世界遺産と世界史46.帝国主義と米英仏

18世紀にフランスを追い落とし、世界の多くを支配して、どんな時間にも領土のいずれかには日が照っているという「太陽の沈まぬ帝国(第一帝国)」を成立させたイギリスだが、アメリカの独立によって繁栄は終わりを告げたように見えた。


しかし19世紀、ヴィクトリア女王の時代にふたたび「太陽の沈まぬ帝国(第二帝国)」を築き上げ、自由貿易を旗印にグローバル経済を確立する。


そのイギリスに対して独立を勝ち取ったアメリカは次々と領土を拡張し、広大な領土を治めつつあった。

この時代、ヨーロッパ諸国はアメリカを小国としか扱っておらず、フランスやスペインはアメリカ大陸の不毛の地をアメリカに売却し、ウィーン体制の中で強力な王政の復活を図っていた。

そんな中でアメリカはやがて産業革命を成功させ、豊富な土地と資源を背景に農業と工業を飛躍させる。


一方、ほとんどの海外領土を失ったフランスの政治体制はフランス革命以降、第一共和政→ジャコバン独裁→第一帝政→復古王政→七月王政→第二共和政→第二帝政と目まぐるしく変化しており、ふたたびナポレオン3世という皇帝を生み出していた。


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世界遺産「パリのセーヌ河岸」のエッフェル塔。
左の塔が高さ321mのエッフェル塔、周辺の緑がシャン・ド・マルス公園、右下がナポレオン1世の棺が安置されているアンヴァリッド。エッフェル塔は1889年のパリ万博のために建設されて以来、パリの象徴となった。世界遺産「パリのセーヌ河岸」構成資産

 

<フランス第二帝政と第三共和政>


1852年、ルイ・ナポレオンは国民投票によって皇帝ナポレオン3世となった。

ナポレオン3世はナポレオン1世と同様、産業資本家や労働者・農民の圧倒的な支持の下で、軍と官僚を利用して独裁的な政治を行った(ボナパルティスム)。


大臣を皇帝の任命制として行政権を掌握。

立法については元老院と立法院の二院制としたが、男子普通選挙で選ばれる議員からなる立法院に発議権は存在せず、元老院は指名による任命で、皇帝が法案に対して拒否権を持つことで議会を無力化した。

ナポレオン3世は人民主権をうたったがその根拠は国民投票で、しかも彼の治世で国民投票は2回しか行われなかった。


ボナパルティスムは国民の人気を支持基盤としているので、それを失うことは皇帝の失脚を意味する。

そのため自由主義的な改革と積極的な外交は必須のものとなった。


1830年代にはじまったフランスの産業革命は1860年代に完成し、この富を背景に都市や鉄道網を整備し、保護貿易から自由貿易に転換して産業の自由化を促した。

世界遺産「リヨン歴史地区」のフルヴィエール大聖堂
世界遺産「リヨン歴史地区」のフルヴィエール大聖堂。リヨンは産業革命でフランス随一の絹織物生産地となり、その後の都市改造でこの大聖堂が建設されて新都市の象徴となった。(C) Clément-Bardot


たとえば、1853~1870年にかけて衛生的で機能的な都市を目指して知事オスマンとともにパリ改造を行い、1855年と1864年にパリ万国博覧会を開催。

凱旋門から放射状に広がる大通りや大規模な地下水路といった現在のパリ①の基盤はこの時代に築かれた。

デパート(百貨店)という商業施設が誕生したのもこの頃のパリだ。

フランスでは他にリヨン②、マルセイユなどでも都市改造が行われ、バルセロナやストックホルム、ウィーン③などの都市改造にも影響を与えた。

※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 ②世界遺産「リヨン歴史地区(フランス、1998年、文化遺産(ii)(iv))」

 ③世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」


鉄道網についてはナポレオン3世の治世で6倍以上に延伸され、乗客・貨物の輸送とも数倍~10倍にまで飛躍した。

一例がボルドー地区※で、もともとボルドーは反皇帝の機運が強かったが、この地に鉄道を敷き、ワイン産業を振興したことで支持基盤に転換した。

ボルドー産ワインはイギリスやオランダで人気を博し、フランス=ワインの国という構図を作り上げた。

※世界遺産「ボルドー、リューヌ港(フランス、2007年、文化遺産(ii)(iv))」

世界遺産「ボルドー、リューヌ港」のピエール橋
世界遺産「ボルドー、リューヌ港」のピエール橋。ナポレオン1世の命で建設された橋で、1822年に完成した。この湾はガロンヌ川が三日月状に弧を描いていることから「月の港」との異名を持つ

