世界遺産と世界史46.アジアの衰退

シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。

なお、本シリーズは以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。

詳細は下のリンクか "shop" を参照してください。

 

■電子書籍『世界遺産で学ぶ世界の歴史 ~海外旅行から世界遺産学習まで~』

  1. 古代編
  2. 中世編
  3. 近世編
  4. 近代編
  5. 世界大戦編

* * *

<オスマン帝国の衰退>

■ヨーロッパでの連敗

世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」、トプカプ宮殿
オスマン皇帝の居城、トプカプ宮殿。15世紀にメフメト2世が建設し、1853年に新市街のドルマバフチェ宮殿に移るまで皇宮であり続けました。世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」構成資産
世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」、シタデル
12世紀に英雄サラディンが築いたカイロのシタデル。サラディンはトルコ人奴隷マムルークを登用して十字軍を打ち破りましたが、ムハンマド・アリーはこのシタデルでマムルークを虐殺して重用を終わらせました。世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」構成資産(C) Mahmoud Mostafa Ashour

17世紀後半、オスマン帝国の衰退がはじまります。

そのはじまりが1683年の第2次ウィーン包囲です。

 

オスマン帝国はフランスのルイ14世から援軍を出さないという中立の確認を得て、神聖ローマ帝国の帝都ウィーン①②を包囲します。

しかしながらポーランド=リトアニアなどの活躍でオスマン軍の不敗神話に終止符が打たれると敗走を重ね、結局1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー、トランシルヴァニア、スロベニア、クロアチアなどをオーストリアに割譲します。

 

さらにアジア系のタタール人国家クリミア・ハン国を巡って第1次ロシア=トルコ戦争(1768~74年)、第2次ロシア=トルコ戦争(1787~92年)に敗れ、オスマン帝国はロシアのクリミア半島領有を許します。

 

1821年のギリシア独立戦争(~29年)ではナヴァリノの海戦でイギリス、フランス、ロシアの3か国連合艦隊に敗れ、1832年のコンスタンティノープル条約でギリシアの独立が正式に認められました。

この戦争でオスマン帝国から要請を受けて参加していたエジプト総督ムハンマド・アリーは、戦後クレタ島とキプロス島を獲得し、さらにシリアを要求して第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33年)、第2次エジプト=トルコ戦争(1839~30年)を起こします。

オスマン帝国はイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの支援を受けて勝利し、なんとかシリアを守りました。

※①世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」

 ②世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」

 

[関連サイト]

ウィーン歴史地区/オーストリア

シェーンブルン宮殿:オーストリア・バロックの最高峰

 

■ロシア=トルコ戦争

世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」、アル・アクサ・モスク
エルサレムの神殿の丘に立つアル・アクサ・モスク。16世紀からフランスが聖地管理権を得ていましたが、1919年のサイクス=ピコ協定によってエルサレムはイギリスの委任統治領となりました。世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」構成資産

1851年、オスマン帝国内部で発言権を強める正教徒たちは、ロシアの支援を得てフランスが保持していたエルサレム※の管理権をオスマン帝国から手に入れます。

翌年フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に迫って聖地管理権を回復すると、ロシアのニコライ1世は聖地管理権と正教徒の保護を名目にクリミア戦争(1853~56年)を開始します。

 

オスマン帝国はロシアの南下政策を警戒するイギリス、フランス、サルデーニャ王国の支援を受けて攻勢を強め、1855年にクリミア半島のセヴァストーポリ要塞を攻略。

オーストリアの参戦もあってオスマン帝国の勝利に終わり、1856年のパリ条約でロシアの海峡通航が禁止されました。

 

1875年にボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリアの正教徒がオスマン帝国に対して反乱を起こすと、セルビアやモンテネグロの正教徒がこれを支持。

いずれもスラヴ人であることから同じスラヴ系のロシアがパン=スラヴ主義の下で保護に回り、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)がはじまりました(1877~78年)。

 

