世界遺産と世界史42.産業革命とアメリカ独立革命

大航海時代以前、東西文化交流を支えたシルクロードの主要交易品は文字通り絹(シルク)だった。
中国で生まれた絹織物は同じ重さの金と交換されたというほどの超高級品として扱われた。
これに続く高級織物が綿(コットン)で、こちらはインドで誕生し、大航海時代に盛んにヨーロッパへ輸出された。
そして世界の織物の需要は産業革命によって羊毛(ウール)や亜麻(リネン)から綿へと変化する。
産業革命は綿に対する強烈な需要から巻き起こった。
なぜそんなに綿が必要とされたのだろう?
中世・近世まで、ヨーロッパの人々の衣服は主に羊毛や亜麻で作られていた。
羊毛は保温性がよくて暖かかったが、夏は暑い。
亜麻は通気性がよくて涼しかったが、冬は寒い。
両者とも当時の生地はぶ厚かったため加工がしにくく重ね着は困難、繊維も荒いのでザラついており、色を抜いたり染めたりする技術が未熟だったため地味で似たような製品しか作ることができなかった。
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ところが、17~18世紀にインドから輸入された高級綿織物=キャラコは薄くて軽くて刺繍などの加工がしやすく染色も簡単。
おまけに着心地は滑らかで、色彩もデザインも自由自在、寒ければ重ね着すればいいし、汚れたら水で洗濯することもできた。
このためイギリスで「キャラコ熱」と呼ばれるほどの大ブームを巻き起こし、イギリス東インド会社はキャラコの貿易で莫大な利益を上げた。
綿織物、綿布、あるいは木綿織物というのは綿花という植物から採れる糸=綿糸を紡いで織った布のことをいう。
綿花から綿糸を作る過程を「紡績」と呼び、綿糸から綿織物を作る過程を「織布」という。
紡績機は糸、織機は布を作る機械のことだ。
綿製品市場の拡大を脅威に感じた羊毛業者が国王に泣きついた結果、1700年にウィリアム3世がキャラコの輸入を禁止。
そこでインドから綿花を輸入してイギリスで加工を開始する。
毛織物の需要はほぼヨーロッパに限られていたが、綿はヨーロッパはもちろんインドや中国をはじめ世界中で人気があり、高級品として扱われていた。
これを極めれば世界の織物産業を牛耳ることができる――
これが産業革命の契機となった。
* * *

<産業革命>
需要はいくらでもあった。
そのうえで産業革命が成立するためには以下①~⑤の条件が必要だったといわれている。
①海外市場
重商主義をとったイギリスは、16世紀にスペイン、17世紀にオランダ、18世紀にフランスを追い落とし、「太陽の沈まぬ帝国(第一帝国)」といわれる広大な海外市場を手に入れた。
そして綿の原産地であるインドを支配下に収め、北アメリカやブラジルでもプランテーションを経営して綿花の栽培をはじめた。
イギリス→(工業製品・武器)→アフリカ→(黒人奴隷)→アメリカ→(綿花・タバコ・コーヒー・砂糖)→イギリスという三角貿易は莫大な富を生み出した。
産業革命が進むと今度は綿製品をヨーロッパはもちろんインドやアメリカといった新世界にも輸出した。
19世紀には、イギリス→(綿織物)→インド→(銀・アヘン)→中国→(茶)→イギリスという三角貿易が成立。
この結果、インドは綿織物の輸出国から輸入国へ転落した。
②資本
産業革命前、それまで世界一の毛織物産業国だったネーデルラントやフランドルに代わり、イギリスが台頭した。
商工業を中心とした都市生活は貨幣経済を形成し、資本の蓄積を促した。
金融資本が発展し、さらにイングランド銀行による財政革命(銀行券による金融業務の発達。「世界遺産と世界史38.三十年戦争とイギリス革命」参照)によって資金力が飛躍的に向上し、ロンドンは世界金融の中心となった。
加えて海外の植民地経営が富を生み、資本は着実に蓄積されて投資先を探していた。