 

そして貿易を振興するために、1860年に英仏通商条約を締結して関税を引き下げ、プロイセンやイタリア、ドイツ諸国と自由貿易協定を結び、保護主義から自由主義に転換。

イギリスのすぐれた商品が流入したためフランスの手工業や軽工業は打撃を受けたが、ワインや工業製品はよく売れて産業革命が進展した。


外交について、ナポレオン3世はナポレオン1世にならって積極的に外征に乗り出した。

しかしながらナポレオン1世のような目覚ましい領土拡張はならなかった。

以下、時代順に見てみよう。

なお、クリミア戦争、イタリア統一戦争、プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)については「世界遺産と世界史45.イタリアとドイツの成立」も参照のこと。

 

■クリミア戦争:1853~56年

1852年、ナポレオン3世は聖地エルサレム※の管理権を手に入れるが、ロシアが反発。

バルカン半島の正教徒の保護を名目にロシアがオスマン帝国に宣戦を布告すると、フランスはイギリス、サルデーニャ王国と協調してオスマン帝国側に立ってロシアと戦った。

1856年のパリ会議でパリ条約が締結されてロシアの敗北に終わり、ナポレオン3世はフランス国内で支持を高めた。

※世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請、1981年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

世界遺産「フォンテーヌブローの宮殿と庭園」の舞踏会の広間
世界遺産「フォンテーヌブローの宮殿と庭園(フランス、1981年、文化遺産(ii)(vi))」の舞踏会の広間。ナポレオン3世はこの宮殿で第二帝政の指揮を執った

 

■アロー戦争(第二次アヘン戦争):1856~60年

1856年、アヘン密輸船の香港船籍アロー号に対し、中国清朝の官憲が検査を行い、船員を逮捕した。

アヘン戦争の結果、1842年に締結された南京条約で香港がイギリス領となっていたことからイギリスが強く反発。

同年にフランス人宣教師殺害事件が起きていたことからイギリスはフランスを誘って清朝と開戦した。

清は国内で太平天国の乱が起きていたこともあって苦戦し、広州を占領され、1860年には北京※が陥落。

英仏両国は不平等条約である天津条約、北京条約を締結させ、11港を開港させて自由貿易を推し進め、外国人の内地旅行の自由やキリスト教布教の自由などを認めさせた。

※世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国、1987年、2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園(中国、1998年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

 世界遺産「天壇:北京の皇帝の廟壇(中国、1998年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

 世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群(中国、2000年、2003・2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」


■インドシナ出兵(仏越戦争):1858~62年

ベトナムで宣教師殺害事件が起こるとナポレオン3世はスペインと共同でベトナム・グエン朝(阮朝。首都フエ※)に出兵。

1859年にサイゴン(現在のホーチミン)を占領し、1862年のサイゴン条約でメコン川下流を割譲させ、メコン川の通航権を認めさせた。

これ以降、コーチシナ西部を占領し、カンボジアを保護国化。

ベトナム、カンボジア、ラオスにまたがる植民地、フランス領インドシナの基盤を築いた。

※世界遺産「フエの建造物群(ベトナム、1993年、文化遺産(iv))」

世界遺産「世界遺産「サヴォイア王家の王宮群」の王宮
16~17世紀に建設された、イタリア・トリノのサヴォイア家王宮。サヴォイア家はここを拠点にイタリア統一戦争を戦い抜いた。世界遺産「サヴォイア王家の王宮群」構成資産

 

■イタリア統一戦争:1859年

サヴォイア家①のサルデーニャとハプスブルク家のオーストリア間の戦争で、ナポレオン3世はサヴォイア、ニースの割譲を条件にサルデーニャの支援を約束(プロンビエールの密約)。

