世界遺産と世界史52.第二次世界大戦

戦争や政争でもっとも多くの犠牲者が出た世紀はいつか?

答えは20世紀だ。


20世紀に特に多くの犠牲者を出した戦争や事件としては、第一次世界大戦、第二次世界大戦、毛沢東の文化大革命、スターリンの大粛清、ロシア革命、クメール=ルージュ虐殺、ルワンダ虐殺などが挙げられる。

諸説あるが、この中でもっとも犠牲者が多いとされるのが第二次世界大戦で、その数は3,000万~8,000万と見積もられている。


文明はこれだけ発達したのに、最新の世紀は史上最悪の戦争の世紀だった。

そして人権思想がもっとも発達していたはずのヨーロッパ先進国で大虐殺が起きた。


有史以来、人は「悪を減らし、善を増やす」ことで平和は実現できると考えていた。

ところがこのアプローチが根底から覆された。


人類はこの理由を深く考えなくてはならない。

そうでなければ、間違いなくこの悲劇は繰り返される。


* * *

世界遺産「トジェビーチのユダヤ人街とプロコピウス聖堂」
ユダヤ人街としてはヨーロッパ随一の美しさを誇る世界遺産「トジェビーチのユダヤ人街とプロコピウス聖堂(チェコ、2003年、文化遺産(ii)(iii))」。5世紀以上にわたってユダヤ人は町の産業を支えてきたが、ナチス=ドイツの侵略を経てほぼすべてのユダヤ人が町を去った (C) Marius Svoboda

<第二次世界大戦>


■ナチス=ドイツの侵略


再軍備を行って兵力と装備を充実させたヒトラーはまずゲルマン民族の統一を目指した。

1938年、オーストリアに圧力を掛け、首相の求めに応じる形でオーストリアのウィーン※に侵出してこれを併合(オーストリア併合)。

さらにゲルマン民族が多いチェコスロバキアのスデーテン地方の割譲を要求した。

※世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」


これに対して英・仏・独・伊の4か国でミュンヘン会議を開催。

イギリス首相チェンバレンは戦争を回避するために宥和政策をとり、これを最後とすることで承認した。

ところが1939年、ヒトラーはチェコスロバキアのボヘミア(ベーメン)とモラヴィア(メーレン)を保護領とし、東のスロバキアを保護国としてしまう(チェコスロバキア解体)。


さらに国際連盟管理下ながらポーランドが管理していた自由市ダンツィヒ(グダニスク)の返還を要求し、飛び地である東プロイセンまでポーランド回廊を横断する鉄道と道路の敷設を要求する。

また、イタリアがこれらの動きに同調してアルバニアを併合した。

ロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』予告編。ユダヤ人ピアニストを主人公に、ポーランド侵攻やユダヤ人弾圧の様子を描いている。カンヌ映画祭パルムドール受賞作品


イギリスとフランスはここに至って宥和政策を放棄し、戦争に備えて準備を開始。

ポーランドと相互援助条約を結んで安全保障を約束した。

これによりポーランドはドイツの要求を拒絶した。


ソ連は当初イギリス、フランスとの連携を模索したが、ソ連と共産主義に対する不信を察知してドイツに接近。

ドイツも第一世界大戦のような東西両戦線での戦闘を避けるため、1939年8月に相互不可侵とポーランドの分割を定めた独ソ不可侵条約を締結した。

コミンテルンや各国共産党は反ファシズムで動いていたが、これを受けて人民戦線も消滅した。


同年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、相互援助条約に従ってイギリスとフランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が開始された。

世界遺産「ファンネレ工場」
ガラス張りの明るく機能的な意匠が美しい世界遺産「ファンネレ工場(オランダ、2014年、文化遺産(ii)(iv))」。工場のあるロッテルダムはナチス=ドイツの侵略を受けて徹底的に破壊され、大戦後に多数の現代建築が建てられて近代都市に生まれ変わった

■ヨーロッパ戦線


ソ連もドイツのポーランド侵攻に合わせて東ポーランドを占領。

このときポーランド将兵数千人を虐殺する事件が起きた(カチンの森事件)。

11月にはフィンランドとバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ルーマニアのベッサラビアに侵入してこれを併合。

これによりソ連は国際連盟を除名された。


イギリスとフランスは宣戦を布告したものの、宥和政策のために早々に軍を送ることをしなかった。

このため1940年5月まで戦闘がなく、「奇妙な戦争」と呼ばれることになった。


1940年4月、第一次世界大戦で海軍をバルト海に封じられたドイツは、北海に至る道を確保するために宣戦布告も行わないまま突如中立国であるはずのデンマークとノルウェーに侵攻。

さらに翌月、こちらも中立国であるオランダとベルギーを宣戦しないまま占領した。


続いて6月にはフランスに侵攻して瞬く間に首都パリ※を陥落させ、フランスを降伏させた。

フランスではこれにより第三共和政が崩壊し、フランス中部の町ヴィシーに元帥ペタンを元首とするヴィシー政府が成立。

北部をナチス、南部をヴィシー政府が押さえる形となった。

このときイタリアも参戦してフランス南部国境地帯を占領している。

※世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」


イギリスを除く多くの国がヴィシー政府を承認したが、共和政や議会を否定してペタンに権力を集中させたファシズム政権であり、ナチス=ドイツに協力してユダヤ人差別を行うなど実質的に枢軸国側についていた。

ヴィシー政府はドイツと休戦協定を結んだが、ロンドンに亡命していたシャルル・ド・ゴールはこれに反発し、BBC放送を通じて抵抗運動=レジスタンスを呼び掛け、ロンドンで亡命政府・自由フランスを結成した。

ウィリアム・ターナー「グランド・ハーバー」1830年、ファイン・アーツ美術館
海から眺めた世界遺産「ヴァレッタ市街(マルタ、1980年、文化遺産(i)(vi))」を描いたウィリアム・ターナー「グランド・ハーバー」1830年、ファイン・アーツ美術館。イギリスの海軍基地が置かれたマルタ島はイタリア軍とドイツ軍による空爆と包囲戦によって壊滅的な被害を受けた

