世界遺産と世界史30.百年戦争とバラ戦争
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
■電子書籍『世界遺産で学ぶ世界の歴史 ~海外旅行から世界遺産学習まで~』
1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<中世の権力者>
■誰が力を持っていたのか?
中世、西ヨーロッパでは以下のような人たちが勢力を誇っていました。
- 教皇:ローマ・カトリックの盟主。教皇庁の頂点
- 大司教、司教:教皇の下で地方をまとめる教会の地域権力者
- 総主教:正教会の盟主。総主教庁の頂点
- 皇帝:ローマ帝国の君主。ローマ皇帝の後継
- 国王:国家の君主
- 諸侯:皇帝や国王に土地を封じられた世襲の大領主・有力貴族
- 聖界諸侯:大司教領や司教領を持つ有力大司教・司教
- 騎士:皇帝や国王・諸侯に仕える戦士階級の貴族
- 城主:城郭都市の領主
- 帝国都市:諸侯に仕えず皇帝に直接管理された都市
- 自由都市:教会に仕えず皇帝に直接管理された都市
この中で実際に誰が力を持っていたでしょうか?
その事情は国や地域、時代によってずいぶん異なっていました。
たとえば神聖ローマ帝国。
領内にはオーストリア公やハンガリー王、ボヘミア王、ザクセン公、ケルン大司教、マインツ大司教、ブランデンブルク辺境伯などがいて、皇帝は形的にはこれらの上に君臨していました。
しかし、地方は独立状態にあり、皇帝は選帝侯によって選ばれた諸侯や都市の代表者にすぎず、地方に介入する権利はありませんでした。
諸侯には大公・公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵といった爵位がありました。
フランドル伯領の「伯領」は「伯爵の領地」というような意味で、主権を持ち独立性が高くなるとブルゴーニュ公国のように「国」という言葉が使われます。
これらの爵位は皇帝や国王から与えられるもので、フランドル伯は一応フランス王の下にいましたが、実際は半ば独立しているような状態でした。
だからフランスはいつもこうした国々に独立させまいと構えていましたし、隣の神聖ローマ帝国はフランドルやブルゴーニュを取り込むか独立させて自陣に引き入れようと画策していました。
諸侯や都市による領土や国家を「領邦」といいます。
特にドイツやイタリアは長らく小さな領邦が集まる土地で、国家としての統一は19世紀までなされませんでした。
これが大国化や近代化が遅れた大きな原因となりました。
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<イングランドとアンジュー帝国>
アンジュー帝国の版図の推移
■アンジュー帝国
イングランドでは1066年にノルマンディー公国のギヨーム2世がウェストミンスター寺院①で戴冠し、ウィリアム1世としてイングランド王に即位してノルマン朝がスタートしました。
ノルマン人によるイングランドの征服、いわゆるノルマン・コンクェストです。
しかしながらノルマン朝は4代で断絶。
このときイングランドに呼ばれて1154年に王位に就き、プランタジネット朝を開くのがフランスのアンジュー伯アンリ1世、すなわちイングランド王ヘンリー2世です。
ヘンリー2世はイングランド王であり、フランスのアンジュー伯(伯爵)、ノルマンディー公(公爵)、メーヌ伯でもありました。
また、ヘンリー2世の妻アリエノール・ダキテーヌはアキテーヌ公です。
これによりヘンリー2世のイングランドは形的にフランスのアンジュー伯国、ノルマンディー公国、メーヌ伯国、アキテーヌ公国を治めることになり、フランスの北部から西部までを版図に加えました。
さらにスコットランド、ウェールズ、アイルランドを加えて「アンジュー帝国」と呼ばれる大領域を支配下に収めました。
※世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス)」
[関連サイト]
■失地王ジョンとマグナ・カルタ
ヘンリー2世の跡を継いだのはジョン。
フランス王フィリップ2世はアンジュー伯がフランスに保有するノルマンディー以外の領地を没収し、ブルターニュ公アーサーに与えました。
これに怒ったジョンはフランスに戦争を仕掛けますが、大陸のほとんどの諸侯はフィリップ2世の側につき、ジョンはノルマンディー地方さえ失ってしまいます。
このためジョンは後日「失地王」「欠地王」という不名誉な名を与えられています。
この頃フランスは、商業革命の中心であり、毛織物業で栄えていたフランドルが何かにつけて独立を匂わせるため併合を狙って軍を進めていました。
フランドルは現在のオランダ南部・ベルギー・フランス北東部にあたる土地で、神聖ローマ帝国との境にあって高度な自治が認められていました。
イングランドを打ち破り、勢力を拡大するフィリップ2世に対し、フランドル伯は神聖ローマ帝国と結んでこれに対抗します。
イングランド王ジョンも参戦し、フランドル伯・神聖ローマ帝国と連合してフランスと戦いました。
しかし1214年のブーヴィーヌの戦いで連合軍はフランス軍に大敗。