産業革命当初、工場主たちは借金によって工場を経営したが、やがて重工業が主となるとその豊富な資本が第二次産業革命を支えた。

③労働力
羊毛生産のために農地を牧草地に変えた16世紀の第一次エンクロージャー(囲い込み)は多少なりとも農民の減少と都市生活者の増加をもたらした。
18世紀頃から人口増加に対応するために、今度は農業生産のための囲い込み=第二次エンクロージャーが行われた。
その担い手は豊富な資金を持つ農業資本家で、資本家がジェントリから土地を借り、賃金労働者として農民を雇用して資本主義的な農場経営を行った。
農業はそれまでの三圃制から四圃制に移行し、カブ・ジャガイモ・大麦・小麦・クローバーなどを輪作することで穀物生産を拡大させた。
一方で、土地を失ったり自ら都市に移住した農民たちは毛織物や綿織物の工場で働いた。
それまで庶民は農場で農業を行うか、家で織物を織ったりして作った手工芸品を売っていたが(家内制手工業)、都市の工場に勤務して皆で工程を手分けして生産を行うという新しい生活スタイルが誕生した(工場制手工業=マニュファクチュア)。
このマニュファクチュアが工業化のベースとなり、機械が工場で生産を行う工場制機械工業への移行を促した。

④工業原料
イギリスはローマ時代から鉄鉱石や石炭がよく採れた。
産業革命の転機となった発明が、コールブルックデール※でエイブラハム・ダービーが発明したコークス(蒸し焼きした石炭)を使って高品質の鉄を作り出す製鉄法で、これにより鉄の品質・生産量が飛躍的に向上し、機械類や鉄道・蒸気機関車などの製造を可能にした。
※世界遺産「アイアンブリッジ峡谷(イギリス、1986年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」
当初石炭はこのように鉄鉱石を溶かすために使用されたが、蒸気機関が誕生するとその燃料として大量に使用された。
鉱山関係の世界遺産でいえば、コーンウォール州とウェストデヴォン州の鉱山①は世界の三分の二の銅を生産したという銅山群で、当時最先端の蒸気機関を用いて採掘を行った。
また、ブレナヴォン②はローマ時代以来の石炭・鉄鉱石の鉱山で、ここで採掘から製鉄までを行った。
※①世界遺産「コーンウォールとウェストデヴォンの鉱山風景(イギリス、2006年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」
②世界遺産「ブレナヴォン産業用地(イギリス、2000年、文化遺産(iii)(iv))」
イギリス以外では、ドイツにはプロイセンの産業革命を支えた石炭坑ツォルフェライン①や、ガス送風機や連続燃結装置などの新技術によってヨーロッパ最大・最新の製鉄所となったフェルクリンゲン②がある。
※①世界遺産「エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群(2001年、文化遺産(ii)(iii))」
②世界遺産「フェルクリンゲン製鉄所(ドイツ、1994年、文化遺産(ii)(iv))」
スウェーデンでは北欧随一の製鉄所であるエンゲルスベリ①や、1,000年にわたって銅を採掘したファールン②が産業革命を支えた。
※①世界遺産「エンゲルスベリの製鉄所(スウェーデン、1993年、文化遺産(iv))」
②世界遺産「ファールンの大銅山地域(スウェーデン、2001年、文化遺産(ii)(iii)(v))」
ベルギーには石炭・鉄鉱石の炭鉱遺跡であるグラン・オルニュ※やボワ・デュ・リュック※などがある。
※世界遺産「ワロン地方の主要な鉱山遺跡群(ベルギー、2012年、文化遺産(ii)(iv))」
産業革命が遅れた日本には、高級品だった絹糸を大量生産して世界のファッションを変えた富岡製糸場①や、重工業で日本の産業革命をリードした九州・山口を中心とする工場群②がある。
※①世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群(日本、2014年、文化遺産(ii)(iv))」