戦争開始とともにイタリアに攻め込むが、サルデーニャがロンバルディア②を手に入れて強大化したことに対する懸念と、教皇の権威低下を嫌う国内のカトリックに配慮して、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世と早々に単独講和した。

ナポレオン3世の日和見的な態度は批判の的となった。

※①世界遺産「サヴォイア王家の王宮群(イタリア、1997年、文化遺産(i)(ii)(iv)(v))」

 ②世界遺産「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ(イタリア、2003年、文化遺産(ii)(iv))」


■メキシコ出兵:1861~67年

1861年、メキシコ共和国でフアレス政権が誕生すると、ベニート・フアレスは経済危機を治めるために債権の利払いを一時停止してしまう(これ以前のメキシコの歴史については「世界遺産と世界史44.ウィーン体制と七月・二月革命」参照)。

これに対し、債権国であるフランス、スペイン、イギリスは軍をメキシコに送り込んで開戦。

アメリカは同年に南北戦争が勃発して積極的な参加はなかったが、モンロー主義の立場から欧州の干渉を嫌って抗議し、フアレス政権を支援した。

スペインとイギリスは交渉を進めて1862年に撤兵したが、フランスは戦いを継続し、一時プエブラ①の戦いに敗れるものの、1863年に首都メキシコシティ②を陥落させた。


フランスはイタリア統一戦争で戦ったオーストリアとの関係を改善するためオーストリア・ハプスブルク家の血を引くマクシミリアンを皇帝に立て、メキシコ帝国を再興。

ところが1867年、プロイセンと緊張が高まったことからフランス軍が撤兵すると、マクシミリアンは逮捕されてケレタロのサンタ・クルス修道院③で銃殺された。

ナポレオン3世は皇帝を見殺しにしたことで非難を浴びた。

※①世界遺産「プエブラ歴史地区(メキシコ、1987年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「メキシコシティ歴史地区とソチミルコ(メキシコ、1987年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(v))」

 ③世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区(メキシコ、1996年、文化遺産(ii)(iv))」

世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区」のサンタ・クルス修道院
メキシコ皇帝マクシミリアンが処刑されたサンタ・クルス修道院。ケレタロはすぐれた水道橋でも知られている。世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区」構成資産。(C) Adamcastforth

 

■普仏戦争:1870年

ナポレオン戦争に対する復讐を掲げてドイツの一体化を図るビスマルクに対し、プロイセンの強大化と統一ドイツの誕生を恐れたナポレオン3世が開戦。

しかし、スダンの戦いでナポレオン3世は捕虜となってしまう。


これを受けてパリ市民は反乱を起こして第二帝政が崩壊。

市民は臨時政府を立ててプロイセン・ドイツ連合軍に抵抗するが、1871年1月にベルサイユ宮殿※を占領されたあげく、その場で皇帝の戴冠式が行われてドイツ帝国の誕生が宣言された。


フランスは敗北し、臨時政府は莫大な賠償金とアルザス州、ロレーヌ州の割譲を条件に講和。

3月にはドイツ軍のパリ入城を許した。

こうした屈辱的な降伏に対してパリ市民20万人がパリ市庁舎前に集まって労働者政権パリ=コミューンを樹立。

パリで政権を奪ったが、臨時政府のティエールはベルサイユに逃れて体制を整える。


5月21日からパリで両派の市街戦が勃発。

ドイツ軍がパリを包囲したため退路が経たれ、血で血を争う凄惨な戦いが展開した(血の週間)。

最終的にパリ=コミューンは3万の死者を出し、ほぼ全滅した。

世界遺産「パリのセーヌ河岸」のパリ市庁舎
パリ=コミューンの本部となったパリ市庁舎。混乱の中で焼失したが、1882年に再建され、以前の姿を取り戻した。世界遺産「パリのセーヌ河岸」構成資産 (C) Benh-LIEU-SONG

 

ドイツ軍が去ったあとフランスは王党派と共和派で揺れ動くが、1875年に議会が第三共和国憲法を可決し、共和政が成立(第三共和政)。

この共和国憲法は三権分立をベースに議会の二院制や下院の男子普通選挙を保証しており、議会選出の大統領制を掲げていた。

大統領は議会の解散権を持つなど大きな力を保持し、王党派は大統領の権限をベースに王政の復活を画策した。

しかしながら選挙で共和派が大勝したため、王政の復活はならなかった。

といっても共和政は不安定で数々の事件を引き起こした。

 

