哲学的考察 ウソだ! 11:神とは何か? 前編 <一神教と多神教>
今回は神様について考えてみたい。
その途中で「一神教と多神教」「神の定義」「思考の限界」「宗教の定義」「ID仮説」などにも触れていきたいと思う。
その前に。
不思議に思ったことはないだろうか?
すべての民族が埋葬を行っていることを。
すべての民族が宗教を持ち、神様を信じてきたという事実を。
4万年以上前、文字を持たなかったネアンデルタール人やクロマニヨン人でさえ埋葬を行っていた。
埋葬を行ったということは、人間の身体の中に日本でいう「たま(魂、霊)」のような不思議な存在があることを知覚していたということだ。
中国の気、インドのプラーナ、ギリシアのプシュケー、アラブのジン、ポリネシアのマナ……
それらは正体のわからぬ存在であり、生も死もその訳のわからぬものによって引き起こされると考えた。
だから、その意味不明な存在を司る存在=神を仮定して、その神に祈りを捧げた。
人類は何万年もそうやって生きてきた。
* * *
人は死を悼む。
その小さな思いはやがて大きな川になり、大きな信仰へと注ぎゆく。
そうして世界各地でさまざまな宗教が生み出された。
この東京にだって、お寺、神社、教会、モスク、道観等々、いろんな宗教施設があっていろんな神様が祀られている。
もともと八百万(やおよろず)の神の国。
そこに世界中の宗教が入ってきたのだから、その数たるや想像を絶するというものだ。
このように、いろんな神様を認める宗教を「多神教」という。
一方、ひとつの神様だけを信じる宗教を「一神教」という。
しかしながら、実は一神教と多神教の違いはそう簡単に語れるものではない。
というのは「一」と「多」という概念そのものが曖昧で、考えを進めていくとそこに大きな差異が認められないからだ。
この「一」と「多」の問題は神様を語るうえでけっして欠かせない大きなテーマのひとつ。
ここから考えを進めてみたい。
まずは一神教だ。
一神教には以下のような種類がある。
- 唯一神教:世界にはただひとつの神しか存在しない
- 拝一神教:世界には複数の神が存在し、その中でひとつの神だけを崇拝する
- 単一神教:世界には複数の神が存在し、主神を中心に複数の神を崇拝する
この中で、唯一神教こそ純粋な一神教だと言えるだろう。
でもってもっとも有名な唯一神教がユダヤ教と、そこから派生したキリスト教、イスラム教だ。
ところが。
天使ミカエルやガブリエル、堕天使ルシフェル、悪魔サタン、救世主イエス、聖母マリア……
ユダヤ教にもキリスト教にもイスラム教にもこうした神に準じる存在が多数存在する。
これらをどう解釈するかは教派によって異なるが、たとえば多くのキリスト教諸派においては「三位一体」や「神の被造物」ということで解決している。
イエスについては「父なる神、子なるイエス、および聖霊は同一である」として神と同一視し、天使や聖母については「神の被造物」としている。
こうした存在や聖人・福者・尊者といった聖なる人々は多神教の神々と同様に機能しており、機能面において多神教とさしたる違いはない。
一方、多神教側にもすべてを統一する全能の神あるいは根源の神がいて、こちらは一神教の神と大差がない。
たとえばヒンドゥー教最高神は創造神ブラフマー、維持神ビシュヌ、破壊神シヴァの3神。
そしてこれらは本来同一であるとする「三神一体(トリムルティ)」の考え方があったりするのだ。
しかも。
ビシュヌは10回、姿を変えてこの世に現れると言われている。
この10の化神(けしん)の中にブッダ(釈迦。ガウタマ・シッダールタ)やクリシュナがいて、ブッダは仏教の神々につながるし、クリシュナはまたさまざまな化神をとる。
ヒンドゥー教はバラモン教をベースにインド土着の宗教を融合させてなんとなくできあがった雑多な宗教で、それこそ無数の神様が存在する。
しかしこの「化神」という考え方をとると唯一神教にもなりえるし、実際「ヒンドゥー教はシヴァを中心とする唯一神教である」と主張する人もいる。
同じことは神道にも言える。
八百万の神といっても、この世界の誕生である天地開闢(かいびゃく)の瞬間には三柱(みはしら)の神(造化三神)といって、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)の3神がいたという。
しかしながらやはり三神一体の考え方があり、それによると天之御中主神こそが世界そのものであるといわれる。
神道は天之御中主神を中心とする唯一神教である――
こう考えることだってできるのだ。
ギリシア神話にもたくさんの神々が登場するが、すべての根源はカオス神であるとしている。
いずれの宗教でも多神教はこのような解釈が可能だ。
つまり、多神教は唯一神教の可能性をつねに秘めているのだ。
