世界遺産NEWS 25/08/06:登録基準(vi)のみで登録された世界遺産とその特徴
世界遺産としての価値を評価するために、評価基準として10項目の登録基準が定められています。
世界遺産登録に際しては、この中の1項目以上を満たす必要があります。
そして登録基準の例外規定と言われるのが登録基準(vi)です。
本来、世界遺産には記念工作物・建造物群・遺跡や自然といった物理的な物に価値がなくてはいけないのですが、この基準はその場所に関係した出来事や伝統に価値があればよいことになっています。
ただし、登録基準(vi)のみでの登録は原則として認められないことが記されています。
そして現在までに登録基準(vi)のみで登録された例外的な世界遺産が16件存在します。
そのうちの11件が負の遺産であるところの「記憶の場」に関する世界遺産となっています。
他の5件は負の遺産ではありませんが、1983年以前に登録されており、以後このような例は見られません。
今回はこれらのリストと該当の世界遺産の概要、登録基準(vi)の特徴を解説します。
* * *

■登録基準とは何か? 文化遺産とは何か?
世界遺産リストとは、人類全体にとって現在および将来世代に共通した重要性を持つ価値、すなわち「顕著な普遍的価値」を持つ物件のリストです。
そしてその価値を証明するための評価基準として「登録基準」が定められています。
○10項目の登録基準
- 人間の創造的な才能を表現する傑作であるもの
- 一定の期間、または世界のある文化圏において、建築・技術・記念碑・街並み・景観デザインの発展において、人類の価値の重要な交流を示しているもの
- 現存する、またはすでに消滅した文化的伝統や文明に関する唯一の、あるいはまれな証拠を示しているもの
- 人類の歴史の重要な段階を示す建築物、建築様式、技術集合体、または景観の顕著な例といえるもの
- ある文化(ある複数の文化)や人類の環境的相互作用を特徴づける人類の伝統的集落や土地や海洋利用の顕著な例であるもの。特に、回復が困難で、存続が危うい状態にあるもの
- 顕著で普遍的な価値を有する出来事や現在存続する伝統で、思想・信仰・芸術作品・あるいは文学作品と直接に、または実質的に関連があるもの(本基準は他の基準と関連して適用されるべき基準と考えられている)
- 類まれな自然の美や美的要素を有した自然現象、または地域を含むもの
- 生命の記録、進行中の地形発達の重要な地質学的過程、または重要な地形学的・自然地理学的特徴を含む、地球の歴史の主要な段階を示す顕著な例であるもの
- 陸上・淡水・沿岸・海洋生態系・動植物群集の進化や発展において、進行中の重要な生態学的・生物学的過程を示す顕著な例であるもの
- 学術上・保全上の観点から顕著な普遍的価値を有し、絶滅の恐れがある種が生息しているなど、生物の多様性保全の観点からもっとも重要な自然の生息地を含むもの
そして、登録基準(i)~(vi)を満たす物件を文化遺産、(vii)~(x)を満たす物件を自然遺産、(i)~(vi)と(vii)~(x)をそれぞれ1項目ずつ以上を満たす物件を複合遺産と言います。
さらに、文化遺産は下のように世界遺産条約で3つの分野が定義されています。
○文化遺産の定義
- 記念工作物:記念的意義を有する彫刻及び絵画、考古学的物件又は構造物、銘文、洞窟住居並びにこれらの物件の集合体で、歴史上、美術上又は科学上顕著な普遍的価値を有するもの
- 建造物群:独立した又は連続した建造物群で、その建築性、均質性又は風景内における位置から、歴史上、美術上又は科学上顕著な普遍的価値を有するもの
- 遺跡:人工の所産又は人工と自然の結合の所産及び考古学的遺跡を含む区域で、歴史上、観賞上、民族学上又は人類学上顕著な普遍的価値を有するもの
文化遺産は記念工作物・建造物群・遺跡といった有形の不動産を対象としていることがわかります。
したがって、儀式や舞踊などの無形文化財や、美術品や遺物といった動産は対象外となっています(壁画やロックアートのように構造と一帯となった作品は認められています)。
![ポーランドの世界遺産「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」、第二収容所ビルケナウの死の門](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=610x10000:format=jpg/path/s1d11230f68ef1d16/image/i0191f5af3dddf86c/version/1754427078/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3-%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84-%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A6-%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%BC%B7%E5%88%B6%E7%B5%B6%E6%BB%85%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80-1940-1945-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%81%AE%E9%96%80.jpg)
■登録基準(vi)の特異性
文化遺産には6項目の登録基準があることがわかったと思いますが、例外的な基準があることにお気づきでしょうか?
