世界遺産と世界史26.隋・唐・宋の時代

杭州西湖の文化的景観
南宋の首都・臨安として発展した杭州の風景区、西湖。13世紀、ベネチアの商人マルコ・ポーロは杭州を訪れ、「世界でもっとも美しい街」と称賛したという。左の塔は雷峰塔。西湖周辺は世界遺産「杭州西湖の文化的景観」に登録されている

6世紀末、中国では『三国志』の時代から続いていた魏晋南北朝の時代が終わり、隋が約300年ぶりに中国を統一する。

隋はそれから30年弱で滅びるが、その跡を継いだ唐は約300年の間、統一王朝の維持に成功する。

 

隋、唐、そして宋の時代の文化・政治・経済は現在の韓国、チベット、モンゴル、トルコをはじめ周辺諸国に大きな影響を与えた。

たとえば日本では遣隋使・遣唐使によって伝えられた政治・経済・文化が飛鳥・平安・奈良に引き継がれ、国家創造に大きく貢献した。


今回は魏晋南北朝以降の中国史を進めよう。

それ以前の歴史は「14.シルクロードとクシャーナ朝&漢」参照のこと。

 

中国王朝の推移。隋・唐は0:38以降。Suiが隋、Tangが唐、Chenが陳を示す

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577年、北周は北斉を倒して北朝を統一。

このとき戦功を挙げて要職に就き、581年に隋を建国したのが楊堅(ようけん)だ。

 

楊堅の父・楊忠が名乗る楊氏は後漢以来の伝統を持つ漢民族の名家。

このことから隋は久しぶりの漢民族国家といわれるが、鮮卑系の血を引いているという話もあって明確ではない。

また、楊堅が鮮卑系・拓跋氏(たくばつし)の血を引く妻をめとったこともあって、鮮卑-北魏ー隋、さらに次の唐と続く諸国家は「拓跋国家」といわれることもある。

 

しかし、父方・母方の祖先をたどっていくと漢民族、あるいは北方民族に行き当たることは珍しくもない時代。

民族云々いっても血は複雑に混ざり合っていたと考えられるので、どちらを名乗っても間違いではないのだろう。

こうして種々の民族が混じり合って新たな文化が生まれた。

その柔軟性・多様性が隋・唐・宋の華やかな文化を築いていった。


とにかく。

楊堅が首都を大興(長安)に置いて隋を建国(以下、楊堅を文帝と表記)。

589年には南朝の陳を滅ぼして晋以来の中国統一を果たす。

 

隋がとった政策が均田制(国が土地を管理・分与して人々に耕作させる制度)、租庸調制(租=穀物、庸=兵役、調=絹や綿等の名産品)、府兵制(均田農民の兵役による兵制)といった諸制度。

法(令)を整備し、刑罰(律)を定めることで、政治・経済を統制した。

律令体制だ。

 

また魏晋南北朝時代、推薦によって官僚を推薦していた九品中正制を廃止し、試験によって登用する科挙を導入。

これにより貴族や豪族の官位独占を廃し、中央集権化を進めた。

もっとも科挙による登用には限界があり、当初はほぼ地方官僚に限られていた。

中央官僚の高くにまで科挙合格者が入り込むのは宋代に入ってからだ。

 

さらに文帝は南北で分断された中国の政治・経済・文化を統一するために、黄河と長江、華北と華中・華南・江南を結ぶ京杭大運河※の建設を開始する。

この大運河 "Grand Canal" は万里の長城 "Great Wall" と並ぶ中国屈指の大事業。

数百万の農民を動員し、国家が傾くほどの費用が投入された。

そして文帝の次男・煬帝(ようだい)の時代に約2,500kmに及ぶ運河が完成。

この運河は元のフビライ、清の乾隆帝など時代時代に改修・増築され、一部は現在でも使用されている。

※世界遺産「中国大運河(中国、2014年、文化遺産(i)(iii)(iv)(vi))」

 

中国を統一したのち、トルコ系の北方遊牧民族国家・突厥(とっけつ)を攻撃。

隋による離間の策によって突厥は東突厥と西突厥に分裂し、東突厥は隋に朝貢する。

また、文帝と煬帝は朝鮮半島の高句麗遠征に乗り出し、598~614年の間に3度の攻撃を仕掛けるが、こちらは失敗に終わる。

 

