世界遺産と世界史41.東アジア・東南アジアの植民前史

明・清が栄えた時代は東アジア・東南アジアの多くの国にとっても最後の繁栄の時代となる。

これ以降、アジアは欧米諸国の侵略を受け、急速に植民地化が進んでいく。


では、モンゴル→チベット→朝鮮半島→沖縄→日本→ベトナム→タイ→ミャンマー→ラオス→マレー半島の順で見ていこう。


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世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観」エルデネ・ゾー
16世紀にカラコルム近郊に建立されたモンゴル初のチベット仏教寺院エルデネ・ゾー。1930年代に共産党勢力に破壊され、その後再建された。世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観」構成資産 (C)Doron

<モンゴル>


モンゴル帝国と元朝の歴史については「世界遺産と世界史28.モンゴル帝国の世界征服」参照。


白蓮教徒による紅巾の乱で元の都・上都①や首都・大都(現在の北京)が落とされると、昭宗はカラクルム②を首都に北元(1371~88年)を建て、元の再興を図る。

明は洪武帝以降、たびたび北伐を行い、1388年にこれを滅ぼすことに成功する。

※①世界遺産「上都[ザナドゥ]の遺跡(中国、2012年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観(モンゴル、2004年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」


元や北元は滅亡したが、モンゴルには中国皇帝の証である玉璽(ぎょくじ)が残されていた。

このためモンゴルでは大ハーン=皇帝を輩出しつづけるが、明は当然これを認めなかった。

この分裂はホンタイジが大ハーンと皇帝を統一して清を建国するまで続いた。


この頃からモンゴルでは東のタタール(韃靼)と西のオイラート(瓦刺)の勢力争いがはじまる。

モンゴルでは王を示すハーンは必ずチンギス・ハーンの家系から出ていたが、タタールはトゥルイの四男であるフビライ家、オイラートは六男であるアリクブケ家の血筋とされていた。


15世紀、オイラートはエセンの下で勢力を伸ばし、タタールを含んだ朝鮮半島から中央アジアに強大な国家を誕生させる。

そして朝貢を制限する明に対して兵を挙げ、明を攻撃。

1449年には土木堡で明の正統帝を捕らえて捕虜とした(土木の変)。


そもそも朝貢貿易は、臣下である朝貢国が君主である明に対して貢物を捧げる貿易のこと。

しかし、君主国は臣下の貢物以上の贈り物を下賜(かし)する習わしがあったので、エセンはお返しを目当てに膨大な貢物を贈っていた。


明はモンゴル系諸民族と結んでエセンの孤立化を画策。

1453年にエセンがハーンに即位すると多くの反対にあい、内乱によって殺害された。

世界遺産「万里の長城」居庸関
北京中心部から約50kmにある居庸関。明の時代に北元に対する城壁として改築されて現在の姿になったが、元の時代にも関と長城が設けられて首都・大都を守っていた。世界遺産「万里の長城(中国、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」構成資産

オイラートが急速に力を失う一方で、今度はタタールのダヤン・ハーンや孫のアルタン・ハーンが勢力を強め、オイラートを攻撃してモンゴル高原をほぼ統一。

アルタン・ハーンはエセンと同様、朝貢貿易を巡って明を攻撃し、一時北京を包囲した(1550年、庚戌[こうじゅつ]の変)。


アルタン・ハーンは熱心なチベット仏教徒で、ツォンカパの開いたゲルク派(黄帽派)の僧ソナム・ギャツォを青海の迎華寺に招き、大海を意味するダライと上師を示すラマを合わせて「ダライ・ラマ」の称号を与える。

この称号は過去に遡って与えられたため、ソナム・ギャツォはダライ・ラマ3世となってモンゴルにチベット仏教を普及させた。


女真族が後金を建てると内モンゴルを含む中国北東部のほとんどを制圧。

ホンタイジはリンダン・ハーンから元朝の玉璽を献上されると、清を建国して皇帝となった。


17世紀、清に押されていたオイラートだが、その一派であるジュンガルのガルダン・ハーンのもとでふたたび勢力を増強。

東トルキスタン、チベット、青海を征服してモンゴルを統一した。


しかしながら康熙帝の攻撃を受けてガルダン・ハーンは逝去。

ジュンガルは清の冊封国となり、乾隆帝の時代に征服されて新疆として併合された。

これにより、清は中国史上最大版図を築き上げた。


このあとモンゴルが独立するのは辛亥革命が起き、清が滅亡する前年の1911年のことだ。

また、新疆は清滅亡後、中華民国の下で新疆省として統治されるが、ウイグル人が主体となって1933年と1944年の二度にわたって東トルキスタン共和国を建国。

しかしながら完全な独立には至らず、1949年に中華人民共和国の人民解放軍によって占領・統合され、1955年に新疆ウイグル自治区が設置された。


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世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区」ポタラ宮
7世紀に吐蕃のソンツェン・ガンポが建立し、ダライ・ラマ5世が大改修したポタラ宮。白い部分が政治機能を司る白宮で、赤い部分が宗教機能を司る紅宮。紅宮には歴代のダライ・ラマの墓碑や極彩色の仏像が多数収められている

<チベット>


吐蕃や西夏については「世界遺産と世界史27.北方騎馬民族とその周辺」参照。

9世紀に吐蕃が滅亡して以降、チベットには統一王朝が現れず、群雄割拠の時代となっていた。


13世紀にモンゴル帝国がチベットを征服すると、当初は寺院を焼いたり僧を虐殺したりもしたが、やがてチベット仏教の指導者たちと交流を深め、フビライの時代にはパスパ(サキャ・ラマ)が国師となってモンゴルで布教を行い、チベットを治めた。


