世界遺産と世界史48.清、朝鮮、江戸の開国・滅亡

19世紀、帝国主義の植民地拡大政策は東アジアにも及んだ。

東アジアでは中国史上最大の帝国・清が覇を唱えていたが、列強は強大な資本と軍によって進出を進めた。


本記事は、清の開国→日本の開国→朝鮮王朝(李氏朝鮮)の開国→清の分割危機と日露戦争→韓国併合→清の滅亡、の順で解説する。

康煕帝・雍正帝・乾隆帝以前の清の歴史については「世界遺産と世界史40.明と清の繁栄」参照。

 

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世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」紫禁城
景山公園から見下ろした紫禁城。手前の神武門から奥の天安門へと巨大な建物がほぼシンメトリーに一直線に並んでいる。神=天帝が暮らす天の紫微垣(しびえん)に対し、ここが天子が暮らす地の中心とされた。世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」構成資産

<清の開国>


18世紀、清朝は乾隆帝の時代に最大版図を記録し、人口も1億超から3億へと倍増していた。

それに伴って山岳地帯が開墾され、辺境や東南アジアへの移住も進行。

土地が減り、農作物の需要が増えた一方で、税負担は重く、農民は貧困化していた。

乾隆帝が1795年に退位して嘉慶帝が就任すると、翌年四川を中心とする山間部で白蓮教徒の乱(1796~1804年)が起こる。


白蓮教は12世紀にはじまった仏教の一宗派で、人類を救済するという救世主・弥勒(みろく)菩薩に対する信仰(弥勒信仰)を持ち、民間に伝わる呪術的な要素も備えていた。

元代に起きた紅巾の乱も白蓮教徒によるものだ。

白蓮教徒は共同生活を営んでいたが、清が弾圧と課税を行ったことに対して不満がたまっていた。


この反乱は10年近く続き、清朝の軍だけは制圧できずに私兵集団・郷勇の助けを仰いだ。

このため清の財政は悪化し、政府に対する信頼も揺らぎはじめた。


内からの反乱・反発に加え、18世紀後半になると南北から列強が圧力を加えはじめた。


北で勢力を伸ばしていたのがロシア帝国だ。

1689年にピョートル大帝は康熙帝とネルチンスク条約を結んで国境を定め、この条約で未確定だった西部の国境を1727年のキャフタ条約で画定した。

1792年にはエカチェリーナ2世の命を受けたラクスマンが北海道、1804年にはアレクサンドル1世の使節であるレザノフが長崎を訪れて日本に開港を迫るが、江戸幕府は鎖国を理由にこれを拒否した。

世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」紫禁城太和殿
紫禁城の中心をなす太和殿。皇帝の即位など重要な儀式が執り行われた。孔廟の大成殿、岱廟の天貺殿と並ぶ中国三大宮殿建築のひとつでもある。世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」構成資産

 

この頃、清朝は海禁を行っており、貿易港を広州に絞り、貿易を公行(こほん)と呼ばれる十三の特権商人(広東十三行)に限定。

イギリスは茶・絹織物・陶磁器などをこうした商人から輸入していた。


イギリスはインドでしたように綿織物を売りたかったが中国には高品質の絹織物があり、思うように売ることができなかった。

このため大きな貿易赤字に悩まされ、大量の銀が流出していた。

これを解消するために1792年にマカートニーを派遣して自由貿易の推進と綿織物の売り込みを行ったが、乾隆帝はにべもなく拒絶した。

1816年にはアマーストが交渉に訪れるが、嘉慶帝は謁見さえしなかったという。


増え続ける赤字と銀の流出に対し、イギリスは中国で売れるものを考えて秘密裏にアヘンの輸出を開始する。

アヘンはケシから作られる麻薬で、精製するとモルヒネやヘロインといった最強の麻薬になる。

東インド会社がベンガル地方で栽培したアヘンを密輸すると、貧民層を中心に急速に拡大。

次第に貿易額が増して「イギリス→(綿織物)→インド→(銀・アヘン)→中国→(茶)→イギリス」という三角貿易が誕生し、19世紀前半には茶の輸入額を上回るまでに成長した。

世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園」
世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園」。前身は乾隆帝が建設した清漪園(せいいえん)で、1860年のアロー戦争で焼失したため西太后が再建を命じた。中国の名勝を集めて造園され、西太后は晩年のほとんどをここで過ごしたという。(C) Shizhao

 

清ではアヘン中毒者が増える一方で、銀の流出を背景に物価が上がって庶民の生活状態が悪化し、財政難に見舞われた。

このため清の道光帝は1839年に林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣して取り締まりにあたらせた。


林則徐はアヘンの売買や使用に対し、一定の猶予期間を設けたのち死刑を勧告。

イギリス商人にアヘンの引き渡しを要求し、期限内に引き渡されないものについては強制的に押収してこれを処分した。


アヘンの取引が違法であったにもかかわらず、イギリスは財産権の侵害を主張して賠償を要求。

これが無視されるとイギリスでは主戦論が高まるが、アヘンの密輸に対しては批判も多く、ギリギリの採決で開戦が可決された。

イギリスは海軍の軍艦や陸軍を派遣し、インドからもインド人傭兵シパーヒー(セポイ)を投入。

1840年にアヘン戦争(~42年)を開始した。


林則徐は広州で迎撃する準備を進めていたが、イギリス海軍は広州を通過して北上。

道光帝は首都・北京※に来るのではないかと動揺し、林則徐を解任して広州で交渉にあたらせた。

しかしながらこの交渉は決裂し、広州はイギリス軍によって略奪・破壊された。

※世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国、1987年、2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園(中国、1998年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