イギリスでは1940年5月にチェンバレンに変わってウィンストン・チャーチルが首相に就任した。

チャーチルは講話に応じることなく抗戦を表明したためドイツによるイギリス本土空襲を招いたが、上陸は許さなかった。

同年9月、日本軍がフランス領インドシナに侵入して連合国との対決姿勢がハッキリしたことで、日独伊三国同盟が結成された。


1940~41年にかけてハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが三国同盟に参加。

ユーゴスラビアでもゲルマン系の親ドイツ政権がヒトラーの呼び掛けに応じるが、軍部や共産党を中心に反発し、全国的なデモの末に政権を追放した。

1941年4月、これを機にドイツがユーゴスラビアに侵入。

イタリアやハンガリー、ルーマニア、ブルガリアとともにユーゴスラビアとギリシアを占領した(バルカン侵攻)。


ユーゴスラビア侵攻を目にしたソ連はドイツに反発。

同月に日ソ中立条約を結んで東の憂いをなくすと東の兵力を西に移してドイツ戦に備えた。


1941年6月、ドイツをはじめとする枢軸国は独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。

これに対してイギリスはソ連と永ソ相互援助条約を締結。

アメリカは武器貸与法を成立させてイギリスとソ連を支援し、ソ連が連合国に加わった。

世界遺産「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」
ビルケナウの死の門。この周辺には第一収容所アウシュヴィッツ、第二収容所ビルケナウ、第三収容所モノヴィッツが建設され、150万もの犠牲者を出したという。世界遺産「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」構成資産 (C) Michel Zacharz AKA Grippenn

ドイツはポーランドやバルト三国を占領し、ソ連本土に軍を進め、冬にはレニングラード①やモスクワ②に到達した。

しかし、余りに長い戦線とナポレオンをも阻止した冬の厳しい気候のために作戦は停滞し、両城を落とすことができなかった。

※①世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」


ドイツは占領地の工場や農場を奪い、外国人に強制労働を課し、政治犯やユダヤ人、ロマ(ジプシー)、スラヴ人らを強制収容所に押し込めた。

強制収容所の衛生環境は劣悪で多くの病死者を出し、後年にはアウシュヴィッツ※やビルケナウ※のように絶滅収容所となった場所もあり、そうした収容所では大量虐殺が行われた。

こうした支配に対し、支配地域ではレジスタンスやパルチザン(非正規軍の抵抗活動)による戦いが繰り広げられた。

※世界遺産「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945](ポーランド、1979年、文化遺産(vi))」


[関連サイト]

アウシュヴィッツ - ビルケナウ/ポーランド

■日中戦争・太平洋戦争


1940年6月にパリが落ちてフランスがドイツに降伏すると、これに乗じて日本軍がフランス領インドシナ北部に侵出する。

アジアに植民地を持つイギリス(インドやミャンマー、マレーシア等)、オランダ(インドネシア周辺)、アメリカ(フィリピン等)はこれに反発し、9月に日・独・伊の軍事同盟が成立すると対立は決定的となった。


アメリカは中立を表明していたが、1941年3月の武器貸与法でイギリスやソ連を支援。

アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)でABCDラインと呼ばれる包囲網を形成して石油輸出の禁止や資産の凍結などを行い、中国の重慶国民政府を援助した。


日本は北方の安定を図るべく1941年4月にソ連と日ソ中立条約を締結。

その後、フランス領インドシナ南部にまで軍を進めた。


日本の近衛内閣は日米開戦を避けようとアメリカと交渉を行ったが事態は好転しない。

反対に、9月に陸軍大臣・東条英機が首相に就任すると、いっそう軍国主義が進展した。


アメリカは11月にアジア地域の領土保全や各国への内政不干渉、インドシナや中国からの撤退、三国同盟の破棄などを定めたハル・ノートを日本に突きつけた。

これはこれまでの日本の動きやアメリカとの交渉をすべて否定するもので、日本は容認できずに開戦を決意した。

日米両サイドの立場から真珠湾戦争を描いたリチャード・フライシャー、舛田利雄、深作欣二監督『トラ・トラ・トラ!』予告編


1941年12月8日、日本軍がハワイ諸島のオアフ島・真珠湾を攻撃。

10日にはマレー沖海戦でイギリスの東洋艦隊を破って太平洋戦争が開始された。


11日、三国軍事同盟によりドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告。

アメリカも両国に宣戦し、地球規模の大戦に発展した。


日本はアジアにおける欧米の植民地支配を終わらせ、民族自決と独立を実現して共存共栄を図るとして大東亜共栄圏を提唱。

その中心を日本・満州・中国に置き、世界をひとつの家とする八紘一宇(はっこういちう)のスローガンを掲げた。

一方で、朝鮮半島や台湾では日本語教育の普及や創氏改名などによる同化政策が進められた。


1942年半ばまでに日本は現在のベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、香港、フィリピン、インドネシア、ブルネイ、ソロモン諸島、パプアニューギニア北部などを占領。

フィリピンやミャンマーでは親日政権を樹立して安定化を図った。

また、タイとは1940年に日泰和親友好条約を締結し、翌年には同盟条約を結んで同盟状態にあった。

ナチス=ドイツの進撃を止め、連合軍の猛反撃が開始されたスターリングラードの戦いを描いたジャン・ジャック・アノー監督『スターリングラード』予告編

 

■連合国の反撃


1942年の半ばから連合国は各地で反撃を開始する。


1942年4月、アメリカは日本の本土空襲を実施。

同年6月、これに衝撃を受けた日本は防衛ラインを拡張すると同時に、アメリカ本土とアジアの中継地となっているハワイ諸島を攻略してアメリカ軍を本土に押し込めるために、ハワイ諸島の西に位置するミッドウェー諸島の攻略を決行する。