1887年、フランス-ドイツ国境のロレーヌ地方でフランス人がドイツに拉致されると、政府が外交交渉を行う中でブーランジェ将軍は戦争を主張。

将軍は罷免されるが軍部・右派・王党派などが支持して共和政打倒を図ったが、政府が国家転覆の罪で告発すると、将軍は1889年にベルギーに亡命した(ブーランジェ事件)。

 

1892年にはパナマ運河を建設していたレセップスのパナマ運河会社から国会議員に賄賂が送られていたことが明らかになり、大スキャンダルへと発展した。

レセップスは有罪となったものの、多くの国会議員は無罪となった(パナマ事件)。

これにより政府に対する信頼は大いに揺らいだ。


1894年、ユダヤ系の軍人ドレフュス大尉がドイツのスパイとして捕らえられて終身刑が宣告された。

のちに無罪が判明したためユダヤ人差別が明らかとなり、再審か否かで国論は二分された。

正義・自由・平等を提唱する共和派は再審を求め、軍や王党派は判決を支持した。

1899年に再審されて有罪を言い渡されたが、大統領の特赦を受けたのち釈放され、1906年に無罪が確認された。

このドレフュス事件により共和派は体面を守り、共和政は救われた。

 

外交に関して、フランスは19世紀後半から植民地支配を進め、北アフリカのチュニジア、アルジェリア、モロッコをフランス領北アフリカとし、サハラ砂漠から中央アフリカに至る地域を押さえてフランス領西アフリカ、フランス領赤道アフリカを構成し、フランス領ソマリランド(ジブチ)やマダガスカルを領有した。

西アフリカから東進していたフランスのアフリカ横断政策は1898年にイギリスの縦断政策とスーダンでファショダで衝突するが(ファショダ事件)、フランスが撤退して解決した。

また、インドシナ半島ではフランス領インドシナを築いて現在のベトナム、カンボジア、ラオスを押さえた。

 

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イギリス帝国の版図の推移


<イギリス第二帝国>


イギリスは1837年に18歳で即位したヴィクトリア女王の時代(~1901年)に繁栄をきわめ、「太陽の沈まぬ帝国」を築き上げた。


この時代は産業革命が成熟し、独占資本と金融資本が国家権力と結びついて膨大な富を獲得。

この富を背景に海軍力を増強し、この海軍力を使って植民地を獲得、あるいは不平等条約を結んで開国させたのちに資源を吸い上げ、資本を投下し、マーケットとして自国の製品を売り込んで各地の富を収奪した。


帝国主義の典型的な事業が鉄道や電信、借款だ。

都市と都市、都市と鉱山を鉄道で結び、沿線に工場を建設し、電信を通して発展させた。

また、相手国に借款として資金を融資してインフラを整備させたり、戦争を行わせ、その返済で利益を出したり、担保として得た税収や鉄道敷設権・土地を押さえることで植民地支配を進めた。


その結果、多くの小国を従えることとなり、大帝国が形成された。

これを帝国主義と呼ぶ。

世界遺産「オーストラリア囚人遺跡群」のポート・アーサー
脱出不可能といわれたタスマニアのポート・アーサー流刑地。18~19世紀、イギリスの犯罪者や先住民アボリジニはオーストラリアの流刑植民地に強制移住させられた。世界遺産「オーストラリア囚人遺跡群(オーストラリア、2010年、文化遺産(iv)(vi))」構成資産

イギリスでは植民地経営より独立させてマーケットにした方が利益が出るという植民地不要論も提起されたが、帝国主義が浸透して植民地獲得競争が起きたため、植民地がなくなることはなかった。

ヴィクトリア女王時代の主な支配地域は以下。

白人入植者が多い地域は自治をさせ、そうでない地域は直接支配した。

 

■直轄植民地

アイルランド(1801年)、インド帝国(1877年)

 

■植民地

香港(1842年)、九龍(1860年)、キプロス島(1878年)、アフガニスタン(1880年)、エジプト(1882年)、ビルマ(1886年)、ケニア(1885年)、ナイジェリア(1886年)、ローデシア(1895年)、マレー連邦(1895年)、スーダン(1899年)