 世界遺産「天壇:北京の皇帝の廟壇(中国、1998年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

 世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群(中国、2000年、2003・2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」


[関連サイト]

北京と瀋陽の明・清朝皇宮群/中国

天壇/中国


1841年、イギリス軍は厦門(アモイ)や寧波(ニンポー)を占領し、翌年には長江に入って北京へ続く大運河※に侵入。

これを受けて清朝は降伏した。

※世界遺産「中国大運河(中国、2014年、文化遺産(i)(iii)(iv)(vi))」

世界遺産「開平の望楼群と村落」
世界遺産「開平の望楼群と村落」の望楼。アヘン戦争後、中国南部の一部の人々はクーリーと呼ばれる移民となってアメリカやカナダに渡った。19世紀前後の排華政策にあって開平に帰国した華僑・華人は盗賊対策にコンクリート造りの高層住宅を打ち建てた。(C) ToisanHeritage

 

イギリスは1842年に締結された南京条約で、賠償金支払い、5港(広州、上海、厦門、寧波、福州)の開港、香港島の割譲、公行の廃止(海禁の廃止と自由貿易の推進)、領事裁判権(治外法権)の承認、関税自主権の放棄などを認めさせた。

翌年には虎門寨追加条約を締結し、5港の領事裁判権を認めて関税自主権を放棄させる五港通商章程と、後年他国に与えた特権をイギリスにも適用するという片務的最恵国待遇を定めた。

こうした不平等条約を見て、1844年にアメリカは望厦(ぼうか)条約、フランスは黄埔(こうほ)条約を結び、清にイギリスと同様の条件を強要した。

 

解任された林則徐は中央アジアに流されるが、知り得た情報や資料は魏源に託され、魏源は『海国図志』を著してまとめた。

この書物はやがて鎖国中の日本に伝えられ、欧米研究の貴重な資料となった。

 

アヘン戦争後、戦争による出費や賠償金で財政危機を迎えた清朝は、重税を課して民衆の負担が増大。

貿易の中心が広州から長江下流の上海に移ったことで物流も変わり、中国南部で貧困化が進んだ。

 

こうしたことや、後述する太平天国の乱や客家(ハッカ。中国南部に移住した漢民族)と本地人(以前から南部に暮らしていた土着の人々)の争い(土客械闘)などの影響で土地が荒廃したこともあり、広東省や福建省を中心とした多くの中国人が土地を追われて海外へ旅立った。

1833年に奴隷制を廃止したイギリスはこうした移民を歓迎し、外国人労働者=クーリー(苦力)貿易を実施。

クーリーたちは東南アジアの鉱山や、ゴールド・ラッシュに沸くアメリカ大陸の鉱山、大陸横断鉄道の敷設現場などに運ばれて労働に従事した。

のちに彼らは世界各地に中華街を築いて華僑(中国籍を持つ在外中国人)や華人(中国以外の国籍を持つ在外中国人)となり、中国本土の一族を受け入れる拠点となった。

 

ちなみに、アメリカに渡ったクーリーたちが帰国して建てた西洋風高層建築が開平の望楼①で、福建省や広東省に客家華僑が建てた住宅城砦が客家土楼②だ。

※①世界遺産「開平の望楼群と村落(中国、2007年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 ②世界遺産「福建の土楼(中国、2008年、文化遺産(iii)(iv)(v))」

 

[関連サイト]

福建の土楼/中国

開平の望楼群と村落/中国

世界遺産「福建の土楼」集慶楼
初渓土楼群の集慶楼の内部。客家が建てた一種の集合住宅で、大きな土楼になると50以上の家族、300人以上がともに生活したという。現在ホテルとして開業しているものもある。世界遺産「福建の土楼」構成資産

 

中国南部に留まった人々は生活苦に追われ、宗教や民族・一族で結社を作って助け合って生きており、力を持った結社の中には政府に逆らうものあった。

その中で最大の結社が拝上帝会で、最大の反乱が太平天国だ。


拝上帝会はイエスの弟を名乗る洪秀全をリーダーとする宗教結社で、キリスト教のヤハウェを唯一神として崇めていた。

神の下の平等を説く教えは貧困層に受け入れられ、財産を共有して平等に分け与える思想も受けて信者を拡大していた。

1851年に挙兵すると太平天国の名で独立を宣言し、南京を占領して天京に改称して首都とした。


太平天国の目標は「滅満興漢」で、満州の国=清を滅ぼし、漢民族の国を興すこと。

満州族の風習である弁髪や纏足(てんそく。幼少期から女子の足をきつく縛って小さな足にすること)を禁じ、アヘンの吸引なども厳しく取り締まった。

また、天朝田畝制度という土地政策を行い、土地を農民に均等に分割して農業を行った。


太平天国の侵攻に対し、八旗や緑営といった清朝の軍はあてにならなかったので、地元を守るために各地で郷勇と呼ばれる義勇軍が編成された。

曾国藩(そうこくはん)の湘軍、李鴻章(りこうしょう)の淮軍が一例だ。


天京を陥れた太平天国だが、北京や四川などに北上した部隊は郷勇の攻撃を受けて敗れ去り、天京周辺では内部争いが起きて自軍同士の戦闘が繰り返された。

太平天国がキリスト教に近いということで当初は見守っていた列強も、中国南部が混乱して貿易が妨げられると清朝支援に転換。

アメリカ人ウォードンやゴードンは中国人義勇兵からなる常勝軍を編成して太平天国と戦った。


1864年に洪秀全が病死し、その直後に天京が陥落して太平天国は滅亡。

この乱を通じて数千万人の犠牲者が出たといわれている。


清朝は勝利を収めはしたが、政府や軍の無能ぶりは知れ渡り、信頼は大きく損なわれた。

世界遺産「マカオ歴史地区」
マカオ島。16世紀にポルトガルの教会が建設され、インドシナ貿易と布教の拠点となったマカオは1862年にポルトガルの統治権が認められた。歴史地区は世界遺産「マカオ歴史地区(中国、2005年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」に登録されている。(C) Ntnlnddf