②世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(日本、2015年、文化遺産(ii)(iv))」
⑤技術改革
毛織物業の場合、機械化されたり独占されると困るギルドや職人・商人たちがいるので競争や技術革新はなかなか進まなかった。
一方でキャラコの輸入が禁止されるまで、イギリスには綿産業はほとんど存在しなかった。
新しい産業なので規制もなく自由に技術革新が進んだ。
綿生産に関して、まず技術革新が必要とされたのは綿花から綿糸を作る紡績の工程だ。
そして綿糸が大量に生産されるようになると今度は綿糸から綿織物を作る織布の革新が望まれた。
以下では産業革命がもたらした4つの革命と、その反動である社会問題、各国への波及について見てみよう。
綿工業の技術革命については上の動画も参照してみてほしい。
飛び杼からミュール紡績機までの進化の過程を解説している。

■技術革命
時代順に発明者と発明品を羅列する。
飛び杼と力織機が織機で、他は紡績機だ。
○ジョン・ケイ:飛び杼(ひ)
織物は縦に並べた経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を通して織るのだが、従来、緯糸は助手が杼と呼ばれる装置を操作して紡いでいた。
飛び杼は自動的に横に飛んで戻ってくる装置で、これによって織りの速度は4倍に飛躍し、助手が不要になった。
○ハーグリーブス:ジェニー紡績機
綿花の一本一本の糸は短いので、これを同じ方向に伸ばしてひねって結びつけて一本の長い糸を作る。
このとき使うのが糸車なのだが、ジェニー紡績機で同時に複数の糸を紡ぐことができるようになり、従来の6~8倍の速度を達成した。
○アークライト:水力紡績機
動力に水車による水力を用いた紡績機で、速度が600倍になっただけでなく、機械が強いひねりを入れることで強靭な糸を供給した。
○クロンプトン:ミュール紡績機
ジェニー紡績機と水力紡績機の長所を組み合わせた機械で、19世紀に広く普及して強くて細い糸を大量生産した。
○カートライト:力織機
川が近くにないと使えない水力に代わって蒸気機関を動力に用いた織機で、織りをきわめて高速化した。
関係する世界遺産としては、水力紡績機を世界ではじめて導入したダーウェント※などがある(産業コミュニティー関連の世界遺産は後述)。
※世界遺産「ダーウェント峡谷の工場群(イギリス、2001年、文化遺産(ii)(iv))」
蒸気機関のモデル。右で発生した蒸気の力を中央のシリンダーでピストン運動に変え、その運動を左のフライホイール(はずみ車)で円運動に変換している
■動力革命
液体を熱して気体にすると大きく膨らみ、冷やすと急速に収縮する。
この力を利用して、立ち昇る蒸気をなんらかの力に変える機関を蒸気機関という。
18世紀、ニューコメンは蒸気を用いて持ち上げたり下げたりする上下運動に変え、ワットはこれを改良して回転運動に転換した。
ニューコメンやワットは大気圧を利用していたが、トレビシックが高圧蒸気機関を開発すると小型化に成功。
トレビシックはその小型蒸気機関を列車に載せて史上初の蒸気機関車ペナダレン号を発明した。
現在でも火力発電所や原子力発電所では発生した熱で水を沸騰させ、高圧の蒸気によってタービンを回している。
これも立派な蒸気機関だ。

■交通革命
綿産業が発達したのち、機械を作る機械工業や鉄を作る鉄工業、石炭を生産する石炭業といった重工業が発達した(第二次産業革命)。
それまでの軽工業に比べて使用する石炭や鉄鉱石は格段に増え、それらを運ぶ交通機関においても改良が望まれた。
18世紀後半には荷物を大量に運ぶため運河網が整備され、内陸部に船を乗り入れさせた。
19世紀には線路を敷いてウマに貨車を引かせる馬車鉄道が登場した。
