世界遺産と世界史50.第一次世界大戦

20世紀初頭、ヨーロッパは三国同盟(1882年)で結ばれたドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアの同盟国と、露仏同盟(1891年)・英仏協商(1904年)・英露協商(1907年)で結ばれたイギリス、フランス、ロシアの協商国の対立が際立っていた。


フランスとドイツはプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)以来、関係改善が進んだとはいえず、フランスは急速に力を増すドイツに対して強い不信感を抱いていた。

イギリスもドイツの強大化やオーストリア=ハンガリーの南下を懸念しており、パン=スラヴ主義を主導するロシアはバルカン半島でパン=ゲルマン主義をとるドイツやオーストリアと対立していた。

16世紀以降、たびたびロシアとロシア=トルコ戦争(露土戦争)を戦い、1911年にはじまるバルカン戦争でもロシアと対立したオスマン帝国は、これまで同様、ロシアを強く警戒していた。


そしてバルカン半島ではスラヴ人の多いセルビアや、1908年にオーストリア=ハンガリーが併合したボスニア・ヘルツェゴヴィナで反ゲルマンの気運が高まっていた。

一方、第二次バルカン戦争でセルビアと戦ったブルガリアでは反スラヴ感情が支配的だった。


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第一次世界大戦前後の地図解説(日本語字幕)


<第一次世界大戦>


1914年6月28日、ボスニアのサラエボを訪れていたオーストリア=ハンガリー皇太子フランツ・フェルディナントとその夫人がセルビア主義(スラヴ系セルビア人によるバルカン西部統一運動)を掲げる学生民族主義者に射殺された。

オーストリア=ハンガリーのフランツ・ヨーゼフ1世は背後にセルビアがいるとして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の支持を得たのち、10の条件を記した最後通牒を送付。

セルビアが条件をつけたことから国交を断絶し、7月28日に宣戦を布告する。


ロシア皇帝ニコライ2世がセルビア支援を表明し、軍部が動員をかけたことに対してドイツが反発して最後通牒を送達。

これを受けて8月1日にロシアがドイツに宣戦布告すると、露仏同盟により同3日にフランスがドイツに宣戦布告した。


そもそもビスマルク外交では、ドイツを東西から挟むロシアとフランスが手を結ばないよう戦略を立てていた。

しかしこれが危機的状況であったためドイツ軍部は協商国との戦争をシミュレートし、西のフランスをいち早く叩いて東のロシアと対峙するシュリーフェン・プランを成立させていた。

これが戦争の急速な拡大を招いたともいわれる。

第一次世界大戦版図の推移

 

この計画を成功させるためには、戦争がはじまるや否や電撃的にフランスを侵略する必要がある。

ドイツは中立国ベルギーに対して軍の通過を要求するが、ベルギーがこれを拒否。

短期決戦で勝負を決めたいドイツが8月4日に侵入を強行したことでベルギーとの戦闘が開始され、中立が犯されたことを理由にイギリスが参戦した。


三国同盟のもう1か国であるイタリアは南チロルやトリエステなどの「未回収のイタリア」を巡ってオーストリア=ハンガリーと対立が深刻化していたこともあり、8月2日に中立を表明。

翌年には協商国とロンドン条約を結んで連合国(協商国を中心とした国々)側に立って参戦する。


日英同盟を結んでいた日本は中国やミクロネシアのドイツ領・ドイツ権益を狙って8月23日にドイツに対して宣戦を布告。

労働運動組織を集めた第二インターナショナルは反戦を掲げていたが、参戦国では社会党や労働党の多くが政府を支援して挙国一致体制(政党間の利害を超えて国全体が一体となること)が成立したため、事実上解体した。

戦争序盤においてアメリカはモンロー主義(アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉)を掲げて中立を保った。

エーリッヒ・マリア・レマルクの長編小説を映画化したルイス・マイルストン監督『西部戦線異状なし』予告編。西部戦線を戦った著者の体験をもとに塹壕戦を描いた名作で、第3回アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した

 

西部戦線でドイツはすばやくベルギーへの侵攻を開始するが、ベルギーが予想外に抵抗。

なんとかリエージュの戦いに勝利してフランスに侵入するも、イギリスのフランス支援もあって時間を費やし、マルヌの戦いで侵攻は阻止されてしまう。

西部戦線はやがて穴や溝を掘った塹壕に潜んで戦う塹壕戦となって膠着する。


東部戦線ではロシアが予想外にすばやく動員を行い、8月17日に東プロイセンを攻撃する。

ドイツはこのタンネンベルクの戦いでロシア軍を半減させるほどの大勝利を収めるが、西部と東部両戦線での対応を迫られてシュリーフェン・プランは早々に頓挫し、戦力の一部を西部から東部へ移動させることを強いられた。

ロシアはこの大敗に大きなショックを受けて戦線を後退させ、一方のドイツもロシア領へ歩を進めるものの冬の到来と二正面作戦のために十分な戦力を供給できず、こちらも膠着してしまう。