 

太平天国の乱が起きていた1856~60年、清朝とイギリス、フランスとの間でアロー戦争(第二次アヘン戦争)が戦われていた。


イギリスはアヘン戦争に勝利して清との貿易を進めていたが、思ったほどの利益は上がらず、いっそうの自由貿易を求める機会をうかがっていた。

1856年、広州に停泊中の香港船籍のアヘン密輸船アロー号に対し、清朝の官憲が海賊容疑で取り調べを行い、中国人船員を逮捕する。

言いがかりに近いものだったが、香港は南京条約でイギリス領となっていたことからイギリスが強く反発。

同年にフランス人宣教師殺害事件が起きていたのだが、それを理由にイギリスはフランスのナポレオン3世を誘って清朝と開戦した。


英仏軍は広州を占領し、天津に迫ると清朝は降伏。

1858年に天津条約を締結した。


ところが批准書交換の使節を清軍が砲撃したことからふたたび武力衝突に入り、英仏軍は北京を占領して円明園を焼き払い、1860年に天津条約を批准させて北京条約を締結した。

これらの条約により、11港(牛荘、登州、淡水、台南、潮州、瓊州、鎮江、漢口、九江、南京、天津)の開港、外国公使の北京駐在、キリスト教布教、外国人の中国内地旅行の自由、アヘン貿易の公認、イギリスへの九竜半島南部割譲、賠償金支払いなどが定められた。

アメリカとロシアも同様の条約を締結している。


朝貢体制の中では外務省のような外交に関する専門部署は必要なかったが、天津条約の批准によって外国公使が北京に駐在するようになったことから、1861年に総理各国事務衙門(事務衙門。衙門の読みは「がもん」)が設置された。

この組織は1901年の改編で外務部となっている。

世界遺産「ブハラ歴史地区」
サマルカンドと並んで中央アジアの美都として知られる青の町ブハラのカラーン・モスクとミナレット。ブハラ・ハーン国の首都だったが、19世紀後半にロシア領に組み込まれた。世界遺産「ブハラ歴史地区」構成資産。(C) Euyasik

 

イギリスの清への急速な進出に対抗して、ロシアも北から圧力を強めた。


ロシアはアヘン戦争や太平天国の乱、アロー戦争の混乱に乗じて東方の領土拡大を進め、19世紀中盤にニコライ1世が東シベリア総督ムラヴィヨフを派遣。

清からアムール川(黒竜江)の左岸を奪うと、1858年にアイグン条約を結んでアムール川以北の領有を認めさせた。

さらに1860年の北京条約で沿海州の割譲を認めさせ、ウラジヴォストーク港を開いて太平洋進出の拠点とした。


日本とは1875年に千島・樺太交換条約を結び、千島列島を譲る代わりに樺太を獲得。

中央アジアでは1860年代に新疆(しんきょう)でイスラム教徒の反乱(イリ事件)が起こると、ロシアは軍を進めてイリ地方を占領し、その勢いで中央アジアのブハラ・ハーン国(首都ブハラ①)やヒヴァ・ハーン国(首都タシケント、主要都市イチャン・カラ②)、コーカンド・ハーン国(首都コーカンド③)を保護国化した。

1881年のイリ条約でイリ地方を清に返還する代わりに新疆の一部を割譲させ、賠償金や貿易特権も認めさせた。

※①世界遺産「ブハラ歴史地区(ウズベキスタン、1993年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「イチャン・カラ(ウズベキスタン、1990年、文化遺産(iii)(iv)(v))」

 ③ウズベキスタンの世界遺産暫定リスト記載


太平天国の乱のあと、このままでは滅亡しかねないということで遅ればせながら同治帝とその母・西太后(せいたいこう)が改革を始動。

郷勇として活躍した漢民族の曾国藩、李鴻章、左宗棠(さそうとう)らを登用し、西洋の技術を取り入れて兵器工場や造船所・織物工場・電信施設などを建設し、鉱山を開発、教育などでも改革を行った。

こうした改革を洋務運動と呼び、この運動を進めた官僚を洋務官僚という。

これらの政策により、清はある程度の安定を取り戻すことに成功した(同治の中興)。


しかしながらあくまで中国の文明をベースとし、西洋のすぐれた技術のみを取り入れる「中体西用」という思想を採用していたため、国民国家やそれに基づくナショナリズム、人権概念、法の意識といった近代思想や社会制度は広まらず、上辺の近代化に留まった。

 

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世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市]」二条城・二の丸御殿
第15代将軍・徳川慶喜が明治天皇に政権を返上し、大政奉還を行った二条城・二の丸御殿。世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市](日本、1994年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産

<日本の開国>

 