ところがアメリカの急降下爆撃機の急襲にあい、航空母艦4隻と200機余りの艦載機を一挙に失う大敗を喫してしまう。


さらにアメリカは1943年2月、ポリネシアにおける日本の拠点だったソロモン諸島のガダルカナル島を攻略。

これ以降、アメリカは太平洋上の島々を次々と攻略して日本を追い詰めていく。

世界遺産「アルジェのカスバ」
世界遺産「アルジェのカスバ(アルジェリア、1992年、文化遺産(ii)(v))」登録のグランド・モスク。アルジェリアは1830年のアルジェリア侵攻以来フランス領となり、同化政策・近代化によってフランス化が進められた。当初ヴィシー政府に属したが、1942年に連合国によって解放されると自由フランスの政府がアルジェに置かれた

一方、ヨーロッパ戦線では1942年8月、ドイツがソ連の兵器生産の拠点でもあった工業地帯スターリングラード(ボルゴグラード)を包囲していた。

その後1年間にわたって凄惨な市街戦が展開され、両軍あわせて死者200万ともいわれる激闘が続いた(スターリングラードの戦い)。


ドイツは翌年7月に起死回生を狙ってクルスク戦車戦を戦うが、これに敗れて敗退。

これ以後ドイツは後退を繰り返し、ヨーロッパ戦線の大きな転機となった。


1942年11月、アメリカとイギリスを中心とした連合軍は、ヴィシー政府が支配していたモロッコやアルジェリアに上陸してこれを奪回。

ド・ゴールの自由フランスはアルジェリアのアルジェ※に移って活動を行った。

翌年5月までに北アフリカを制圧し、7月にはシチリア島に上陸した。

※世界遺産「アルジェのカスバ(アルジェリア、1992年、文化遺産(ii)(v))」


連合軍が目前に迫ったイタリアでは人民戦線はもちろん軍部やファシスト党内部からも反ムッソリーニの動きが拡大。

1943年7月にムッソリーニは逮捕され、国王に解任されたのちファシスト党は解散した。

9月に連合軍が上陸すると首相に就任したピエトロ・バドリオは無条件降伏を申し出て、10月には逆にドイツに宣戦を布告する。


連合国の戦後処理計画は早い段階から策定されていた。

1941年8月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相は大西洋上で会談し、領土の不変更・民族自決・ドイツの武装解除・国際的な安全保障体制の確立などを記した大西洋憲章を発表した。

これにソ連や中国など26か国が加わり、翌年1月に連合国共同宣言を成立させた。

戦後、これらが国際連合に引き継がれていく。

テヘラン会談に基づいて決行されたノルマンディー上陸作戦を描いたケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ、アンドリュー・マートン監督『史上最大の作戦』予告編

 

世界遺産「パリのセーヌ河岸」ノートルダム大聖堂
パリ・シテ島のノートルダム大聖堂。1944年8月24日に連合軍が入城すると大聖堂の鐘が打ち鳴らされて歓喜をもって迎えられ、翌日にはエッフェル塔にフランス国旗が掲げられた。世界遺産「パリのセーヌ河岸」構成資産

1943年6月、ソ連は資本主義諸国と協調路線をとるために、各国で共産主義運動を主導していたコミンテルンを解散。

同年11月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がエジプトのカイロ※で会談し(カイロ会談)、満州や台湾の中国返還・朝鮮半島の独立などを定めたカイロ宣言を発表した。

※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」


さらに11~12月にはルーズベルト、チャーチル、スターリンがイランのテヘランで首脳会談を行い(テヘラン会談)、北フランスへの上陸・ソ連の対日参戦などが話し合われた。


1945年2月には同じ3人による会談がソ連のヤルタで開催され(ヤルタ会談)、国際連合の設立・ドイツの分割占領・ソ連の対日参戦・ポーランドの独立などが決定された(ヤルタ協定)。


1944年6月、連合国はテヘラン会談に基づいてフランスのノルマンディー海岸に上陸(ノルマンディー上陸作戦)。

大きな被害を出しながらも50万もの兵力を上陸させるとパリに進軍し、同年8月にパリを解放した。

ド・ゴールもパリに降り立ち、臨時政府を組織した。

世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」新博物館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」を構成する5つの博物館・美術館のひとつ、新博物館。爆撃を受けて第二次世界大戦で外壁を残して廃墟となったが、1990年のドイツ統一後に修復が進み、2009年にようやく再オープンした

同年中にソ連も西進してルーマニア、ブルガリアを降伏させ、東プロイセン、ポーランド、ハンガリーに侵入してドイツに接近。

連合軍も1945年3月にライン川を越えてドイツに侵入した。

4月にはアメリカ軍とソ連軍がドイツ東部のエルベ川で合流し、握手ののちに平和の到来を誓い合った(エルベの誓い)。

連合軍はドイツに対して執拗な空襲を繰り返し、工業施設やインフラを破壊した。


同月にソ連軍がベルリン※を包囲すると、4月30日にヒトラーが自殺。

5月7日にドイツは無条件降伏を行った。

※世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ、1990年、1992・1999年拡大、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ、1999年、文化遺産(ii)(iv))」

世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」ツェツィーリエンホーフ宮殿
1945年7月17日~8月2日、ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿。1917年にヴィルヘルム2世が建てた宮殿だが、翌年11月に退位・亡命したため宮殿としてはほとんど使用されなかった。世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」構成資産

太平洋戦線では、1944年7月にアメリカが日本の南方防衛戦であるマリアナ諸島のサイパン島を攻略。

これを受けて東条英機が首相を辞任して小磯内閣が誕生する。

 

アメリカはさらにグアム島やレイテ島、マニラを奪取。

長距離爆撃機B-29による日本本土空襲を行い、東京大空襲をはじめ都市への爆撃を開始した。

 

アメリカでは1945年4月にルーズベルトが急死し、トルーマンが大統領に就任する。

そして同年7月にトルーマン、チャーチル(のちに辞任してアトリーと交代)、スターリンがドイツのポツダムで会談を持ち(ポツダム会談)、米・英・ソ・仏によるドイツ分割を定めたポツダム協定を締結。

また、米・英に中国の蒋介石を加えた3国が日本の無条件降伏を勧告し、ポツダム宣言を発表した(のちにソ連が参加)。

 