バルカン半島では、オーストリア=ハンガリーとセルビアの戦いが行われていたが、10月に反ロシアを掲げるオスマン帝国が同盟国側に立って参戦。

オスマン帝国が黒海と地中海をつなぐダーダネルス海峡とボスポラス海峡を押さえたことでロシアは地中海への出口を失ってしまう。


制海権を得るためにロシアの協力が必要なイギリスとフランスは、翌春からダーダネルス海峡のガリポリ要塞を攻撃するが(ガリポリの戦い)、オスマン帝国はムスタファ・ケマル(のちのトルコ共和国初代大統領ケマル・パシャ/ケマル・アタチュルク)の活躍でこれを阻止。

1915年10月にはブルガリアが同盟国側で参戦し(一方、ギリシアは連合国側で参戦)、12月にはオーストリア=ハンガリーがセルビアを落として占領した。

イギリスの陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンスの活躍とアラブ反乱を描いたデヴィッド・リーン監督『アラビアのロレンス』予告編。第35回アカデミー賞作品賞受賞作品


中東ではオスマン帝国が参戦したことから、エジプトを事実上保護国化していたイギリスが正式に保護国化を宣言する。

そしてイギリスはカイロ※を拠点にアラブ各地の民族自決を支援して反乱を先導し、1915年にはアラブの独立とアラブ人のパレスチナ居住を認めるフサイン=マクマホン協定を締結。

翌1916年、メッカのアミール(総督)であるハーシム家のフサイン・イブン・アリーがイギリスの支持の下、アラブ国家の創設を目指してアラブ反乱を起こし、ヒジャーズ王国(首都メッカ)を建国する。

※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」


同年、イギリスはフランス、ロシアと秘密協定(サイクス=ピコ協定)を結んでオスマン帝国崩壊後の分割方法を協議。

さらにユダヤ人の協力を取り付けるために、1917年にユダヤ人居住地の創設を承認する(バルフォア宣言)。

イギリスはこうしてレバント地方(現在のシリア、トルコ、レバノン、イスラエル周辺)とアラビア半島を切り刻み、諸民族を利用しつつ支配地域の拡大を図った。

これが将来のユダヤ=パレスチナ問題や中東戦争の要因となる。


日本は1914年9月にドイツが支配する山東半島に上陸し、膠州湾(こうしゅうわん)の青島(チンタオ)を攻略。

その後ミクロネシアのマーシャル諸島やマリアナ諸島をはじめとするドイツ領を占領した。

1915年1月には中華民国の大総統・袁世凱に対して山東省のドイツ権益の継承や南満州の旅順・大連の租借期限延長などを求めた二十一か条の要求を突きつけ、ほとんどを認めさせた。


塹壕戦が展開されていた西部戦線では、1916年にドイツがフランスに対して総攻撃を仕掛けたヴェルダンの戦い、イギリス・フランスが逆攻勢を掛けたソンムの戦いが勃発。

戦車・攻撃機・毒ガスなどの新兵器などが投入された結果、両軍合わせて200万を超える犠牲者を出したが、戦況は変わらなかった。

ジャン=ピエール・ジュネ監督『ロング・エンゲージメント』で描かれたソンムの戦いの凄惨な戦闘シーン。この戦いはウィリアム・ボイド監督『ザ・トレンチ(塹壕)』などでも描かれている


海ではイギリスが海上封鎖網を敷き、ドイツの貿易を停止させると同時にドイツ海軍の主力をバルト海に封じ込めていた。

これに対してドイツはUボートと呼ばれる潜水艦を配備して無差別に船舶を襲撃する無制限潜水艦作戦を展開。

イギリスは当初大打撃を受けるが、1915年5月にイギリスの豪華客船ルシタニア号がUボートに撃沈されてアメリカ人128人を含む1,198人の犠牲者が出ると、アメリカをはじめとする中立国からも多くの非難が出て無差別の作戦は一時中止された。

イギリスはその後、護送船団方式と機雷で対抗し、被害を大幅に減少させた。


ドイツは海上封鎖を突破するため1916年5月にユトランド沖海戦に挑むが、イギリスに大打撃を与えはしたものの封鎖網を突破するには至らなかった。


こうしていずれの戦線でも長期消耗戦・総力戦の様相を呈し、特に海運を遮断されたドイツやオーストリア=ハンガリー、ロシアは軍事優先の産業転換・食料の配給制・女性の軍需産業への動員などが行われ、国民の生活はきわめて悪化した。

世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」エルミタージュ美術館
ケレンスキー率いる臨時政府が置かれていた冬宮殿。ロシアの十月革命ではボリシェヴィキがここを急襲して臨時政府のメンバーを逮捕した。革命後、エルミタージュ美術館本館として利用されている。世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」構成資産 (C) Dezidor

戦局は1917年に動き出す。


ロシアでは連敗と食料・燃料不足から戦争反対・政権打倒の機運が広がり、各地でデモやストライキが頻発。

その結果、1917年3月(ロシア暦2月)に二月革命(三月革命)が起こってニコライ2世が退位し、ロシア帝国が滅亡する(革命については後述)。

11月(同10月)には十月革命(十一月革命)でレーニンやトロツキーらのソビエト政権が誕生。

レーニンは「平和に関する布告」を発表し、労働者や農民・兵士の立場に立って無償金(無賠償)・無併合・民族自決・秘密条約の破棄を原則とする講話を呼び掛けた。


各国の市民に対して反戦を訴えるこの革命・布告は資本主義を掲げる連合国だけでなく、帝政を掲げるドイツやオーストリア=ハンガリー、オスマン帝国にも大きな衝撃を与えた。