その理由は単純だ。
「多」が根源ではあり得ないからだ。
あるいはこう。
人は根源として「多」を理解できないからだ。
地上にはたくさんの人が住んでいて、さまざまな自然現象が起きている。
これらの原因となる正体不明な存在を「神」と呼ぶ。
人の数も自然現象もたくさんあるので、太陽の神とか火の神とか死の神とか勝利の神とか、現象や目的なんかでたくさんの神様=機能神が生まれる。
ところがたくさんの神様が生まれると、状況はこの世界とあまり変わらない。
この世界の原因を説明するために神様を想定したのに、今度は「神様が生まれた原因」として神様の神様が必要になってしまうのだ。
もちろん「複数の原因がある」と考えることもできる。
でも、それだと今度は「複数の原因がある理由」が問えるわけで、その「原因の原因」こそが究極の「原因」となる。
結局、「多」である限りそれらをまとめる「原因」が必要になる。
つまり、「多」は最終的な原因ではあり得ない。
究極の原因はつねに「一」でなければならない。
これが人間の思考の限界であり、人間はそのようにしか理解できないのだ。
* * *
神様というと、多くの人は人間の偉くなったような存在=人格神を想像する。
でも、神様がそんなものであるはずがない。
いや、そんなものでも構わない。
構わないのだけれど、そんな人間っぽい存在が神様なのだとしたら、今度は神様の神様を考えなければならなくなる。
だって人間っぽい神様が存在する理由・原因があるはずで、その原因こそが本来の「神」の概念に近いものになるからだ。
結局「多」である限りそれらをまとめる「一」の原因が想定できる。
これを解決するにはこう考えるしかない。
「神とは一である」
古代ギリシアのアリストテレスはこう定義した。
神はすべての物質の原因であり(質料因=家の場合なら木材やそれを構成する素粒子)、すべての形相の原因であり(形相因=家というものの形や概念)、すべての作用の原因であり(作用因=作用が生まれる方法・家を建てる方法)、すべての目的の原因(目的因=家がもたらす効果・建てた理由)である。
つまり。
「神とはすべての原因」
なのだ。
「多」である限り、原因は問い続けられる。
ならばすべての原因の原因、「一」を神と定義するしかない。
神とはそのようにしか定義できない存在なのだ。
唯一神というのはこの「一」をこそ意味する。
唯一神を主張する宗教・宗派は当然これに気づいていた。
唯一神であるから、それは太陽神や火の神や死の神や勝利の神であってはならない。
究極の原因はそのような「部分」ではあり得ない。
言葉にすると必ず部分になるので、「一」とか「原因の原因」とか「宇宙そのもの」とかメタ的な言葉で表現するしか方法がない。
しかも「原因の原因」とかいうと、勘違いした人が「それは……だよ」と気軽に応えかねない。
だからユダヤ教、キリスト教、イスラム教では神様に名前を付けなかったし、何かをイメージさせる偶像の制作を禁じた。
だから原始仏教やジャイナ教では神や悪魔や天国や霊や占いについて一切語らなかったし、何かを書いて残そうともしなかった。
ヤハウェやアッラーは「神」という概念であって固有名詞ではない。
名前さえ付けられない究極の原因が「神」なのだ。
そして「一」や「原因の原因」が「神」であるならば、もはや宗教や宗派の違いに意味はない。
それは「一」なのだから、同じものでしかあり得ない。
すべての宗教や宗派が通じる理由がここにある。
* * *
ここまで来たのでほんの少し東洋の宗教・哲学に触れてみたい。
東洋の哲学、ウパニシャッドとか原始仏教なんかでは、最終的に「原因を追う」ことを否定する。
「原因を追う」というのは「○は×である」という具合に、○という言葉を×という別の言葉でつないでいくということ。
言葉でつなぐ以上、それはどんな理論であってもひとつの解釈にすぎない。
その方法で「一」にたどり着いたとしても、それは人間が考えた「一」の解釈にすぎない。
解釈は真理ではあり得ない。
だから解釈を放棄しなければならない。
「一」だの「多」なんて言葉にすぎない。
そんなもの、もとより存在しないものなのだ。
仏教の「空(くう)」、道教の「道(タオ)」と呼ばれるものだ。
ぼくはこの考え方がとても好き。
でも、これも一種の「一」であるとも考えられる。
うーん、深い。
* * *
すべての民族が埋葬を行っていた。
すべての民族が宗教を持ち、神様を信じてきた。
4万年以上前、文字を持たなかったネアンデルタール人やクロマニヨン人でさえ。
多くの人は気づいていた。
人知を超えたものの存在に。
そしてその存在が言葉で語れるようなものではないことに。
だからこそ埋葬を行い、神に祈った。
すべての民族がそうやって何万年も生きてきた。
それが人間なのだ。
続きます→後編 <神のいる場所>