日本のこれ以前の物語は「世界遺産と世界史41.東アジア・東南アジアの植民前史」参照のこと。


江戸時代、幕府は鎖国を行っており、四口(長崎口:オランダと清、対馬口:朝鮮王朝、薩摩口:琉球王国、蝦夷口:アイヌ)のみを開港して貿易を行っていた。


しかし、ロシアから1792年にラクスマン、1804年にレザノフが来日して開港を求めてきたり、1837年に日本人漂流者7人とともに浦賀を訪れたアメリカのモリソン号が通商を要求してきたように(モリソン号事件)、欧米諸国の狙いは東ヨーロッパ、トルコ、中央アジア、インド、東南アジア、中国を経て日本に迫っていた。

モリソン号を砲撃して追い払ったようにそれまで異国船打払令によって対処していたが、アヘン戦争やアロー戦争を知った幕府は危険を感じ、食糧や燃料を与えて返す方針に転換したものの、鎖国自体は続行した。


こうした状況下で1853年、ペリー率いる東インド艦隊の艦船4隻(このうち旗艦サスケハナ号とミシシッピ号が蒸気船)が浦賀に来航する。

幕府は事前にアメリカの船団の来航をオランダから聞いていたが、最先端の蒸気船、いわゆる黒船を前にあわてふためき、狂歌に「泰平の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で夜も眠れず」と歌われるほど江戸は混乱したという。


ペリーの目的は捕鯨船と太平洋航路の寄港地の確保だ。

当時100隻を超える捕鯨船が太平洋で活動しており、また米墨戦争(1846 ~48年)に勝利して太平洋に面する東海岸のカリフォルニアを獲得してから太平洋を横断する航路の確立が急がれていた。

ペリーが大西洋を横断してアフリカやインド、中国を経て日本に到達したように、まだまだ太平洋航路は一般的ではなかった。

当時の蒸気船は燃料の問題で西海岸から中国へ直接行くことができなかったため、日本が中継地として注目されたのだ。


ペリーは親書を幕府に手渡すと、翌年の回答を要求して一旦上海に帰港。

1854年にふたたび来日すると日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、アメリカ船籍の補給、領事の駐在、最恵国待遇などを確保した。

これを耳にしたイギリス、ロシア、オランダも次々と来日し、同年に同様の不平等条約を結んだ。


アメリカは下田に総領事ハリスを送り込み、イギリスはパークス、フランスはレオン・ロッシュを派遣して自由貿易を推進した。

1858年には貿易の取り決めを定めた日米修好通商条約を締結。

これにより神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸と大坂の開市、外国人居留地の設定、領事裁判権の承認、関税自主権の放棄などが決定した。

やはりこちらもイギリス、ロシア、オランダ、フランスとの間で同様の通商条約が結ばれた。

世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
1872年創業の富岡製糸場、繰糸所。フランスの生産システムを導入して生糸の大量生産に成功し、生糸は日本の主要輸出品となった。やがて日本のシステムが欧米に逆輸入されるほどに成長し、絹の価格を下げて世界の衣服文化を変えた。世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」構成資産

 

幕府の諸外国にへつらう態度や混乱、蒸気船をはじめとする欧米の強大な経済力を見た人々は、討幕・佐幕(これまで通り幕府を中心とした政治を続けること)・尊皇(天皇を中心とした政治を目指すこと)・開国・攘夷(外国を追い払うこと)といった思想の中で揺れ動くが、次第に尊皇攘夷派が力を握り、討幕に傾いていく。

 

そして1867年に第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上(大政奉還)。

翌年明治天皇を中心とする天皇親政が復活した(明治維新)。

 

明治政府は、藩を廃止して県を置くことで中央集権を強める廃藩置県、軍事力を高める徴兵令、農・工・商などの身分をなくす解放令などを定め、鉄道・電信・鉱山・造船・牧畜などの官営工場・官営施設を設立して近代産業を推進する殖産興業を実施し、国を豊かにして強力な軍隊を作る富国強兵を掲げて近代化を推し進めた。

 

こうした政策が実り、1890年代に製糸・紡績を中心とした軽工業が発達して第一次産業革命が起こり、1900年代に製鉄・造船・機械工業といった重工業が伸長して第二次産業革命が実現し、非西洋国として世界初となる産業革命を達成した。

世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群(日本、2014年、文化遺産(ii)(iv))」は前者、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(日本、2015年、文化遺産(ii)(iv))」は後者の例だ。

世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」三池炭鉱万田坑跡
三池炭鉱万田坑跡。こうした炭坑や炭田で採れる石炭を利用して製鉄を行い、その鉄を鉄道・造船・機械工業などに利用した(第二次産業革命)。また、日露戦争の軍需拡大が産業革命を後押しした。世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」構成資産

1889年にはドイツ帝国憲法を参考に大日本帝国憲法を発布し、翌年には二院制の国会を開設。

教育改革なども行って、徹底的な西洋化を進めた。

これは清の中体西用とはまったく異なる抜本的な改革だった。


清との間では1871年に日清修好条規を締結。

対等の条約で、互いに領事裁判権や公使の駐在などを認め、相互不可侵を取り決めた。


この頃、日清間で問題になっていたのが琉球王国だ。

1871年に琉球王国の船が台湾に漂着し、船員が殺害される事件が起こる。

日清両国は互いに琉球王国の自国への帰属を主張して対立。

1874年に明治政府は台湾出兵を行って事件の首謀者たちを捕らえて殺害した(台湾出兵)。


清はこれに抗議するが、まだ海軍が充実していなかったことと、イギリスの仲介もあって和解を受け入れた。

一方、明治政府は琉球王国の日本帰属が認められたものとして併合を進めた。

これ以前、日本は1872年に琉球藩を設置していたが、1897年に琉球藩が廃止されて沖縄県となり、首里城※が明け渡されて琉球王国が滅亡。

日本の領土に組み入れられた。

※世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群(日本、2000年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」