蒸気機関車はすでにトレビシックが発明していたが、蒸気機関も鉄の線路も軟弱で実用には遠かった。
スティーヴンソンは両者の改良を重ねて1814年に試作に成功。
1825年には史上初となる商用鉄道=ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通して石炭や旅客を運んだ。
このあと鉄道はイギリスはもちろんアメリカやインドといった植民地でも公共交通機関として急速に普及した。
蒸気船については18世紀後半からさまざまな試行錯誤が行われたが、1807年にフルトンが試運転に成功すると商業化の道が拓けた。


この時代の運河に関する世界遺産には、イギリス一の長さを誇る水路橋&運河ポントカサステ①や、高さの異なる運河を連結したラ・ルヴィエールやル・ルーの閘門②、イギリスが運搬路としてだけでなくアメリカの侵入を防ぐ堀・防壁・城砦として建設したリドー運河③などがある。
※①世界遺産「ポントカサステ水路橋と水路(イギリス、2009年、文化遺産(i)(ii)(iv))」
②世界遺産「中央運河にかかる4機の水力式リフトとその周辺のラ・ルヴィエール及びル・ルー[エノー](ベルギー、1998年、文化遺産(iii)(iv))」
③世界遺産「リドー運河(カナダ、2007年、文化遺産(i)(iv))」
鉄道に関する世界遺産としては、カール・リッター・フォン・ゲーガが高架橋や石橋・鉄橋・ループ線を駆使して通したゼメリング鉄道①や、秘境とされていたアルプスに開通したレーティシュ鉄道②、イギリスがインドに開業した鉄道の始点であるヴィクトリア・ターミナス駅③、紅茶の産地であるダージリンに築いたダージリン・ヒマラヤ鉄道④、イギリス領インドの夏の首都シムラへ続くカルカ・シムラ鉄道④、いまも蒸気機関車が稼働しているニルギリ山岳鉄道④などがある。
※①世界遺産「ゼメリング鉄道(オーストリア、1998年、文化遺産(ii)(iv))」
②世界遺産「レーティシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観(イタリア/スイス共通、2008年、文化遺産(ii)(iv))」
③世界遺産「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅[旧名ヴィクトリア・ターミナス](インド、2004年、文化遺産(ii)(iv))」
④世界遺産「インドの山岳鉄道群(インド、1999年、2005年、2008年、文化遺産(ii)(iv))」
また、鉄橋には1890年に完成したフォース橋①や、1893年に開通した世界最古の運搬橋であるビスカヤ橋②などがある。
※①世界遺産「フォース橋(イギリス、2015年、文化遺産(i)(iv))」
②世界遺産「ビスカヤ橋(スペイン、2006年、文化遺産(i)(ii))」

■生活革命
産業革命を機に、人々の衣食住も大きく変わる。
衣について、洋服の素材が羊毛や亜麻から綿に変わったのは先述の通りだ。
繊維工業の成功はあらゆる工業に応用され、他の産業でも工場化・機械化が進んだ。
たとえば新聞が普及したことで庶民にまで情報が浸透し、情報は大容量化・高速化した。
食について、コーヒーや紅茶を飲む習慣が一般にまで広まった。
砂糖も普及したことでコーヒーや紅茶に砂糖を入れる習慣ができあがった。
また、ジャガイモやトウモロコシなどの穀物や、バナナやレモン・オレンジといったフルーツ、チョコレートやトウガラシなどが急速に普及。
さらに蒸気船や蒸気機関車などの輸送機関やトロール漁の導入などで漁業が発達すると魚が気軽に食卓に上がるようになり、冷凍技術が普及すると牛肉や羊肉がアメリカやオーストラリアから輸入されるようになって食生活が一変した。
ロンドン名物フィッシュ&チップスはこの時代の象徴的な食べ物だ。
住について、都市生活では家で労働は行われず工場に勤務するスタイルへ移行し、アパートや長屋のような集合住宅が誕生した。