モンゴルとチベットの関係は寺と檀家の関係にたとえられ、「チュ・ユン」と呼ばれた。

大ハーン(皇帝)とラマは政教を二分する相互依存関係にあり、優劣の外にある。

この考え方は清との関係に引き継がれていく。


14世紀後半にツォンカパがゲルク派(黄帽派)を開く。

タタールのアルタン・ハーンはゲルク派の僧ソナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を与え、ダライ・ラマ3世となる。


ダライ・ラマは観世音菩薩の化身とされ、生前に転生の方角を予言してから崩御する。

周囲の者はその年その方向に生まれた子供に対し、生前のクセや占いなどさまざまなテストを行い、次のダライ・ラマを決定する。

なお、シガツェのタシルンポ寺の座主をパンチェン・ラマと呼び、阿弥陀如来(無量光仏)の化身として同じような転生者探しが行われている。

これらの伝統はいまでも引き続き行われている。


17世紀、グシ・ハーンがチベットを征服してグシ・ハーン朝を建国。

ラサを中心とする地域をダライ・ラマ5世に寄進して、チベット政府=ガンデンポタンが発足する。

その政治的・宗教的中枢としてダライ・ラマ5世が築いたのがポタラ宮※だ。

※世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区(中国、1994年、2000・2001年拡大、文化遺産(i)(iv)(vi))」


[関連サイト]

ラサのポタラ宮/中国

世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区」ノルブリンカ
ダライ・ラマ7世が1755年に建立した夏の離宮ノルブリンカ。ダライ・ラマ14世はここからインドのダラムサラに逃れたため、愛用の調度品が当時のまま収められている。こちらも世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区」の構成資産

ダライ・ラマ5世が亡くなると後継者争いで混乱し、ジュンガルや清の介入を呼ぶ。

そんな中、清の雍正帝はグシ・ハーンの勢力を一掃。

その所領をチベット、青海、中国諸省(甘粛・四川・雲南省など)に分割し、チベットをダライ・ラマの領地とした。

乾隆帝の時代には理藩院が置かれて統治された。


チベットにとって中国の皇帝は文殊菩薩の化身、チベットのダライ・ラマは観世音菩薩の化身で、あくまで対等。

しかし中国にとってはひとつの藩にすぎなかった。

この認識の違いが現在に至るチベットの独立運動につながっている。


チベットは清滅亡後、1913年に独立を宣言するが、1950年に中華人民共和国が人民解放軍を派遣して翌年これを併合。

1950年代に激しい独立運動が起きるが(チベット動乱)、これを武力によって鎮圧した。

ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命し、1966年にチベット自治区が設置された。


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世界遺産「宗廟」正殿
先祖の魂が神格化した氏神を祀る聖なる廟=宗廟。この正殿には朝鮮王朝代々の国王の49位の神位が収められており、これらの神位に氏神が宿り、天より降臨すると考えらえている
世界遺産「昌徳宮」正殿・仁政殿
1405年に建てられた景福宮の離宮、昌徳宮。こちらは正殿・仁政殿で、王の即位式などの重要な祭式や謁見が行われた。景福宮とともに1592年の文禄の役で焼失するが、1611年に光海君によって再建されて以降、正宮として使われた

<朝鮮半島>


高麗成立までの歴史は「世界遺産と世界史27.北方騎馬民族とその周辺」参照。


高麗は明と君臣の関係を結んで冊封国となっていたが、元寇や紅巾の乱、倭寇と外圧に苦しんでいた。

特に紅巾軍には一時首都・開城※を落とされた。

そんな中、李成桂は開城奪還や倭寇撃退で名声を挙げることに成功する。

※世界遺産「開城の歴史的建造物と遺跡(北朝鮮、2013年、文化遺産(ii)(iii))」


1392年、李成桂(太祖)は自ら王位に就き、高麗を廃して朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国する。

首都を漢城(現在のソウル)に定めると、王宮・景福宮と離宮・昌徳宮①を建設。

朝鮮王朝も明の冊封国となり、明にならって科挙を整備し、朱子学を導入して富国強兵を推進した。

なお、朝鮮王家の代々の墓が朝鮮王朝の王墓群②で、王たちの氏神を祀っているのが宗廟③だ。

※①世界遺産「昌徳宮(韓国、1997年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 ②世界遺産「朝鮮王朝の王墓群(韓国、2009年、文化遺産(iii)(iv)(vi))」

 ③世界遺産「宗廟(韓国、1995年、文化遺産(iv))」


[関連サイト]

昌徳宮/韓国

宗廟/韓国

世界遺産「華城」華西門
華城の華西門。18世紀後半、理想都市構想を練り上げた朝鮮王朝の正祖は5.8kmの城壁で水原の町を取り囲み、堅固な城郭都市を築き上げた。世界遺産「華城(韓国、1997年、文化遺産(ii)(iii))」構成資産
世界遺産「朝鮮王朝の王墓群」宣陵
9代国王・成宗の墓である宣陵の石像。文官や武官・動物たちの石像が王の陵墓を守っている。世界遺産「朝鮮王朝の王墓群」構成資産