ちなみに、607年に日本の推古天皇が小野妹子を遣隋使として煬帝の下に派遣している。

その時親書に「日出處天子致書日沒處天子」(日の出ずる所の天子、日の没する所の天子に書を送る)と記し、煬帝の怒りを買ったという(『隋書』)。

実際その書が推古天皇、あるいは摂政・聖徳太子が書いたものなのか否かは明らかではない。

 

さて、こうした公共政策や外征が財政を圧迫し、各地で反乱が勃発。

そんな中、突厥討伐や高句麗遠征で活躍した唐の国の将軍で煬帝のいとこでもある李淵(りえん)が混乱を収拾したのち、617年に大興に入る。

そして煬帝が暗殺されると楊侑から禅譲を受け、618年、皇帝に就いた(以下、李淵を高祖と表記)。

唐代のはじまりだ。

京杭大運河
「南船北馬」といわれるほど気候が異なる華北と華南・江南地方。南部は川が多くて道路は通しにくく、そのため京杭大運河(揚州)が南北の大動脈となった。煬帝はここに大船団を浮かべて開通を祝ったという。世界遺産登録名は「中国大運河(中国、2014年、文化遺産(i)(iii)(iv)(vi))」

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隋は建国から40年弱、中国統一から30年弱しかもたなかったが、律令体制や大運河は唐に大きな恩恵をもたらした。

 

高祖は次男・李世民の活躍もあって次々と反乱を鎮め、中国を再び平定。

李世民は長男・李建成と四男・李元吉を殺害して第二代皇帝の地位に就く(以下、太宗と表記)。

太宗が行った一連の内政改革を「貞観の治」と呼ぶ。

太宗と第三代・高宗の時代に内政・外交は安定し、唐の繁栄の礎が築かれた。

その内容を見てみよう。

 

まずは内政。

律・令・格・式によって政治・法体系を整備。

中央に三省(中書省・門下省・尚書省)・六部(吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部)を設置し、御史台に監視させて、行政機関を整理した。

そして隋の均田制や租庸調制、府兵制を流用し、より強固な律令国家を創り上げた。

唐の版図
7世紀前後のアジア。濃い青が高祖の頃の唐、薄い青が高宗の最大版図。下の紫が南詔、ピンクが吐蕃、緑がヴァルダナ朝、黄がウマイヤ朝。高祖の頃、薄い青の辺りには東から高句麗、東突厥、西突厥があった

続いて外交。

唐は冊封体制を強化して周辺各国と結び付きを強めた。

冊封とは、天にいる神を「天帝」、天帝から地上を治める天命を受けた皇帝を「天子」とし、この天子に仕える者として君臣の関係を結ぶこと。

各地の王や領主は唐に朝貢(貢ぎ物を贈ること)する代わりに、皇帝から官位を受けた。

こうした国を冊封国と呼び、朝貢貿易のみをする国を朝貢国ということもある。


たとえば日本やチャンパー、シュリーヴィジャヤ朝、真臘(しんろう)は朝貢国で、新羅(しんら)、渤海(ぼっかい)、南詔、東突厥、ウイグル、吐蕃(とばん)は冊封国だ。

冊封体制に入れば超大国・唐の後ろ盾や軍事的な援助が得られたし、朝貢は一方的な貿易ではなく、唐から朝貢国にも贈り物が贈られた。

 

さらに、太宗はチベットを治める吐蕃に対して皇女・文成公主(ぶんせいこうしゅ)を嫁入りさせて姻戚関係を築いた。

この文成公主が吐蕃の首都ラサで築いた寺がジョカン(大昭寺)①だ。

同様に東突厥、ウイグル(首都オルドゥバリク②)に対しても公主(皇帝の娘)を降嫁させ、関係を強めた。

※①世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区(中国、1994年、2000・2001年拡大、文化遺産(i)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観(モンゴル、2004年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

なお、世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観」にはオルドゥバリクの都市遺跡であるカラバルガスン遺跡の他に、突厥の遺跡でオルホン碑文で有名なホショー・ツァイダム遺跡、モンゴル帝国や北元の首都カラコルムの遺跡も含まれている。

 