工場が寮のような形で集合住宅を持つ例もあり、工場城下町のような産業コミュニティを形成した。
こうしたコミュニティでは労働組合や協同組合が設立され、場合によっては労働者の平等を謳う共産主義的な社会の形成も試みられた。
また、交通革命で蒸気機関車や蒸気船が普及するとツーリズムが発達して観光旅行が普及した。
産業コミュニティの例としてはニュー・ラナーク※がある。
デヴィッド・デイルやその娘婿ロバート・オーウェンが1786年に作ったコミュニティで、水力紡績機を導入して綿糸を大量に生産した。
オーウェンは人道家でも知られ、労働者の教育や生活環境にも注意を払い、安価な購買所や幼稚園を設置し、労働時間も15時間前後働くのが当たり前だった時代に12時間まで減らし、10歳以下の子供の雇用も禁止した。
オーウェンは社会主義に惹かれてアメリカで理想的な協同社会=ニュー・ハーモニーの建設を試みるが、こちらは失敗している。
※世界遺産「ニュー・ラナーク(イギリス、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」
ソルテア※はタイタス・ソルトが築いたコミュニティで、運河や鉄道を利用して綿織物生産を行った。
工場・住宅・学校・病院・図書館・コンサートホール・救貧院などからなる計画都市で、その後の都市のモデルとされた。
※世界遺産「ソルテア(イギリス、2001年、文化遺産(ii)(iv))」
イギリス以外では、クレスピが築いたイタリアのクレスピ・ダッダ①は学校・病院・教会などを有するイタリアの企業都市で、フランスのノール=パ・デュ・カレー②は石炭鉱山町として発達した。
※①世界遺産「クレスピ・ダッダ(イタリア、1995年、文化遺産(iv)(v))」
②世界遺産「ノール=パ・デュ・カレー地方の炭田地帯(フランス、2012年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

■社会問題
安くて均質な商品が出回ると家内制手工業やギルド制手工業は衰退し、それらの労働力を工場が吸い上げてさらに発展。
工場経営者である資本家が地位を高める一方で、利益を最大化するために労働者の労働時間や労働環境は悪化し、低賃金や長時間労働・女性や子供の就労などの労働問題や、スモッグや水質汚濁といった公害問題、スラムの形成や酒などの浸透による治安の悪化など、さまざまな社会問題が発生した。
資本家と労働者というふたつの階級は「イギリスにはふたつの国民がいる」といわれ、対立が深刻化。
イギリスは1807年の奴隷貿易法で奴隷貿易を禁止し、1833年の奴隷制度廃止法で奴隷制自体を廃止していたが、国内では少年・少女に対して鞭を持って十数時間の労働を強制するというようなことが起こっていた。
また、工場制機械工業が発達するとそれまでの手工業者や工場の熟練工が不要となることもあり、18世紀後半頃から機械を打ち壊すラダイト運動が起こった。
こうした問題に対し、1802年に工場法が制定され、たびたび改正されて年少者の雇用や労働時間は改善していった。


■産業革命の波及
「世界の工場」となったイギリスは産業革命での成功を独占するため1774年に機械輸出禁止令を出して織機や紡績機などの輸出を禁止した。
しかし、自由貿易の推進と機械市場の拡大のために(機械そのものを売るために)1843年にこれを解除すると、産業革命はヨーロッパやアメリカで花開く。
最初に普及したのがイギリスと同じ織物業や金融業が盛んなベルギーだ。
ベルギーは1830年に独立すると産業革命に成功し、鉄道も普及させた。
フランスがこれに続いて1830年にはじまるが、フランス革命やナポレオン時代の影響で労働力も資本も不足していたため資本主義経済の浸透は遅れた。
これに危機感を抱いたナポレオン3世が主導して、1860年代に一気に本格化する。