15世紀、世宗の時代に訓民正音=ハングルを制定し、独自の表音文字を作って普及させた。

世宗は当初倭寇を巡って日本と対立して対馬を攻撃するが、のちに室町幕府と通信使を取り交わして和解した。


豊臣秀吉による文禄の役(1592~93年)・慶長の役(1597~98年)が起こると漢城は焼き払われ、景福宮や昌徳宮が焼失した。

朝鮮王朝は冊封国である明に援軍を要請すると、明は求めに応じて大軍を派遣。

結局1598年に秀吉が死亡し、日本軍の撤退をもって朝鮮出兵は終了する。


中国東北部で清が成立すると、朝鮮王朝に対して服従の証として朝貢を要求。

朝鮮王朝は明に朝貢していたため政権内部で意見が割れた。

この頃、国内では両班(ヤンパン)と呼ばれる貴族階級が官僚の要職を独占して派閥争いを繰り返しており(党争)、このときも主戦派と主和派で大いに揉めた。


結局、仁祖が朝貢を拒否すると、清のホンタイジは自ら軍を率いて朝鮮半島に侵入。

またたく間にソウルを落とすと仁祖らは南漢山城※という城塞に籠城する。

打開策もなく仁祖は降伏し、三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい。三度ひざまずいて九度頭を地に叩きつける)を行ったのち莫大な賠償金を支払い、以後属国として朝貢を続けた。

これを記念する碑がソウルの大清皇帝功徳碑だ。

※世界遺産「南漢山城(韓国、2014年、文化遺産(ii)(iv))」


[関連サイト]

水原・華城/韓国


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世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」首里城
琉球国王の居城、首里城正殿。朱塗り・赤瓦・赤レンガと赤が多用されている。首里城は尚巴志によって13~14世紀に建立されたが、その後たびたび焼失し、18~19世紀に現在の姿に再建された。世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」構成資産

<沖縄>


14世紀頃、沖縄の島々を北山・ 中山・南山の三山が支配していた。

これを統一したのが中山の王・尚巴志(しょうはし)だ。

統一後、尚巴志王は城郭都市・首里※を建設し、那覇港を貿易拠点として整備した。

※世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群(日本、2000年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」


琉球王国は明に対する朝貢や、台湾やフィリピン、マラッカ、タイをはじめとする東南アジア諸国との交易で繁栄した。

しかし明で海禁が進み、倭寇の影響もあって朝貢が制限されると低迷がはじまり、ヨーロッパ諸国が交易に進出してくると競争に苦しむようになる。


1609年、江戸幕府の徳川家康は薩摩藩を介して軍を派遣。

尚寧王(しょうねいおう)と捕らえると、幕府への朝貢を要求した。

琉球王国は清と江戸幕府に朝貢を行ったが、清-江戸幕府の間は鎖国で貿易が途絶えていたため中継貿易が発達した。


1853年にペリーが来航して開港を要求。

翌年、琉米修好条約を締結して那覇を開港した。


1872年、廃藩置県で琉球王国を廃止して琉球藩を設置。

1897年に沖縄県となり、首里城が明け渡されて琉球王国は滅亡した。


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世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市]」二条城、二の丸御殿
二条城、二の丸御殿。二条城はもともと足利家の居城で、織田信長も屋敷として利用した。現存するのは徳川家康が上洛した際の宿所として整備したもの。豊臣秀頼との二条城会見や、大坂冬の陣の大御所として使用された。世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市]」構成資産

<日本>


鎌倉時代以前については「世界遺産と世界史27.北方騎馬民族とその周辺」参照。


鎌倉時代の半ば以降、天皇家は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を争った(南北朝時代)。

鎌倉幕府の提案で交互の継承が実現したが、大覚寺統の後醍醐天皇が討幕を呼び掛けると足利尊氏等が鎌倉幕府を打ち倒す。


後醍醐天皇は建武の新政を行うが、武士たちがその扱いに不満を抱くと足利尊氏は持明院統の光明天皇を京都①で擁立し(北朝)、1338年に征夷大将軍に任じられて室町幕府を興す。

一方、後醍醐天皇は奈良の吉野②に南朝を開いて対抗する。

※①世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市](日本、1994年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「古都奈良の文化財(日本、1998年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」


1392年に足利義満が北朝と南朝に分かれていた王朝を統一。

中国で永楽帝が皇帝になると使者を送り、日本国王に任ぜられて明の朝貢国となり、勘合符を所持した者に限定した勘合貿易(日明貿易)を行った。


1467年の応仁の乱、1493年の明応の政変で将軍の権威は失墜し、戦国大名たちが領国を競い合う戦国時代を迎える。


1543年には種子島にポルトガル船が来航。

火縄銃やキリスト教が伝来して日本の文化に大きな影響を与えた。

世界遺産「古都ホイアン」来遠橋
ベトナム、ホイアンの来遠橋。1593年に日本人によって架けられたことから日本橋とも呼ばれ、内部に祠が据えられている。江戸時代に鎖国が完成するで朱印船貿易によって繁栄し、日本人街が形成された。世界遺産「古都ホイアン」構成資産

天下人となった織田信長や豊臣秀吉の奨励で南蛮貿易が活発化し、火縄銃が浸透。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスが訪れて信長や秀吉と謁見した。


信長はヨーロッパの先進的な文化や武器に興味を示し、本能寺など仏教勢力と対抗する必要からキリスト教を保護。

これに対して秀吉は、キリスト教徒が勢力を伸ばしてキリシタン大名が力を持ち、ポルトガルが日本人を奴隷として売買していたことなどからバテレン追放令を出してキリスト教を弾圧し、仏教や神道への改宗を強制した。