連合国は革命の拡大を恐れて布告を無視したが、ソビエト政権は1918年3月、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、ブルガリア、ウクライナとブレスト=リトフスク条約を締結して講和し、大戦から離脱した。

世界遺産「アミアン大聖堂」
ソンムからほど近いフランスの世界遺産「アミアン大聖堂」(アミアンのノートルダム大聖堂)。アミアンはベルギー国境にも近く、アミアンの戦いをはじめ第一次世界大戦・第二次世界大戦で大きな被害を受けた (C) Jean Pol GRANDMONT

1917年2月にドイツが無制限潜水艦作戦の再開を宣言すると、アメリカのウィルソン大統領は平和・人権・民主主義を守るという名目で連合国側での参戦を決意し、4月にドイツ、12月にオーストリア=ハンガリーに宣戦を布告する。

といっても金融・武器・物資の点でアメリカは連合国に多大な融資や貿易を行っており、資金の回収や市場の確保という意味で連合国の勝利を必要としていた。


1918年1月、ウィルソンは「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表。

秘密外交の廃止、海洋の自由、関税障壁の撤廃、軍縮、ベルギーの主権回復、アルザス・ロレーヌのフランス返還、ポーランドの独立、国際平和機構の設立、民族自決などを呼び掛けた。

これ以降、アメリカを含めた連合国はドイツに対抗するだけでなく、ソビエトへの干渉を強めていく。


ドイツはソビエトと講話したことで西部戦線に部隊を集中して春季攻勢を開始。

パリ①の目前まで迫るが、200万を超えるアメリカの兵力が到着しはじめると戦況は逆転し、1918年7月のマルヌの戦いや8月のアミアン②の戦いで大敗を喫した。

※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 ②世界遺産「アミアン大聖堂(フランス、1981年、文化遺産(i)(ii))」

シェーンブルン宮殿、青磁の間
カール1世が国事不関与宣言を行ったシェーンブルン宮殿、青磁の間。この後カール1世はポルトガルに亡命し、マデイラ島でなくなった (C) Roger Wollstadt

1918年9月にはブルガリア、10月にはオスマン帝国が事実上降伏して休戦協定を締結する。

ドイツも敗戦が濃厚となり、10月には出撃命令を受けたキール軍港の水兵たちが出撃命令を拒否。

これに処罰が下されると水兵らは反乱を起こし(キールの反乱)、兵士や労働者層による政権打倒の暴動や反乱が各地に広がり、バイエルン王国をはじめ帝国下の多くの国々で王政が倒された。

 

オーストリア=ハンガリーは10~11月に戦われたイタリアとのヴィットリオ・ヴェネトの戦いで大敗を喫し、国内でもチェコスロバキアやポーランド、ボヘミア(ベーメン)、クロアチアなどで独立運動が活発化。

ドイツもオーストリア=ハンガリーも敗戦どころか帝国崩壊の危機に直面した。

 

11月3日、オーストリア=ハンガリーはイタリアに降伏して休戦協定に調印。

11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が事実上退位して翌日オランダに亡命し、ドイツ帝国は滅亡して共和政へ移行した(ドイツ革命)。

11月11日、オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世がウィーン①のシェーンブルン宮殿②で国事不関与宣言を行って事実上退位し、オーストリア=ハンガリー帝国も崩壊した。

この日、ドイツ共和国の臨時政府は連合国と休戦協定を結び、ここに第一次世界大戦が終結した。

この大戦を通した犠牲者数は1,500万人以上にのぼるといわれている。

※①世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア、1996年、文化遺産(i)(iv))」

 ②世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))

 

[関連サイト]

ウィーン歴史地区/オーストリア

シェーンブルン宮殿/オーストリア

 

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世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」ウスペンスキー大聖堂
ロシア皇帝戴冠の舞台だったモスクワのウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)、19世紀の姿。画家はヘンリー・ブリュワー。共産主義は無神論をとり、宗教を麻薬と同様と断じて迫害を行ったが、ここでは1918年にレーニンの特別許可が下りて復活大祭が開催された。「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」構成資産

<第二次ロシア革命>


ロシアは大戦の緒戦、タンネンベルクの戦いに大敗して以来負けを重ね、国民は食料や燃料にも困窮する生活を強いられていた。

政権への不満が募って1916年頃から各地でデモやストライキが頻発。

労働者や兵士たちは労働者自治組織=ソビエト(評議会)を組織して集まり、不満を訴えた。


1917年3月(ロシア暦2月)、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク※)で女性労働者がパンを求めてデモを開始。

これに各地のソビエトが呼応して帝政打倒を掲げる反乱に発達し、ロマノフ朝のニコライ2世が退位して帝政が崩壊した(二月革命/三月革命)。

ロシアの国会(ドゥーマ)のメンバーを中心に臨時政府を建てて戦争を継続するが、ソビエトは戦争に反対し、農民は土地を、ウクライナ人やフィンランド人などの諸民族は独立を求めて蜂起した。