プロイセンは1834年の関税同盟結成から域内の交易が自由化され、ラインラントを中心に産業革命が進行した。
もともと織物が盛んではなかったことと石炭や鉄鉱石が豊富だったことから、いきなり製鉄業などの重工業が発達し、19世紀半ばにはイギリスを凌駕した。
アメリカでは1812~14年のアメリカ=イギリス戦争(米英戦争)でイギリスの貿易が途絶えて以来、自国の生産が拡大して産業革命がスタート。
南北戦争で工業中心の北部が勝利したことから工業化が加速した。
広大な国土には綿花はもちろん石炭も鉄鉱石も石油も豊富で、大陸横断鉄道などで需要も拡大。
奴隷制が廃止されてもアジアからの移民、いわゆるクーリー(苦力)がそれを補い、労働力も確保した。
こうして19世紀末にはイギリス、プロイセンを凌ぐほどに発展していく。
* * *

<資本主義と自由主義、社会主義>
産業革命では資本主義と自由貿易主義という現在でも世界の主流となっている思想が普及した。
生産には3つの要素=労働・土地・資本が必要となる。
資本は活動資金のことで、資金で手に入れた工場や機械などの建物・設備や原材料・製品なども含まれる。
この資本を所有しているのが資本家で、資本家は労働者を賃金で雇用し、商品を生産して販売することで利益を得る。
こうした経済体制を資本主義と呼び、産業革命で急速に拡大した。
産業が発達するにつれて、既得権益を保護するさまざまな制約が産業の足を引っ張るようになる。
たとえば穀物法は国内の農業資本家の利益を守るために一定の値段以下に下がった場合に輸入を停止する法律だが、穀物市場への参入を妨げるし、他産業の輸入にも影響を与えることから消費者はもちろん産業資本家に不評だった。
資本家たちは自由な競争・自由な貿易を求めるようになり、あらゆる制限の撤廃を要求。
その成果の一例が1833年の東インド会社の中国貿易独占権廃止に伴う商業活動の停止や奴隷制度廃止、1849年の航海法廃止だ。
こうした思想を理論づけたのがアダム・スミスの『国富論(諸国民の富)』だ。
ほしい人がたくさんいれば値段は上がるし、誰もほしがらなければ値段は下がる、価格は自由競争という市場原理の中で適当な場所に落ち着くはずだ――
「神の見えざる手」と呼ばれるもので、自由放任(レッセフェール)の中でこそ経済活動は最大化すると訴えた。
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奴隷制度の廃止もこうした思想の下にあったとも考えることができる。
奴隷制は人の平等を謳う聖書の立場からも受け入れが難しいものであったし、啓蒙思想の浸透からも人道的に問題があった。
そのうえ、資本主義・自由貿易主義的な視点から見ると高コストな生産手段でしかなかった。
奴隷はアフリカで狩られ、船に乗せられ、アメリカにやってきて、途中で死ぬ者も少なくない。
買い入れるのに高いお金が必要であるのみならず、プランテーションでは衣食住のすべての面倒を見なければならない。
奴隷側には失うものがないので反乱や暴動のリスクも高く、向上心が低くて熟練職人なども生まれない。
それに比べて賃金労働者は都市で確保できるし、工場で働いている間だけ面倒を見ればよい。
「働けば働くだけ豊かになれる」ということで長時間労働が許容され、熟練工を優遇することでモチベーションも操れる。
人口が増えていけば労働者の賃金も競争によって低くおさえることができるので、利益を高く保つことができる。
おまけに労働者が賃金を得ることでそれが市場にもなる。
奴隷制を廃止したのは、より儲かる方法を見つけ出したからにすぎないのだろう。
資本主義経済では、経済が拡大する好況期と縮小する不況期が繰り返される。
不況時には弱体化した資本が大きな資本に吸収される資本の集中が起こる。
大資本は余った資本を新たな産業や市場に投資してそれが新たな好況を産み、経済をリードする。