この戦いはロシアの勝利で終わり、1878年のサン=ステファノ条約で黒海沿岸の領土をロシアに割譲し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を認め、ブルガリア公国が自治公国とされました。

ロシアは事実上ブルガリアを保護国とし、そのブルガリアは黒海からエーゲ海に達する巨大な領土を獲得。

これにイギリスやオーストリア=ハンガリーが反発し、同年のベルリン条約で調整され、ブルガリア公国はエーゲ海沿いの領土を縮小されてオスマン帝国内に留まることとなり、代わりにセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立は認められました。

この際、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を得、イギリスはキプロス島を獲得しています。

※世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」

 

[関連サイト]

聖地エルサレム:3宗教35億人が崇める神の土地

 

■瀕死の病人

世界遺産「アッコ旧市街(イスラエル)」
海と城壁に守られた世界遺産「アッコ旧市街(イスラエル)」。十字軍の拠点でしたがその後廃墟になり、18世紀にオスマン帝国によって再建されました。エルサレムの玄関口ということで多くの国の標的となりました

こうしてオスマン帝国はヨーロッパの領土の半分以上を失い、「瀕死の病人」といわれるほどに弱体化しました。

近代化の遅れから没落が進むオスマン帝国は、その危機感から19世紀中盤にアブデュル・メジト1世がタンジマート(恩恵改革)を断行。

ギュルハネ勅令を出して法治主義の下で帝国民の諸権利を定め、宗教にかかわらず法の下の平等を認めました。

 

近代化を進めたいオスマン帝国は英仏から資金を借り入れて鉄道を敷設し、産業を振興。

ところが1838年にトルコ=イギリス通商条約を締結して以来、ヨーロッパの工業製品が流入し、国内の産業が打撃を受けて衰退します。

 

クリミア戦争に敗れるとさらなる近代化が求められ、1876年、宰相ミドハトがアジア初の憲法であるミドハト憲法を発布して立憲君主政に移行。

ところが翌年ロシア=トルコ戦争がはじまるとアブデュル・ハミト2世はミドハトを追放し、議会を解散して憲法も停止してしまいます。

こうして専制政治を復活させると同時にパン=イスラム主義を唱えてイスラムの団結を図り、立憲主義者やキリスト教徒を弾圧しました。

 

こうした圧政や衰退を前に、トルコ人青年を中心に青年トルコが結成され、1889年にイスタンブール進撃を開始します。

アブデュル・ハミト2世は軍を派遣して鎮圧にかかりますが、軍が寝返ったことで失敗。

1908年に要求を認めてミドハト憲法を復活させますが(青年トルコ革命)、翌年退位が可決され、メフメト5世がその跡を継ぎました。

 

オスマン帝国はこのあと立憲政治を支持する派閥と皇帝による専制政治を支持する派閥に分かれ、政権の奪い合いが続きます。

 

■エジプトの独立運動

世界遺産「聖カトリーナ修道院地域(エジプト)」
シナイ半島のシナイ山の麓にたたずむ世界遺産「聖カトリーナ修道院地域(エジプト)」。シナイ山は預言者モーセが神から十戒を刻んだ石板を授かったと伝わる聖山で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地として巡礼者を集めています

この頃、エジプトもトルコと同様に近代化と相次ぐ戦争、ヨーロッパ製品の流入によって莫大な債務を抱えてほとんど財政破綻に陥っており、1860年代以降はイギリス、フランスの財政管理を受けていました。

当時エジプトでもっとも重要な国家事業だったのが地中海と紅海、ひいては大西洋とインド洋を結ぶスエズ運河の建設です。

 

第4代エジプト総督サイード=パシャはフランス人技師レセップスに開削権を与えると、レセップスはスエズ運河株式会社を設立して1859年に着工。

1869年に全長167kmに及ぶ大運河が完成します。

 

スエズ運河は完成したものの、イギリス、フランスとは不平等条約を締結しているため関税自主権がないなど不利な状況で、エジプトの財政は困窮を極めました。

1875年、仕方なくイギリスにスエズ運河会社の株式を売却。

それでも財政は好転せず、1876年に破綻してエジプトは完全に英仏両国の管理下に入ります。

 