※世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」」

フランクリン・シャフナー監督『ニコライとアレクサンドラ』予告編。ニコライ2世と皇后アレクサンドラを中心に1917年の第二次ロシア革命(二月革命と十月革命)を描いた大作


ロシアでは1898年にマルクス主義を掲げるロシア社会民主労働党が設立されたが、直後にレーニンらのボリシェヴィキとプレハーノフらのメンシェヴィキに分裂。

レーニンは労働者解放運動に参加した罪でシベリアに流刑となり、その後スイスに亡命していた。


4月にレーニンがペトログラードに帰還すると、四月テーゼで「すべての権力をソビエトへ」という方針を発表し、人々に臨時政府を支持しないよう訴えた。

6月に第一回全ロシア=ソビエト大会が開催されたが、この時点ではレーニンらのボリシェヴィキは少数派にすぎなかった。

7月にボリシェヴィキが戦争反対を掲げてデモを開催すると、首相となったケレンスキー率いる臨時政府はこれを弾圧(七月暴動)。

レーニンは、今度はフィンランドに亡命した。


しかし、反戦を掲げるボリシェヴィキに対する支持はこの後も拡大。

9月に軍部のコルニーロフが反乱を起こすが、臨時政府はこれを押さえきれず、代わりにトロツキーらが率いるボリシェヴィキが赤衛軍を組織して反乱を鎮圧した。


十分な支持と力を得たと確信したレーニンは武装蜂起を決意。

11月(ロシア暦10月)にペトログラードの冬宮殿※を襲撃して臨時政府を打倒した(十月革命/十一月革命)。

※世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」


翌日、ボリシェヴィキが多数を占める全ロシア=ソビエト大会が開催されて新政権が誕生。

世界初の社会主義国家、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ソビエト共和国)が成立した。

レーニンは人民委員会議長となり、実質的に元首に就任。

また、レーニンが起草した無償金・無併合・民族自決・秘密条約の破棄を原則とする「平和に関する布告」と、地主の土地を取り上げて農民に配分する「土地に関する布告」が採択された。

世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」
赤の広場。「赤」はロシア語で「クラスナヤ」と呼ばれる語で、「赤」以外に「美しい」の意味があった。この名が付けられたのは17~18世紀で、共産主義の「赤」を意味したものではない。世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」構成資産 (C) Christophe Meneboeuf

1918年1月には憲法制定議会を閉鎖。

3月にボリシェヴィキは共産党に改称し、他の政党を禁止してボリシェヴィキ独裁を完成させた。

この頃、首都機能もモスクワ※に遷されている(正式な遷都は1922年)。

※世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 

1918年3月、ソビエト政権は同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結。

政情の不安定と国際的な孤立から、ポーランド、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、フィンランドの放棄やウクライナの独立を認めさせられるなど大幅な譲渡を強いられたが、ともかく終戦を実現した。


レーニンを中心にボリシェヴィキは銀行や工場を国有化し、土地を没収して農民に分配、男女同権を実現するなど社会主義化を進めた。

革命反対派に対してはチェカ(非常委員会)を設置して厳しく取り締まり、全資本主義国に広がる革命(世界革命)が必要と考えて1919年3月にはモスクワでコミンテルン(共産主義インターナショナル/第三インターナショナル)を結成した。

しかし、ドイツやハンガリーの革命において一時はソビエトにあたるレーテが組織されたりもしたものの、人々は民族自決に向かい、社会主義運動が拡大することはなかった。

世界遺産「セルギエフ・ポサドのトロイツェ・セルギー大修道院の建造物群」
ボリシェヴィキによる弾圧で大きな被害を受け、第二次世界大戦後まで閉鎖に追い込まれた世界遺産「セルギエフ・ポサドのトロイツェ・セルギー大修道院の建造物群(ロシア、1993年、文化遺産(ii)(iv))」。虐殺された主教や修道士も少なくないという

戦争が終わって平和が訪れるかに見えたが、連合国にとって反帝国主義・反資本主義を掲げる第二次ロシア革命の成功は阻止すべきものだった。

このためボリシェヴィキをテロ組織と断じて反革命組織(白軍)を支援し、対ソ干渉戦争を開始。

1918年3月にイギリス、フランスは北極圏のムルマンスクに上陸し、日本はウラジヴォストークを占領。

さらに、シベリアで戦っていたチェコスロバキア兵の救出を口実にして、主に日本とアメリカがシベリア出兵を行った。

これらに対してソビエト政府は赤衛隊を発展させた赤軍とチェカを展開し、農作物などを徴収して計画的に配分する戦時共産主義を敷いて対抗した。


しかし、西部戦線での戦いが激化したことで連合国は干渉戦争に注力することができなかった。

また、ドイツの敗戦が決まったことでチェコ兵救出などの意味がなくなると同時に厭戦ムードが広まり、干渉軍は徐々に撤退。

ソビエト国内の反革命派も1920年ほどまでに鎮圧されていった。

日本は大陸進出の足がかりにしようと出兵を続けていたが、これも南樺太を除いて1922年に撤退した。


こうしてレーニンは干渉戦争と反革命運動の制圧に成功したが、戦時共産主義によって人々の生活は困窮しており、クロンシュタットの反乱をはじめ農民や労働者の反乱は続いた。