そして大資本は資金調達のために銀行をはじめとする金融機関を利用し、金融資本が発達する。
産業の拡大再生産のためには市場と原料が不可欠だ。
このため金融資本と大資本は国家と結びついて新たな市場と原料を求めて領土の拡大を進める。
これが19世紀後半から広まる帝国主義だ。
こうした考え方に対し、そもそも資本を個人に集中させたがために利益の追求が起こり、資本家と労働者の対立が生まれているとして、私有財産を否定し、私的な所有や利益を禁じて平等で公正な社会を築こうとしたのがサン・シモンやフーリエ、オーウェンら社会主義者たちだ。
もっとも長く働き、もっとも会社に貢献している労働者が富を増やせない一方で、資本家は工場を拡大・増加して財産を増やしつづけている現実に対し、協同で資本を所有して利益を平等に分配する協同社会の実現を模索し、特にオーウェンはニュー・ラナークやアメリカのニュー・ハーモニーでその実証に努めた。
しかしながらサン・シモンとフーリエは晩年自身が困窮し、オーウェンもニュー・ハーモニーで財産を失った。
エンゲルスらは彼らの実績は認めたものの、科学的な裏付けと実現方法を欠いているとして空想的社会主義と切り捨てた。
マルクスとエンゲルスは自らの思想を科学的社会主義と称し、文化や政治といった人間のさまざまな活動が経済的な基盤の上にこそ成立すると考え、人間の歴史は王・貴族・平民・農奴・奴隷といった階級闘争の繰り返しだったとする。
産業革命後、階級闘争は資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)の争いに移行し、やがて資本家の没落で終わることを示して「万国の労働者よ、団結せよ!」(マルクス、エンゲルス共著『共産党宣言』より)と国際的な団結を呼び掛けた。
* * *
アメリカ独立戦争を描いたローランド・エメリッヒ監督『パトリオット』予告編
<アメリカの独立革命>
アメリカの東海岸ではイギリスの13植民地を中心に開拓が進められ、北部では商工業や自営農業が、南部では黒人奴隷を用いたプランテーションが発達した。
18世紀後半からイギリスとフランスとの間でアメリカの支配権を巡る戦争が続き、ウィリアム王戦争、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争などが勃発。
イギリスは1763年のパリ条約で、カナダ、ミシシッピ川以東のルイジアナ、西インド諸島の一部、セネガルを獲得し、スペインからフロリダを入手した。
一方フランスは上記に加えてスペインにミシシッピ川以西のルイジアナを割譲し、アメリカの植民地をほとんど失った。
イギリスはフランスとの戦いに決着をつけると戦争による財政難を解消するために、受益者であるアメリカの植民地人に対する課税を強化する。
ところがこれが不満を呼び、1765年に成立した印紙法(印刷物に印紙を貼らなければならないという法律)に対して「代表なくして課税なし」と、植民地の代表が本国の議会にいないことから課税権がないという論理で拒否(ヴァージニア決議)。
人々はイギリス製品の不輸入運動を展開し、翌年には撤廃に追い込んだ。


1767年にはタウンゼンド諸法で茶や紙・ガラスに対して税が課せられると、不輸入運動を強化。
さらに1773年の茶法で東インド会社に茶の独占販売権を与えたため、その不平等に反発して東インド会社の船舶を襲撃して積み荷の茶を海に捨てる事件が発生した(ボストン茶会事件)。
アメリカ人たちは不平等貿易の象徴である茶の不買運動を行ってコーヒーを飲むようになったことから、アメリカ人のコーヒー好きがはじまったといわれる。
これに激怒したイギリス国王ジョージ3世はボストン港を封鎖して対抗。
植民地側は翌年、フィラデルフィアで第一次大陸会議を開いて抗議し、不輸入運動を続けた。
1775年、植民地側が武器を用意しているという情報を得たイギリスはコンコードに軍を派遣。
