有する集団であり、外部者の参加に対してはその価値観を強要するものであるからだ。
しかし、こう立論しておきながらぼくは強い違和感を持つ。
「人を殺してはいけない」はもっとア・プリオリ(本性的)なものなのではないか、という直観だ。
* * *
■「なぜ人を殺してはいけないのか?」は論理的な問いなのか?
次のような問いを立ててみよう。
- 問い:なぜ人は人を愛するのか?
これに対して遺伝子論や脳科学で回答したとして、あなたは納得できるだろうか?
ぼくにはできない。
論理的に間違いであるうえに、感情的に強い違和感を持つ。
論理の部分について、まず、人の主観について語られる科学理論は証明不可能だ。
「そう考えれば筋が通る」という程度の仮説にすぎず、証明することも反証することもできない。
愛を発生させたり、愛そのものを取り出す実験などできないわけだから、証明と反証の条件すら満たすことができない。
だからこうした主張は結局、そう考えている・そう信じているという思想・信条にすぎない。
そして証明の問題以上に致命的なのは、そもそも人の主観の問題は科学の範疇の外にあるという点だ。
科学は人の主観を廃し、客観的な事実を解明・構築する体系だ。
しかし、科学が観察によって担保されている以上、主観から逃れることはできない。
科学理論の前にあるのは観察であり、観察は人の感性と知性によって成立している。
リンゴが落ちる様子を観察して万有引力の法則を発見したように、感性が捉え知性が整えた現象世界に関するデータを分析することで科学理論は生み出されている。
感性や知性が生み出した結果であるところの現象世界を観察して感性や知性の原因、つまり主観の原因、人の原因を究明しようとする試みはすべて失敗に終わる。
結果を利用して原因を探るという循環論に陥っているからだ(論点先取の虚偽)。
人は主観によって世界を観察し、観察したデータをもとに客観を構築する。
ぼくたちが見ている世界は人が感性や知性を使った結果であって、物理的な世界が原理・原因として感性や知性を生み出しているわけではない。
まったく逆だ。
したがって感性や知性、感覚や感情、つまり人の主観に関する哲学的な問いに科学理論を適用することはできない。
これらは科学で解答されるべき問いではないのだ。
(この辺りについては「Logic 1:哲学的探究 哲学入門」の全体、中でも「哲学的探究16.科学とは何か? ~科学の限界~」を参照のこと)
あなたを愛している――
その愛の深さを遺伝子論や脳科学、心理学や社会学・統計学で解答されて誰が納得しよう。
人の主観に関わる問題に科学理論は無力だ。
こうした問いに対しては自らの主観で利己的に解答するべきなのだ。
たとえばこのような問いがある。
- 問い:なぜ人は美味しいものを食べるのか?
これに対してもさまざまな科学的な解答が予想できる。
しかし、そうした解答は仮説にすぎず証明することができない。
先述のように主観の問題は論点先取の虚偽に陥っているため仮説は証明されず、永遠に仮説に留まるからだ。
だからぼくはこう答えたい。
それが「美味しいからだ」。
愛している人がいるならただこう答えたい。
「愛している」と。
愛の偉大さは主観にこそ宿る。
目的のためでなく、ひたすら利己的な感情こそが「愛する」ということの尊厳を生み出すのだ。
「なぜ人は人を愛するのか?」「なぜ人は美味しいものを食べるのか?」といった人の主観に関する問いは論理的に解答できるものではない。
非論理的に、つまり主観によって解答されるべき問いなのだ。
では、「なぜ人を殺してはいけないのか?」はどうだろう?
これは論理的に答えられるべき問いなのだろうか?
* * *
■人の尊厳
人が人を殺すのは、自分が信じるもののためだ。
人を殺してはいけない理由に挙げられた、思想や信条のためだ。
○○だから人を殺してはいけない――
○○を守るために人を殺してもよい――
何かの目的のために人を殺すことを否定しているだけだ。
目的に合致しない人は悪と断じられ、場合によってはその人を殺すことさえ認められる。
この機械的で目的論な思想に人の尊厳は認められるだろうか?
ぼくは感じない。
人を殺さないことが手段にすぎないからだ。
この論理から逃れる方法はひとつしかない。
いっさいの理由を立てないことだ。
いかなる思想や信条をも人を殺すことを否定する理由として挙げないことだ。
そして愛する理由や美味しいものを食べる理由と同様に非論理的に、主観によって解答する。
ただ、自分の嗜好として、宣言する。
私は殺さない――
殺してはいけないから殺さない、ではない。
殺してよいとしても、私は殺さない。
自分の奥底に眠る感性と知性に、人間性にかけて人を殺さない。
人を殺すという選択肢があっても、私は殺さない。
何かの目的のためではなく、「私」という主観にかけて人を殺さない。
人の尊厳は、目的のない主観の選択にこそ宿るものなのではないか?
人類が答えを探し求めているひとつの問いがある。
- 問い:どうしたら世界から戦争をなくすことができるのか?
この問いに答えがあるとしたら、それは論理的な解答ではありえない。
論理的な解答は思想・信条の表明にすぎず、自らの思想・信条の強要こそが争いを生み、かえって戦争の原因となるからだ。
だから戦争はつねに「正義VS正義」で争われる。
お互いが自分を正義だと信じて人を殺す。
正義こそ、戦争の原因だ。
だから。
この世界から戦争をなくす方法があるとすれば、それは主観的な解答であるはずだ。
正義を超越した善悪の彼岸にある主観的な言葉であるはずだ。
結論――
「なぜ人を殺してはいけないのか?」は論理的に解答されるべき問いではない。
一切の思想・信条を排除し、自らの感性と知性にかけて、自らの主観で答えるべき問いなのである。
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