北については、ロシアと1855年の日露和親条約を結んで択捉(エトロフ)島以南が日本領となり、国境が画定していなかった樺太や千島列島については1875年の樺太・千島交換条約によって樺太がロシア領、千島列島が日本領となった。

 

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世界遺産「昌徳宮」熙政堂
世界遺産「昌徳宮(韓国、1997年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」の熙政堂。もともと王の寝室だったが、後年洋室に改装され、客室や会議室として使用された。1907年まで大韓帝国の王宮は慶運宮(現在の徳寿宮)だったが、1907年に昌徳宮に移された

<朝鮮王朝の開国>

 

朝鮮王朝では儒教が浸透していた。

漢民族の明が滅びて満州民族の清が誕生した時点で、朝鮮王朝は儒教思想の中心を自負し(小中華思想)、清に服属しながらも文化的には上であるという意識を持ちつづけた。

こうして清を夷狄、日本を倭夷、欧米を洋夷と見下して鎖国を行う一方で、大国には従う事大主義をとった。

たとえば、清には毎年燕行使を派遣して朝貢を行い、日本には将軍が変わるたびに朝鮮通信使を送って交流を図ってい。


19世紀後半になると欧米諸国が開国を求めるが、第26代皇帝・高宗の摂政である大院君はこれらを拒否して攘夷を貫き、その後実権を握った高宗の王妃・閔妃(ミンビ)も鎖国を継続した。


1871年に日清修好条規を結んだ明治政府も朝鮮王朝に圧力をかけて開国を要求するが、これも拒否。

1875年、明治政府が軍艦・雲揚号を江華島沖に進めて挑発すると、朝鮮王朝が砲撃で報復した。

 

これを理由に日本は永宗島(現在の仁川)を占領し、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結させた。

この条約は釜山(プサン)をはじめとする3港の開港、外国人居留地の開設、外国公使の首都・漢城※(現在のソウル)駐在、領事裁判権、無関税などを定めたもので、朝鮮に不利な不平等条約だった。

朝鮮王朝はイギリス、ドイツなどと同様の条約を締結している。

※世界遺産「昌徳宮(韓国、1997年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 世界遺産「朝鮮王朝の王墓群(韓国、2009年、文化遺産(iii)(iv)(vi))

 世界遺産「宗廟(韓国、1995年、文化遺産(iv))」


[参考サイト]

昌徳宮/韓国

宗廟/韓国

世界遺産「宗廟」正殿
切妻屋根が美しい世界遺産「宗廟」正殿。19の部屋に、高宗や閔妃を含む19人の王と30人の王妃の神位が祀られている。時代が下るにつれて部屋を増築したため縦12m×横101mという横長になった

開国と近代化は避けられないものになったが、その進め方については、日本を模範として急進的な改革と独立を目指す独立党と、清との関係を重視して漸進的な改革を行う事大党の間で対立が起きていた。


閔妃の一族である閔氏が日本にならって軍制改革を行うと、1882年に旧軍の兵士たちが反乱を起こす。

そして大院君を立てて閔氏らを殺害し、日本公使館を襲撃した(壬午軍乱)。

これに対して閔妃は清に救援を要請し、清が軍を送って鎮圧して大院君を捕縛。

清軍はそのまま朝鮮に駐留した。


朝鮮半島で支配を強める清に対して独立党が反発し、1884年に独立党の金玉均(キムオッキュン)らが日本公使の支援を得てクーデターを決行(甲申政変)。

日本軍とともに王宮を占領すると高宗の身柄を確保し、閔氏一族を殺害して新政権の樹立を宣言した。


しかし、袁世凱(えんせいがい)率いる清軍に鎮圧され、金玉均は日本に亡命。

日本公使館は民衆の襲撃を受けて焼き払われた。

こうして日清の対立が深まったことから両国は1885年に天津条約を結び、両軍の朝鮮半島からの撤兵や出兵する際の事前通告などを取り決めた。


この頃、庶民の間で東学と呼ばれる宗教が流行していた。

この宗教は儒教を中心に仏教や道教をまとめて体系化したもので、キリスト教の西学に対して東学と名付けられた。

1894年、役人の不正に対して東学党の地方指導者・全〓準(チョンボンジュン。中央の漢字は王偏に奉)が農民を率いて反乱を起こすと、民衆の支持を得て瞬く間に膨れ上がった(甲午農民戦争/東学党の乱)。

世界遺産「朝鮮王朝の王墓群」宣靖陵・宣陵
成宗が眠るソウルの宣靖陵、宣陵の陵寝。宣靖陵は第9代国王・成宗の墓である宣陵と、その王妃・貞顕王后の陵、第11代国王・中宗の墓である靖陵からなっている 世界遺産「朝鮮王朝の王墓群(韓国、2009年、文化遺産(iii)(iv)(vi))」構成資産

 