また、秀吉は中国征服を目指して朝鮮出兵を行い、文禄の役(1592~93年)・慶長の役(1597~98年)で朝鮮半島に上陸。

朝鮮王朝の首都・漢城を落として北上するが、秀吉が死んで撤退する。


1603年には徳川家康が江戸に遷都して江戸幕府を開く。

家康は幕府直轄地でキリスト教の禁教を実施した。


またこの時代、日本近海では倭寇が湾岸都市を荒らして恐れられていた。

そこで幕府は朱印状を発行し、交易を許可制にしてこれを持たない者を取り締まった(朱印船貿易)。

そして朱印船の出航・帰港地を長崎に限定し、台湾、フィリピン、ベトナム、タイ、カンボジアなどと交易を行った。

取引先の港として有名なのは、マカオ①、ホイアン②、アユタヤ③、マラッカ④などで、ホイアンやアユタヤには日本人町ができている。

※①世界遺産「マカオ歴史地区(中国、2005年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「古都ホイアン(ベトナム、1999年、文化遺産(ii)(v))」

 ③世界遺産「古都アユタヤ(タイ、1991年、文化遺産(iii))」

 ④世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア、2008年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」


[関連サイト]

古都アユタヤ/タイ

マラッカとジョージタウン/マレーシア

世界遺産「姫路城」
1601年に池田輝政によって築城された世界遺産「姫路城」。3重の堀、迷宮構造、矢狭間、鉄砲狭間、石落としなどによって堅牢であるだけでなく、4基の天守、白漆喰総塗籠造、五重屋根、千鳥破風・唐破風といった工夫によってきわめて優美に造られた
世界遺産「日光の社寺」日光東照宮の唐門
本殿と拝殿を取り囲む日光東照宮の唐門。胡粉により白く塗り込められた彫刻が美しい。徳川家康は死後、薬師如来を本地とする東照大権現として祀られた

1637~38年には島原の乱が勃発。

島原・天草はキリシタン大名の所領だったが、関ヶ原の戦いを機に領主が変わり、厳しいキリシタン弾圧が行われた。

これに対する一揆が島原の乱で、幕府は軍を送って鎮圧を行った。

なお、島原の乱の舞台となった原城跡や、潜伏したキリスト教徒が明治以降に建設した教会群は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として日本の世界遺産暫定リストに掲載されている。


この乱と前後して、江戸幕府はスペイン、ポルトガル船の入港を禁止。

徳川秀忠・家光の時代に鎖国が完成し、貿易港は四口(長崎口:オランダと清、対馬口:朝鮮王朝、薩摩口:琉球王国、蝦夷口:アイヌ)に限られた。

なお、ヨーロッパでオランダだけが交易を認められたのは、オランダがプロテスタントを奉じる国で布教を重視していなかったためだ。

同じプロテスタントのイギリスは採算が合わず自ら撤退している。


この時代に関係する世界遺産としては、足利氏の居城で信長・秀吉・家康等が整備した二条城①、秀吉の居城で関ヶ原の合戦後に池田輝政が拡張した姫路城②、家康を東照大権現③として祀った日光東照宮③、日本の富の源泉となった石見銀山④などがある。

※①世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市](日本、1994年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「姫路城(日本、1993年、文化遺産(i)(iv))」

 ③世界遺産「日光の社寺(日本、1999年、文化遺産(i)(iv)(vi))」

 ④世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観(日本、2007年、文化遺産(ii)(iii)(v))」


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世界遺産「チャンアン複合景観」ホアルーのディン・ティエン・ホアン祠
ディン朝の初代皇帝を祀るホアルーのディン・ティエン・ホアン祠。ディン・ティエン・ホアンは美しい奇岩群の中に城壁を巡らせて首都ホアルーを守った

<ベトナム>


以前の歴史については「世界遺産と世界史15.東南&東アジア、アフリカの古代文明」参照。

ベトナム北部は紀元前2世紀頃の漢から10世紀の唐まで、中国の支配下にあった。


968年、群雄割拠していたベトナム北部をディン・ティエン・ホアンが統一してディン(丁)朝を建国。

宋とチャンパー王国の攻撃を受けるもレ・ダイ・ハンが打ち破り、自ら王となって前レ朝(前黎朝)を打ち立てる。

この間、首都だったのがホアルー(華閭)※だ。

※世界遺産「チャンアン複合景観(ベトナム、2014年、複合遺産(v)(vii)(viii))」


[関連サイト]

チャンアン複合景観/ベトナム

世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区」
約800年にわたって首都であり続けたタンロン。リー朝を開いたリー・コン・ウァンがこの地で皇帝を示す黄色の龍を見たことから昇龍=タンロンの名がついた
世界遺産「ハロン湾」
元軍が攻め寄せた際、将軍チャン・フンダオは海底に杭を打って罠を仕掛けたハロン湾に敵艦隊をおびき寄せ、潮が引いて杭に引っ掛かったところを急襲して大勝利を収めたと伝えられている

1009年、リー・コン・ウァンがリー朝を建国。

翌年には首都をタンロン※(昇龍。現在のハノイ)に遷都する。

リー朝は宋に地方政権ではなく国として認められ、「大越」という国号を与えられた。

以後、グエン朝(阮朝)の越南が起こるまでベトナム北部は大越と呼ばれ、ほとんどの間ハノイが首都として機能した。

※世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区(ベトナム、2010年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」


