世界遺産と世界史20.東欧の形成とビザンツ帝国
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<東ヨーロッパの形成>
■ノルマン人の移動
レイフ・エリクソンの大西洋横断ルート。最後に出てくるのがカナダの世界遺産「ランス・オ・メドー国定史跡」です
まずはノルマン人の動きです。
8~12世紀、スカンジナビア半島やユトランド半島に住んでいたノルマン人たちはカシやマツで造った超軽量で細長くて喫水の浅い(深く沈まない)「ロングシップ」と呼ばれるヴァイキング船で海や川を自在に行き来していました。
バルト海、北海、ケルト海はもちろん、浅場でも進めるため川を遡上し、軽量であるため陸地をも越えてヨーロッパ中に進出しました。
その拠点の一例がビルカ①やホーヴゴーデン①、ヘーゼビュー②です。
外洋航海にもすぐれた性能を発揮し、10世紀末、ノルマン人レイフ・エリクソンがグリーンランドを発見。
さらに西へと漕ぎ出すと、11世紀初頭、ついに大西洋横断に成功し、カナダのニューファンドランド島に到達します。
コロンブスより5世紀も早いヨーロッパ人によるアメリカ大陸到達です。
このとき切り拓いた街の遺跡がランス・オ・メドー③です。
フランス北部では10世紀、ロロに率いられたノルマン人の一行がノルマンディー地方に侵入し、植民都市を建設します。
西フランク王国のシャルル3世はロロをノルマンディー公(公爵)に封じる代わりに他のヴァイキングの討伐を命じます(ノルマンディー公国の成立)。
12世紀、フランス北部のノルマンディー公国から分かれた一派が南イタリアに到達。
1130年にルッジェーロ2世がシチリア王国ノルマン朝(オートヴィル朝)を建ててイタリア半島南部とシチリア島を占領しました。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は息子ハインリヒを王女に嫁がせました。
その後、シチリア王国の後継者が途絶えたため神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世となったハインリヒが1194年にシチリア王位を継承し、王朝はホーエンシュタウフェン朝に移行しました。
王国は広い版図を収めましたが、14世紀にはシチリア王国(首都パレルモ④)とナポリ王国(首都ナポリ⑤)に分裂しました。
パレルモやナポリにはノルマン様式の建物が残されています。
※①世界遺産「ビルカとホーヴゴーデン(スウェーデン)」
②世界遺産「ヘーゼビューとダーネヴィルケの考古学的境界線群(ドイツ)」
③世界遺産「ランス・オ・メドー国定史跡(カナダ)」
④世界遺産「パレルモのアラブ=ノルマン様式の建造物群及びチェファルとモンレアーレの大聖堂(イタリア)」
⑤世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
■イングランド王国の成立
イギリスの動きを見てみましょう。
グレートブリテン島ではローマ帝国がケルト人を北に追って版図を広げていましたが、西ローマ帝国滅亡後はローマ人の多くが撤退します。
5世紀以降、この地にゲルマン系のアングロ・サクソン人が入植し、7大国を中心に数多くの国家を建国しました(アングロ・サクソン七王国)。
その後、ノルマン人がたびたび侵入を試みますが、9世紀にこれをウェセックス王国のアルフレッド大王が撃破。
力をつけたウェセックス王国は927年、アゼルスタンが島南部を支配し、イングランド統一を果たします。
イングランド王国のはじまりです。
1042年にイングランド王に即位したエドワード懺悔王はロンドンの市街地の西側に新しい宮殿と寺院を建築します。
西の修道院の名を持つウェストミンスター宮殿①とウェストミンスター寺院①です。
1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世はイングランド王の後継者争いに乗じてイングランド南部に進出。
へースティングスの戦いでイングランド王ハロルド2世を破るとその勢いでロンドンを落とします。
ギヨーム2世はウェストミンスター寺院で戴冠し、イングランド王ウィリアム1世を名乗ってノルマン朝を建国。
ノルマン人による征服=ノルマン・コンクェストのはじまりです。
ウィリアム1世が築いたノルマン様式の城塞がロンドン塔②です。
※①世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス)」
②世界遺産「ロンドン塔(イギリス)」
[関連サイト]
■ルーシ国家とスカンジナビア
ノルマン人は東ヨーロッパにも進出し、現在のロシアの北西部に「ルーシ」と呼ばれる小国群を打ち立てます。
9世紀、このうちリューリクの一行が「新しい都市」を意味する植民都市ノヴゴロド①を建設。
やがてフィンラドからロシア北部にまたがる大国に発展します(ノヴゴロド公国)。
10世紀にはオルグが一帯を治めて黒海付近に遷都し、スラヴ人の都市キーウ(キエフ)②を占領してキエフ大公国(キエフ・ルーシ)を建国。
キーウは南北・東西ヨーロッパを結ぶ要衝で、またステップロード(シルクロードの北ルート)を使った貿易でも繁栄しました。
988年、タウリカ③で洗礼を受けたウラジーミル1世(ウラジーミル聖公)がキリスト教を国教化してビザンツ皇帝の妹と結婚。
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープル④(現・イスタンブール)に置かれていたコンスタンティノープル総主教の下に入り、11世紀に聖ソフィア大聖堂②やペチェールスカヤ大修道院②が建設されるとキーウはノルマン人やスラヴ人の聖地となりました。
北ヨーロッパのスカンジナビア半島では10世紀前後までにスウェーデン王国、ノルウェー王国が多くを支配。
やがてスウェーデンがフィンランドを占領します。
一方、ユトランド半島はデンマーク王国が占めました。
「老王」ゴームはユトランド半島にデンマーク王国イェリング朝を建て、その息子「青歯王」ハーラル1世はユトランド半島を統一してキリスト教に改宗し、デンマークをキリスト教化しました。