このため戦時共産主義を転換して穀物挑発を中止し、税化したのち余剰作物の販売を承認。

中小企業の営業を認め、一定の範囲で市場経済を容認した(新経済政策、ネップ)。

これにより経済状態は急速に回復し、市場経済を認めたことで資本主義諸国との関係も改善。

1921年には英ソ通商協定が締結された。


1922年、ロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ザカフカースという4つのソビエト共和国が連邦を形成。

ここにソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生する。


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ベルサイユ宮殿・鏡の間におけるベルサイユ条約調印式
ウィリアム・オルペンによるベルサイユ宮殿・鏡の間におけるベルサイユ条約調印式の様子。世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園(フランス、1979年、2007年拡大、文化遺産(i)(ii)(vi))」構成資産

<ベルサイユ体制とワシントン体制>


1919年1月より、第一次世界大戦の講和会議としてパリ講和会議が開催された。

中心となったのはイギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソー、アメリカのウィルソンで、イタリアのオルランド、日本の西園寺公望がそれに続いた。


ベースとなったのはウィルソンが1918年に発表していた十四か条の平和原則で、これによりヨーロッパの民族自決(独立)などが進められる一方で、植民地の自決は認められず、ドイツに対してはフランスの強い要望もあって非常に厳しい条件を突きつけた。

講和条約については、ドイツとの間でベルサイユ条約、オーストリアがサン=ジェルマン条約、ハンガリーがトリアノン条約、ブルガリアがヌイイ条約、オスマン帝国がセーヴル条約といった具合に個別に結ばれた。

世界遺産「タリン歴史地区[旧市街]」
ロシア帝国下にあり、エストニア独立後に首都となったタリンのアレクサンドル・ネフスキー聖堂。タマネギ・ドーム(クーポル )と金属のように輝く木製の屋根瓦が特徴的だ。世界遺産「タリン歴史地区[旧市街](エストニア、1997年、2008年拡大、文化遺産(ii)(iv))」構成資産

ドイツはすべての海外植民地を手放し、アルザス・ロレーヌ地方をフランスに返還。

1,320億マルク(約40兆5,000億円)という天文学的な賠償金を課されたほか、軍事的には徴兵制や戦闘機・潜水艦等の保有が禁止され、主力艦トン数も制限、さらにルールやラインラント地方での軍備が禁止された。

 

そして戦後、下記の独立国が誕生した。

  • ロシアから独立:フィンランド共和国、エストニア共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国、ポーランド共和国
  • オーストリア=ハンガリーから独立:オーストリア共和国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国

 

この他、アルザス・ロレーヌ地方はドイツからフランスへ、チロルやトリエステといった未回収のイタリアはオーストリアからイタリアへ返還され、ポーランドがオーストリア=ハンガリー東部の多くを譲り受けて領土を増やした。

世界遺産「ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト」
世界遺産「ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト」登録の国会議事堂。もともとドナウ川を挟んでブダとペストの町に分かれていたが、オーストリア=ハンガリー時代の1873年に正式に合併し、ハンガリー独立後に首都となった

オーストリア=ハンガリーはウィーン①を首都とするオーストリアとブダペスト②を首都とするハンガリーに引き裂かれたうえに多くの土地を割譲され、オーストリアはドイツ人居住区のみがあてがわれてドイツとの合併も禁止された。

※①世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト(ハンガリー、1987年、2002年拡大、文化遺産(ii)(iv))」


オスマン帝国はバルカン半島の一部とアナトリア半島のイズミール地方をギリシアに割譲し、レバント地方については多くが国際連盟の管理下に置かれ、シリアはフランス、イラクやトランスヨルダン、パレスチナはイギリスの委任統治となった。


また、スイスのジュネーブに国際連盟が創設され、ILO(国際労働機関)や常設国際司法裁判所等が設置された。

当初は42か国が参加し、イギリス、フランス、イタリア、日本が常任理事国となった。

ただし、ドイツやオスマン帝国、ソビエトは参加が認められず(ドイツは1926年、ソ連が1934年に加盟)、アメリカは提唱国であったにもかかわらずモンロー主義を掲げ、予算負担を嫌う議員らをまとめきれずに参加には至らなかった。


パリ講和会議以降に成立したこうした新しい国際秩序をベルサイユ体制と呼んでいる。

世界遺産「リガ歴史地区」
世界遺産「リガ歴史地区(ラトビア、1997年、文化遺産(i)(ii))」の美しい街並み。リガはゲルマン人の多い町だが、第一次世界大戦までロシア領となっていた。戦後ロシアより独立し、ラトビアの首都となった

国際連盟にアメリカが参加していなかったため、1921~22年にアメリカ大統領ハーディングの提唱で9大国(米・英・仏・伊・オランダ・ポルトガル・ベルギー・中・日)を招集してワシントン会議が開催された。