基本的なことだが、○○朝というのは王家を示している。

ディン家やレ家やリー家が王位を継いだからディン朝やレ朝、リー朝といった名が付いている。

仮に私がこの時代に大越の皇帝に即位した場合、大越国長谷川朝がはじまることになる。

なお、ベトナムは中国の冊封国だったが、国内では中国と対等を謳って「皇帝」を称することが多かった。


リー朝は科挙や儒教・仏教をはじめ中国の進んだ文化を取り入れて中国化を推進。

中国風の宮殿や城塞を築き、中央集権化を進めて2世紀を超える長期政権を樹立した。


13世紀に政権が力を失い、各地で反乱が起こると外戚である陳氏が実権を掌握。

1225年にチャン朝(陳朝)が成立する。


13世紀後半には三度にわたるモンゴルの侵攻が行われ、一時首都・タンロンを奪われるが、チャンパーと同盟し、ジャングルやハロン湾※を利用したゲリラ戦術で打ち破った。

※世界遺産「ハロン湾(ベトナム、1994年、2000年拡大、自然遺産(vii)(viii))」


[関連サイト]

ハロン湾/ベトナム

世界遺産「ホー朝[胡朝]の城塞」タインホアの正門
1400~07年に首都となったタインホアの正門。南北約1km、東西約700mの城郭都市で、高さ8mほどの城壁で囲われていた。現在はいくつかの門や彫刻が残る他は農地となっている

モンゴルの脅威が去るとチャン朝はチャンパーと領土争いを繰り広げ、1371年には首都・タンロンが落城する。

そしてチャン朝の外戚が跡を継ぎ、タインホア※を首都として建国したのがホー朝(胡朝)だ。

※世界遺産「ホー朝[胡朝]の城塞(ベトナム、2011年、文化遺産(ii)(iv))」


しかし、宗主国である明の永楽帝はチャン朝を大越の正統とし、ホー朝に対して退位を要求。

ホー朝が拒否したため1407年に明軍が攻撃を開始し、タインホアが陥落して滅亡する(明胡戦争)。


明が支配を強めていくのに対してレ・ロイ(黎利)らが抵抗してゲリラ戦を展開。

明を撤退させると1428年にレ朝(黎朝)を打ち立てる。


16世紀以降、ベトナム北部は権力争いが起こって大いに混乱する。

まず1527年、莫氏が王を幽閉して禅譲を迫り、マク朝(莫朝)を建国。

これに対してレ朝の重臣である鄭氏とグエン氏(阮氏)が明にマク朝の征伐を依頼し、別の王を立ててレ朝を再興する。

この時代、マク朝とレ朝が並立したことから南北朝時代と呼ばれている。


マク朝は明に忠誠を誓ってなんとか攻撃を回避。

1592年にレ朝に敗れて南北朝統一がなされるが、マク氏は明や清の保護を受けて17世紀後半まで地方政権として存続した。


16世紀中盤、鄭氏とグエン氏が対立し、グエン氏は広南の富春(現在のフエ)に追いやられてしまう。

17世紀になるとベトナムは北からマク氏、鄭氏、グエン氏、チャンパーとおおよそ四分割された。

なお、グエン氏が重要港として整備したのがホイアン※で、江戸幕府と朱印船貿易を行って日本人町が成立した。

※世界遺産「古都ホイアン(ベトナム、1999年、文化遺産(ii)(v))」

世界遺産「フエの建造物群」カイディン帝廟の玉座
絢爛たるカイディン帝廟の玉座。グエン朝第12代皇帝カイディン帝はバロックやゴシック、コロニアルといった西洋建築様式を吸収し、東西の芸術文化を融合して陵墓を築いた。世界遺産「フエの建造物群」構成資産

1771年、グエン氏の領内でタイソン党(西山党)の乱と呼ばれる農民反乱が起こる。

鄭氏はこれに介入して軍を進めて広南の首都・フエを占領。

グエン氏の勢力は鄭氏とタイソン党の攻撃を受け、1776年に滅亡した。


南部を平定したタイソン党のグエン・フエ(阮恵。広南のグエン氏とは無関係)は北伐して鄭氏を攻め、1786年に首都・タンロンを落とす。

清の軍が侵入してこれにあたるが、タイソン党はこれを蹴散らしてタイソン朝(西山朝)を建国。


この頃、タイに逃れていた広南のグエン氏の行き残りであるグエン・フック・アイン(阮福暎)がフランスやアユタヤ朝の支援を得、カンボジアで兵を集めて挙兵する。

そしてタイソン朝を破ると1802年にベトナム最後の王朝・グエン朝を建国。

清から王朝が認められ、「越南」の国号が与えられた。


グエン・フック・アインはフエの中心部をヴォーバン式と呼ばれる堅固な星型城郭で取り囲み、北京の紫禁城※をまねて宮殿を建設した。

紫禁城や太和殿などの名前や黄を主体とした内装がこれを示している。

これらの建物は世界遺産「フエの建造物群(ベトナム、1993年、文化遺産(iv))」に登録されている。

※世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国、1987年、2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」


[関連サイト]