政府は清に援軍を求めると、清は天津条約にしたがって出兵を通告。

これを受けて日本軍も出兵すると、朝鮮政府は農民と和解して撤兵し、日清両国に撤退を要請した。

ところが日本はこれを拒否して軍を進めて漢城を占領。

閔氏を政権から締め出して親日政権を樹立した。


両国の戦争は不可避となり、1894年に日清戦争が勃発。

平壌・黄海・遼東半島・山東半島などで日本は有利に戦いを進め、翌年清は降伏した。

1895年、伊藤博文と李鴻章が会談して下関条約を締結。

日本は遼東半島・澎湖島・台湾の割譲と賠償金、通商特権などを得たほか、清は朝鮮に対する宗主権を放棄し、朝鮮王朝の独立が認められた。


しかしながら日本の大国化と大陸への影響力の増大を恐れたロシアは、フランス、ドイツとともに遼東半島の返還を要求(三国干渉)。

日本は返還を受け入れる代わりに東清鉄道の敷設権を獲得した。


朝鮮王朝は下関条約によって独立が認められたが、その代わり日本とロシアの干渉が強まって親日派と親露派が対立するようになった。

閔妃がロシアに接近したため、1895年に日本公使が閔妃を暗殺(閔妃暗殺事件)。

これで反日機運が盛り上がり、親露派が勢いを増して親露政権が誕生した。


1897年、完全な独立を確認するために朝鮮王朝は国号を大韓帝国に変更。

高宗は清の皇帝や日本の天皇と同格になるために皇帝を名乗った。

 

* * *

世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園」玉瀾堂
右の建物が世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園」の玉瀾堂。清の第11代皇帝・光緒帝は10年にわたってここと中南海の瀛台に監禁されていた

<清の分割危機と日露戦争>


清は日清戦争で負った莫大な賠償金の支払いのために、鉄道敷設権や鉱山採掘権などを欧米各国に売却した。


1898年にドイツ人宣教師が殺される事件が起こると、これを口実にドイツは青島(チンタオ)のある膠州湾(こうしゅうわん)を租借(他国の領土を借り上げること)。

これをきっかけに、遼東半島南部をロシア、威海衛(いかいえい)と九竜半島をイギリス、広州湾をフランスが租借した。

さらに、ロシアは東北地方、ドイツは山東地方、日本は福建地方で優先権を認めさせるなど、諸外国は先を争って利権を追い求め、中国分割を進めた。


こうした競争に乗り遅れたアメリカの国務長官ジョン・ヘイは、1899年に通商権や関税・入港税などが各国平等に解放されるべきだとする門戸開放・機会均等を提唱。

さらに1900年に清の領土保全を唱え、中国分割を牽制した。

これら3項目をヘイの三原則という。


亡国の危機を前に、清では日本の明治維新をモデルとした抜本的な改革(変法)を求める声が高まっていた。

イギリスやフランスに負けたアヘン戦争やアロー戦争はまだしも、アジアの小国にすぎない日本に負けた衝撃はそれほど大きなものだった。


光緒帝は変革を求める公羊学派の康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)らを登用し、官庁を整理し、教育を改革、科挙制も変え、各地に専門学校を設けるなどして政治改革や西洋学の浸透を進めた(戊戌(ぼじゅつ)の変法)。


これに反対したのが西太后をはじめとする保守派だ。

西太后は第10代皇帝・同治帝の母で、第11代皇帝・光緒帝の母の姉。

同治帝が5歳、光緒帝が4歳で即位するといずれも西太后が摂政となって権力を握った。

光緒帝の成人をもって西太后は政権を返したが、依然として大きな影響力を持っていた。


西太后は保守派を大臣に任命して改革に抵抗し、光緒帝も保守派の官僚を罷免して対抗した。

光緒帝は悩んだ挙句、このところ頭角を現してきた軍人・袁世凱に相談して西太后の排除を依頼するが、袁世凱はこれを西太后に漏らしてしまう。


この裏切りにより、西太后一派はクーデターを起こし(戊戌の政変)、光緒帝は幽閉され、康有為や梁啓超は日本に亡命して変法はわずか100日で終了した(百日維新)。

光緒帝は、冬季は紫禁城①の庭園である中南海の瀛台(えいだい)、夏季は頤和園②の玉瀾堂に、およそ10年にわたって監禁された。

※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国、1987年、2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 ②世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園(中国、1998年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群」清西陵
1900年当時の清西陵。雍正帝の泰陵、嘉慶帝の昌陵、道光帝の慕陵、光緒帝の崇陵が含まれている。西太后は清東陵に葬られている。世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群(中国、2000年、2003・2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」構成資産


民衆の間でも欧米と日本に対する不満が高まり、外国人排斥運動や反キリスト教運動(仇教運動)が広がっていた。


そんなとき、白蓮教の一派である義和団は扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)を掲げて教会や鉄道・電信使節を襲撃し、天津や北京の一部を占領した。

政府は当初鎮圧にあたっていたが、1900年になると保守派が義和団とともに排外運動を行い、諸外国に宣戦を布告。

これに対して英・米・仏・独・伊・墺・日・露の8か国は共同出兵を行って天津と北京を占領し、清を降伏させた(義和団事変)。

1901年に北京議定書(辛丑和約)を調印し、清は賠償金の支払いと外国軍の北京駐屯を認めた。


戦後、ロシア軍は中国東北部に留まり、大韓帝国へも接近していたことから日本との関係が急速に悪化した。

イギリスもロシアの南下政策を警戒していたが、この頃アフリカで南アフリカ戦争(ブール戦争。1899~1902年)を戦っていたことから兵力を割けず、「光栄ある孤立」を転換して1902年に日英同盟を結んでロシアを牽制した。