この会議で海軍軍備制限条約・九か国条約・四か国条約が締結された。

詳細は以下。


海軍軍備制限条約:主力艦保有トン数比を米・英・日・仏・伊で5:5:3:1.67:1.67とする

九か国条約:中国の領土保全・主権尊重の承認(日本がドイツから奪った膠州湾等の中国返還)

四か国条約:太平洋領土の現状維持、日英同盟の破棄


こうしてワシントン会議は日本の中国・太平洋への進出を牽制するものとなった。

このため日本は中国膠州湾やシベリアから撤退した。


ワシントン会議による国際秩序をワシントン体制と呼び、ベルサイユ体制と両輪となって戦後を支えた。


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世界遺産「イスタンブール歴史地域」トプカプ宮殿
1856年にドルマバフチェ宮殿が完成するまでオスマン皇帝の住居となっていたトプカプ宮殿。ムスタファ・ケマルがトルコ共和国を建国したのち、トプカプ宮殿やアヤ・ソフィアは博物館として一般公開された。世界遺産「イスタンブール歴史地域」構成資産

<ヨーロッパの戦後>


■オスマン帝国


オスマン帝国はセーヴル条約によって多くの土地を奪われた。


大戦で活躍したムスタファ・ケマルは政府の弱腰を非難し、1920年にトルコ大国民議会と国民軍を組織してアンカラ政府を樹立して帝国政府と対立する。

この混乱を見たギリシアは、大戦後にギリシア領となったアナトリア半島のイズミール地方に軍を展開。

ギリシア=トルコ戦争(1919~22年)が勃発し、帝国政府は苦戦を強いられる。

しかし、ムスタファ・ケマル率いる国民軍の活躍で1922年にイズミールを奪回し、ギリシア軍を撤退に追い込んだ。


これにより国民の圧倒的な支持を得たムスタファ・ケマルは同年、イスタンブール※に入ってスルタン制を廃止。

ここにオスマン帝国が滅亡する。

※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ、1985年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」


そして連合国との間に新たにローザンヌ条約を結んでイズミールやトラキアなどを奪回して関税自主権などを回復。

1923年にトルコ共和国が成立させると、トルコ大国民議会は大統領にケマル・アタチュルク(=ムスタファ・ケマル/ケマル・パシャ)を選出する。

翌年、共和国憲法を制定して議会制・主権在民・女性参政権の導入などを行い、カリフ制も廃止されたことで政教分離が実現した。


以上をトルコ革命という。

これにより、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン帝国という四大帝国はすべて滅亡した。

世界遺産「クラクフ歴史地区」ヴァヴェル大聖堂
11世紀の建設で、ポーランド王国の歴代国王の戴冠式が行われたクラクフのヴァヴェル大聖堂(左)とその周辺。ピウスツキをはじめ、ポーランドの偉人が多数埋葬されている。世界遺産「クラクフ歴史地区(ポーランド、1978年、文化遺産(iv))」構成資産 (C) Foto Cavallo

■ポーランド

ポーランドは戦後、独立が認められ、バルト海への出口としてドイツと東プロイセン(ドイツ領)の間に海へと続くポーランド回廊を得たうえに、国際連盟管理下に収まった自由市ダンツィヒ(グダニスク)の管理権を手にした。


国家主席となったピウスツキはさらにポーランド分割以前の広大な版図の復活をソビエトに要求した。

ソビエトの混乱を見てピウスツキは1920年に侵攻してキエフ①を占領。

これに対してソビエトはポーランドの労働者階級の蜂起を期待してワルシャワ②近郊に迫るが、人々は思想よりも民族自立を選択して同調せず、結局敗退・撤退した。

ポーランドは1921年のリガ平和条約でウクライナ西部やベラルーシの一部を獲得し、ピウスツキは圧倒的な支持を得て軍事独裁を強めていく。

※①世界遺産「キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールスカヤ大修道院(ウクライナ、1990年、2005年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 ②世界遺産「ワルシャワ歴史地区(ポーランド、1980年、文化遺産(ii)(vi))」


■アイルランド


大戦後、イギリス経済はなかなか回復せず、国内でも民族自立の動きが出ていた。


19世紀からアイルランドではシン・フェイン党やアイルランド義勇軍が独立を求めて活動していたが、1919年に独立派がアイルランド共和国の独立を宣言してアイルランド独立戦争が勃発。

1922年にアルスターなど一部の北アイルランドを除いてイギリスと友愛条約を結び、アイルランド自由国としてイギリス国王を元首とする自治領となった。


1931年にウェストミンスター憲章が定められ、アイルランドはイギリス連邦の一部としてイングランドと同等の地位を獲得。

1937年には国王への忠誠も否定して国名をエールに変更した。

こうした動きが1949年のアイルランド共和国独立につながっていく。

世界遺産「ストラスブールのグラン・ディル」
三十年戦争(1618~48年)の頃からフランスと神聖ローマ帝国の間で領有権が争われていたアルザス・ロレーヌ地方。アルザスに含まれるストラスブールもプロイセン=フランス戦争時代から第二次世界大戦にかけて、フランスとドイツの間を行き来した。世界遺産「ストラスブールのグラン・ディル(フランス、1988年、文化遺産(i)(ii)(iv))」構成資産