スエズ運河においてエジプトの民衆は過酷な労働に従事し、工事中の死者は2万人に達したといわれています。

利益を吸い上げるイギリス、フランスに対する不満は膨れ上がり、ウラービー革命(1881~82年)となって爆発します。

 

陸軍大佐ウラービーは1881年、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、アラブ人による立憲政府の樹立を目指して武装蜂起。

エジプト政府はウラービーを大臣に昇格させ、憲法を制定したのち議会の開設を決定して民主化を進めます。

革命は成功したかに思われたが、1882年、イギリス軍がアレクサンドリア※に上陸して武力鎮圧を開始。

エジプトを占領すると、実質的に支配下に収め(正式に保護国にするのは1914年)、ウラービーはセイロン島に流されました。

※エジプトの世界遺産暫定リスト記載

 

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<ペルシア、中央アジアの衰退>

■イランを巡る戦い

世界遺産「ゴレスタン宮殿(イラン)」
イスラム文様アラベスクで覆われた世界遺産「ゴレスタン宮殿(イラン)」。18世紀にアーガー・ムハンマドが建設し、19世紀にナセル・アッディーンが改修した宮殿で、ペルシア美術をベースにキリスト教美術やインド美術を取り入れて壮麗な宮殿を完成させました (C) Freshman404

現在イランがあるペルシアの地では、サファヴィー朝のあとトルコ系スンニ派のアーガー・ムハンマドがイランを統一。

1796年に「シャーハンシャー(王の中の王)」を名乗ってカージャール朝を建て、首都テヘランにゴレスタン宮殿①を建設します。

 

一方、ロシアは中央アジアで南下政策を進め、カージャール朝との間でイラン=ロシア戦争が勃発。

交易の要衝タブリーズ②をはじめカージャール朝は多くの領土を失い、1828年にトルコマンチャーイ条約を結んでロシアに治外法権を認め、東アルメニアを割譲しました。

 

この頃、バクー③油田の開発がはじまってコーカサス地方の重要性が増し、イギリスがイランに進出して1840年にイギリス=イラン通商条約を締結します。

カージャール朝は次第に欧米列強の傀儡政権と成り下がり、たとえばタバコに関する全権をイギリスに売り渡して国王はそのバックマージンを受け取っていました。

 

イスラム圏では飲酒が禁じられているため喫煙の習慣が浸透しており、タバコが大きな産業になっていました。

この事実が知れ渡ると激しい非難が巻き起こり、タバコのボイコット運動に発展(1891年、タバコ・ボイコット運動)。

国王はイギリスへの全権譲渡を撤回しましたが、多額の違約金を支払うことになりました。

 

1904~05年の日露戦争での日本の勝利と、1905年にはじまる第1次ロシア革命の報が伝わると、反欧米とシャーの支配に対する反発が一気に高揚。

民衆の圧力に屈してカージャール朝は1906年、イラン憲法を制定して議会を開設します(イラン立憲革命)。

しかしながらロシアとイギリスは1907年に英露協商を結んでイラン分割を協議し、ロシアが武力によって議会を閉鎖しました。

※①世界遺産「ゴレスタン宮殿(イラン)」

 ②世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン)」」

 ③世界遺産「城塞都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔(アゼルバイジャン)」

 

■中央アジアの動向

ウズベキスタンの世界遺産「ブハラ歴史地区」、カラーン・モスク
ウズベキスタンの世界遺産「ブハラ歴史地区」、カラーン・モスク。中央は泉亭で、右奥に見えるのは高さ46mを誇るカラーン・ミナレット。ブハラはブハラ・ハン国の首都であると同時に数多くのモスクやマドラサを持つ宗教都市で、巡礼者や神学者がこの地に集いました
ウズベキスタンの世界遺産「イチャン・カラ」
中世の美しい街並みが残るウズベキスタンの世界遺産「イチャン・カラ」。ヒヴァ・ハン国の主要都市で、18世紀にはカージャール朝の侵攻を受けて多くの建物が破壊されました (C) Patrickringgenberg