東突厥はたびたび唐に侵入してきたが、7世紀に太宗が東突厥、高宗が西突厥を破って版図に収めた。

右上の地図、薄い青はもともと突厥が治めていた領域だ。

東突厥、西突厥の王族はその後も存続するが、その後同じトルコ系のウイグルに滅ぼされてしまう。


太宗、高宗は隋以来敵対関係にあった高句麗遠征も行った。

太宗の遠征は失敗に終わるが、高宗は朝鮮半島南東部の新羅(首都・金城①)と結び、高句麗とその同盟国・百済②を侵略する。

日本も百済側に援軍を送るが、663年に白村江(はくそんこう)の戦いに敗北。

結局まず百済が滅び、続いて高句麗が668年に滅亡する。

ちなみに、高句麗前期の都市遺跡・古墳群③や高句麗後期の古墳群④は世界遺産に登録されている。

※①世界遺産「慶州歴史地域(韓国、2000年、文化遺産(ii)(iii))」

 ②世界遺産「百済歴史地域(韓国、2015年、文化遺産(ii)(iii))」

 ③世界遺産「古代高句麗王国の首都と古墳群(中国、2004年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(v))」

 ④世界遺産「高句麗古墳群(北朝鮮、2004年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

高野山金剛峰寺
高野山金剛峰寺の壇上伽藍。奥の赤い建物が根本大塔、手前が西塔(いずれも再建)。唐の長安で修行した空海が嵯峨天皇から高野山を賜り、金剛峰寺を築いた。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」構成資産

そして高句麗滅亡後、唐は平壌に安東都護府を置き、中央から役人を送り込んで統治した。

唐はこうして征服地に都護府(とごふ)を置き、中央監視の下である程度の自治を認めた。

いわゆる羈縻[きび]政策だ。

唐の時代に置かれた都護府には、シルクロード※の要衝であるタリム盆地入口に置かれた安西都護府、ベトナムの南詔以南を見張る安南都護府などがある。

※世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通、2014年、文化遺産(ii)(iii)(v)(vi))」

  

こうした冊封・羈縻によって、アジアには大唐文化圏と呼ばれる超国家ネットワークが誕生した。

首都・長安にはアジア各地から使節や留学生が来訪し、アラブ人、ペルシア人、トルコ人から東南アジアの諸民族まで、多彩な人々が種々の文化を伝えた。

一例が遣唐使で訪れた日本の阿倍仲麻呂で、科挙に合格して官僚として登用され、節度使・大都督といった要職を歴任した。

 

長安の街には仏教のお寺や道教の道観、ゾロアスター教の寺院やキリスト教の教会が造られ、その様子は唐三彩などに描かれた。

この時代、長安の人口は百万を超え、世界最大の都市だったともいわれる。

 

唐の文化はこうした刺激を受けて大いに飛躍し、杜甫、李白、王維、白居易といった詩人や、呉道玄や閻立本(えんりつほん)をはじめとする山水画家、顔真卿などの書家を生み出した。

 

また、隋と唐は仏教を庇護したことでも知られている。

そもそも当時の長安は隋の文帝が大興善寺を中心に再整備した都市。

そしてマウリア朝のアショーカ王が全土にストゥーパを造ったように、全土に舎利塔を建てて祀った。

の伝統は日本にも国分寺という形で引き継がれることになる。

 

この段階でストゥーパは木造の層塔となり、塔の頂点の相輪(そうりん)へと姿を変える。

そしてインドや北魏時代のような石窟から、次第に仏像を収めた金堂や塔を中心とする寺院へと移行していく。

 

唐の時代に中国の仏教が発展したのは玄奘や義浄がもたらした仏典によるところが大きい。

玄奘はシルクロードを通ってインドに訪れ、ブッダが誕生したルンビニ①や悟りを開いたブッダガヤ②、仏教大学の総本山・ナーランダ僧院③で修行を行い、仏典を中国に持ち帰った。

そして長安に大雁塔④を建て、仏典を収めて仏教の普及に専心した。

その著書が『大唐西域記』で、玄奘は『西遊記』に登場する三蔵法師のモデルのひとりでもある。


一方、海のシルクロードを通って海路でインドに至り、同様に大量の仏典を持ち帰ったのが義浄だ。

義浄の著者が『南海寄帰内法伝』。

こうした仏典によって仏教が整理され、隋・唐の時代に禅宗、天台宗、華厳宗、浄土教、密教等々の宗派が整備された。

※①世界遺産「仏陀の生誕地ルンビニ(ネパール、1997年、文化遺産(iii)(vi))」

 ②世界遺産「ブッダガヤの大菩提寺(インド、2002年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ③インドの世界遺産暫定リスト記載

