哲学的考察 ウソだ! 10:物質とは何か?
小さな頃から「物質」ってなんだろうって、ずっと疑問に思っていた。
教科書や科学の本を読むと「物質とは……である」なんてことがまことしやかに書かれているけれど、何ひとつ納得できなかった。
物はアトム(原子)からできている。
原子説を最初に提唱したのは19世紀のドルトンだと言われる。
しかし紀元前4世紀、古代ギリシアのレウキッポスとその弟子デモクリトスはアトムを万物の素と考えた。
ごくごく普通の話だ。
物を小さく削っていく。
最後にこれ以上分割することができない最小の物に到達する。
こんなこと誰だって考える。
でも。
問題はこの先だ。
物の「形」ってなんだろう?
たとえば四角い物があるとする。
こんな感じだ。
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より小さな「●」が集まって四角い物質を作っている。
「形」とはより微細な物が集まった結果だ。
「●」がこれ以上分割できない最小の物質だとしよう。
ではこの「●」の中身はなんなのか?
より小さい物があるから物はさまざまな形をとることができる。
しかし、それ以上小さい物がない最小の物はいったいどんな形をとるのか?
「中身」というのはより小さい物があるからそう言える。
ということは、「●」には中身がないことになる。
中が無?
いやいや、「無」というのは存在しないから無という。
???
量子論では、物質は粒子と波の性格を併せ持つという。
では物質=波ということにしてみよう。
そもそも波とは何か?
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これが繰り返されて波になる。
水の分子が上下に動いて海の波が生まれる。
空気の分子が前後に動いて音の波が生まれる。
「●」の動きが波を生むのだ。
では「●」の中身はなんなのか?
???
「もっとも利口でない者は……つまり一番バカな人間は、分子や原子がほんとうに『ある』と思っている。利口とバカの中間の者は……いうなれば中くらいの頭の人間は、分子や原子は『概念』だと考えている。それでは利口な者はどう思っているのか。利口な人間は、分子や原子とはたんなる『約束』だと信じているのである」
(都筑卓司『物理学はむずかしくない』講談社現代新書より、著者が学生時代に聞いた話として)
「物質なんて存在しない」
ウパニシャッド哲学も仏教もそう語る。
紀元前2世紀の仏教僧ナーガセーナとミリンダ王の問答だ。
「<何が>車であるかをわたくしに告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「軸が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「輪が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車体が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「車棒が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
…中略…
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭<の合したもの>が車なのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?」
「尊者よ、そうではありません。」
「大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。大王よ、車とは実はことばにすぎないのでしょうか? しからば、そこに存する車とは何ものなのですか? 大王よ、あなたは『車は存在しない』といって、真実ならざる虚言を語ったのです」
「尊者ナーガセーナよ。わたくしは虚言を語っているのではありません。轅に縁って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って、車棒に縁って、『車』という名称・呼称・通称・名前が起こるのです。」
「大王よ、あなたは車を正しく理解されました」
(中村元『原始仏典』ちくま学芸文庫収録、「ミリンダ王の問い」より)
車ってなんだろう?
ハンドルがなくてもそれは車と言えるか? →言えるだろう。
ハンドルしかなかったらそれは車と言えるか? →言えないだろう。
すべての部品がバラバラに並んでたら、何ひとつ欠けていなくてもそれは車ではないだろう。
結局、車という言葉があるだけで車という実体はない。
物質も同じだ。
物質はアトムから成ると科学は言う。
しかし原子は電子と原子核からなり、原子核は陽子と中性子と中間子からなり、さらにそれぞれの素粒子はさらに細かな素粒子からなる。
車と同じ。
言葉があるだけで、実体はない。
仮に最小の素粒子があったとしても、「その最小の素粒子『●』の中身は何か?」という問いに立ち返る。
物質が粒子であれ波であれ紐であれ同じこと。
物質なんていつまでたっても観察できはしないのだ。
そもそも「観察」自体がとても怪しい概念だ。
波を観察する。
でも実は「波」なんてものは観察できない。
海の波は水の動き、つまり物の動きでしか捉えられない。
だから「波なんて存在しない」と言うことだってできる。
力を観察する。
でも実は「力」なんてものも観察できない。
重力は落ちている物の動きでしか捉えられない。
だから「力なんて存在しない」と言うことだってできる。
物質を観察する。
でも実は「物質」さえも観察できない。
観察できるのはつねに何かの状態・集合・現象で、言葉にすぎない。
だから「物質なんて存在しない」と言うことだってできる。
あるようでない。
「ものは、有るものとしても生起しないし、無いものとしても生起しないし、有りかつ無いものとしても生起しない」
(中村元『龍樹』講談社学術文庫収録、「中論」より)
紀元前に書かれた言葉のなんと生き生きとしていることだろう。
結局。
人がものを考えるとこうしたアンチノミー(二律背反。妥当な論証から矛盾したふたつの結論が導き出されること)にたどり着く。
カントは4つのアンチノミーを示してみせた
(カント『純粋理性批判』より)。
1.有限と無限の問題(はじめと終わりの問題)
物事や時間にはじまりがあるとすると、はじまりの前はなんなのか?