北京と瀋陽の明・清朝皇宮群/中国

フエの建造物群/ベトナム

グエン朝はフランスの支援で国を建てたが、フランスは1885年の清仏戦争に勝利するとグエン朝の宗主権を獲得。

グエン朝は傀儡政権となってフランス領インドシナに組み込まれていく。


なお、ベトナム南部には2世紀頃から19世紀頃までチャンパー王国が成立していた。

海のシルクロードを利用した海上貿易国として繁栄し、元やアンコール朝などに朝貢しつつ独立を貫いていた。

上で紹介したレ朝の頃から次第にベトナム北部の政権が勢力を伸ばすと、南へ追いやられて次第に版図を狭め、グエン朝の時代に滅亡する。

世界遺産の「ミーソン聖域(ベトナム、1999年、文化遺産(ii)(iii))」はチャンパーの聖地だ。


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世界遺産「古都スコータイ」ワット・マハタート
アユタヤに吸収されたスコータイ朝の首都遺跡、スコータイ歴史公園のワット・マハタート。「マハタート」はブッダの遺灰で、タイの大きな寺には中心にワット・マハタートが設置されている。石仏や仏塔などにセイロン様式の影響が見て取れる。

<タイ>


これ以前の歴史については「世界遺産と世界史24.イスラムの拡散とインド、東南アジア」参照。


この頃のタイは、アユタヤ朝を建国したタイ族の名称からタイ、あるいは他民族の命名であるシャムと呼ばれていた。

一貫して上座部仏教国であり続け、欧米が進出してきても宗教は守りつづけた。


1351年、ウートーン王が上座部仏教を奉じるアユタヤ朝を建国。

首都アユタヤ①はチャオプラヤー川沿いにあって古くから港市として栄え、この頃には日本~中国東南アジア南・西アジアヨーロッパをつなぐ海のシルクロードの要衝として大いに繁栄していた。


1431年にアンコール・トム②を落としてアンコール朝を滅亡させ、1438年にはスコータイ朝③を吸収して現在のタイの原型を築き上げた。

※①世界遺産「古都アユタヤ(タイ、1991年、文化遺産(iii))」

 ②世界遺産「アンコール(カンボジア、1992年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 ③世界遺産「古代都市スコータイと周辺の古代都市群(タイ、1991年、文化遺産(i)(iii))」


[関連サイト]

古都アユタヤ/タイ

アンコール/カンボジア

世界遺産「古都アユタヤ」ワット・プラ・シー・サンペット
3つの宮殿、100の門、400の寺院、1万体の仏像を擁したという古都アユタヤでも最大規模を誇る仏塔ワット・プラ・シー・サンペット。セイロン様式の仏塔で、1491年にラーマティボディ2世が自分と父・兄の墓として建立した

15世紀頃、タイ北部ではラーンナー王国、ラオスではラーンサーン王国が建国され、これらと争いを繰り返し、一時はラーンサーン王国を倒してラオスを版図に収めた。


16世紀にタウングー朝のバインナウンがミャンマーのほぼ全域を治めると、その勢いのままアユタヤ朝との間で緬泰戦争が勃発。

ラーンナー王国はバインナウンに滅ぼされ、1563年にはアユタヤ朝も属国となってしまう。


しかし、バインナウンの死後タウングー朝は分裂・混乱してアユタヤ朝が独立を回復。

17世紀前半には江戸幕府の朱印船が来航し、山田長政らが活躍して日本人町が隆盛した。


ミャンマーにコンバウン朝が起こるとたびたびタイに侵入。

1766年にコンバウン朝のシンビューシンによってアユタヤは徹底的に破壊され、アユタヤ朝は滅亡した。

1769年、分裂・混乱していたタイを華僑のタークシン将軍がまとめ、首都をトンブリー(現在のバンコクのチャオプラヤー川西岸)に遷してトンブリー朝を建国。

しかしタークシンが乱心をきたしたことからクーデターが起き、ラーマ1世が王に即位する。

これが現在につながるチャクリー朝(バンコク朝)で、チャオプラヤー川東岸に首都バンコクが建設された。

 

なお、バンコクは通称で、正式名称を「クルンテープ・プラマハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロックポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」という(在日本タイ大使館HPより抜粋)。


18世紀にラオスのルアンパバン王国、ビエンチャン王国、チャンパーサック王国に侵出してこれらを属国とし、さらにカンボジアに出撃するが、グエン朝がこれを阻止。

19世紀に入るとミャンマーのコンバウン朝、ベトナムのグエン朝との間でインドシナ半島の支配を巡って対立が起き、これにイギリスやフランス、アメリカが絡んで事態は混乱する。


やがて清がアヘン戦争に敗れ、コンバウン朝がイギリスに滅ぼされ、グエン朝とラオスのルアンパバン王国、チャンパーサック王国がフランス領インドシナに編入され、周辺がすべて植民地化されてしまう。

イギリス・フランスはタイの植民地化も図ったが、1896年に両国はタイを緩衝地帯として残すことを決定し(英仏宣言)、チャクリー朝は辛くも独立を保った。


* * *

バガンのパゴダ
11~13世紀に建設されたセイロン様式のストゥーパ=パゴダが連なるバガンの早朝風景。現在も信心深い上座部仏教とが寄進を行っており、2,000とも5,000ともいわれるパゴダは増えつづけている。

<ミャンマー>


これ以前の歴史については「世界遺産と世界史24.イスラムの拡散とインド、東南アジア」参照。


ミャンマーはビルマ族のバガン朝が起こってからビルマと呼ばれている。

上座部仏教を守りつづけたのはタイと同じだ。


ビルマ族初の統一王朝バガン朝(首都バガン※)は上座部仏教国として繁栄するが、モンゴル帝国の侵入を受けて1314年に滅亡。

このあと群雄割拠の時代となり、さまざまな国が生まれては消えた。

※ミャンマーの世界遺産暫定リスト記載

 