 ④世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通、2014年、文化遺産(ii)(iii)(v)(vi))」構成資産

 

[関連サイト]

ブッダガヤ/インド

 

楽山大仏
世界最大の摩崖仏(岩壁に据え付けられた仏像)である楽山大仏。高さ71mを誇る

この時代に建てられた仏教建築物として、まず仏教四大名山のひとつである峨眉山①の寺院群や、8世紀に建てられた楽山大仏①が挙げられる。

また四大名山のもうひとつ、五台山②でも寺院が整備され、隋の煬帝が訪れている。

北魏の時代から建築がはじまった莫高窟③や龍門④(後述)でも石窟や仏像は依然造られていたが、唐~南宋の時代には大足⑤で盛んに仏像が建設された。

漢代に整備され、唐代に道教の同観が盛んに作られた武当山⑥だが、ここの建造物は元代にはほとんど燃やされてしまった。

※①世界遺産「峨眉山と楽山大仏(中国、1996年、文化遺産(iv)(vi)、自然遺産(x))」

 ②世界遺産「五台山(中国、2009年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ③世界遺産「莫高窟(中国、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(v)(vi))」

 ④世界遺産「龍門石窟(中国、2000年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

 ⑤世界遺産「大足石刻(中国、1999年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

 ⑥世界遺産「武当山の古代建築物群(中国、1994年、文化遺産(i)(ii)(vi))」

 

9世紀はじめには日本から弘法大師・空海や伝教大師・最澄が唐を訪れ、仏教を学んでいる。

帰国後、空海が開いた寺が高野山の金剛峯寺①と京都の東寺②で、最澄が開いた寺が比叡山の延暦寺②だ。

※①世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道(日本、2004年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」構成資産

 ②世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市](日本、1994年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産

 

[関連サイト]

敦煌・莫高窟/中国

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世界遺産「龍門石窟」の奉先寺
高宗と武則天(則天武后)が建設した世界遺産「龍門石窟」の奉先寺。中央の盧舎那仏は武則天の顔を模写したとも伝えられている

太宗、高宗時代に安定した超大国・唐。

太宗は中国史上最高の名君のひとりに数えられることが多いが、高宗についてはその実権は外戚や皇后・武照(以下、武后)の一族である武氏に握られていた。

高宗は武氏の一掃を図るが失敗し、結局武后の垂簾政治(すいれんせいじ:皇帝を支えるはずの皇后・皇太后が実権を握り政治を行うこと)に陥った。

 

高宗の病没後、中宗が帝位に就く。

しかし武后は、自分の許可なく中宗が皇后・韋氏(いし。以下、韋后)の一族を要職に就けようとしたことを口実に、中宗を廃位。

中宗の弟・睿宗を立て、垂簾政治を継続した。


690年にはその睿宗をも廃位して、聖神皇帝を名乗って自ら帝位に就く(周の建国)。

中国史上唯一の女性皇帝の誕生だ(以下、武則天と表記)。

 

武則天は熱心な仏教徒でもあり、全国に大雲経寺を建設。

龍門※に奉先寺を建設し、自分の顔に似せたともいわれる本尊・盧舎那仏を造営した。

※世界遺産「龍門石窟(中国、2000年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

 

北周-隋-唐と続く政府官僚には楊家・李家やその周辺の人々が多かったため、まったく異なる一族の出身である武則天の即位に反発。

そのため武則天は科挙を拡張してより広い役職に合格者を登用した。
さらに対立勢力の関係者を拷問・虐殺するなど恐怖政治によって国を治めようとしたが、長くは続かず、張柬之(ちょうかんし)らによって側近を殺され、監禁されたのち廃位された。

705年、張柬之らは中宗を立てて唐を再興する。

 