その首都がイェリングで、ハーラル1世はイェリングのイェリング教会⑤やシェラン島のロスキレ大聖堂⑥の前身となる教会堂を建設しています。
ハーラル青歯王はノルウェーに進出してこれを版図に加えていますが、キリスト教改宗やノルウェー征服の事実はイェリングに立てられたルーン・ストーン(ルーン文字が刻まれた石碑)⑤に刻まれています。
※①世界遺産「ノヴゴロドの文化財とその周辺地区(ロシア)」
②世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院(ウクライナ)」
③世界遺産「古代都市タウリカ・ヘルソネソスとそのホーラ(ウクライナ)」
④世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
⑤世界遺産「イェリング墳墓群、ルーン文字石碑群と教会(デンマーク)」
⑥世界遺産「ロスキレ大聖堂(デンマーク)」
[関連サイト]
■スラヴ人、アジア人の動き
スラヴ系民族が建てた国家群。もともとバルカン半島や中央ヨーロッパを拠点とする民族で、主に北や東に広がっていきました。紫=西スラヴ、赤=東スラヴ、黄=南スラヴ。Samo's Empire=サモ王国、Great Moravia=モラヴィア王国、Bulgarian Empire=ブルガリア帝国、Kievan Rus=キエフ大公国、Duchy of Bohemia=ボヘミア公国、Kingdom of Poland=ポーランド王国、Novgorod Republic=ノヴゴロド公国、Walachia =ワラキア、Kingdom of Serbia=セルビア王国、Serbian Empire=セルビア帝国、Grand Duchy of Moscow=モスクワ大公国、Kingdom of Poland-Lithuania=ポーランド=リトアニア連合王国、Moldavia=モルダヴィア、Tsardom of Russia=ロシア・ツァーリ国、Russian Empire=ロシア帝国
続いてスラヴ人とアジア系民族の動きを見てみましょう。
スラヴ人はバルカン半島や中央ヨーロッパ、現在のウクライナ周辺に住んでいたスラヴ系言語を話す人々で、ゲルマン人が東に移り、フン帝国が滅んだ6世紀に東ヨーロッパに進出し、9世紀以降、多数の国家を建国します。
一気に羅列しましょう。
○がローマ・カトリック、●が正教会です。
○東・中央ヨーロッパのスラヴ人、アジア人国家
- チェック人・スロバキア人:モラヴィア王国(9C~)→ボヘミア王国(10C~)○
- ポーランド人:ポーランド王国(11~14C)→ポーランド=リトアニア連合王国(14C~)○
- クロアチア人:クロアチア王国(10C~)○
- セルビア人:セルビア王国(12C~)●
- ロシア人:モスクワ大公国(14C~)●
9世紀にはノルマン人も南下してきたため、東ヨーロッパではノルマン・スラヴの混血が進みました。
たとえばキエフ公国ではスラヴ化が進み、両民族はやがて同化しています。
民族名や王国名を見ると、現在のヨーロッパに見られる国名がたくさん出てきているのがわかります。
この時代、東ヨーロッパに進出するアジア系の民族もいました。
ただ、アジア系といってもヨーロッパとアジアの境はあいまいで、人種的に大きく違うとは限りません。
ブルガール人はテュルク系(トルコ系)です。
○東ヨーロッパのアジア系国家
- マジャール人:ハンガリー王国(10C~)○
- ブルガール人:ブルガリア王国(7C~)●
■ビザンツ帝国の誕生
ビザンツ帝国の版図の推移
395年、ローマ帝国を東西に分割贈与したテオドシウス1世により、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国=ビザンツ帝国が誕生しました。
再三フン帝国の圧力を受けた皇帝テオドシウス2世はコンスタンティノープルを強固な城壁で取り囲みます。
これがテオドシウスの城壁①です。
西ローマ帝国はゲルマン人の移動によって疲弊し、476年に滅亡。
民族大移動はビザンツ帝国をも襲いますが、小アジア(アナトリア半島。現在のトルコ)を拠点とするビザンツ帝国は領域を黒海やエーゲ海・カフカス山脈・カスピ海に囲まれているうえ、ヨーロッパとアジアを接続するボスポラス海峡やダーダネルス海峡もビザンツ帝国が押さえていました。
コンスタンティノープルは多重の城壁と海に守られた難攻不落の要塞都市となり、ビザンツ帝国は独立を守り抜くことに成功します。
そして6世紀、ビザンツ帝国は皇帝ユスティニアヌス1世のもとで勢力を大きく回復します。
イタリア半島に侵入していたヴァンダル王国や東ゴート王国を滅ぼし、ローマ②を奪還してイタリアを平定。
イタリア半島-バルカン半島-小アジア-西アジア-北アフリカ-イベリア半島南部を再統一し、地中海沿岸の多くを版図に収めました。
ユスティニアヌス1世は『ローマ大全』を編纂するなど文化事業にも従事し、コンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア)①、ベツレヘムの聖誕教会③、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂④、エジプト・シナイ半島の聖カタリナ修道院⑤、エフェソスの聖ヨハネ教会⑥などを建設・改修しました。
特に537年にハギア・ソフィア大聖堂が竣工した際、ソロモン王が築いた伝説のエルサレム神殿をも凌駕したと確信して「私はソロモンを超えた」と叫んだと伝えられています。
そのドームは1,000年を超えるビザンツ帝国の歴史の中で最大を誇り、柱で支えられた史上最大のドームで、完成後1,000年以上もその地位を保ちつづけました。
※①世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路(パレスチナ)」
④世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群(イタリア)」
⑤世界遺産「聖カタリナ修道院地域(エジプト)」
⑥世界遺産「エフェソス(トルコ)」
[関連サイト]
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次回は東西教会の分裂と十字軍を紹介します。