■フランス

 

プロイセン=フランス戦争に続いてドイツと戦い、国土が戦場となったフランスはドイツに対して強い恐れと疑いを持っていた。

これがドイツに対する厳しい賠償要求となって表れた。

 

その賠償金支払いが滞ると、1923年にフランスはベルギーとともに炭田や工業地帯が広がるルール地方を占領。

戦争の再発が懸念されて国際的な非難を浴びると政権が交代し、外相ブリアンらを中心に兵を撤退させて国際協調の道をとることになる。

 

そして1925年、英・仏・独・伊・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアの7か国でロカルノ条約を締結し、ドイツとフランス、ベルギー国境の現状維持や不可侵、ラインラントの非武装化などを決定。

これによりドイツの孤立が解消され、翌年、国際連盟への加盟が実現した。

 

1928年、フランスのブリアンとアメリカのケロッグ国務長官の提唱でドイツや日本、ソ連を含む15か国(のち63か国)が不戦条約を締結。

紛争解決のための手段として戦争を放棄することを宣言した。

 

世界遺産「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」バウハウス・デッサウ校
ヴァルター・グロピウス設計のバウハウス・デッサウ校。バウハウスは1919年にワイマールに建設された総合造形学校で、1933年にナチスによって閉鎖されるまでわずか14年間ではあったが、建築・美術におけるモダニズムの動きをリードした。世界遺産「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」構成資産

■ドイツ

 

1919年、ワイマール※で開催された国民議会で多数党の社会民主党が連立政府を形成し、同党のエーベルトが大統領に選出された。

7月に主権在民や男女同権・普通選挙・議院内閣制などを定めた民主的な新憲法=ワイマール憲法を制定し、ワイマール共和国(1919~33年)が成立。

ただ、ワイマール憲法には大統領の緊急命令権(憲法を停止して緊急手段をとる権利)や議会解散権が定められており、これがのちにヒトラーによる独裁を可能にした。

※世界遺産「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群(ドイツ、1996年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 

1923年、フランスとベルギーがルール占領を実行すると、ドイツでは生産が大幅に低下。

以前からはじまっていたドイツ・マルクの崩壊に拍車がかかり、一時は1ドル=4兆2,000億マルクという超インフレに見舞われた。

この危機に対し、シュトレーゼマン首相はレンテンマルクを発行し、1兆マルクを1レンテンマルクとすることでインフレを抑えることに成功した。

 

フランスのルール占領に対して政府は生産を控える等の消極的政策しかとらなかった。

これに対してナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)を率いるヒトラーはバイエルンのミュンヘンを拠点にクーデターを起こし、打倒ワイマール政府を掲げてベルリンに進軍した(ミュンヘン一揆)。

しかしバイエルンの行政・警察・軍部の支持を得ることができず、クーデターは失敗。

ヒトラーは捕らえられ、ナチ党は政治活動を禁じられた。

 

シュトレーゼマンはミュンヘン一揆の責任をとって辞任し、その後外相として履行政策を掲げて国際協調外交を展開。

目処が立たなかった賠償金支払いに対しても、賠償金の減額とアメリカ資本の注入による復興を採用し(1924年、ドーズ案)、賠償金の削減と返済期限の延長を実現して(1929年、ヤング案)見通しを立てた。

フランス、ベルギーのルール撤退も、これらを好感してのものだった。

世界遺産「ドブロブニク旧市街」
セルブ=クロアート=スロヴェーン王国の時代にラグーサから名称が変更されたアドリア海の真珠、ドブロブニク。小島に城壁を巡らせた一帯が世界遺産「ドブロブニク旧市街(クロアチア、1979年、1994年拡大、文化遺産(i)(iii)(iv))」だ

■セルブ=クロアート=スロヴェーン王国


「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人の国」を意味するこの国は、スラヴ人を主とするセルビア、モンテネグロに、オーストリア=ハンガリー領のクロアチア、スロベニアを加えて誕生した。


しかしながら、セルビアとモンテネグロが主として正教会であるのに対し、クロアチアやスロベニアはカトリックで、アルバニア人のようにアジア系のイスラム教徒も少なくない。

いずれも独自の文化を持っており、言語も統一されていない。

これらをスラヴ人で一括りにするのは難しく、国家体制としても中央集権を強めたいセルビアと、連邦制を求めるクロアチア、平等・独立を求めるイスラム教徒などに温度差が生まれていた。


そしてセルビア人とクロアチア人をはじめとする民族対立が激化して議会が機能不全に陥ると、国王アレクサンデル1世は独裁によって統合を実現しようと、1929年に憲法を停止。

独裁制を布告すると、「南スラヴ人の国」を示すユーゴスラビア王国に改称する。

しかし民族対立は収まらず、1934年に暗殺されてしまう。

世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア、バチカン市国共通)」&「バチカン市国」
サン・ピエトロ宮殿から続く「和解の道」。1929年のラテラノ条約を記念して造られたもので、サン・ピエトロ宮殿とサンタンジェロ城を結んでいる。サンタンジェロ城は「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア、バチカン市国共通)」、サン・ピエトロ大聖堂は「バチカン市国」として世界遺産に登録されている