アメリカは8月6日に広島※、同月9日に長崎に原子爆弾を投下。

それぞれたった1発の爆弾で、広島では15万~20万、長崎では10~15万の犠牲者を出した。

さらに8月8日にはソ連がヤルタ協定に基づいて日ソ中立条約を破棄して満州や朝鮮半島・樺太に進軍した。

※世界遺産「広島平和記念碑[原爆ドーム](日本、1996年、文化遺産(vi))」

 

日本は8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏。

翌日、天皇が玉音放送で日本の国民に無条件降伏を発表し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ号で降伏の調印が行われた。

 

こうして第二次世界大戦は終結した。

大戦中の犠牲者は戦死や虐殺・餓死などの間接死者も含め、軍属・民間あわせて3,000万~8,000万に及ぶといわれている。

世界遺産「広島平和記念碑[原爆ドーム]」
世界遺産「広島平和記念碑[原爆ドーム]」。1945年8月6日8時15分17秒、B-29爆撃機エノラ・ゲイが投下した原子爆弾リトル・ボーイが爆発すると3,000度を超える熱線と音速を超える爆風が広島市を襲い、一瞬で数万の住民を虐殺した。世界遺産登録の可否は1996年の第20回世界遺産委員会で審議されたが、アメリカが反対、中国が棄権したものの、無事登録された

■戦後世界の構築


大西洋憲章が掲げる安全保障体制を実現する新しい国際機関を創設するために、1944年に米・英・ソ・中が集まってダンバートン・オークス会議が開催され、国際連合憲章の草案がまとめられた。

1945年4月、50か国が参加したサンフランシスコ会議で採択され、10月に国際連合(以下、国連)が発足した。


憲章の前文を紹介しよう(国連広報センター公式サイトより抜粋)。


「われら連合国の人民は、 われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、 これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」


国連の本部はニューヨークに置かれ、全加盟国が1票を持って参加する総会と、事実上の最高意思決定機関である安全保障理事会(安保理)が設置された。

安保理は集団安全保障による平和の維持を掲げ、採択は拒否権を持つ米・英・仏・ソ(のちにロシア)・中(中華民国。のちに中華人民共和国)の常任理事国5か国の全会一致が必要とされた。

紛争等に関し、安保理の決議には拘束力・強制力があり、総会決議は討議・勧告にとどまるものとされた。


1948年の第三回総会で目指すべき基本的人権の内容を定めた世界人権宣言が採択された。

第一条にはこのように書かれている(外務省公式サイトより)


「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」


また、国連にはILO(国際労働機関)、WHO(世界保健機関)、UNICEF(ユニセフ。国連児童基金)などの専門機関や補助機関が設置された。

世界遺産「アテネのアクロポリス」パルテノン神殿
フィロパポスの丘から眺めた世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」。周囲を睥睨する雄々しい建物がパルテノン神殿だ。ギリシアの女神アテナは軍神であると同時に知の神でもあることから、人類の知の連帯を示すUNESCOのシンボルとしてデザイン化された
UNESCOシンボル
パルテノン神殿をかたどったUNESCOのシンボル

特に、教育・科学・文化を普及させることによって戦争の悲劇を防ぐことを目的としているのがUNESCO(ユネスコ。国際連合教育科学文化機関)だ。

以下でその前文を紹介しよう(日本ユネスコ協会連盟公式サイトより)。


「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する」


また、世界恐慌やブロック経済が大戦の要因となったことから、安定した金融・通貨システムや経済協力体制の構築も進められた。

1944年、連合国44か国がアメリカのブレトン・ウッズで会談を行い(ブレトン・ウッズ会談)、IMF(国際通貨基金)とIBRD(国際復興開発銀行)設立が決定され、翌年発足した。

また、金と交換可能な兌換紙幣であるドルを基軸とした固定相場制を採用し、各国の通貨が定められた(たとえば1ドル=360円)。

貿易については1947年にGATT(関税と貿易に関する一般協定)が成立した。

こうした戦後の国際金融・経済体制をブレトン・ウッズ体制と呼ぶ。

世界遺産「小笠原諸島」南島・扇池
小笠原諸島の南島・扇池の美しいビーチ。大戦後、小笠原諸島は奄美諸島や沖縄などとともにアメリカの領土となり、島民は島々から追放された。日本に返還されるのは、奄美諸島が1953年、小笠原諸島が1968年、沖縄が1972年のこと。世界遺産「小笠原諸島(日本、2011年、自然遺産(ix))」構成資産

■敗戦国の戦後処理


ドイツはポツダム協定の通り米・英・仏・ソによる4か国分割占領となり、さらに首都ベルリンも分割管理された。

また、ニュルンベルクに国際軍事裁判所が設置され、ナチス=ドイツ指導者の戦争犯罪が追及された。


オーストリアはドイツと分離され、4か国の共同管理下に置かれた。

イタリアは1946年の国民投票によって王政を廃止して共和政が発足。

1947年のパリ条約でフィウメをユーゴスラビアに返還し、リビアやエチオピアなどの海外植民地をすべて失った。


日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の下で民主化が行われ、軍の解散・財閥解体・農地改革・教育改革などが実行された。

東京に極東国際軍事裁判所が設置され、東条英機元首相ら指導者の戦争犯罪が裁かれた。

1946年には象徴天皇制・基本的人権の尊重・主権在民・三権分立・戦争放棄などをうたった日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行された。

また、満州と台湾は中国に返還され、朝鮮半島は北緯38度を境にソ連とアメリカに分割管理された。

世界遺産「ワルシャワ歴史地区」
世界遺産「ワルシャワ歴史地区(ポーランド、1980年、文化遺産(ii)(vi))」。1944年のワルシャワ蜂起に対するナチス=ドイツの徹底的な破壊工作によってワルシャワは灰燼に帰した。戦後、近代化の道もあったが住民は元通りに戻すことを選択し、残骸や残された絵などを元にレンガひとつに至るまで忠実に再建された (C) Adrian Grycuk