中央アジア・アフガニスタンの地では、18世紀中盤にアフガン王国が成立しました。

ロシアは南下政策によってアフガン王国にも進出し、カージャール朝を支援して侵攻させます。

 

ロシアの南下をインド支配の脅威と考えたイギリスはアフガン王国に介入。

カージャール朝に対してアフガン王国の独立を認めさせました。

 

こうしたイギリスのアフガニスタン進出に対し、1838年にアフガン王国との間で3次にわたるアフガン戦争が勃発。

第1次アフガン戦争でアフガン王国が勝利してイギリスを撤退させますが、第2次でイギリスの保護国となり、第3次でラワールピンディー条約(1919年)を締結して王国の独立を回復しました。

 

中国の新疆地区では1860年代にイスラム教徒の反乱(イリ事件)が起こります。

これに乗じてロシアが軍を進めてイリ地方を占領。

さらに中国の朝貢国であった中央アジアのブハラ・ハン国(首都ブハラ①)やヒヴァ・ハン国(首都タシケント。主要都市イチャン・カラ②)、コーカンド・ハン国(首都コーカンド③)に進出して保護国化しました。

1881年のイリ条約でイリ地方を清に返還しますが、その代わり新疆の一部を獲得し、賠償金や貿易特権を認めさせました。

※①世界遺産「ブハラ歴史地区(ウズベキスタン)」

 ②世界遺産「イチャン・カラ(ウズベキスタン)」

 ③ウズベキスタンの世界遺産暫定リスト記載

 

* * *

 

<ムガル帝国の滅亡>

■インド植民地戦争

世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド)」
第5代ムガル皇帝シャー・ジャハーンがアグラからデリーに遷都して居城とした赤い城=レッド・フォート。インド大反乱ではイギリス軍の駐屯地になりました。世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド)」構成資産
世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン)」、ラホール城のアラムギーリー門
ジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブら代々ムガル皇帝による改修を受けたラホール城、アラムギーリー門。シク王国がこの地を奪うとやはり城塞として利用しました。世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン)」構成遺産 (C) Rohaan Bhatti

ムガル帝国は第6代皇帝アウラングゼーブの死後、急速に衰退しました。

中央のデカン高原をマラータ王国を中心としたヒンドゥー連合・マラータ同盟が支配し、北部をシク教徒のシク王国、西部をラージプート族、東部をベンガルが押さえ、ムガル帝国にはデリー①②③周辺のみが残されました。

 

変わって急速に勢力を伸ばしていたのがイギリスとフランスです。

18世紀、世界各地で覇権を争っていた両国ですが、ヨーロッパで起きた七年戦争(1756~63年)、アメリカ大陸のフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)、インドのカーナティック戦争(第1次:1744~48年、第2次:1750~54年、第3次:1758~61年)、プラッシーの戦い(1757年)でフランスは著しく疲弊。

1763年のパリ条約で北アメリカの植民地をほとんど失い、イギリスによるアメリカとインド支配が確定しました。

 

こうしたイギリスの勢力拡大に対抗したのが南のイスラム政権・マイソール王国、中央のヒンドゥー連合・マラータ同盟、北のシク教国・シク王国ですが、それぞれマイソール戦争(1767~99年)、マラータ戦争(1775~1818年)、シク戦争(1845~49年)でイギリスに敗れました。

※①世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド)」

 ②世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド)」

 ③世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド)」

 ④世界遺産「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅[旧名ヴィクトリア・ターミナス](インド)」

 ⑤世界遺産「ムンバイのヴィクトリア・ゴシック様式とアール・デコ様式の建造物群(インド)」

 

[関連サイト]

デリーのフマユーン廟/インド

世界遺産と建築17 イスラム教建築2:世界のモスク建築

 