日本海海戦を描いた丸山誠治監督『日本海大海戦』予告編


1904年に日露戦争がはじまると、日本は奇襲作戦だった仁川沖海戦、旅順要塞を攻略した旅順攻囲戦、最大の陸戦である奉天会戦で勝利を収め、日本海海戦でロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊を打ち破る。


日露戦争が戦われている最中、ロシアでは奉天会戦の前、1905年1月にサンクトぺテルブルク※の冬宮殿(現・エルミタージュ美術館)前で血の日曜日事件が起こる。

ロシアでは1890年代に産業革命が進んで大工場が発展していたが、外国資本を導入したもので民衆に利益は還元されなかった。

農民や労働者の苦しい生活が続く中で、皇帝の専制政治を転換するためにマルクス主義を掲げるロシア社会民主労働党や人民主義をうたう社会革命党などの組織が結成された。

※世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」


そんな中でガポン司祭は武器を持たず請願によって事態を変えようと、労働者10万人を率いて待遇改善や立憲政治を求めて王宮に詰めかけた。

ところがロシアの警備隊は彼らに発砲して千名前後の死者を出した。

それまで帝政に対する批判は多かったものの、ロシアでは自由主義的な思想はそれほど庶民の間に浸透しておらず、皇帝は一定の支持を得ていた。

ところがこの事件によりツァーリズム(ロシア皇帝による絶対君主体制)に対する信頼は大きく揺らいだ。


この血の日曜日事件後、力による帝政打倒が叫ばれ、日本海海戦後の5月には戦艦ポチョムキン号の乗組員が反乱を起こして艦を乗っ取り、黒海のオデッサ港に入ってオデッサの民衆と呼応した。

農民放棄や労働者のストライキが相次ぎ、軍でも反乱が起きるなど全国的な運動に発展し(第一次ロシア革命)、ロシアは戦争継続が困難となった。

セルゲイ・エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』。戦艦ポチョムキン号の反乱を描いたソ連時代のサイレント映画で、映画史上でももっとも重要な作品のひとつとされる


日本は相次ぐ戦勝に沸いていたが、戦死者はロシアの3~4倍に達し、戦費は当時の歳入の7倍という信じがたい額に膨れ上がっていた。

この戦費はイギリスとアメリカが戦時国債(借款)を買うことで(つまり両国に借金をすることで)調達していたが、以後日本は返済に苦しみ、なんと1981年まで返済が続いたといわれている。

イギリスとアメリカは日本を支援しながらロシアにも融資を行っており、これによって莫大な利益を上げていた。


こうした事情から両国とも戦争を続けることは難しく、日本がアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトに調停を依頼。

1905年、日本の小村寿太郎とロシアのウィッテはアメリカのポーツマスで講和会議を開催し、9月にポーツマス条約を締結した。

これにより日本は大韓帝国の保護権、遼東半島南部の租借権、南満州の鉄道利権、樺太南部の領有権などを獲得した。

日本では賠償金がなかったことに不満が募って日比谷焼打ち事件などが起こったが、日本の勝利は欧米の侵略を受けていたアジア諸国に大きな影響を与え、各地のナショナリズムや民族運動を高揚させた。

世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」首座使徒ペトル・パウェル大聖堂
ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世をはじめ、ロシア帝国の数々の皇帝の棺が収められている首座使徒ペトル・パウェル大聖堂。世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」構成資産。(C) Anton Vaganov

ロシアではポーツマス条約が締結された頃、各地でソヴィエト(評議会)という名の労働者自治組織が創設されていた。

高まる政治改革要求に対してロシア皇帝ニコライ2世はポーツマスから帰国したウィッテを首相に起用。

十月宣言で国会(ドゥーマ)の開設や選挙を約束して事態の収拾を図った。

しかしながら国会の立法権は制限され、選挙も不平等選挙。

そして次の首相・ストルイピンが専制政治を強化したため、自由主義・民主主義は実現しそうになかった。


外交において、ロシアは日露戦争の敗北によって東アジアでの南下政策を断念し、視線をふたたびバルカン半島に転じる。

このため東アジアでは各国との和解に向かい、1907年に日露協約を締結。

バルカン半島への侵出を図るドイツに対抗するために、イギリスとも英露協商を結んだ。

1904年に露仏同盟と英仏協商も締結されて三国協商が完成し、イギリス、フランス、ロシア、日本は協商国(連合国)と呼ばれて軍事ブロックを形成した。

 

* * *

<韓国併合>


日清戦争後、日本とロシアが支配権を争った大韓帝国だが、日露戦争の結果、日本が保護国として認められた。


日本は日露戦争中の1904~07年の間に三次にわたる日韓協約を締結していた。

第一次日韓協約では日本人を顧問として政府に登用させて外交を監視。

第二次では統監府を設置して初代統監として伊藤博文を送り込んだ。

このあと高宗は第2回万国平和会議に密使を送って各国に日韓協約の無効を訴えようとしたが(ハーグ密使事件)、日本の支配を承認していたロシアやイギリス、アメリカはこれを無視。

このため第三次では高宗を退位に追い込み、重要法案の制定などには統監の同意が必要とされ、軍を解散させた。


こうした保護国化に対して抗日運動が起こったが(義兵闘争)、統監を中心に日本はこれを押さえ込んだ。

1909年、義兵闘争の中で安重根(アンジュングン)が満州のハルビン駅で伊藤博文を暗殺。

1910年に韓国併合条約を締結して韓国併合を実施した。

ここに大韓帝国は消滅したが、皇族は存続し、貴族として扱われた。


日本は漢城を京城に改名して朝鮮総督府を置き、第二次世界大戦が終結する1945年まで35年にわたって支配を続けた。

朝鮮総督には軍の将軍が任命され、軍の支配の下で治安維持などが行われたことから武断政治と呼ばれている(1919年の三・一独立運動以降、文化政治に転換する)。

 