■ヨーロッパの戦後


イギリスでは1945年の総選挙で史上はじめて労働党が勝利し、アトリー内閣が発足した。

労働党は福祉国家を目指して「揺りかごから墓場まで」と呼ばれる手厚い政策を行い、鉄道・通信といった基幹産業を国有化した。


フランスではド・ゴールの臨時政府の主導で1946年に総選挙が実施され、新憲法が制定されて第四共和政が始動した。


東ヨーロッパやバルカン半島は戦中、連合国と枢軸国の戦いが激しく、大きな被害を受けていた。

ソ連は自国に近いこれらの国々を支援し、反ファシズム闘争で活躍した各国の共産党の主導で復興に尽力した。

ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアといった国々はソ連型の社会主義を採用し、計画経済による工業化を進めた。


ユーゴスラビア王国は第二次世界大戦中、ドイツやイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの侵略を受けて分割され、ファシズム政党ウスタシャのクロアチア独立国が成立していた。

これに対してティトーが共産党を率いてパルチザン闘争を戦って多くを解放した。


1945年には王国政府と連立を組むが、総選挙で勝利すると王政を廃止して1946年に6つの国(セルビア、クロアチア、スロベニア、マケドニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる連邦国家・ユーゴスラビア社会主義共和国連邦を打ち立てた。

世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市」
1944年、ル・アーヴルを占領していたドイツ軍に対して行ったイギリス軍の執拗な空爆によって町は壊滅的な被害を受けた。戦後、オーギュスト・ペレによって生まれ変わったコンクリート造りの計画都市が世界遺産「ル・アーヴル、オーギュスト・ペレによる再建都市(フランス、2005年、文化遺産(ii)(iv))」だ (C) Erik Levilly

このように東欧で社会主義国が急速に拡大したことに対し、チャーチルはバルト海からアドリア海にかけて伸びる社会主義国のラインを「鉄のカーテン」と呼んだ。

これがやがて東西両陣営による冷戦へと発展する。


1947年、東欧の社会主義化がギリシアとトルコに及ぶことを恐れたアメリカは、共産圏封じ込め政策(トルーマン・ドクトリン)の一環として両国に資金援助を開始。

さらに国務長官マーシャルはヨーロッパ諸国の経済復興を手助けするために援助計画=マーシャル・プランを発表した。

西側諸国はこれを受け入れたが、東側諸国はこれを拒否。

ソ連は同年に東欧の共産党にフランス、イタリアの共産党を加えてコミンフォルム(共産党情報局)を結成して結束を強めた。

世界遺産「ホラショヴィツェの歴史地区」
ボヘミアらしい中世の街並みが残る世界遺産「ホラショヴィツェの歴史地区(チェコ、1998年、文化遺産(ii)(iv))」。大戦後のドイツ系住民追放政策により町が放棄されて廃墟となったが、1990年代に修復が進んでその美しい姿を取り戻した

チェコスロバキアは東西間で翻弄されたが、1948年にこの隙を突いたクーデターが成功して共産党が政権を握り、東側に加わった。

翌年、ソ連は東欧6か国(アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア)とCOMECON(コメコン。経済相互援助会議)を創設し、経済協力を行ってマーシャル・プランに対抗した。

COMECONにはのちに東ドイツ、モンゴル、キューバ、ベトナムが加入し、アルバニアが離脱している。


チェコスロバキアが共産化したことを警戒し、1948年、イギリス、フランスとベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)は西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を結んで集団防衛と経済的な協力を確認した。

翌年には西側12か国にアメリカ、カナダを加えてNATO(ナトー。北大西洋条約機構)を結成し、一部の加盟国に対する攻撃はすべての加盟国に対する攻撃と見なすという集団的自衛権を規定して集団防衛を図った。

世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック(ドイツ、1987年、文化遺産(iv))」の街並み。手前はレンガ造りのマリエン教会。大規模な空爆のあと連合国が占領し、イギリス占領地とソ連占領地に分かれて統治された。戦後この都市を境に鉄のカーテンが敷かれ、東西ドイツに分裂した (C) Arnold Paul
世界遺産「クルシュー砂州」
大戦後にポーランドとソ連によって分割された東プロイセン。北半分はバルト三国とともにソ連領となったが、1990~1991年にバルト三国が独立するとカリーニングラード州としてソ連の飛び地となった。世界遺産「クルシュー砂州(リトアニア/ロシア共通、2000年、文化遺産(v))」もその一部だ

ドイツでも東西の綱引きが活発化した。


1948年、ドイツのソ連管理地区でソ連が土地改革を行って社会主義化を進めると、米・英・仏の管理地区ではドイツ・マルクを導入して通貨改革を実施。

これに反発したソ連はソ連管理地区内にあるベルリンへの道路・鉄道・水路を封鎖した(ベルリン封鎖)。

西側の3国は孤立したベルリンの西側管理地区に空輸で物資を送り続けた。


1949年、3国の管理地区はボンを首都とするドイツ連邦共和国(西ドイツ)として独立。

第一回連邦議会総選挙が行われ、キリスト教民主同盟のアデナウアーが首相に就任した。

西ドイツはマーシャル・プランによる援助を受けて経済復興に取り組み、1954年のパリ協定に基づいて翌年主権を回復し、再軍備を認められてNATOに加盟した。


一方、ソ連管理地区も1949年に東ベルリンを首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)となり、社会主義統一党のウルブリヒトが権勢を振るった。


こうしてドイツは完全に東西に分かれ、東ドイツ内にあるベルリンもまた東西に分割された。

ただし、ベルリン封鎖は西ドイツ成立後に解除されている。

世界遺産「マカオ歴史地区」セナド広場
世界遺産「マカオ歴史地区」のセナド広場。1849年に占領し、1862年に統治権を得て以来、ポルトガルがマカオを統治した。ポルトガルは第二次世界大戦で中立を守ったためマカオ港も中立港として保護された。1999年12月20日に中国に返還されている (C) Diego Delso