 

■自治植民地

カナダ連邦(1867年)、オーストラリア(1901年)、ニュージーランド(1907年)、南アフリカ連邦(1910年)

世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会」
1834年に焼失し、ゴシック・リバイバル様式にて再建されたウェストミンスター宮殿。右が時計塔ビッグ・ベン、左がヴィクトリア女王の名を冠するヴィクトリア・タワー。世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会」構成資産


これ以外にイギリスはラテンアメリカのギアナ、ジャマイカ、ホンジュラス、トリニダードトバゴ、フォークランド諸島などを所有していた。

こうした大帝国を築く一方で、ヨーロッパ諸国からは一定の距離を取り、同盟を行わない孤立主義を貫いて「光栄ある孤立」を保った。

なお、イギリスの植民地の展開についてはオスマン帝国やインド・東南アジアの植民地化の章で解説する。


イギリスはその技術力を誇示し、他国と産業の交流を図るため、1851年にロンドン※で第一回万国博覧会を開催。

万博には40か国が参加し、のべ500万人が入場した。

特にガラス張りの透明な水晶宮(クリスタル・パレス)は当時としては画期的な建物で、ヴィクトリア朝の技術力と経済力を見せつけた。

これ以降、万博は各国の威信をかけた催しとなり、最先端の技術を競うこととなった。

※世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス、1987年、2008年拡大、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 世界遺産「ロンドン塔(イギリス、1988年、文化遺産(ii)(iv))」


[関連サイト]

ウェストミンスターとビッグベン/イギリス

世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園」
1880年10月1日~1881年4月30日に開催されたメルボルン万博のメインホール、ロイヤル・エキシビジョン・ビル。オーストラリアが独立した際には、一時国会議事堂としても使用された。世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園」構成資産


万博はその後、パリやフィラデルフィアといった先端都市で開催されたが、1880年にはじめて南半球に渡り、イギリスの自治植民地であるオーストラリアのメルボルンで開催された。

この万博で建てられたメインホールがロイヤル・エキシビジョン・ビル※だ。

地球の裏で開催することで、イギリスはまさに太陽の沈まぬ繁栄を誇示した。

※世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園(オーストラリア、2004年、文化遺産(ii))」


[関連サイト]

ロイヤル・エキシビジョン・ビル/オーストラリア


帝国主義を象徴するのが、資本を牛耳る金融資本であり、その中心をなすイングランド銀行だ。

イングランド銀行は1694年に創立され、金と交換可能な兌換紙幣(交換できる紙幣)=銀行券を発行した。

1833年に銀行券は法廷紙幣となり、1844年にイングランド銀行は銀行券発券の独占権を獲得。

イングランド銀行は中央銀行の役割を担い、「世界の銀行」と評されてイギリス財政はきわめて安定した。

ロンドンには王立取引所なども設立されて世界金融の中心として発展した。

世界遺産「シンガポール植物園」のシンフォニー湖
世界遺産「シンガポール植物園」のシンフォニー湖。湖面ステージではしばしばコンサートが開催されている

植民地経営にあたって、中国の茶を品種改良してインドのダージリンやスリランカのプランテーションで大量生産を行うなど、植物学を駆使して世界規模で商品化が進められた。

こうした研究は植物園で行われたが、その中心をなしたのがロンドンのキュー王立植物園(キュー・ガーデン)①で、植民地に設立されたのがシンガポール植物園②だ。

※①世界遺産「キュー王立植物園(イギリス、2003年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 ②世界遺産「シンガポール植物園(シンガポール、2015年、文化遺産(ii)(iv))」


ヴィクトリア女王はイングランドの女王であっただけでなく、1877年にインド帝国の皇帝も兼ねた。

しかしイギリスでは「国王は君臨すれど統治せず」が浸透しており、王に代わって議会が機能した。


この時代に活躍したのが保守党(旧・トーリー党)のディズレーリと自由党(旧・ホイッグ党)のグラッドストンだ。

ディズレーリーは外交政策に長け、スエズ運河を買収しインド帝国を成立させるなど、帝国主義の発展に寄与した。

一方、グラッドストンは内政に力を費やし、教育法や労働組合法を制定し、選挙法を改正した。

時々に応じて異なる政党が政権を取ることで、状況に臨機応変に対応した。

これも議会政治のひとつの特徴だ。

世界遺産「キュー王立植物園」のテンペレイト・ハウス
世界最大の温室といわれる世界遺産「キュー王立植物園」のテンペレイト・ハウス。チリヤシをはじめ、南米やアフリカの植物が植えられている。19世紀後半、やはりヴィクトリア女王時代に完成した