それが登録基準(vi)です。
○登録基準(vi)
- 顕著で普遍的な価値を有する出来事や現在存続する伝統で、思想・信仰・芸術作品・あるいは文学作品と直接に、または実質的に関連があるもの(本基準は他の基準と関連して適用されるべき基準と考えられている)
先述したように、文化遺産とは記念工作物・建造物群・遺跡という有形の不動産を対象としています。
ですから記念工作物・建造物群・遺跡という物理的な物に顕著な普遍的価値がなければなりません。
これは自然遺産でも同様です。
しかし、登録基準(vi)はその場所に関係した「出来事」や「伝統」に価値があればよいとなっています。
記念工作物・建造物群・遺跡といった物理的な物に価値がなくても、そこで起こったこと・そこにあることに価値があればよいと読むことができます。
しかし、出来事や伝統の価値をどのように評価すればよいのでしょうか?
出来事や伝統の価値はそれぞれの時代や文化によって変わるはずで、判断は非常に難しいものと予想されます。
UNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産の活動では伝統文化の数々を登録していますが、こちらでは遺産を比較して価値の大小を測ることはしないことになっています。
世界遺産リストへの登録は1978年に開始されましたが、翌1979年にさっそくこれが問題になりました。
ポーランドの「アウシュヴィッツ強制収容所」の登録です(この物件は2007年に名称変更して「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」になっています)。
アウシュヴィッツとビルケナウというふたつの収容所を登録した世界遺産ですが、建物や施設自体に価値があるものではありませんでした。
一説ではユダヤ人を中心に100万人以上が殺害されたというホロコーストの場であるという「出来事」にこそ記憶すべき顕著な普遍的価値があると考えられたわけです。
しかし、重要な出来事や伝統は数多く考えられるわけで、そうした物件が軒並み推薦されかねません。
特に戦争関連では推薦や登録によってUNESCOが掲げる平和の推進どころか、解釈の違いから対立さえ懸念されました。
そして、基本的に記念工作物・建造物群・遺跡自体が顕著な普遍的価値を持つべきであり、出来事や伝統のみを理由に登録することは極力避けられるべきであるというコンセンサスが成立します。
その結果、翌1980年、登録基準(vi)に「本基準は他の基準と関連して適用されるべき基準と考えられている」との一文が添えられることになりました(この一文は7回も修正されています)。
こうして登録基準(vi)のみによる世界遺産登録は基本的に認めないことになりました。

■登録基準(vi)のみで登録された世界遺産と「記憶の場」
それにもかかわらず、登録基準(vi)のみで登録された例外的な世界遺産が16件存在します(2025年8月現在)。
世界遺産リストには計1,248件が記載されていますから、わずか1.282%ということになります。
○登録基準(vi)のみで登録された世界遺産
- ゴレ島★(セネガル、1978年、文化遺産(vi))
- ランス・オ・メドー国定史跡(カナダ、1978年、文化遺産(vi))
- ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群★(ガーナ、1979年、文化遺産(vi))
- アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]★(ポーランド、1979年、文化遺産(vi))
- 独立記念館(アメリカ、1979年、文化遺産(vi))
- ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ(カナダ、1981年、文化遺産(vi))
- リラ修道院(ブルガリア、1983年、文化遺産(vi))
- プエルト・リコのラ・フォルタレサとサン・ファン国定史跡(アメリカ、1983年、文化遺産(vi))
- 広島平和記念碑[原爆ドーム]★(日本、1996年、文化遺産(vi))