■東アジア・東南アジアの戦後


○中国

 国民政府の中華民国は日本から満州や台湾などを取り戻し、ヨーロッパ諸国も香港(イギリス)とマカオ※(ポルトガル)を除いた植民地や租界地を返還した。

しかし、終戦直前に国民党と共産党がふたたび衝突し、1945年の蒋介石と毛沢東による重慶会談などで歩み寄りを見せたものの、国共内戦に突入した。

※世界遺産「マカオ歴史地区(中国、2005年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」


当初は国民党の圧倒的優位にあったが、国民党の腐敗や激しいインフレに対して非難を浴びた。

インフレにより紙幣の価値がなくなると、農民や労働者といった被支配層の生活は困窮し、共産党への共感につながった。

共産党は農村で土地改革を行い、地主の権利を奪って農民の支持を集めることに成功した。

さらにソ連が共産党の支援に回り、武装解除した満州の日本軍の武器弾薬が共産党の手に渡る一方で、平和的解決を求めるアメリカは国民党の軍事援助を停止してしまった。


一時共産党は拠点・延安も落とされたが、1947年後半から反攻に転じると、共産党の人民解放軍は1949年1月に北京を占領し、4月には国民党の首都・南京に入城。

さらに国民政府を追って広州・重慶に攻め込んだ。


[関連サイト]

北京と瀋陽の明・清朝皇宮群/中国

世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」天安門
世界最大の広場・天安門広場の正面にたたずむ天安門。毛沢東の肖像の両脇のスローガンは「中華人民共和国万歳」と「世界人民大団結万歳」。1949年10月1日、毛沢東はこの楼閣で建国宣言を行った。世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国、1987年、2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」構成資産

毛沢東は1949年6月に北京で新政治協商会議準備会議を招集して新国家の枠組みを話し合い、10月に中華人民共和国の成立を宣言。

首都を北京に置き、毛沢東が主席(事実上の元首)、周恩来が首相(行政のトップ)に就任した。

翌年にはソ連と中ソ友好同盟相互援助条約を調印。

1953年から五か年計画が始動し、54年に新憲法が制定された。


一方、国民党は数十万人を率いて台湾に渡り、一党独裁の下で中華化を推進して中華民国を継続した。

中華人民共和国、中華民国とも正当な中国を名乗って大陸本土と台湾の領有を主張。

諸外国に対して「どちらの国も認める」という二重承認を拒否し、「ひとつの中国」を主張して選択を迫った。

これが現在の中国-台湾問題に発展することになる。


ソ連や東欧の社会主義諸国やインド、イギリスなどは中華人民共和国を承認。

一方、アメリカや日本などは中華民国を支持した。

常任理事国を務める国連の中国代表権は1971年まで中華民国が維持した。


○朝鮮半島

朝鮮半島はカイロ宣言で独立を承認されていたが、北緯38度を境に北部をソ連、南部をアメリカが管理していた。

1948年、南部で李承晩(イスンマン)を大統領とする大韓民国(韓国)が成立。

北部に金日成(キムイルソン)を主席とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が誕生して東西に分裂した。

世界遺産「古都ビガン
コロニアル建築が特徴的な世界遺産「古都ビガン(フィリピン、1999年、文化遺産(ii)(iv))」の街並み。太平洋戦争末期、日本軍の破壊工作やアメリカの空襲によってマニラをはじめとする都市は焦土と化し、スペイン、アメリカ時代の多くの歴史遺産が消滅した。ビガンは早くに日本軍が撤退したため奇跡的に破壊を免れた

○フィリピン

戦争中、日本軍はアメリカの植民地であるフィリピンに上陸してルソン島の半分ほどを占領したが、ゲリラの執拗な攻撃に苦戦していた。

この戦争でフィリピン経済は破壊されて市民の生活は困窮し、多くの人々が抗日運動を支持してアメリカ軍を歓迎した。


戦後の1946年、ようやく独立が実現してフィリピン共和国が成立。

スペイン→アメリカ→日本と続いた植民地時代の終焉を迎えた。


[関連サイト]

古都ビガン/フィリピン


○インドネシア

オランダ領東インドは日本によって占領されたが、その頃から独立機運は高かった。

1945年8月にインドネシア共和国の独立を宣言すると、スカルノが大統領に就任して憲法を制定した。


しかしオランダはこの独立を認めず、インドネシア独立戦争が勃発。

日本軍人の参加や日本軍の武器の流用などもあってこれを打ち破り、1949年にインドネシア共和国に数々の小国を加えたインドネシア連邦共和国が成立した。

世界遺産「フエの建造物群」王宮・午門
1945年8月24日、ベトナム最後の皇帝バオダイ帝が皇帝位の廃位を宣言したフエ王宮・午門。これによりグエン朝は滅亡した。1968年、王宮はベトナム戦争のテト攻勢で徹底的な破壊を受け、門や城壁を残してほとんどが焼失した。世界遺産「フエの建造物群」構成資産

○ベトナム

フランス領インドシナではインドシナ共産党がフランスからの独立を目指していたが、日本に占領されると両国からの独立を目標に掲げた。


ホー・チ・ミンはコミンテルンの指導を受けて反仏抗日のベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、独立闘争を行った。

ハノイのグエン朝(阮朝)政府はフランスの下であり続けたが、1945年にフランスの植民地政府が解体されると日本の支援の下でバオダイ(保大)帝がベトナム帝国の樹立を宣言。

同時にシアヌーク王のカンボジア王国、シーサワンウォン王のラオス王国も独立を宣言した。


1945年8月、日本が降伏するとハノイを落としたホー・チ・ミンがバオダイ帝に退位を迫り、バオダイ帝はフエの王宮※で退位を宣言してグエン朝は滅亡した。

ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国を建国し、初代大統領に就任した。

※世界遺産「フエの建造物群(ベトナム、1993年、文化遺産(iv))」


[関連サイト]

フエの建造物群/ベトナム


フランスはこれらの国々の独立を認めず、1946年にインドシナ戦争が勃発する。

1949年にはバオダイを立てて傀儡政権であるベトナム国を樹立。

同年の中華人民共和国の成立でアジアの共産化を恐れたアメリカがフランスの支援に回った。

しかし、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスは大敗を喫し、7月にジュネーブ休戦協定を結んでインドシナ半島から撤退した。