 

特徴的な改革を列挙しよう。

まず1867年に第二回選挙法改正を実施し、都市労働者に選挙権が与えられ、有権者数が倍増。

さらに1884年の第三回選挙法改正では農業労働者と鉱山労働者が選挙権を獲得し、さらに倍増した。

1870年に教育法が制定されて初等教育が義務化され、1871年の労働組合法で労働組合の法的地位が認められた。


1895年に植民相になったチェンバレンはオーストラリアやニュージーランド、カナダを自治領として連携を深める一方で、より多くの植民地が必要と考えて植民地拡大政策を推進した。

一例が南アフリカ戦争(ブール戦争。1899~1902年)で、オランダ人入植者の子孫であるブール人が建てたオレンジ自由国でダイヤモンド鉱、トランスヴァール共和国で金鉱が発見されると両国を攻撃して侵略した。

1910年にはケープ植民地、ナタール、オレンジ、トランスヴァールの4州で南アフリカ連邦を構成し、自治領として管理した。


植民地経営についてはさまざまな問題があったが、特に「最古にしてもっともやっかいな植民地」といわれたのがアイルランドだ。


1801年にアイルランドは連合王国に組み込まれ、イギリスは「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」となった。

アイルランドにはカトリックが多く、イングランドはプロテスタントが多勢を占める。

アイルランドにおいても有力なのはイングランド人の地主で、カトリックの小作人たちはざまな形で差別されていた。

しかし、1829年のカトリック教徒解放法で一応法的な差別はなくなった。

この頃のアイルランド人の主食は「貧乏人のパン」と呼ばれたジャガイモ。

1845年から数年にわたって伝染病が広がって、ジャガイモ飢饉と呼ばれる大飢饉が起こる。

当時アイルランドの人口は850万人ほどといわれているが、そのうち100万人が死亡し、100万人が移民としてアメリカなどに渡ったという。


1848年に青年アイルランド党が蜂起するなどイングランドへの抵抗を強め、イギリス政府も1870年にアイルランド土地法を制定して小作人の生活安定を図った。

1880年代にはグラッドストンがアイルランド自治法案を提出するがこちらは議会を通らず、1905年には急進的な独立を進めるシン・フェイン党が、1913年には武力で独立を目指すアイルランド義勇軍が結成され、1919年にアイルランド共和軍IRAに改称した。


1949年にアイルランドは独立するが、イングランド人が多数入植した北アイルランドは連合王国の中に留まり、現在の北アイルランド独立問題につながっている。

 

* * *

アメリカ植民の歴史

 

世界遺産「リドー運河」
全長202kmを誇る世界遺産「リドー運河」の閘門(こうもん)。こうした閘門により高さの異なる川や湖をつないで船舶の行き来を可能にしている

 <アメリカ合衆国の発展>


1783年のパリ条約で独立を勝ち取ったアメリカ合衆国は、ナポレオン戦争当初中立を守っていた。

ナポレオン1世が大陸封鎖令を発令すると、イギリスも同様にフランスとその同盟国の港を封鎖して対抗した。

これによりアメリカの貿易は大きな不利益を受けただけでなく、イギリスはアメリカ船を取り調べ、アメリカ人の徴用をはじめたため、米国内で主戦論が台頭した。


1812年にアメリカ=イギリス戦争(米英戦争。~1814)が勃発すると、カナダを拠点とするイギリス軍は首都ワシントンを占領。

アメリカは窮地に陥るが、1814年のライプチヒの戦いにナポレオン1世が破れてパリを占領されたことでナポレオン戦争が終わり、大陸封鎖も解けてアメリカ=イギリス戦争も終結となった。