[関連サイト]

未来の世界遺産2 バガン


16世紀にはモン族のペグー朝、タイ系シャン族のアヴァ朝、ビルマ族のタウングー朝といった国々が繁栄していたが、これをタウングー朝が統一。

国王バインナウンはタイ北部のラーンナー王国を占領し、さらにアユタヤ朝の首都アユタヤ※を1年に及ぶ兵糧攻めの果てに落として属国とした。

このあとラオスのラーンサーン王国を攻め、これも支配下に収めている。

※世界遺産「古都アユタヤ(タイ、1991年、文化遺産(iii))」

 

[関連サイト]

古都アユタヤ/タイ


バインナウンの死後ミャンマーが分裂したためアユタヤ朝はふたたび独立し、逆にビルマに侵攻している。


17世紀、インドのムガール帝国が西から圧力を強め、一方でモン族がペグー朝を再興。

このペグー朝によってタウングー朝は滅亡する。

一時はモン族が主導権を握るが、アラウンパヤーが1752年にコンバウン朝を建ててビルマ族の王朝を復活させる。


アラウンパヤーはペグー朝を滅ぼすとビルマをほぼ統一。

その勢いでタイに入ってアユタヤを攻めるが、攻城中に死亡した。


タイ征服の夢はコンバウン朝のシンビューシンが実現し、1766年にアユタヤ朝を攻略。

このときアユタヤは破壊され尽くし、宝物はビルマに略奪された。

ただ、シンビューシンは清との戦いに敗れ、冊封国として朝貢を行っている。


このあとコンバウン朝はインド方面にも進出して版図を広げるが、イギリスがこれに反発してビルマ戦争(英緬戦争。1824~86年)が勃発。

これに敗れると、1886年にイギリス領インドに併合された。

 

* * *

世界遺産「ルアンパバンの町」
幾重にも重なる切妻屋根とチョーファーと呼ばれる突き出した屋根飾りが特徴的なルアンパバン様式の寺院、ワット・シエントーン。ラーンサーン王国の菩提寺で、1560年にセタティラートが建立した
王宮博物館の仏堂、ホー・パバーン
至宝パバーン仏を収めた王宮博物館の仏堂、ホー・パバーン

<ラオス>


メコン川沿いには数多くの都市国家群があった。

これらを1353年に統一したのがファー・グム王のラーンサーン王国だ。


ファー・グムはアンコール朝の首都アンコール・トム※に留学経験があり、アンコール朝と太いパイプを持っていた。

これを利用して兵を借り受け、都市国家群を平定。

シエントーンを首都として初の統一王朝を建国した。

※世界遺産「アンコール(カンボジア、1992年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」


アンコール朝の王女をめとるとアンコール朝より至宝パバーン仏が贈られる。

現在ルアンパバンの王宮博物館に収められている黄金仏がこれだ。

ラーンサーン王国は上座部仏教を国教として保護して数々の仏教寺院を建立した。


16世紀にミャンマーのタウングー朝が勢力を伸ばしてラーンナー王国を征服すると、危険を感じたセタティラートは1560年に首都をビエンチャンに遷都。

シエントーンはルアンパバン①に改名され、宗教的中心地として残された。

一方、ビエンチャンにも国王の仏塔タートルアン②が建設され、王国の象徴となった。

※①世界遺産「ルアンパバンの町(ラオス、1995年、文化遺産(ii)(iv)(v))」

 ②ラオスの世界遺産暫定リスト記載


[関連サイト]

ルアン・パバンの町/ラオス

16世紀後半にアユタヤ朝を属国化したタウングー朝が侵入。

1574年にビエンチャンは落城し、タウングー朝の版図に入った。

しかしながら1600年前後にはタウングー朝から独立を宣言している。


18世紀はじめ、王位継承争いが激化し、ラーンサーン王国はルアンパバン王国、ビエンチャン王国、チャンパーサック王国の三国に分裂する。

チャンパーサックにあって宗教的聖地とされていたのがワット・プー※だ。

※世界遺産「チャンパーサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群(ラオス、2001年、文化遺産(iii)(iv)(vi))」

 

[関連サイト]

ワット・プー/ラオス


18世紀前半にルアンパバン王国とビエンチャン王国の対立が激化。

その争いの最中、1777年にビエンチャン王国はタイのトンブリー朝に占領され、翌年ルアンパバン王国、さらに翌年チャンパーサック王国が落とされ、三王国がトンブリー朝の支配下に入る。

このあとタイがチャクリー朝に代わると、それぞれ自治国となった。


このあとビエンチャン王国が独立の動きを見せたためチャクリー朝の怒りを買い、ふたたび占領されてビエンチャンは徹底的に破壊され、1828年に滅亡した。


この頃、ベトナムはフランス領インドシナとなり、フランスはさらにラオスの領有を目指していた。

1893年にタイとの間で起こった仏泰戦争に勝利すると、フランスはラオス各国の宗主権を獲得。

ラオス全域を保護国化してフランス領インドシナに組み込んだ。


* * *

世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」マラッカ・スルタン・パレス
マラッカ初代国王パラメスワラの王宮を再現したマラッカ・スルタン・パレス。三角屋根や高床式の床が特徴で、金属はいっさい使用していない。現在は文化博物館、マレー庭園として公開されている