■インド支配体制の確立

世界遺産「ゴール旧市街とその要塞群(スリランカ)」
星形の稜堡で囲われた世界遺産「ゴール旧市街とその要塞群(スリランカ)」の旧市街。スリランカはポルトガルやオランダに支配されたのち、1815年に首都キャンディを落とされてイギリス領セイロンとなりました (C) GalleMediaWorks

イギリスはこれらの戦争に勝利し、19世紀半ばにはインド全体の支配権を確立しました。

 

そしてインドの富を吸収するために税制の改革を断行。

ザミンダーリー制では地主に徴税権を与えて農民から地代を徴収させ、ライヤットワーリー制では農民に土地所有権を与えて直接地代を徴収しました。

いずれにせよ地代はきわめて高く、拷問を含む取り立てを行ったことから農民の生活は困窮しました。

 

農業においても、イギリスは農民にインド国内、あるいは中国などの市場で売れる作物、たとえば染料となる藍や麻薬アヘンの原料となるケシを栽培させました。

税制や農作物の変更によって農業を中心とした農村の共同体的な生活は崩壊し、食料生産も減ったことから貧困層が増え、たびたび飢饉が起こりました。

 

イギリス東インド会社はこうした徴税権を背景にインド統治を取り仕切りました。

ただ、徐々に自由貿易を求める声が高くなり、イギリス東インド会社の貿易独占権は削減され、1834年には商業活動そのものを停止し、統治機構として植民地行政にあたりました。

 

イギリスは当初インドから手織りの綿織物=キャラコを買ってヨーロッパに輸出していましたが、産業革命が進むにつれて綿花や綿糸の輸入に移行。

やがてイギリスで安価な機械織綿織物が生産されるようになると、逆にインドに輸出するようになり、インドの綿織物業は大打撃を受けました。

こうしてイギリスの貿易の主軸は、「イギリス→(綿織物)→インド→(銀・アヘン)→中国→(茶)→イギリス」という三角貿易へ移行しました。

 

■イギリス領インド帝国

世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド)」
王妃ハージ・ベグムが亡き夫フマユーン(第2代ムガル皇帝)に贈った世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド)」。1858年、ムガル帝国第17代皇帝バハードゥル・シャー2世はフマユーン廟で捕らえられ、廃位されて最後の皇帝となりました

インドが疲弊する中で、シパーヒー(セポイ)をきっかけとする大反乱が起こります。

 

シパーヒーは東インド会社が持つ軍のインド人傭兵で、イスラム教徒やヒンドゥー教徒で構成されていました。

彼らが使用する新式銃の弾薬包には牛脂や豚脂が塗布してあり、これを噛み切る必要がありました。

ところがイスラム教徒にとってブタは不浄の動物であり、ヒンドゥー教徒にとってウシは神聖な動物で、口に含むことは許されませんでした。

こうした宗教上の理由に加え、藩王国が取り潰されたことに対する不満や、インドの風習などを禁止・改編する政策への反発、待遇問題などもあって、東インド会社に対する不満は高まりました。

 

シパーヒーたちは1857年に武装蜂起するとデリー城(レッド・フォート①)を占領してムガル帝国のバハードゥル・シャー2世を皇帝に擁立。

イギリスに不満を持つ藩王国や「インドのジャンヌ・ダルク」の異名を持つラクシュミー・バーイーの反乱なども加わってインド大反乱へと発展します。

 

しかし、大反乱とはいっても統制は取れておらず、バハードゥル・シャー2世も一応は皇帝擁立を認めたものの協力的ではありませんでした。

イギリス軍はこうしたほころびを突き、民族間・宗教間・カースト間の対立を煽って内部分裂を誘い、シク教徒やネパールのグルカ兵の協力を取りつけて反撃に出ます。

 

イギリス軍がデリーを包囲して虐殺・略奪・破壊行為を繰り返すなか、バハードゥル・シャー2世はフマユーン廟②に避難しているところを捕らえられました。

そして1858年にムガル皇帝を廃位してビルマ(現在のミャンマー)に流され、ムガル帝国は滅亡します。

 