- モスタル旧市街の古橋地区★(ボスニア・ヘルツェゴビナ、2005年、文化遺産(vi))
- アプラヴァシ・ガート★(モーリシャス、2006年、文化遺産(vi))
- ヴァロンゴ埠頭考古遺跡★(ブラジル、2017年、文化遺産(vi))
- ESMA博物館と記憶の場-拘禁・拷問・絶滅のための旧秘密センター★(アルゼンチン、2023年、文化遺産(vi))
- ジェノサイドの記憶の場:ニャマタ、ムランビ、ギソチ及びビセセロ★(ルワンダ、2023年、文化遺産(vi))
- 人権、解放及び和解:ネルソン・マンデラの遺産群★(南アフリカ、2024年、文化遺産(vi))
- カンボジアの記憶の場:弾圧の中心から平和と反省の地へ★(カンボジア、2025年、文化遺産(vi))
「★」は「記憶の場」と呼ばれる物件で、16件のうち11件を占めています。
記憶の場は以下のようなものとされています。
○「記憶の場」の定義
記憶の場とは、国とその国民(少なくともその一部)あるいはコミュニティが記憶に留めておきたい出来事が起こった場所を示す。
近年の紛争に関連する場とは、世界遺産条約第1条および第2条※に準拠した物的証拠のある特定の場所、またはそれらの記憶の側面に関連付けられ、紛争の犠牲者を追悼する役割を果たす景観を特徴としている。
こうした場は一般に公開されていたりアクセス可能で、和解や記憶・平和を代表しており、平和と対話の文化を促進するために教育的な役割を果たす必要がある。
※世界遺産条約第1条は文化遺産、第2条は自然遺産を定義しています
簡単に言えば、記憶の場は「記憶すべき出来事が起こった場所」であり、主に戦争や紛争・対立の記憶を留める負の遺産、特に20世紀以降に起こった「近年の紛争」を対象としていることがわかります。
ただし、20世紀以前のものもありますし、負の遺産に限っているわけでもありません。
そして記憶の場に関する世界遺産はこれまでに23件あり、そのすべてが登録基準(vi)を満たしています。
その中で登録基準(vi)のみを満たしている物件は11件です。
登録基準(vi)のみで登録された世界遺産の過半数を記憶の場が占めているわけです。
では、なぜ負の遺産が例外的に登録されているのでしょうか?
これは世界遺産条約を統括するUNESCOの平和に対する理念が関係していると思われます。
ひとことで言えば、UNESCOの目的が教育・科学・文化をもって平和と安全に貢献することであるからです。
○UNESCO憲章前文より
戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
○UNESCO憲章第1条より
この機関の目的は、国際連合憲章が世界の諸人民に対して人種・性・言語又は宗教の差別なく確認している正義、法の支配、人権及び基本的自由に対する普遍的な尊重を助長するために教育、科学及び文化を通じて諸国民の間の協力を促進することによつて、平和及び安全に貢献することである。
こうして世界遺産登録がはじまった1978年にセネガルの「ゴレ島」、翌1979年にはガーナの「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群」とポーランドの「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」が登録され、負の遺産は世界遺産を特徴付けるひとつのジャンルとなりました。
なお、負の遺産と記録の場の詳細に関しては記事「世界遺産NEWS 23/11/03:世界遺産の『負の遺産』『記憶の場』とは何か?」を参照ください。

■登録基準(vi)のみで登録された記憶の場に関する世界遺産とその理由
登録基準(vi)のみで登録された物件の中で、負の遺産といえる世界遺産の概要と登録理由を個別に見ていきましょう。
・ゴレ島(セネガル、1978年、文化遺産(vi))
15~19世紀にかけてアフリカ沿岸で最大の奴隷貿易拠点であり、「記憶の島」と呼ばれています。
宗主国はポルトガル、オランダ、イギリス、フランスと替わりますが、奴隷市場としてありつづけ、収容施設であるメゾン・デ・エスクラーヴ(奴隷の家)を中心に数々の関連施設を残しています。