しかしながらその中宗を操っていたのはあの韋后。

韋后は武則天にならい、自ら皇帝になる布石として夫である中宗を毒殺して殤帝(しょうてい)を擁立する。

結局韋后も中宗一族の反乱を受けて殺害され、睿宗は玄宗に譲位する。

武則天、韋后によって混乱した一連の事件を「武韋の禍(か)」という。


こうした混乱を収めたのが玄宗だ。

玄宗は能臣を積極的に登用し、律令体制の引き締めを行い、均田制を保つために土地の検分を行った。

また、農民の没落で府兵制が崩れたため、彼らをプロの軍人として雇う募兵制を開始した。

そして軍の一部を異民族に対する辺境防備にあて、その指揮官として節度使(せつどし)を置いた。

こうして唐は軍人優位の武断政治によって一時的に安定を取り戻した(開元の治)。


玄宗の治世に起こったアッバース朝との戦いが、751年のタラス河畔の戦いだ。

安西節度使・高仙芝(こうせんし)はタリム盆地以西の西域を治めていたが、中央アジアの支配権を巡ってアッバース朝と対立。

天山山脈①近くのタラス河畔で唐は散々に打ち破られた。

この戦いの後、中国人捕虜を介して製紙法がアッバース朝に伝わったとされ、サマルカンド②で製紙が行われたといわれている。

※①世界遺産「新疆・天山(中国、2013年、自然遺産(vii)(ix))」

 ②世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン、2001年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 

玄宗は治世後期になると、「傾国の美女」「中国四大美女のひとり」といわれる楊貴妃(ようきひ)を溺愛する。

このため楊氏の台頭を許し、楊国忠らの専横がはじまる。

 

[関連サイト]

サマルカンド/ウズベキスタン

西安大願唐
玄奘が仏典を収めるために建設し、8世紀に武則天が増築した西安の大雁塔。隋の大興、唐の長安は現在の西安。西安の大雁塔や小雁塔、未央宮遺跡、大明宮遺跡等は「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の構成資産として世界遺産登録された

一方で玄宗は節度使である寵臣・安禄山を重用。

この頃、北方諸民族に対する国境防備の役割を果たすために軍事力を増強させた節度使たちは膨大な力を蓄えており、特に安禄山は3か所の節度使を兼任し、中央をはるかに越える力を手にしていた。

安禄山は楊貴妃の養子になるほど玄宗・楊貴妃に愛されたが、やがて要職を独占する楊国忠ら楊氏と対立。

失脚を恐れた安禄山は755年に反乱を起こし、長安に入城する(安史の乱)。


玄宗は長安を去って蜀の地へ避難。

この乱を導いた楊貴妃、楊国忠ら楊氏の責任を問う声に抗えず、玄宗はふたりを含む楊一族をことごとく殺害。

自らも帝位を粛宗に譲位する。

 

757年に安禄山が暗殺されると、反乱軍は複数に分裂。

史思明が跡を継ぐも統率はとれず、長安は掠奪を受けて徹底的に破壊されてしまう。

この混乱でインフラや道路、大運河が破壊されて物流がストップ。

反乱軍は敵軍を殺しては食料として利用したという。

この様子を詠ったのが長安に監禁されていた杜甫の『春望』だ。

 

 国破れて山河在り 城春にして草木深し

 時に感じては花に涙を注ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

 烽火は三月に連なり 家書は万金にあたる

 白頭の掻きて更に短く すべて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区」のジョカン
7世紀に吐蕃の首都ラサに築かれたジョカン(大昭寺)。チベット仏教の信者は、生涯一度はこの寺を訪れることを目標としている。「ラサのポタラ宮歴史地区(中国、1994年、2000・2001年拡大、文化遺産(i)(iv)(vi))」構成資産

唐はウイグルより援軍を受けて長安や洛陽の奪還に成功し、763年にようやく乱を鎮圧する。

乱は収めたが、これ以後ウイグルや吐蕃、南詔といった諸民族がしばしば唐に侵入。

また地方の節度使は藩鎮として半ば独立し、力を持ったまま地方を統治した。

これらを押さえ込む力は唐にはすでになかった。

 

西域を巡ってこれらの国々は戦争を繰り返し、唐は徐々に版図を失っていく。

国内的にも、均田制が保てないので貴族の土地保有を認めて荘園制に、租庸調制も成立しないので両税法(土地に応じて年に二度の課税)に移行し、体制の立て直しを図った。

 

9世紀には次々と反乱が起き、875年には塩の密売人・黄巣が反乱を起こす(黄巣の乱)。

乱が乱を呼んで全国に拡大し、ついに黄巣は長安を落とす。


黄巣は帝位に就こうとしたが、反乱軍には統率がなく、長安で掠奪を働き、貴族をことごとく殺害したのち撤退。

そんな中で黄巣の武将・朱全忠は唐に寝返り、長安を奪還した。

 