終わりがあるなら終わりの後はなんなのか?
世界が無限の広さを持つとしたら、「無限に広い」ってどういうことなのか?
世界が有限の広さしか持たないのなら、世界の果ての向こうには何があるのか?
2.合成と単純の問題
物がより小さな何かからできているのだとしたら、一番小さな何かはいったい何からできているのか?
そのような小さな何かが存在しないのであれば、いったい物は何からできているのか?
3.自由と必然の問題
物事すべてに理由があって、世界が必然であるなら、自由は存在しないのか?
理由がないのに物事が変化するような自由があるのであれば、その理由は何か?
4.原因と結果の問題
すべてに原因があるのであれば、最初の原因の原因は何か?
たとえばビッグバンが宇宙のはじまりであるなら、なぜビッグバンがはじまったのか?
ビッグバン以前に多次元宇宙や多重宇宙を想定するのであれば、それらの宇宙が生まれた原因は何か?
最初の原因に原因がないのであれば、原因がないのに生まれたのはなぜか?
人がものを考えると必ずこうしたアンチノミーが立ち塞がる。
それは「宇宙がそうなっている」というよりも、人の思考の、つまり言葉の問題なのだろう。
おそらく、ここにこそ真理がある。
「矛盾とは、同一性が非真理であることの指標なのである」
(テオドール・アドルノ著、木田元、徳永恂、渡辺祐邦、三島憲一、須田朗、宮武昭訳『否定弁証法』作品社より)
科学は物事を細かく観察することはできるが、理由を説明することはできない。
だから紀元前の時代から唱えられつづけてきたこうした問題は、永久に解かれることはない。
プラトンの洞窟(プラトン『国家』を改変)。
ある人々が暗い洞窟の中で生きていた。
洞窟で、後ろを振り向けない状態で、洞窟の壁にわずかに映し出される人々や物の影だけ見て生きてきた。
やがてその影を見て様々な名前をつけ、様々な法則を見出した。
さまざまな科学が生まれ、議論が生まれ、世界について多くのことを知ったと考えた。
あるときひとりが勇気を持って洞窟を出た。
はじめて光を見て、色というものを知り、自分たちが見ていた世界の狭さに驚愕した。
色だけでもなんとか伝えようと洞窟に戻って人々を説得するが、青を見たことがない人にどうやっても青を理解させることができなかった。
ぼくらは現代社会にいても結局洞窟の中にいるのと変わらない。
人に与えられた思考内に限定されて生きている。
でもいいのだ。
物質のことなんてわからなくたって科学のおかげで車の性能はこれだけあがり、便利になったのだから。
ただ、知らないということは知っておきたいとぼくは思う。
「彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りはしないが、知っているとも思っていない」
(プラトン著、久保勉訳『ソクラテスの弁明 クリトン』岩波文庫収録、「ソクラテスの弁明」より)
「知らないということを知る」というソクラテスの「無知の知」。
それは人の知性の限界をわきまえるということ。
謙虚にこの世界を見るということ。
紀元前に書かれた言葉のなんと生き生きとしていることだろう。
「昔者(むかし)、荘周は夢に胡蝶と為(な)る。栩栩然(くくぜん)して胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志に適する与(かな)。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶為るか、胡蝶の夢に周為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此れを之物化と謂う」
(森三樹三郎訳『荘子Ⅰ』中公クラシックスより、胡蝶の夢)
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Logic 1:哲学的探究 哲学入門(こちらでも第6話等々で物質を扱っています)