人類の歴史の中で最大の悲劇のひとつである奴隷貿易の記憶を刻む場所として顕著な普遍的価値が認められました。
・ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群(ガーナ、1979年、文化遺産(vi))
ギニア湾沿いに立ち並ぶ要塞・城塞・城砦・城壁といった軍事施設と、交易所などの関連施設を中心とした物件です。
1482年、ポルトガルがアフリカとの貿易拠点として開拓したのを皮切りに、スペイン、デンマーク、スウェーデン、オランダ、ドイツ、イギリスといったヨーロッパ諸国が進出して1786年まで活動を続けました。
当初はアフリカの金を運ぶアフリカ交易の要衝として、後には奴隷貿易の舞台となり、ヨーロッパとアフリカの4世紀にわたる関係を象徴するものとなりました。
・アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945](ポーランド、1979年、文化遺産(vi))
ナチス・ドイツによって築かれたアウシュヴィッツとビルケナウというふたつの収容所を登録した世界遺産で、有刺鉄線によって閉鎖された収容所には収容施設の他に、絞首台やガス室・拷問室・火葬場をはじめとするものものしい施設が残されています。
当初はユダヤ人やロマ(いわゆるジプシー)、政治犯を中心に収容する強制収容所でしたが、やがて虐殺を目的とする絶滅収容所となり、100万人以上を処刑したと伝えられています。
ホロコーストという人類が犯した史上最大級の犯罪行為の記念碑であり、命懸けで抵抗しようとした人類の精神の強さを象徴するものでもあるのです。
・広島平和記念碑[原爆ドーム](日本、1996年、文化遺産(vi))
1945年8月6日、人類史上はじめて原子力爆弾が実戦で使用され、たった1発で15万人前後といわれる犠牲者を出しました。
爆発直下にあった原爆ドームは奇跡的に倒壊を免れ、爆発直後の姿を留める唯一の建造物としてありつづけています。
人類がこれまでに生み出したもっとも破壊的な力の解放を記憶するとともに、半世紀以上にわたって世界平和を願う記念碑でもあり、その目標を力強く象徴しています。
・モスタル旧市街の古橋地区(ボスニア・ヘルツェゴビナ、2005年、文化遺産(vi))
「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島ですが、特にユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」といわれるほどの多様性を誇っていました。
1991年にはじまるユーゴスラビア紛争でユーゴスラビアが解体され、その一環としてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発。
セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒(ボシュニャク人)らが争うなかで、1993年にスタリ・モスト(古い橋)が破壊されました。
しかし、2004年にUNESCOの支援を得て再建され、橋は対立の象徴から、和解と復興・国際協力の象徴に変化しました。
・アプラヴァシ・ガート(モーリシャス、2006年、文化遺産(vi))
イギリスは1834年に奴隷制を廃止すると、サトウキビなどのプランテーションにクーリー(苦力)と呼ばれるアジア人(特にインド人)を投入して労働力不足をカバーしました。
アプラヴァシ・ガートは1849年に始動したクーリーの受け入れ施設で、ここで契約した後、約50万人が契約移民労働者として各地のプランテーションに送り込まれました。
自由契約を掲げるこの近代労働システムは「偉大な実験」と呼ばれてクーリー貿易に発展しましたが、その内容は過酷なものでした。
アプラヴァシ・ガートはその最初の施設であり、世界で200万人を超える契約移民労働の記憶を刻む場所となっています。
・ヴァロンゴ埠頭考古遺跡(ブラジル、2017年、文化遺産(vi))
