哲学的探究10.物質と時間を超えて ~本当の世界~
ぼくたちが生きているこの3次元空間+時間の世界、すなわち4次元時空の世界は人の表現形式にすぎない。
実際そのような世界があるわけではないし、物質は存在せず、時間もまた存在しない。
前回までにこのような結論を得た。
しかし、ぼくたちが外界から刺激を受けて3次元空間に色や形を投影して物質を創り上げているのなら、人に刺激を与える外界がなければならないことになる。
その外界はぼくたちが見ている「幻の世界」とは異なる「本当の世界」「真実の世界」だ。
「本当の世界」は存在しうるのだろうか?
* * *
■本当の世界
「哲学的探究7.「見る」「感じる」とは何か? ~物質と感官~」で書いた「本当のリンゴ」の話を確認してみよう。
ここにリンゴがある。
リンゴは光を反射し、その反射した光を人の目が捉える。
光は目の神経に刺激を与え、刺激を受けた神経がセンスデータ(感覚器で得られたデータ)を脳に転送し、それを脳が統合することで「リンゴを見る」という現象が起こる。
「赤」とか「リンゴの丸い形」などといったものが実際に存在するわけではない。
脳は送られてきたデータをまとめて「色」や「形」を創り出し、ぼくたちはそうやって結ばれたリンゴの像を見ていることになる。
色という「質感」や形という「空間」を用いることで、センスデータの内容を表現しているのだ。
リンゴは光を放つものであって、放たれた光を捉えて脳が生み出したリンゴの像とは別の存在だ。
リンゴは人の味覚を振るわせるものであって、振るわされて得られたデータを分析して脳が生み出したリンゴの味ではない。
ということは。
光を放ち味覚を振るわせる「本当のリンゴ」と、人間の脳が創り出した「観念上のリンゴ」があることになる。
ぼくらが認識しているのはつねに「観念上のリンゴ」や「観念上のPC」といった「観念上の物質」だ。
一方で、「本当のリンゴ」は色や形や香りで表現できるようなものではないことになる。
ぼくらが知ることも感じることもできないものなのだ。
赤いサングラスをかけて物を見れば、すべてが赤く見える。
ぼくらはいつだってそんなサングラスをかけて物を見ている。
では、サングラスをとったらいったい何が見えるのか?
当然これには答えられない。
しかし、「本当のリンゴ」のように、物には「本当の姿」が存在し、「本当の姿」が集まった「本当の世界」が存在する。
これは脳の絶対性を否定しても変わらない。
「脳が観念を創っているはずなのに、その脳という発想も観念である」という矛盾から脳の絶対性は否定される。
しかし、何ものかが外界から与えられるデータを統合し、物質という現象を生み出していることには変わりない。
* * *
■本当の時間
「本当の世界」が想定できるなら、同様に「本当の時間」も想定できるのではないか?
前章で「過去は存在しない」「未来は存在しない」と書いたが、人の認識上で存在しないだけで、人の認識を超えた形では存在しうるのではないか?
たとえば。
過去-現在-未来を備えた「時間の全体」が存在し、「今この瞬間」という特異点がその上をスライドしていくような世界だ。
この場合、過去-現在-未来という「時間の全体」は物質や物質の変化をすべて含んでいることになる。
過去の物質の状況や、その物質の現在の姿、未来の変化をすべて含んでいることになる。
この「時間の全体」は時間をも含むものであるから、時間的なものではない。
「時間の全体」は生まれるものでもなければ、今あるものでも、将来なくなるものでもない。
生まれたり滅んだりするものであるのなら、「時間の全体」に時間をもたらす別の時間が必要になってしまうからだ。
したがって、「時間の全体」は時間と物質が渾然一体となった永遠不変の存在ということになる。
そしてこの「時間の全体」のある点を主観が捉えると物質がありありとリアリティをもって現れ、時間が生き生きとしたリアリティをもって流れる――
この「時間の全体-主観」の関係はまるで「神-生命」の関係のようにも見える。
しかし、「本当の世界」や「時間の全体」のような人の認識を超えた超越的な存在を思考することにどこまで意味があるのだろう?
思考を超えたものを思考するという矛盾を含む結論は虚偽でしかないのではないか?