そしてイギリスは東インド会社を解散させ、1877年にヴィクトリア女王を皇帝としてインド帝国を建国。

イギリス領インド帝国が成立します。

※①世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド)」

 ②世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド)」

 

[関連サイト]

デリーのフマユーン廟/インド

 

■インド分割統治

世界遺産「ジャイプールにあるジャンタール・マンタール(インド)」
ムガル帝国末期、天文学者でもあったジャイ・シン2世によって築かれた天体観測施設「ジャイプールにあるジャンタール・マンタール(インド)」

インドではイギリスの支配が進み、人々の生活は困窮していきます。

このためイギリスは1885年に不満のはけ口としてインド人の意見を集約するインド国民会議を設置します。

 

1905年、ベンガル地方で民族運動が活発化したことから、イギリスはヒンドゥー教徒とイスラム教徒を分断するためにベンガル地方をイスラム教徒が多い東部(現在のバングラデシュ)とヒンドゥー教徒が多勢な西部に分けるベンガル分割令を発布します。

しかしこれがかえって反発を呼び、それまで穏健だったインド国民会議の中にヒンドゥー教徒の急進派ティラクらが台頭して反対と独立を呼びかけます。

 

1906年にインド帝国の首都カルカッタ(現在のコルカタ)で開催された大会では、英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育の4綱領を掲げ、イギリスに自治を要求。

イギリスは急進派を弾圧しつつ穏健派を支援し、さらにイスラム教徒に接近して全インド=ムスリム連盟を結成させ、両宗教の分断を進めます。

こうした分割統治とインド人の政治参加を認めるなどの妥協案を巧みに使い分けてガス抜きを行い、運動は下火になりました。

 

イギリスは1911年に分割令を撤回し、インド帝国の首都をカルカッタからデリーに遷し、ニューデリーを建設します。

 

* * *

 

<東南アジアの衰退>

■オランダ領東インド

マレーシアの世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」、オランダ広場
マレーシアの世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」、オランダ広場。右がマラッカ・キリスト教会、噴水はヴィクトリア女王噴水。このように名称にも宗主国の多彩性が表れています

東南アジアではイギリス、フランス、オランダが勢力を争っていました。

 

海洋で覇を唱えていたのがオランダです。

1623年のアンボイナ事件でイギリスを排除し、スマトラ島やジャワ島からなる大スンダ列島、バリ島やコモド島からなる小スンダ列島、ボルネオの大半、モルッカ諸島などを支配しました。

オランダはジャワ島にバタヴィア※(現在のジャカルタ)を建設してオランダ東インド会社の拠点とし、ジャワ島を治めるマタラム王国と平和条約を締結します。

 

17世紀以降、マタラム王国は内紛を繰り返し、18世紀半ばにふたつに分裂して自治区となって消滅。

オランダは東インド会社を解散させるとオランダ領東インドとしてオランダ政庁による直接統治を開始します。

 

オランダ政庁は作物の買い取り価格を一方的に取り決めたり、王族や貴族らによる土地貸借を禁じたりしたためさまざまな層の反発を買い、1825年にジャワ戦争が勃発(~1830年)。

指導者ディポネゴロを捕らえて鎮圧すると、財政立て直しのために畑や作物・生産量・農民の人数などを指定する強制栽培制度を制定しました。

これによりオランダは莫大な利益を上げますが、人々の生活は困窮し、食糧不足から飢饉が頻発しました。

※インドネシアの世界遺産暫定リスト記載

 

■イギリス海峡植民地

世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア)」
1903年にイギリスが議事堂としてネオ・バロック様式で建設したペナン島ジョージタウンのシティ・ホール。世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア)」構成資産

イギリスはマレー半島に進出し、ジョージタウン①、ムラカ①、シンガポール②という3つの海峡植民地を中心にマレー半島の支配を確立。

3港を自由港として関税を撤廃したことからインド商人や中国商人が集まって繁栄しました。

 

