哲学的探究5.力とは何か? 波とは何か? ~力や波は存在するか~
重力があるから物はgtの速さで落ちる――
神様が引っ張っているから物はgtの速さで落ちる――
フォースがぼくたちとともにあるから物はgtの速さで落ちる――
前回述べたとおり、いずれの仮説をとっても「物が落ちる」という現象は等しく説明できる。
計算を精緻に行えば人工衛星だって打ち上げられる。
ということは……
重力なんて存在しないんじゃないか?
今回は「重力」と「波」について考えてみたい。
* * *
■力は存在するか?
重力はリンゴを落とすことで観察できる。
磁力は鉄に磁石をくっつけることで観察できる。
電力はポットで湯を沸かすことで観察できる。
では、力そのものは観察できるだろうか?
たしかにリンゴやボールが落ちる様子を見れば「物が落ちる」という現象は知覚できる。
しかし、観察できるのはあくまで物質であって力ではない。
力を観察するためには必ず「物質」とそれを感じる「私」が必要だ。
そして力そのものはどうやっても観察できない。
――当たり前の話で、トートロジーでしかない。
物質を見て「物が落ちる」という現象を観察し、その結果と合致するように「重力」という仮説を立てたのだ。
仮説であるから見えるはずがない。
最初から物質しか見ていない。
力なんてどの瞬間も目にしていない。
力は物質ではない。
だからそれは「ある」ものではない。
そもそも「存在」ではない。
存在だというのであれば、いったいどこに存在するというのか?
重力は現象を説明するひとつの仮説=ルールにつけられた名前にすぎない。
現象を示せるのであれば、その名前は重力でも神様でもフォースでも構わない。
ただ、「神様」や「フォース」は「物が落ちる」という現象以外にもさまざまな意味を持つ。
こうした意味は「物が落ちる」という現象とまったく関係がない。
科学は、観測事実に合致するもっともシンプルなルールを「正しい」と「信じる」。
これが「合理的である」ということだ。
であるから、表現はできるだけシンプルに最小限に留めなければならない。
したがって神様やフォースという言葉を当てることは非合理であるということになる。
このように、不要な仮定を極力排除する考え方を「オッカムの剃刀(かみそり)」という。
ぼくたちが観察しているのは物質を取り巻く「現象」であって、「力」はひとつのルールにすぎないのだ。
実は、この世界には力とよく似たものがいくつも存在する。
たとえば「波」だ。
* * *
■波は存在するか?
海の波は海を見ることで観察できる。
音は音楽を聴くことで観察できる。
地震は揺れている物を見ることで観察できる。
では、波そのものは観察できるだろうか?
水の分子が上下に動いて海の波になる。
空気の分子が前後に動いて音の波になる。
大地が上下左右に動いて地震の波になる。
やはり、観察できるのはあくまで物質であって波ではない。
波を観察するためには必ず「物質」とそれを感じる「私」が必要だ。
そして波そのものはどうやっても観察できない。
波は存在ではない。
力と同じように、ぼくたちが観察しているのは物質を取り巻く「現象」であって、「波」はひとつのルールにすぎないのである。
* * *
結局、ぼくらが観察できるのは物質だけ。
力も波も人が仮定したルールにすぎない。
ということは。
この世に確実に存在すると言えるのは、「物質」とそれを観察する「私」ということになる。
しかし。
ミクロの世界では、光も素粒子も物質(粒子)と波(波動)の両方の性質を併せ持つと言われる。
物質と波の境が怪しくなってきているらしい。
こうなると、物質の存在さえ危うくなる。
物質とはなんなのだろう?
本当に物質などというものが存在するのだろうか?
次回は、「物質とは何か?」を考えてみたい。