1815年、両国講和の知らせを受けていなかったジャクソン将軍がニューオーリンズのイギリス海軍を攻撃して勝利したため、勝利の報がアメリカを駆け巡った。


戦後、イギリスは植民地であるカナダの守りを固め、経済的な発展を目指して多くの運河を建設した。

そのうちのひとつがモントリオールとキングストンを結ぶリドー運河※だ。

※世界遺産「リドー運河(カナダ、2007年、文化遺産(i)(iv))」

この戦争によってアメリカの独立心が高揚したため、第二次独立戦争と呼ぶこともある。

また、戦争中はイギリスとの貿易が停止したため、アメリカ国内で綿織物の生産が高まり、産業革命を促進した。


こうして英仏間の対立に巻き込まれたこともあり、第5代大統領モンローはヨーロッパ諸国のアメリカ大陸に対する干渉を取り除き、アメリカが孤立主義を取ることを1823年のモンロー教書で宣言した。

同時にナポレオン戦争中に独立したラテンアメリカ諸国を支援し、ウィーン体制の下で復活しつつあったスペインやフランスによる影響力の復活を牽制した。

これをイギリスが支持したため、スペインなどの旧君主国は植民地の再興を断念した。


第7代大統領ジャクソンは西部の出身であるため農園主や農民に人気が高く、普通選挙や政党制のベースを作るなどして民主政治を前進させた(ジャクソニアン・デモクラシー)。

ジャクソン派は南部で民主党、反ジャクソン派は北部でホイッグ党を結成して争った、ホイッグ党はやがて共和党となった。

両党の主な争点は奴隷制で、民主党は賛成、共和党は反対の立場を表明した。

世界遺産「プエブロ・デ・タオス」
13~14世紀頃から伝わる世界遺産「プエブロ・デ・タオス(アメリカ、1992年、文化遺産(iv))」のユニークな家並み。プエブロ族の家々で、日干しレンガを泥で覆って造られている。スペイン人やアメリカ人の攻撃を受けたが耐え抜き、現在もその文化を守っている。(C) Elisa.rolle
世界遺産「エバーグレーズ国立公園」
広大な湿地を誇るフロリダ半島の世界遺産「エバーグレーズ国立公園(アメリカ、1979年、自然遺産(viii)(ix)(x))」

 

この19世紀にアメリカは大いに領土を拡張する。


1803年、ジェファソン大統領のときにフランスからミシシッピ川以西に広がるルイジアナ西部を買収。

ナポレオン1世は利益を生まないアメリカ大陸の植民地を売却してヨーロッパに集中し、アメリカとイギリスの対立を煽る狙いもあったようだ。


1818年にイギリス領カナダとの国境を画定。

1819年にはスペインからフロリダを買収した。

 

この頃、西部開拓は未開発地域の文明化であり、神から与えられた天命であるという「マニフェスト=デスティニー(明白な天命)」という思想が広がり、スペインの植民地拡大と同様に正当化された。

未開拓地域との境界線は「フロンティア」と呼ばれ、フロンティアは開拓されるにつれて西に移動した(西漸運動)。


1830年、ジャクソン大統領の時代にインディアン強制移住法が制定され、インディアンの居住はミシシッピ川以西の保留地(指定居住地)に限定された。

迫害を受けた一例がチェロキー族で、移動中に4,000人もの命を失ったため「涙の旅路」と呼ばれている。

メキシコやアメリカと戦いを繰り広げたアパッチ族の戦士ジェロニモを描いたウォルター・ヒル監督『ジェロニモ』予告編


1836年、多くのアメリカ人がメキシコ帝国のテキサスに入植してテキサス共和国の独立を宣言。

アメリカはこれを支援し、1845年に併合した。


これに怒ったメキシコとの間でアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争。1846~48年)が勃発。

アメリカは首都メキシコシティを占領し、1848年のグワダルペ・イダルゴ条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得した。

相次ぐ領土の喪失によりメキシコ帝国の版図は建国時から半減した一方で、アメリカの領土はついに太平洋岸に到達した。

 