ジョンは失地回復に失敗し、フランスはフランドルの支配を確認し、神聖ローマ皇帝オットー4世は追放されました。
ジョンは度重なる戦のため重税を課し、しかも敗戦続きで多くの領地を失ったことから諸侯・騎士は協力してジョンに抵抗。
1215年、諸侯は王といえども法の下にあることを大憲章=マグナ・カルタによって確認し、課税をはじめとする重大な決定には諸侯や司教の承認が必要であることなどを了承させました。
■議会制の進展
ジョンの跡を継いだヘンリー3世は、フランスとの戦いやウェストミンスター寺院①の大改修を実施。
その費用調達にマグナ・カルタを無視して重税を課したため、シモン・ド・モンフォールを中心とする諸侯・騎士は国王に対して挙兵します。
この戦いは反乱軍が勝利して、1265年にシモン・ド・モンフォール議会を開催してマグナ・カルタを承認させました。
続くエドワード1世は1295年に庶民代表を集めて議会を招集(模範議会)。
これが1343年に貴族・聖職者からなる貴族院(上院)と都市代表者からなる庶民員(下院)に発達します。
エドワード1世はウェールズやスコットランドに対する遠征でも知られます。
ウェールズに対しては大公グリフィスを倒して征服し、戦後、反乱鎮圧のためにグウィネズの城塞群②を建設しています。
また、スコットランドの王位継承問題に介入して遠征を行い、こちらにも勝利しています。
スコットランド王が代々戴冠を行っていた「スクーンの石(運命の石)」をウェストミンスター寺院に持ち帰りますが、スコットランドの反発が大きく、この支配は最終的に失敗に終わります。
なお、スクーンの石は1996年にスコットランドのエディンバラ城③に返還されています。
※①世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス)」
②世界遺産「グウィネズのエドワード1世の城群と市壁群(イギリス)」だ。
③世界遺産「エディンバラの旧市街と新市街(イギリス)」
[関連サイト]
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<フランスの勢力拡大>
青がおおむねフランス王国、緑がイングランド・ノルマン朝、エンジ色がイギリス(アンジュー帝国やプランタジネット朝等。途中から無色)
■フランスの南部進出
フランスでは987年にパリ伯であるユーグ・カペーがフランス王国を建てていました。
しかし、アンジュー帝国が興るとフランスの多くが奪われてしまいます。
ジョンがイングランド王に就くと、フィリップ2世はイングランドから大陸の多くの領地を没収します。
さらにフランドル、イングランド、神聖ローマ帝国連合軍を打ち破り、フランドルへの影響力を強めました。
ただ、1189年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ、イングランド王リチャード1世とともに第3回十字軍に参加しますが、こちらはエルサレム①攻略に失敗しています。
ルイ8世、ルイ9世の時代には教皇インノケンティウス3世の呼び掛けに応じ、フランス南部で信者を増やしていたキリスト教の異端・カタリ派(アルビジョワ派)に対するアルビジョワ十字軍に参加。
難攻不落の城郭都市カルカッソンヌ②を落とすと、アルビ③、アヴィニョン④、そして最大の拠点トゥールーズ⑤を落とし、フランス王国の版図を地中海沿岸部にまで広げました。
※①世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
②世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ(フランス)」
③世界遺産「アルビの司教都市(フランス)」
④世界遺産「アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教関連建造物群及びアヴィニョン橋(フランス)」
⑤世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(フランス)」
[関連サイト]
■フィリップ4世の時代
王権が特に強まるのがフィリップ4世の時代です。
フィリップ4世はイングランドとの戦費を調達するために、1302年に第1身分である大司教や司教といった聖職者、第2身分である諸侯・騎士、第3身分である都市民からなる三部会を開いて聖職者に対する課税を打診します。
イングランドや神聖ローマ帝国で諸侯や騎士が国王や皇帝に反旗を翻したことを意識して、事前に了解を得てから課税に踏み切りました。
聖職者への課税に反発した教皇ボニファティウス8世はフィリップ4世を破門しますが、逆にイタリアのアナーニで捕らえられ、まもなく憤死してしまいます(1303年、アナーニ事件)。
このあとフィリップ4世は息のかかったクレメンス5世を教皇に即位させ、1309年には教皇の座所である教皇聖座をローマ①から南フランスのアヴィニョン②に遷してフランスの支配下に置きました(教皇のバビロン捕囚/アヴィニョン捕囚)。
フィリップ4世は1314年に亡くなり、彼の息子や孫が王位を継ぎますが、いずれも短命に終わります。
そして5男シャルル4世が死去すると、彼の息子が夭折して跡を継ぐことができなかったためカペー家の本家が断絶。