リオデジャネイロのかつての港湾エリアに位置する埠頭の遺構で、1811年に建設されると、アフリカ人奴隷の水揚げ基地として整備されました。
ここからアメリカ大陸に上陸したアフリカ人は90万人に達すると見られており、人類の犯したもっとも恐ろしい犯罪のひとつであり、史上最大の強制移住運動といえる奴隷制に関する新大陸でもっとも重要な物理的痕跡とされています。
ブラジル人を中心にアメリカ大陸のアフリカ系住民の悲しい記憶の場であると同時に、アフロ・アメリカ文化発祥の地としての歴史的・精神的重要性を有しています。
・ESMA博物館と記憶の場-拘禁・拷問・絶滅のための旧秘密センター(アルゼンチン、2023年、文化遺産(vi))
ESMA「記憶の場」博物館はもともと海軍の高等機械学校の宿舎をはじめとする複合施設で、1976~83年にかけて独裁政権が反対派を拘禁するための収容所として使用されました。
拷問や殺人に加えて性的暴行や赤ん坊の人身売買をはじめとする犯罪の温床となり、人々に強制労働を課して略奪しました。
誘拐・監禁された者は5,000人を超えると見積もられており、人類による弾圧のきわめて重要な例と考えられています。
・ジェノサイドの記憶の場:ニャマタ、ムランビ、ギソチ及びビセセロ(ルワンダ、2023年、文化遺産(vi))
1994年4~7月のわずか100日間で100万人以上ともいわれる犠牲者を出したルワンダ虐殺の現場を登録した世界遺産です。
ニャマタ・カトリック教会、ムランビ工科学校、ギソチの丘、ビセセロの丘という4つの現場が対象で、たとえばギソチの丘では25万人以上、ムランビ工科学校では2万~5万人が殺害され、その遺体が虐殺記念館に安置されています。
ドイツとベルギーがツチ族を優遇してフツ族を排除する分割統治を強いて以来、両民族の対立は激化し、メディアが執拗に煽った結果、民兵や民間人による民間人の虐殺という悲劇的な事件が起こりました。
本遺産はそうした記憶の場であると同時に、人々の闘争の場でもあり、両者の価値が認められました。
・人権、解放及び和解:ネルソン・マンデラの遺産群(南アフリカ、2024年、文化遺産(vi))
南アフリカの人種隔離政策=アパルトヘイトに対して行われた、ネルソン・マンデラを中心とする人権・解放・和解のための闘争に関する物件です。
構成資産は14件で、マンデラの若い頃の住居であるムケケズウェニのグレイト・プレイスや、マンデラが学んでいたフォート・ヘア大学、政府の主要庁舎であるユニオン・ビル、黒人に身分証の携帯を義務付けたパス法の反対者を虐殺したシャープヴィル虐殺場跡などが含まれています。
この運動は近代でもっとも強力でもっとも長期にわたる人権闘争であり、アパルトヘイト廃止による解放と、その後の和解を含んだ闘争の一連の記憶を留めています。
・カンボジアの記憶の場:弾圧の中心から平和と反省の地へ(カンボジア、2025年、文化遺産(vi))
1971~79年に行われたクメール・ルージュによる投獄・尋問・拷問・処刑が行われた場所で、150万~200万の犠牲者を出したカンボジア虐殺と呼ばれるジェノサイドの記憶を留めています。
構成資産は、初期の弾圧が行われた旧M-13刑務所、監禁・拷問・処刑の場であるトゥール・スレン虐殺博物館(旧S-21刑務所)、多数の犠牲者を出したことから「キリング・フィールド」と呼ばれるチュン・エク虐殺センター(旧S-21処刑場)の3件で、建造物や史跡の他に、発掘された頭蓋骨や衣服などの遺物、収容者の顔写真、証言集などの資料とともに当時の様子を伝えています。

■登録基準(vi)のみで登録された記憶の場以外の世界遺産とその理由
登録基準(vi)のみで登録された負の遺産以外の世界遺産は5件存在します。
戦争や紛争以外のどんな理由なのか気になるところです。
・ランス・オ・メドー国定史跡(カナダ、1978年、文化遺産(vi))
9~11世紀に活動していたヴァイキング(北ヨーロッパのゲルマン系ノルマン人)の入植跡です。
以前は教科書に「コロンブスによる新大陸発見」などと書かれていたわけですが、この遺跡はそれより5世紀も早くヨーロッパ人が北アメリカに到達していたことを示す決定的な証拠となりました(といっても先住民は1万5千年以上前に到達していたのですが)。