ジュネーブ休戦協定では、北緯17度線でいったんベトナム共和国とベトナム国で切り分けて、ベトナム住民による総選挙によって統一を実現するものとした。

しかしアメリカとベトナム国がこれに反対したことからベトナム戦争へ発展することになる。

世界遺産「ルアンパバンの町」ワット・シェントーン
王家の菩提寺、ワット・シェントーンの鮮やかなモザイク壁画。右は黄金の木=マイ・トーン。ラオス王国の首都はビエンチャンに遷ったが、寺院と土着の家並みとコロニアル住宅が混在した旧都ルアンパバンは宗教都市としてあり続けた。世界遺産「ルアンパバンの町」構成資産

○カンボジアとラオス

カンボジアは1945年に独立宣言を行ったが、日本が敗れるとフランスの保護国となった。

シアヌーク王はインドシナ戦争中も独立運動に奔走し、1954年のジュネーブ会議で独立を勝ち取った。


ラオスも1945年、ルアンパバン王国(首都ルアンパバン①)のシーサワンウォン王がラオス王国の独立宣言を行っていたが、南部のチャンパーサック王国(首都チャンパーサック②)には及んでいなかった。

日本が敗戦するとシーサワンウォン王は独立を撤回してフランスに接近。

1946年にフランスがラオスを再制圧すると、シーサワンウォン王にラオス統一王として自治権を与えた。

これによりチャンパーサック王国が滅亡した。


そして1949年、シーサワンウォン王が親仏であったことからフランスはついに独立を認め、ラオス王国が成立した。

※①世界遺産「ルアンパバンの町(ラオス、1995年、文化遺産(ii)(iv)(v))」

 ②世界遺産「チャンパーサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群(ラオス、2001年、文化遺産(iii)(iv)(vi))」


[関連サイト]

ルアン・パバンの町/ラオス


○マレーシアとシンガポール

イギリス領マラヤとしてイギリスの植民地となっていたマレー半島は日本の支配を受けたあと、再びマラヤ連合としてイギリスの植民地となった。


マレー人の独立運動が盛んになると、1948年に各州のスルタン(イスラム君主)の立場を認め、半島9州とマラッカ①、ペナン島①を加えてイギリス領マラヤ連邦が形成された。

マラヤ連邦は1957年に独立が認められ、1963年にはシンガポール②や北ボルネオなどを加えてマレーシア連邦が成立。

ただ、中華系が多数を占めるシンガポールでは中華系とマレー人の衝突が頻発し、1965年に連邦を離脱してシンガポールとして独立した。

※①世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア、2008年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 ②世界遺産「シンガポール植物園(シンガポール、2015年、文化遺産(ii)(iv))」


[世界遺産]

マラッカとジョージタウン/マレーシア

世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」オランダ広場
マラッカの象徴、オランダ広場。1956年2月20日、アブドゥル・ラーマン初代首相がマラッカでマラヤとしての独立を宣言し、マレー半島の諸州とイギリスの海峡植民地は翌年8月に連邦として独立を達成した。世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」

■南アジア・西アジアの戦後


○インドとパキスタン

イギリスはようやくインドの独立を認めたが、国内はヒンドゥー教徒を中心とするインド国民会議とイスラム教徒を中心とする全インド=ムスリム連盟が対立していた。

前者のガンディーはインド統一を主張し、後者のジンナーはパキスタンの分離独立を要求して決裂。

結局1947年のインド独立法でインド連邦とパキスタンの独立が決定した。


パキスタンはインドの西部と東部(現在のバングラデシュ)を領有し、独立する際にはインド内の多くのイスラム教徒がパキスタンへ移住した。

しかし両宗教の争いは収まらず、1948年にガンディーが暗殺された。


インドでは1950年にインド共和国憲法が成立して大統領制を導入し、インド共和国が成立。

ネルーが初代大統領に就任した。


インドとパキスタンはいずれに帰属するか態度を決めかねたカシミール藩王国の貴族を巡って対立し、1947年・65年・71年の三次にわたってインド=パキスタン戦争を戦った。

この間、東パキスタンは言葉の違いや政策で西パキスタンと対立し、第三次インド=パキスタン戦争の結果、バングラデシュとして独立した。


○ミャンマー

インド帝国から分離されて準自治領となっていたビルマでは、1943年に日本の支援の下でビルマ国が成立していた。

この傀儡政権に対してアウンサン率いるビルマ国民軍やビルマ共産党などが統一戦線を組織。

1945年にこの戦いに勝利するが、イギリスは当初独立を認めなかった。

しかし1948年になって独立が実現し、ビルマ連邦の初代首相にウー・ヌが就任した。


○イラン

第二次世界大戦でレザー=シャーのパフレヴィー朝は中立を表明していたが、石油利権を保持したいソ連とイギリスの支配を受けて退位させられ、パフレヴィー1世(モハンマド・レザー=シャー)が第二代皇帝位に就いた。

一時、北部にソ連政権が誕生するがこれを制圧すると、ソ連から石油利権を奪回した。


1951年、民族主義を掲げるモサデグがアングロ・イラニアン石油会社の国有化を主張して首相に就任。

これに対してイギリスは経済制裁を行ってモサデグを退任させるが、モサデグが選挙で大勝して再選されると、パフレヴィー1世を追放してイラン共和国の樹立を宣言した。


すると、アメリカがこれに介入してパフレヴィー1世を支援。

イラン・クーデターを起こさせて復位させ、モサデグを逮捕した。

自由主義・民主主義を掲げるイギリスとアメリカが選挙で選ばれた共和政権を打ち倒して皇帝を据える形となった。

これによりアメリカはイギリスから石油資源の4割を得たといわれている。

世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群」
オリーブ山の主の涙の教会から眺めた世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群」。黄金の建物が神殿の丘の岩のドーム。イエスはエルサレムが罪によって滅びることを知り、ここで涙したと伝えられている。神殿の丘のエルサレム神殿は66~74年のユダヤ戦争で徹底的に破壊された