節度使となった朱全忠は実権を握り、長安が荒廃していたこともあって皇帝・昭宗に洛陽遷都を強要。

そして貴氏をはじめとする唐の高官を殺害・左遷して一掃し、907年には哀帝から禅譲を受けて後梁を建国する。

 

安史の乱、黄巣の乱以降、中央は力を失い、貴族・官僚は姿を消し、節度使や地方政権の独立が相次いだ。

華北における後梁に続く後唐→後晋→後漢→後周の5か国と、華中・華南における呉や南唐をはじめとする10の地方政権の時代を五代十国という。

9世紀前後の唐の版図
800年前後の東アジア。唐は東突厥を押さえて北方の領土を手に入れていたが、その東突厥を滅ぼしたウイグルによって北方を奪われ、西からは吐蕃と南詔の圧力を受けた

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五代の末期、後周の時代に内政・外交が立て直ると、軍の解体・再編成を行ったおかげである程度の安定が復活。

第二代皇帝・世宗は周辺国を攻撃して多くの土地を奪取する。

そして世宗が病死すると、将軍・趙匡胤(ちょうきょういん)が禅譲を受けて宋を建国する(以降、趙匡胤を太祖と表記)。


太祖は安史の乱以降のような軍人の台頭を防ぐために、軍人の高官を文人官僚に変え、軍部や節度使の特権を次々に廃止。

武断政治に変えて文治政治を行った。

 

また、姿を消した中央官僚を採用するために、郷試→会試と続く科挙に宮中で行う最終試験・殿試を採用して高級官僚を公募。

隋・唐時代には科挙での採用には限界があり、中央官僚に昇り詰めることはできなかったが、これにより有力者の息のかからない能臣を採用することが可能になった。

もっとも、殿試を突破できるのは勉学に励める裕福な地主の息子。

こうした地主出身の新支配層を形勢戸、科挙を経て官僚になった者を士大夫、その一家を官戸という。

 

太祖は荊南、後蜀、南漢、南唐を倒し、呉越と北漢を残したところで急死。

趙匡義が跡を継ぎ(以下、太宗と表記)、979年には呉越と北漢を落として中国を統一した。

 

宋の首都・開封は黄河と京杭大運河が交差する交通の要衝に位置している。

東西南北からさまざまな文化・産品が持ち込まれ、大いに繁栄した。

唐の長安はアジアの文化的中心地として栄えたが、宋の首都・開封は商業活動に対して場所や時間・品目などの規制緩和を行い、経済の中心地に発展。

こうした規制緩和は全国に広まり、草子・鎮(一例が景徳鎮)と呼ばれる商業地や、行(こう。商人)・作(さく。工人)などの組合組織、これまでにない規模の大商人が誕生した。

 

この頃、宋を悩ませていたのが周辺の異民族だ。

文治政治によって軍は弱体化し、中央に軍を集権化したことによって財政負担が高まった状況の上に、遼(契丹)や西夏といった強力な国々が国境を脅かした。

 

特に北方の遼は五代十国時代より中国王朝と抗争を繰り返してきた敵国。

たとえば後晋は現在の北京や大同を含む燕雲十六州を遼に割譲している。

その遼の聖宗が1004年に宋へ侵入。

これに対して宋の真宗が迎え撃つが、結局和解し、宋を兄、遼を弟として宋が遼に毎年金銭を贈る和約を結ぶ(せん淵の盟)。

 

1044年にはチベットの西夏が侵入。

これに対して宋の仁宗は宋を君、西夏を臣とする慶暦の和約を締結し、遼と同様に毎年の支払いを約束した。

 

こうした負担や軍事費の増大が宋の財政を圧迫。

これに対して神宗は科挙出身の宰相・王安石を採用して「新法」と呼ばれる政治改革を行った。

新法では、農民に低利融資を行う青苗法、中小商人・工人に低利融資する市易法、政府が物価を統制する均輸法、地主・大商人・官僚・富農から免疫銭を徴収して農民の納税負担を軽くした募役法などによって貧しい農・商・工業従事者を救済し、格差是正・経済の底上げを図った。

また、軍政においては農閑期に農民の軍事訓練を行う保甲法や、馬を飼育させて賦役を免除する保馬法を設置。

これらによって富国強兵政策を推進した。

 