これが人類の移動に関する傑出した出来事の記憶を留めていると評価されました。
・独立記念館(アメリカ、1979年、文化遺産(vi))
アンドリュー・ハミルトン設計の赤レンガ造りの2階建てで、大陸会議の議事堂として使用され、1776年に独立宣言が署名されて以来、独立記念館と呼ばれるようになりました。
1787年にアメリカ合衆国憲法が制定された場所としても知られています。
これらによって定められた自由と民主主義の原則はアメリカのみならず世界の政治に多大な影響を与え、国連憲章や各国の憲法のベースとなり、近代政府の時代の幕開けを導きました。
こうした出来事・概念・形態が顕著な普遍的価値を満たすと認められました。
・ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ(カナダ、1981年、文化遺産(vi))
バッファロー(アメリカバイソン)の骨が数mも積み重なる崖下と周辺一帯を登録した世界遺産です。
ここはアメリカ先住民であるブラックフット族の狩猟場で、人々はバッファローを高さ10mほどの断崖に追いやって狩りを行いました。
この伝統は19世紀半ばまで6,000年以上にわたって続けられ、遺跡は北アメリカにおける狩猟生活を示す最古・最大にしてもっとも保存状態のよいものとされています。
・リラ修道院(ブルガリア、1983年、文化遺産(vi))
ブルガリアの守護聖人である聖イオアン・リルスキ(聖イヴァン・リルスキ)が修行を行った森に位置する修道院です。
9~10世紀に築かれた小さな礼拝堂からはじまり、12~14世紀のブルガリア帝国の時代に修道院が成立し、15世紀にイスラム教国であるオスマン帝国の支配下に入りながらもその教えを伝えつづけました。
ただ、建造物のほとんどは18~19世紀の火災、特に1833年の大火で焼失し、ほぼすべてが再建されたものであることからその価値に関してさまざまな議論を呼びました。
最終的に、その途切れることのない歴史的連続性とスラヴ的要素を融合させたブルガリア民族再生運動期の象徴であるとしてその価値が認められました。
・プエルト・リコのラ・フォルタレサとサン・ファン国定史跡(アメリカ、1983年、文化遺産(vi))
16世紀にスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)がカリブ海の拠点に築いた要塞を手始めに、20世紀までスペイン・イタリア・フランスといった国々が、ルネサンス・バロック・新古典主義をはじめとするヨーロッパの種々の技術とスタイルを用いて発達させつづけた軍事施設群と関連史跡からなる物件です。
ヨーロッパのアメリカ大陸における象徴的な遺産であり、4世紀以上にわたる建築・工学・軍事・政治の歴史的連続性を示すものとして評価されました。
上記5件のいずれも1978~1983年という世界遺産リスト作成開始直後の5年間に登録されたもので、1984年以降は例がありません。
つまり、1984年以降に文化遺産(vi)のみで登録された世界遺産は、すべて負の遺産であるところの記憶の場に関する世界遺産であるわけです。
ということで、現在では記憶の場以外の物件が登録基準(vi)のみで世界遺産登録を目指すのはかなり難しいと言えるかもしれません。
逆にいえば、上記の5件は現在であれば史跡(歴史上重要な事件や施設などのあった場所)や文化的景観(自然と人間の共同作品)などとして別の登録基準で登録されていたかもしれません。

以上のように、登録基準(vi)のみで登録された世界遺産はほとんどが記憶の場に関連したものであり、1984年以降はすべてが該当しています。
結論として、登録基準(vi)のみでの登録は、現在においては記憶の場にほぼ限られている、と言うことができるかと思います。
そしてその記憶の場の多くを占めているのが負の遺産です。
負の遺産と記憶の場の詳細は、リンク先の記事「世界遺産NEWS 23/11/03:世界遺産の「負の遺産」「記憶の場」とは何か?」を参照してください。
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