■イタリア

 

イタリアはオーストリアとサン=ジェルマン条約を結んでチロルやトリエステといった未回収のイタリアを回収することに成功したが、戦勝国として他に割譲地がなく、不満がくすぶっていた。

1919年にイタリアの詩人ダヌンツィオが愛国者を組織して独断でセルブ=クロアート=スロヴェーン王国のフィウメを占領。

国際連盟がこれを不法と断じたため、イタリア政府がダヌンツィオを強制排除し、フィウメは自由市とされた。

 

イタリアはその後インフレに見舞われて人々の生活が困窮。

各地でデモやストライキが起き、政府に対する不満が募った。

 

この時期に勢力を伸ばしたのがムッソリーニのファシスト党(1921年までは戦闘ファッシ)だ。

ファシスト党は、個人の利益よりも全体の利益を優先し、国家が国民を統制して強力な国家統合を図るべきであるという全体主義を掲げ、愛国主義的な主張を前面に押し出した。

これを社会主義者によるストライキに辟易していたブルジョワ層や貧困層が強く支持した。

 

世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂。ラテラノ条約はこの大聖堂に隣接したラテラノ宮殿で締結された。世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」構成資産

1922年、ファシスト党は数万人を動員してローマ※進軍を行い、これを見た国王がムッソリーニを首相に命じて政権を譲渡してしまう。

ムッソリーニは当初連立内閣を組織していたが、次第に選挙法を改正し、暴力や脅迫を用いて独裁色を強化。

1925年に議会を解散して独裁を宣言し、翌年には他の政党を解散させて一党独裁体制を確立した。

※世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン市国共通、1980年、1990年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 

外征にも乗り出して、1924年にフィウメを併合し、1926年にアルバニアを保護国化。

一方で、断絶していたローマ教皇庁とラテラノ条約を結んでバチカン市国※を承認し、1929年にカトリックとの関係を修復した。

※世界遺産「バチカン市国(バチカン、1984年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 

[関連サイト]

バチカン市国

 

 

ムッソリーニがはじめたような、個人の自由や人権よりも国家を優先して議会などの民主的プロセスを否定し、対外的には侵略的な政策をとる専制・独裁的な政治理念をファシズムと呼ぶ。

世界遺産「ポレッチ歴史地区のエウフラシウス聖堂建築群」
バルカン半島にはここに書いた以外でもイタリア領となっていた町や港も少なくなかった。一例が世界遺産「ポレッチ歴史地区のエウフラシウス聖堂建築群(クロアチア、1997年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」を有するパレンツォ(現・ポレッチ)だ

■ソ連


1924年にレーニンが死去すると、後継者争いが勃発。

最有力と見られていたトロツキーは世界革命論を掲げて資本主義諸国における社会主義革命を期待していたが、結局革命が広がることはなかった。


一方、スターリンは自国だけで社会主義が成立するという一国社会主義論を提唱。

この政争にスターリンが勝利するとトロツキーを追放し、実権を掌握した。


スターリンはネップに変わってコルホーズ(農民による共同経営の集団農場)やソフホーズ(モデルとなる国営農場)を設置して農業を組織化し、重工業を推進する第一次五か年計画を実行。

集団化に抵抗する農民を逮捕し、強制供出により多数の餓死者を出したが、ともかく社会主義化と工業化を進めた。


■アメリカ


戦後、アメリカは国際連盟の成立やドイツの賠償金問題で主導的な役割を果たしながらも孤立主義が復活し、ベルサイユ条約の批准を行わず、国際連盟にも参加しなかった。


経済的には、大戦中に貿易や借款(公的融資。戦債)によって莫大な利益を上げたアメリカは、債務国から一気に債権国へ転換。

ロンドンのシティに変わってニューヨークのウォール街が国際金融市場の中心として台頭した。


ドイツの低迷などのためアメリカの工業生産は世界の4割に達し、金についても4割以上を独占した。

こうしたアメリカの資金は連合国のイギリスやフランスはもちろん、ドイツの経済復興をも支えた。

アメリカは「狂騒の20年代」あるいは「黄金の20年代」と呼ばれるほどに繁栄し、自家用車や洗濯機・冷蔵庫等の家電が普及し、大量生産・大量消費の生活様式が確立した。


この頃はいわゆるWASP(ワスプ。ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの略)を頂点とする保守的・差別的な動きも顕在化した。

一例が禁酒法だ。

もともと州単位では大戦中にビールの輸入を制限してドイツに打撃を与えるため、あるいは作物を戦場に送るために条例化されることもあったが、戦後は道徳的な立場から、あるいは移民や黒人の娯楽を破壊するために1917年に禁酒法が敷かれた。

しかし禁酒法はギャングの資金源になり、治安も悪化したことから1933年に廃止された。


1924年に修正された移民法では移民の上限が定められ、国別の割り当ても決められた。

アジア系ではこの頃多数を占めていた日本人が排除されたことから、日米関係が悪化した。

また、東欧やアジアからの移民が増え、黒人が北部に移動していることに反発し、白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)なども暗躍した。



次回は第一次世界大戦後の民族運動とファシズム・世界恐慌を解説する。



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