3都市はイギリス直轄植民地でしたが、やがてマレー半島の全域にわたる領域的な支配に移行し、1895年にはマレー連合州を成立させて保護国とします。

 

マレー連合州ではスズ鉱山の経営や、コーヒーやゴムのプランテーションを開発してクーリー(苦力)と呼ばれるインド人・マレー人・中国人労働者を投入。

これにより現在に至る多民族文化が浸透していきます。

※①世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア)」

 ②世界遺産「シンガポール植物園(シンガポール)」

 

[関連サイト]

マラッカとジョージタウン/マレーシア

 

■ミャンマーとタイの動向

コンバウン朝のマンダレー王宮
コンバウン朝のマンダレー王宮。イギリス占領後はイギリス軍の駐屯地となり、第2次世界大戦に巻き込まれて焼失しました。現在の建物は1990年代の復元。マンダレー周辺の王宮跡や寺院の一部はミャンマーの世界遺産暫定リストに記載されています

ビルマ(ミャンマー)ではコンバウン朝が成立しています。

 

1824年、コンバウン朝がインド北東部のアッサムを占領し、ベンガルに侵入したのに対してイギリス軍が反撃。

これを機に3次にわたるビルマ戦争(英緬戦争。1824~86年)が勃発します。

第3次ビルマ戦争でコンバウン朝はインドシナ半島で勢力を広げるフランスと同盟を結ぼうと画策しますが、これを理由にイギリスに攻め込まれ、1886年に首都マンダレー※が落城して滅亡しました。

これによりミャンマーはイギリス領インド帝国に併合されています。

 

シャム(タイ)ではバンコクを首都にチャクリー朝(バンコク朝)が成立していました。

貿易についてはかなり閉鎖的な政策を採っていましたが、イギリスやフランスによって開国圧力が上昇。

1855年、イギリスはチャクリー朝のラーマ4世とボウリング条約を結び、自由貿易や低い関税率、治外法権などを認めさせると、アメリカ、フランス、オランダなども同様の不平等条約を締結しました。

 

続くラーマ5世(チュラロンコーン)はシャムを挟むイギリスとフランスの対立を巧みに利用。

その結果、1896年に両国はタイを緩衝地帯として残すことを決定し(英仏宣言)、チャクリー朝は独立を保つことに成功します。

※ミャンマーの世界遺産暫定リスト記載

 

[関連記事]

世界遺産と建築23 仏教建築3:上座部仏教編(スリランカ、東南アジア)

 

■フランス領インドシナ

ベトナムの世界遺産「フエの建造物群」、王宮午門
ベトナムの世界遺産「フエの建造物群」、王宮午門。王宮の正門で、3つのエントランス中央は皇帝専用、2つは貴族専用で、庶民は通行を禁じられていました。多くの建物はベトナム戦争のテト攻勢で破壊されてしまいました
世界遺産「フエの建造物群(ベトナム)」、ミンマン帝廟
中国庭園の色彩が濃いミンマン帝廟。ミンマン帝は鎖国を行い、キリスト教を禁止して外国勢力と外国文化の流入を防ごうとしました。世界遺産「フエの建造物群(ベトナム)」構成資産 (C) LÊ TẤN LỘC

ベトナムではグエン・フック・アイン(阮福暎)がフランス人宣教師ピニョーやタイのアユタヤ朝の支援を得て1802年にグエン朝(阮朝)を興します。

1804年に清から越南王に任ぜられますが、自らは皇帝を称してザロン帝を名乗りました。

 

1805年、首都フエ①にヴォーバン様式の星形要塞を造らせ、北京の紫禁城②を3/4に縮小した王宮を建設。

グエン朝はこのように中国とフランスの先端的な文化を導入して近代化を図りました。

 

中国とフランスを利用しようとしたグエン朝ですが、フランスは次第に介入を強化。

これを嫌った第2代皇帝ミンマン帝(明命帝)はフランスと断絶し、鎖国を実施します。

 