王位は分家であるヴァロワ家が継ぎ、1328年にフィリップ6世が即位してヴァロワ朝がスタートします。
これに異議を唱えたのがイングランド王エドワード3世です。
彼の母はフィリップ4世の娘イザベラであることから、フランスの王位継承権を主張しました。
この頃の両国の最大の争点はやはりフランドル地方です。
イングランドは羊毛をフランドルに輸出することで栄えていましたし、フランスは強い経済力を持つフランドルを支配下に置くことで国力を増していました。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教関連建造物群及びアヴィニョン橋(フランス)」
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<百年戦争>
百年戦争における勢力の推移
■百年戦争
1337年、イングランドとフランスの間で百年戦争が勃発します。
イングランド王エドワード3世はフランドル伯・神聖ローマ帝国と結んでフランスへ侵攻。
戦いを優位に進め、1356年のポワティエの戦いではフィリップ6世の跡を継いだフランス王ジャン2世を捕縛します。
ジャン2世は捕虜のままロンドン①②で死亡し、シャルル5世がその跡を継ぎました。
イングランドはフランス本土で戦い、土地を荒らす焦土作戦を展開。
休戦期間には傭兵が地方を略奪して回りました。
またこの頃、ヨーロッパでペストが大流行し、フランスにも広がりました。
両国は重税を課したため農民一揆も頻発しました。
こうしてフランスの国土は荒廃し、諸侯や騎士は没落していきました。
その後、ランカスター朝のヘンリー5世がノルマンディーに上陸。
1415年にアジャンクールの戦いで大勝し、ノルマンディーを奪取します。
1420年にはトロワ条約を結んでフランス北部の多くの土地を獲得。
さらにフランス王シャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、その子をフランスの王太子(第一王位継承者)とすることを約束させました。
1422年にヘンリー5世とシャルル6世が死去すると、イングランドは国王に生まれたばかりのヘンリー6世を擁立し、約束通りフランス王にも即位させました。
イングランド=フランス二重王国の誕生です。
※①世界遺産「ロンドン塔(イギリス)」
②世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス)」
[関連サイト]
■ジャンヌ・ダルク
リュック・ベッソン監督『ジャンヌ・ダルク』予告編
フランス王太子シャルル(後のシャルル7世)はヘンリー6世の即位に反対し、自らのフランス王位就任を宣言して対抗します。
しかし、フランス北部から西部にかけてのほとんどをイングランドに押さえられ、パリ①も陥落し、国王や貴族たちはロワール渓谷②に退避していました。
フランスの不利は一目瞭然で、命運はほとんど尽きたかに思われました。
ここで登場するのがジャンヌ・ダルクです。
伝説によると、農家に生まれたジャンヌ・ダルクは12歳の頃「イングランドを倒し、フランスを助けよ」という神の声を聞いたといいます。
1429年、彼女はロワール渓谷のシノン城②でシャルルに面会すると、軍を授かってフランス最後の拠点オルレアンへ②進軍します。
オルレアンはイングランド軍の包囲を受けていましたが、これを打ち破って解放しました。
フランスはこれで勢いを盛り返し、同年パテーの戦いに勝利して勢力を回復。
シャルルはランス大聖堂(ランスのノートル=ダム大聖堂)③で戴冠式を行い、シャルル7世としてフランス王に就任します。
しかしながらジャンヌ・ダルクは翌年1430年にイングランド軍に捕らえられ、翌年処刑されてしまいます。
このあとシャルル7世はパリ③を中心としたイル=ド=フランスやノルマンディーを奪回し、イングランドを駆逐。
1453年にカスティヨンの戦いに勝利して百年戦争は幕を下ろしました。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷(フランス)」
③世界遺産「ランスのノートル=ダム大聖堂、サン=レミ旧大修道院及びトー宮殿(フランス)」
■バラ戦争
イングランドは混乱を極めていました。
百年戦争において、ランカスター朝ヘンリー5世の時代までフランスに対して圧倒的優位に立っていました。
しかし1429年以降、形勢は逆転し、赤バラを紋章に持つ和平派・ランカスター家と、白バラを紋章に掲げる主戦派・ヨーク家が対立を深めました。
そして1453年の敗戦を機に責任のなすり付けがエスカレートし、1455年に両家はとうとう開戦(バラ戦争)。
血で血を洗う凄惨な戦争に発展します。
度重なる内乱で王位は右に左に動きますが、結局ランカスター家の血を引くテューダー家のヘンリー7世が即位してヨーク家の娘と結婚。
両家の妥協が成立し、テューダー朝が誕生して戦争は終結しました。
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次回はオーストリアや神聖ローマ帝国、スペインを中心にハプスブルク帝国を紹介します。