イギリス軍はレキシントンで攻撃を受け、多くの兵士が殺害された(レキシントン・コンコードの戦い)。
これによってアメリカ独立戦争の火蓋が切られ、同年の第二次大陸会議においてワシントンが大陸総司令官に任命された。
1776年1月にトマス・ペインが『コモン・センス』を発表。
イギリスからの独立を訴えるその内容が喝采を浴び、独立戦争の後押しをした。
同年7月4日、フィラデルフィアのペンシルバニア州議会議事堂(のちの合衆国議会議事堂、独立記念館※)で開催された第二次大陸会議でトマス・ジェファソンらが起草したアメリカ独立宣言を全会一致で採択。
この日はいまでもアメリカの独立記念日として祝われている。
※世界遺産「独立記念館(アメリカ、1979年、文化遺産(vi))」

8月に入るとイギリスが反撃に出て、ロングアイランドの戦いに勝利してニューヨークを占領。
1777年にはアメリカ軍の本拠地となっていたフィラデルフィアを落とすことに成功する。
アメリカは同年10月にサラトガの戦いで大勝すると盛り返し、1778年にはフランスのルイ16世がアメリカ側での参戦を宣言して軍を送り込む。
1779年にスペイン、1780年にオランダがやはりアメリカ側について参戦。
こうした動きに対してイギリスはアメリカの海上封鎖を行ったが、ロシアのエカチェリーナ2世が武装中立同盟を提唱し、中立国の船舶の航行と物資輸送の自由を主張。
プロイセンやポルトガル、スウェーデン、デンマークが同盟に参加したため孤立し、狙い通りの効果は出なかった。
1781年、ヴァージニアのヨークタウンに侵攻したイギリス軍に対して、ワシントンが総攻撃を開始。
フランスのラファイエットの義勇軍が呼応し、フランス海軍も海からの砲撃で支援した(ヨークタウンの戦い)。
イギリス軍はここに降伏し、1783年のパリ条約でアメリカの独立が決定。
13州に加えてミシシッピ川以東の土地を手に入れた。
また、同日にイギリスとスペイン・フランスの間でベルサイユ条約が締結され、1763年に割譲させたフロリダとセネガルをそれぞれスペインとフランスに返還した。
こうして1763年のパリ条約で完成したイギリス第一帝国は、1783年のパリ条約とベルサイユ条約によって終わりを告げた。

アメリカは独立後に国家体制を急速に整備した。
1787年にはフィラデルフィアの憲法制定会議で合衆国憲法を制定。
人民主権をベースに君主を置かない共和政を掲げ、各州の自治を州政府に任せながらも外交・軍事・通商などについては連邦政府が強力な力を持つ連邦主義を採用した。
また三権分立を徹底し、行政権は選挙で選ばれた大統領と政府が担い、立法権は各州2名の代表からなる上院と人口比例の代表が集まる下院で構成される連邦議会が手にし、司法権は連邦最高裁判所が行使して、三者が抑制し合うことで権力の集中を予防した。
1789年には合衆国憲法に基づく連邦政府が発足し、ワシントンが初代大統領に就任。
この頃、連邦主義を認める連邦派と認めない反連邦派が対立していたが、連邦派のハミルトンが財務長官に就任し、反連邦派のジェファソンが国務長官を務めてバランスをとり、財政と外交の基礎を固めた。
合衆国憲法はイギリスのような王政や貴族制・身分制を否定し、法の下の平等や自由を謳ったまさに市民階級(ブルジョアジー)のためのものだった。
このような市民革命が成功したのはもとより植民地に国王や貴族がおらず、産業革命を経て資本主義や自由主義が浸透して自由・平等を求める高い意識が醸成されていたからだ。
ただし、身分制が否定されたといっても奴隷制はイギリスが廃止したあとも続いていたし、イギリス統治時代には比較的守られていたアメリカ先住民の権利もほとんど無視された。
アメリカはこのあと西部開拓時代を迎え、それ以前にイギリスやフランスの植民地人が先住民と結んでいた条約などは完全に反故にされ、土地の収奪を開始する。
次回はフランス革命とナポレオンのヨーロッパ征服を紹介する。