<マレー半島>


マラッカ王国成立以前の話は「世界遺産と世界史24.イスラムの拡散とインド、東南アジア」参照。


7世紀以降、イスラム商人が海のシルクロードを大規模に開発して以降、マレー半島やスンダ列島は東アジアと南アジア・西アジアをつなぐ海のシルクロードの要衝として発達し、イスラム商人・インド商人・中国商人が行き交った。


特に発達したのが、スマトラ島で7世紀に興ったシュリーヴィジャヤ王国だ。

14世紀にマジャパヒト王国がこれを征服すると、シュリーヴィジャヤ王国の生き残りであるパラメスワラが1402年にマレー半島でマラッカ王国※を建国する。

※世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア、2008年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」


[関連サイト]

マラッカとジョージタウン/マレーシア


1405年には明の永楽帝が派遣した鄭和の大艦隊が来航。

明はこの頃、海禁政策をとっていたが、海上交易網を保護して朝貢貿易を行った。


マラッカ王国はイスラム教に改宗してイスラム商人と手を結び、さらに明の中国商人を優遇して両者を取り込み、東南アジア第一の貿易港として繁栄した。


16世紀に入るとポルトガル船がこの地に到達してイスラム教徒を迫害。

この報を受けたマラッカ王国はポルトガルの排除を決定するが、1511年にポルトガルの将軍アフォンソ・デ・アルブケルケの攻撃を受け、マラッカは占領された。

世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」セント・ジョージ教会
ペナン島がイギリスに割譲された1786年に建てられたジョージタウンのセント・ジョージ教会。左の天蓋は、同年イギリス人船長フランシス・ライトがこの地に上陸したことを記念したもの

ポルトガルの手でマラッカに城壁が張り巡らされて城郭都市となり、ヨーロッパ風の街並みが誕生。

その一方でマラッカ王国の一派が南に落ちてジョホール王国を建国する。


北では14世紀頃から成立していたパタニ王国がイスラム商人の受け皿となって宗主国であるアユタヤ朝の下で繁栄し、スマトラ島ではイスラム教国であるアチェ王国が勢力を伸ばし、それぞれ貿易を競い合った。


16世紀後半、ポルトガル領マラッカとジョホール王国は激しく争ったが、アチェ王国がオスマン帝国のスレイマン1世に援軍を要請すると大艦隊がマラッカとジョホールを襲い、勢力争いは混乱を極めた。


1602年にオランダが東インド会社を作り、1623年のアンボイナ事件でポルトガルを失脚させるとモルッカ諸島(香辛料諸島)をはじめスンダ列島の実権をオランダが掌握。

1641年にはジョホール王国と協力してポルトガルを駆逐すると、マラッカを占領する。

オランダの仲介でジョホール王国はアチェ王国と和解し、三者はともに繁栄を勝ち取った。


1786年、タイのトンブリー朝が南下してパタニ王国を併合。

ペナン島を支配していたクダ・スルタン王国はこの脅威に対し、イギリスに支援を求める代わりに島をイギリス東インド会社に割譲した。

このときイギリスがペナン島に造った街がジョージタウン※だ。

1824年には英蘭協約でマラッカもイギリスに譲渡されている。

※世界遺産「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア、2008年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」


[関連サイト]

マラッカとジョージタウン/マレーシア

世界遺産「シンガポール植物園」
イギリスが1859年に設立した熱帯植物園、世界遺産「シンガポール植物園」の気化園。マレーシアから分離独立した1965年以降はリー・クアン・ユー首相主導の緑化促進を目的とするガーデン・シティ計画の中心となってシンガポールの近代化に貢献した

イギリスはジョージタウン、マラッカ、シンガポール※という海峡植民地を中心にマレー半島の支配を強化。

3港は自由港として関税を撤廃したことからインド商人や中国商人が集まって繁栄し、さらにスズ鉱山やコーヒーやゴムのプランテーションではクーリー(苦力)というインド人・マレー人・中国人労働者を導入した。

当時は最大80の言語が使用されたといわれており、現在に至る多民族文化が浸透していく。

※世界遺産「シンガポール植物園(シンガポール、2015年、文化遺産(ii)(iv))」

 

やがてイギリスは支配を強めてジョホール王国、クダ・スルタン王国を植民地化し、一方アチェ王国は19世紀後半のアチェ戦争に敗れてオランダに併合される。

 

 

次回はヨーロッパ史に戻って産業革命を取り扱う。



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ぼくがこれまで撮影してきた写真を掲載していこうと思います。

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イギリスでもっとも歴史のある石造城塞であり、多くの囚人を収容した監獄兼処刑場で、世界一有名な幽霊屋敷でもある「ロンドン塔」。クリックで外部記事へ

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『朝日新聞 世界の扉』記事執筆。『地球の歩き方 MOOK 世界のビーチBEST100』『ノジュール』に旅のスペシャリスト・達人として参加。『PEN』でアフリカの世界遺産執筆。『MONOQLO』世界遺産特集取材協力。『女性セブン』で日本の世界遺産を解説。エクスナレッジ『聖地建築巡礼 世界遺産から現代建築まで、73の聖地を巡る旅』、洋泉社ムック『負の世界遺産』執筆。RKBラジオ、FM TOKYOで世界遺産特集出演。その他企業・大学広報誌等。

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