○パレスチナとイスラエル

中東ではエジプトの提唱で1945年、アラブ人王国の連携を高めて欧米の影響力を排除するためにアラブ連盟が発足した。

最初の参加国はエジプト、イラク、トランスヨルダン、サウジアラビア、イエメン、シリア、レバノンの7か国で、トランスヨルダンは翌年ヨルダン=ハシミテ王国に改称した。


イギリスに委任統治されていたパレスチナでは、ナチスによる迫害などの影響もあってユダヤ人入植者が急激に増えており、ユダヤ人とアラブ人の対立が深刻化していた。

イギリスはこの問題を国連に提起。

国連はパレスチナにユダヤ人とパレスチナ人のふたつの国家の創設し、エルサレムを国際管理地として東エルサレム(旧市街※)と西エルサレムに分けるパレスチナ分割案を国連総会にかけた。

アラブ諸国は強く反対するが及ばず、1947年に可決。

これを受けてユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を宣言する。

※世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請、1981年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 世界遺産「パレスチナ:オリーブとワインの地-エルサレム南部バティールの文化的景観(パレスチナ、2014年、文化遺産(iv)(v))」

世界遺産「テルアビブのホワイト・シティ-近代化運動」テルアビブ・バウハウス・ミュージアム
テルアビブ・バウハウス・ミュージアム。テルアビブでは1909年にユダヤ人の入植がはじまり、バウハウスの影響を受けた幾何学的な白壁の現代建築が軒を連ねた。これが世界遺産「テルアビブのホワイト・シティ-近代化運動(イスラエル、2003年、文化遺産(ii)(iv))」だ (C) Talmoryair

 

[関連サイト]

聖地エルサレム


アラブ連盟とパレスチナのアラブ人=パレスチナ人はイスラエルの独立に反発し、同年にイスラエル周辺のシリア、レバノン、ヨルダン、エジプトとイラクが侵攻してパレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発。

イスラエルはアメリカとイギリスの支援を受けて戦いを有利に進め、連携のとれないアラブ諸国は思うように軍を進められなかった。

1949年に国連の調停により休戦となり、イスラエルは独立時よりも多くの領土を確保した。

この戦いで100万以上のパレスチナ人がパレスチナ難民となり、レバノンやヨルダンなどの周辺国に逃れた。


中東戦争はこれ以後第四次まで続き、パレスチナ問題は現在に至っても解決されていない。



次回は東西冷戦下の国際社会を解説する。



News

世界遺産カテゴリー "WORLD HERITAGE" にて新シリーズ「世界遺産写真館」を立ち上げました。

ぼくがこれまで撮影してきた写真を掲載していこうと思います。

 →世界遺産写真館

イギリスの世界遺産「ロンドン塔」
イギリスでもっとも歴史のある石造城塞であり、多くの囚人を収容した監獄兼処刑場で、世界一有名な幽霊屋敷でもある「ロンドン塔」。クリックで外部記事へ
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青の都・サマルカンド、グリ・アミール廟のイーワーンとドーム。世界遺産「文化交差路サマルカンド」構成資産。クリックで外部記事へ

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 リンカーン 人民の人民による

 チャップリン 勇気・想像力・金

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 岡本太郎「毒を持て」

 ディズニー「未完成」

 ジョブズ「愚かであれ」

 ナポレオン「不可能はない」

 高杉晋作「おもしろき世」

 エジソン「1%の才能99%の汗」

・Bizコンパス 国際情勢連載

 なぜLCCが世界を席巻?

 なぜ日本のGDPは低迷?

 なぜ今TPP等の地域協定なのか?

 なぜシンガポールは豊かなのか?

 なぜ米国は銃規制できないか?

 なぜハリウッドは強いのか?

 なぜ外国人が渋谷の交差点に?

 なぜイスラムは仏を狙うのか?

 なぜスイスは永世中立なのか?

 なぜ中華料理はおいしいのか?

 なぜ難民が増えているのか?

 なぜ五輪は4年に1度の開催か?

 なぜイランは核開発するのか?

 なぜ台湾は独立できないのか?

 なぜアフリカはいつも戦争?

 なぜシーア派とスンニ派がある?

 なぜブータンは幸せの国なのか?

 なぜ世界でパンデミックが拡大?

 なぜ世界に親日国が多いのか?

 なぜイスラムは遺跡を壊すか?

 なぜ米国とキューバが接近?

 なぜ訪日外国人が増えたのか?

 なぜギリシャ危機が問題か?

 なぜウクライナで米露が対立?

 なぜ世界中に中華街があるのか?

 なぜ柔道はJUDOに勝てないか?

 なぜ捕鯨は野蛮なのか?

 なぜイスラムは西洋と戦うのか?

 なぜ日本料理は世界で人気か?

 なぜ中南米はミスコンに強いか?

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 なぜ英・西で独立運動なのか?

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『朝日新聞 世界の扉』記事執筆。『地球の歩き方 MOOK 世界のビーチBEST100』『ノジュール』に旅のスペシャリスト・達人として参加。『PEN』でアフリカの世界遺産執筆。『MONOQLO』世界遺産特集取材協力。『女性セブン』で日本の世界遺産を解説。エクスナレッジ『聖地建築巡礼 世界遺産から現代建築まで、73の聖地を巡る旅』、洋泉社ムック『負の世界遺産』執筆。RKBラジオ、FM TOKYOで世界遺産特集出演。その他企業・大学広報誌等。

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27.北方騎馬民族とその周辺

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30.中世ヨーロッパの飛躍

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32.イギリス・フランスと百年戦争

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34.大航海時代

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37.絶対王政とオランダの台頭

38.三十年戦争とイギリス革命

39.啓蒙思想とプロイセン、ロシア

40.明と清の繁栄

41.東・東南アジアの植民前史

42.産業革命とアメリカ独立革命

43.フランス革命とナポレオン

44.ウィーン体制と七月・二月革命

45.イタリアとドイツの成立

46.帝国主義と米英仏

47.アジアの衰退・植民地化

48.清、朝鮮、江戸の開国・滅亡

49.世界分割

50.第一次世界大戦

51.ファシズムと世界恐慌

52.第二次世界大戦

 

<世界遺産写真館>

1.文化交差路サマルカンド1

2.文化交差路サマルカンド2

3.アッパー・スヴァネティ

4.グラナダのアルハンブラ宮殿1

5.グラナダのアルハンブラ宮殿2

6.コトル

7.プレアヴィヒア寺院

8.福建の土楼1

9.福建の土楼2

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