* * *

第60回アカデミー賞作品賞受賞作品、ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラストエンペラー』予告編。2,000年以上の歴史を誇る中国皇帝の歴史に終止符を打った最後の皇帝・溥儀の生涯を描いている


<清の滅亡>


義和団事変に敗れた清は西太后が実権を握る中でも近代化が進められた(光緒新政)。

1905年に科挙を廃止し、1908年に大日本帝国憲法を模範として憲法大綱を発布、国会開設を約束して立憲政体への移行を決断した。


しかし1908年に光緒帝は毒殺され、西太后はその翌日に死去した。

西太后の遺言で、第12代皇帝には宣統帝・溥儀(ふぎ)がわずか2歳で就任した。


留学生や華僑など、海外を見た人々はもはや清に国を治める力がないと考えて、漢民族を中心に清朝打倒を旨とする革命運動が広がった。

孫文を中心に広東省出身者を集めた興中会、黄興を中心に湖南省出身者を組織した華興会、浙江省出身者で構成された光復会などが立ち上がっていたが、日露戦争の日本勝利に刺激を受けた諸団体は1905年、東京で中国同盟会を結成し、孫文が総理に就任した。


中国同盟会は民族主義・民権主義・民生主義という三民主義を唱え、漢民族を中心とした共和国の設立し、貧富の差のない安定的な政権の確立を目標とした。

そして三民主義を補うために駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権の四大綱領を掲げた。


これに対して清朝は革命取締法を制定し、日本に協力を依頼。

日本政府は日本の学校への入学に際して中国の留学生に中国公使館の推薦状を要求するよう改めたため、多くの革命家が日本を去り、孫文も日本を退去した。

辛亥革命を描いたジャッキー・チェン監督・主演『1911』。辛亥革命100周年を記念して2011年に制作された


1911年、清朝が民間鉄道を国有化して外国から借款を得ようとすると、国の富を収奪して海外に売りさばく行為であるとして資本家や地方の有力者が反対し、四川省で暴動に発展する。

この四川暴動を鎮圧するために武漢の軍に出動を命令するが、10月10日に軍の革命派が蜂起して武昌を占領し、清朝からの独立を宣言した(武昌蜂起)。

この知らせは各地に広がり、13の省が武昌政府の下での独立を宣言した。

この一連の革命を辛亥(しんがい)革命という。


1912年、独立した諸省は首都・南京でアジア初の共和国・中華民国の建国を宣言し、アメリカに亡命していた孫文が帰国して臨時大総統に就任した。


これに対して清朝は軍の実力者・袁世凱に鎮圧を命令。

袁世凱は近代的な装備を誇る北洋軍を率いており、中華民国の脅威となったが、宣統帝の退位と共和政の維持を条件に孫文から臨時大総統の座を譲り受けると、1912年に宣統帝を退位させ、その翌日、北京で臨時大総統に就任した。

これにより277年続いた清朝は滅亡し、2,000年以上の歴史を誇る皇帝の歴史に終止符を打った(ただし、溥儀は1934~45年に満州国皇帝に担ぎ出されている)。

世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区」ノルブリンカ
世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区(中国、1994年、2000・2001年拡大、文化遺産(i)(iv)(vi))」登録の夏の離宮ノルブリンカの庭園。チベット併合を目指す中華人民共和国の人民解放軍が1959年に侵入した際、ダライ・ラマ14世は密かに脱出してインドに亡命した

 

しかしながら、袁世凱は共和政の理念をまったく持っていなかった。

中国同盟会を母体として国民党が誕生し、共和政と民主主義を掲げて1912年末の選挙で大勝すると、強い危機感を抱いた。

このため袁世凱は国民党を弾圧し、孫文や黄興らの武装蜂起(第二革命)を武力で鎮圧した。


1913年に袁世凱は正式な大総統に就任し、中華民国約法を制定して独裁権を強化した。

1914年に第一次世界大戦が起こると中立を宣言したが、ドイツに宣戦布告した日本がドイツの租借地である膠州湾(青島)や南海諸島を占領し、翌年には山東のドイツ利権の継承などを定めた二十一か条の要求を突きつけた。


袁世凱は日本の軍事力に逆らえず、これを承認すると、国内で非難が巻き起こった。

このあと袁世凱は皇帝位の復活を図るが帝政反対運動が起こり(第三革命)、諸外国も反対したためこれを断念した。

袁世凱は1916年に病没している。


清が滅亡して以来、チベット、ウイグル、内モンゴル、外モンゴルといった周辺部で独立運動が加速。

1911年に外モンゴルが独立を宣言し、1913年にはダライ・ラマ13世がチベットの独立を布告した。

外モンゴルでは1924年にソ連の支援を受けて社会主義国・モンゴル人民共和国が成立した。

このうち現在残っているのはモンゴル人民共和国の跡を受けたモンゴル国だけで、他は中国の支配下に戻り、現在も独立問題に揺れている。



次回はアフリカ、ラテン・アメリカ、オセアニアをはじめとする世界分割と列強の分裂を解説する。

 


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48.清、朝鮮、江戸の開国・滅亡

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