財政は好転したが、有力者の負担が増したことから反発を招き、王安石を中心とする新法党と、司馬光を中心とする旧法党の対立が激化。

やがて王安石が引退し、神宗が急死して幼い哲宗が帝位に就くと、宣仁太后による垂簾政治がはじまり、宣仁太后は旧法党の司馬光を宰相に採用して新法の多くを廃止してしまう。

 

11世紀後半、王安石、司馬光、宣仁太后が次々に死去。

哲宗は新法を復活させて財政再建を図るが、彼もまた急死してしまう。

 

この時代になると政策の対立というより、利権を求める政権抗争にすぎなくなっていた。

続く徽宗の時代、宰相・蔡京が旧法党の弾圧を行ったが、かといって新法を適切に運用することもなく、財政は困窮し、腐敗が横行した。

 

1125年、宋は女真族の建てた金と同盟して遼を滅ぼすが、宋の弱体化を見た金は宋を攻撃。

1127年には開封を占領して皇帝・欽宗とその一族を捕縛した(靖康の変)。

皇帝らは生涯監禁され、宮中の皇女は金の後宮に送られるか、売春宿に売り払われた。

 

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武夷山天遊峰
世界遺産「武夷山」の天遊峰。12世紀後半、朱熹は武夷山に武夷精舎という学問所を造り、研究を進めた。武夷山はこうした文化的な側面と美しい自然と生態系が評価され、複合遺産として世界遺産登録されている
杭州西湖
杭州西湖。その名は中国四大美女のひとり、西施(せいし)に由来するという伝説もあるが、定かではない

難を逃れた欽宗の弟・趙構は江南に移って帝位に就き、臨安(現在の杭州※)を首都に南宋を建国する(以降、趙構を高宗と表記)。

岳飛ら主戦派は金との戦いを主張したが、秦檜(しんかい)ら和平派は戦争回避を主張。

秦檜が宰相に就くと岳飛を謀殺し、金を君、南宋を臣とする屈辱的な和議結んだ(紹興の和約)。

中国では、岳飛は祖国を愛した武神として三国時代の関羽と並び称されるほど愛されており、杭州の岳王廟ほか中国各地で祀られている。

※世界遺産「杭州西湖の文化的景観(中国、2011年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 

秦檜は国賊とされ、実際南宋は金に対して毎年金銭等を上納していたが、これにより政治は安定し、経済状態は飛躍的に向上した。

宋の遷都を機に華中・華南は発展し、特に江南の開発が進んで大農業地帯が整備され、二期作や二毛作の普及や品種改良、栽培方法の近代化なども進んで農業生産は激増した。

その様子は「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」(蘇州・湖州、あるいは江蘇・浙江が豊作であれば中国全土が養える)という言葉で示された。

 

南宋はこうした経済力を背景に、海のシルクロードを利用した海運を整備して、ベトナム以南と盛んに取り引きを行った。

日本との間に結ばれた日宋貿易もその一環だ。

こうした貿易によって商業・工業も飛躍的に発達し、南宋経済は中国史上まれに見るほどの豊かさを手に入れた。

そのおかげで華北に偏っていた中国の人口が全国にバランスよく分散したほどだ。

廬山
廬山の美しい景観。唐代から書院があったが、宋の時代に朱熹が再建して白鹿洞書院と命名した

宋代に花開いた文化としては、磁器(大ざっぱに土や泥=陶器、石や砂=磁器)の一種である青磁や白磁のほか、のちにヨーロッパに渡って世界の在り方を大きく変える羅針盤、火薬、木版印刷が普及した。

また儒教を哲学的に発展させた宋学が発達し、その中で朱熹(しゅき)の朱子学は日本の江戸幕府や明治政府にも大きな影響を与えた。

朱熹が築いた学問所、武夷精舎(のちの紫陽書院)①や白鹿洞書院②は世界遺産にも登録されている。 

※①世界遺産「武夷山(中国、1999年、文化遺産(iii)(vi)、自然遺産(vii)(x))」

 ②世界遺産「廬山国立公園(中国、1996年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」

 

他にも書の欧陽脩や蘇軾(そしょく)、水墨画の牧谿(もっけい)、書物では司馬光の『資治通鑑』などが有名だ。

 


次回は隋・唐・宋を囲む北方諸民族について解説する。


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