ただここで言えることは、どうやらぼくたちは認識を超えたもののただ中にいるということだ。
物質も時間も、そうした超越的なものの中から取り出された表象にすぎないのだろう。
* * *
■物質と時間を巡る問題
空間と時間の問題は非常に似通っている。
いずれも人の表現形式であり、いずれも細部と全体に矛盾を持ち、「本当の世界」や「時間の全体」といった超越性とつながっている。
しかも、空間と時間はまったく別の概念であるはずなのに独立しているわけではなく、相互に密接に折り重なっているのだ。
細部と全体の矛盾を振り返ってみよう。
まずは空間の占め方であるところの物質について。
物質はありありとしたリアリティを持っているが、細部を観察しても全体を観察しても矛盾が生じてしまう。
○物質の矛盾
- 細部の矛盾:これ以上、分割できない細小の物はいったい何からできているのか? 最小の物がないのであれば、物質はいったい何からできているのか?
- 全体の矛盾:全体(宇宙なり世界なり)の外はいったいどうなっているのか? 全体に外があるならそれは全体ではないし、全体が無限であるのなら無限とはどういうことで、またそれは全体と言えるものなのか?
時間にもこれと同じ構図が当てはまる。
「今この瞬間」は生き生きとしたリアリティを持っているが、細部を観察しても全体を観察しても矛盾が生じてしまう。
○時間の矛盾
- 細部の矛盾:「今この瞬間」は厚み0の不存在であり、しかも生じると同時に消滅している
- 全体の矛盾:時間は過去→現在→未来という並びを持つが、時間はどこにも存在せず、どこからもはじまらず、終わりもしない。そして 「今この瞬間」はこの流れのどこにも存在しない
時間がはじまりもせず終わりもしないのは、時間がはじまるとするならそのはじまりを規定する別の時間の流れが必要になるからだ。
時間のはじまりと終わりを想像するとき、別の時間の中にいる自分を想定しているはずだ。
そして別の時間が存在するなら、その別の時間のはじまりと終わりを規定するさらに別の時間が必要になってしまう。
この循環は物質の循環と同種のもので、たとえば物質の全体として宇宙を想像する場合、宇宙の外にいて宇宙を観察する自分を想定しているはずだ。
結局のところ、細部と全体の矛盾はそのような超越的な要素が物質や時間に備わっているというよりも、「ものを細部に分割して思考する」という還元主義的思考と、「全体の動きを統一的に捉える」という全体主義的思考という人の思考に内在する問題なのだろう。
しかも。
物質のありありとしたリアリティはつねに「今この瞬間」に感じられるものだ。
同時に、「今この瞬間」の生き生きとしたリアリティはつねに物質の質感とともにある。
物質と時間はきわめて親密に折り重なっている。
物質と時間が折り重なる場所はまた、主観と客観が折り重なる場所でもある。
リアリティを感じるためには感じる主体である主観が必要であり、主観に影響を与える客観が必要だ。
そして客観は物質や時間のリアリティとともにあり、リアリティは主観とともにある。
では、客観のない主観は可能だろうか?
また、主観のない客観は可能だろうか?
「客観のない主観」は一般的な言葉を使えば心や魂といった「私」の問題に還元される。
「主観のない客観」は「本当の世界」「時間の全体」といった「真実」の世界の問題だ。
物質と時間の問題は「主観-客観」の問題であり、「実在-観念」「私-世界」といった問題と同一であると言えそうだ。
そしてこれらはすでに言語の世界を超え、形而上学の世界を超えてオカルトの世界に踏み込んでいるようにも思える。
物質と時間の矛盾は、言語化不可能なものをムリヤリ言語化したことに起因するのだろう。
物質や時間は統合していた主観と客観をムリヤリ引き裂いて客観化した幻想であり、幻想だからこそ細部も全体も捉え切れずにスルスルとこぼれ落ちてしまう。
結局こうした矛盾は、自己と世界を規定しつつ、自己と世界の内側にとどまらざるをえない存在が必然的に背負う「業」なのだろう。
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この問題、いったんここでエポケー(判断停止)しておきたい。
次回以降でこうした結論を批判・精錬するためにいくつかの思考実験をしてみたい。
まずは「世界5分前仮説」を紹介しよう。