グエン朝はキリスト教布教を禁止していましたが、フランス人宣教師がしばしば鎖国を破って潜入し、布教を図ります。

グエン朝がこれを弾圧すると、宣教師殺害を口実にナポレオン3世が軍を進めて1858年にベトナム中部の港町ダナンを占領(インドシナ出兵/仏越戦争。1858~62年)。

ベトナムにこれを排除する力はなく、1862年のサイゴン条約でメコン川下流をフランスに割譲し、メコン川の通航権を認めました。

フランスは翌1863年にカンボジアを保護国化しています。

 

フランスは1883年と1884年にグエン朝とフエ条約を結んで保護国化しますが、宗主国である清はこれを認めず清仏戦争(1884~85年)が勃発。

清の優勢で進みますが、清朝は日本や朝鮮王朝(李氏朝鮮)との政情が不安定化していたことから講和を急ぎ、1885年に天津条約を締結します。

これによりベトナムの宗主権を失い、ベトナムのフランスによる保護国化が認められました。

フランスは1887年にベトナムとカンボジアからなるフランス領インドシナ連邦を成立させ、1899年にはラオスも組み込んでいます。

※①世界遺産「フエの建造物群(ベトナム)」

 ②世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」

 ③世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区(ベトナム)」

 

[関連サイト]

フエの建造物群/ベトナム

北京と瀋陽の明・清朝皇宮群/中国

 

■アメリカ領フィリピン

フィリピンの世界遺産「古都ビガン」
フィリピンの世界遺産「古都ビガン」のクリソロゴ通り。スペインが町を築き、アメリカ=スペイン戦争でアメリカ領となり、太平洋戦争で日本領となりました。現地の文化や華僑の文化も溶け込んでおり、多様な文化の影響が見られます

フィリピンは16世紀後半から18世紀にかけてアカプルコ貿易で繁栄しました。

フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコをマニラ・ガレオンと呼ばれる帆船で結んだもので、年1~2便の定期船が太平洋を横断して交易を行いました。

  

スペインは、フィリピンのヨーロッパとの貿易を自国に限定し、その他の国々に対しては鎖国政策を採らせていました。

しかしながらイギリスをはじめとする列強の自由貿易の圧力により、1834年にマニラを開港。

砂糖やタバコ・麻のプランテーション開発が進み、輸出が激増します。

 

19世紀後半になるとフィリピンの独立運動が活発化します。

1896年にホセ・リサールがカティプーナンを組織し、革命運動を主導。

カティプーナンは革命政府を作ってゲリラ活動を展開しました。

 

1898年、キューバ独立を巡って宗主国のスペインとアメリカとの間でアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が勃発。

カティプーナンはアメリカに協力してスペイン軍と戦い、同年にフィリピン共和国の独立を宣言し、アギナルドが初代大統領に就任します。

しかし、アメリカ=スペイン戦争でアメリカが勝利して同年にパリ条約が締結されると、フィリピンはプエルト・リコやグアムとともにアメリカ領に組み入れられました。

 

これに反発してフィリピン=アメリカ戦争が勃発(1899~1902年)。

アメリカ軍は虐殺を行って鎮圧し、フィリピンの支配を進めます。

 

 

[関連サイト]

古都ビガン/フィリピン

 

* * *

 

次回は清・朝鮮・江戸の滅亡を紹介します。

 


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『朝日新聞 世界の扉』記事執筆。『Fine』自然遺産特集執筆。『地球の歩き方 MOOK 世界のビーチBEST100』『ノジュール』に旅のスペシャリスト・達人として参加。『PEN』でアフリカの世界遺産執筆。『MONOQLO』世界遺産特集取材協力。『女性セブン』で日本の世界遺産を解説。エクスナレッジ『聖地建築巡礼 世界遺産から現代建築まで、73の聖地を巡る旅』、洋泉社ムック『負の世界遺産』執筆。RKBラジオ、FM TOKYOで世界遺産特集出演。その他企業・大学広報誌等。

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