1846年にオレゴンをイギリスから併合。

1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されるとゴールドラッシュが起こり、移住者が激増した。

世界遺産「カホキア墳丘群州立史跡」
120基ほど発見されている先住民のピラミッド型墳丘、世界遺産「カホキア墳丘群州立史跡(アメリカ、1982年、文化遺産(iii)(iv))」。12~13世紀に全盛期を迎えたミシシッピ文化の神殿あるいは墓と見られる (C) Skubasteve834

 

アメリカがその領土を広げ、産業が発達するにつれて南部と北部の対立が激化した。


北部では産業革命が進み、綿織物などの軽工業が発達していた。

イギリスの製品は北部の産業界の脅威であり、イギリス製品に高い関税をかけて保護貿易を行うよう政府に要望していた。

また、農奴解放による労働力の自由化(身分の自由、職業選択の自由、移動の自由)が産業革命を推進したように、北部では黒人奴隷の自由化が望まれたほか、人道的に奴隷制を批判する者も少なくなかった。


一方、南部は黒人奴隷を労働力とするプランテーション(大規模農場)経営で成り立っていた。

主な生産品は綿花で、特に18世紀にホイットニーが繊維と種を自動選別する綿繰り機を発明してから生産量が激増し、大量にイギリスに輸出されていた。

南部としてはイギリスとの関係悪化や関税の掛け合いに反対して自由貿易を求め、奴隷解放は到底容認できるものではなかった。

 

西部開拓が進んで新しい州が誕生すると、奴隷制を認めるか否かが大きな問題となった。

1819年に奴隷州(奴隷を認める州)と自由州(奴隷を認めない州)の数は同数だったが、1820年にミズーリ州ができると両者の間で論争が巻き起こった。

結局ミズーリ州は奴隷州となったが東部に自由州を増やすことで妥協し、翌年には北緯36度30分以北には奴隷州を作らないというミズーリ協定が結ばれた。

 

1852年、奴隷として生まれたトムの悲運を描いたストウ著『アンクル・トムの小屋』が発売され、32万部の大ヒットを記録して聖書に次ぐベストセラーとなった。

これにより北部の奴隷批判はさらに高まった。

リンカンはストウ夫人に「あなたが南北戦争を起こしたのですね」と語りかけたという。

ケビン・コスナー監督のアカデミー賞ならびにゴールデングローブ賞の作品賞受賞作品『ダンス・ウィズ・ウルブズ』予告編。南北戦争を背景に、元北軍中尉とスー族の交流を描く


1854年、カンザスとネブラスカの両准州で、奴隷州・自由州のいずれかを決める住民投票の開催が決定した(カンザス・ネブラスカ法)。

両准州には多数を取るために移住者が激増し、殺人事件も頻発した。


1854年、奴隷制反対を唱える共和党が結成。

1860年には共和党のエイブラハム・リンカンが大統領に当選する。

リンカンは比較的穏健で奴隷制の拡大には反対していたが、廃止を唱えてはいなかった。

しかし南部11州は反発し、ジェファソン・デヴィスを大統領に掲げてアメリカ連合国を建国。

リンカンは当然この離脱を認めず、南北戦争が勃発する(1861~65年)。

 

経済力と人口では北部が圧倒していたが、リー将軍率いる南軍とイギリス・フランスの援軍の前に北軍は苦戦を強いられた。

1862年、リンカンは5年間の居住で貸与された国有地が与えられるというホームステッド法を施行して西部の農民の支持を得、1863年の奴隷解放宣言で国際世論を味方につけた。

 

1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が勝利し、1865年に首都リッチモンドが陥落してアメリカ連合国は敗退し、アメリカ合衆国は再統一された。

しかし、リンカンは戦勝の5日後に暗殺された。

 

なお、リンカンはゲティスバーグの悲惨な戦場で演説を行い、有名な "Government of the people, by the people, for the people" (人民の、人民による、人民のための政治)という言葉を残している。

もっともこの言葉はリンカンの発案ではなく、パンフレットからの引用だったという。

スティーヴン・スピルバーグ監督『リンカーン』予告編。リンカンが暗殺される直前の4か月を描いた作品

 

南北戦争終結後、1865年に連邦法が改正されて奴隷制は廃止され、1870年には黒人に選挙権が与えられた。

解放された黒人の多くはシェアクロッパーと呼ばれる小作人となり、多くの地代を地主に収めて苦しい生活を強いられた。

場合によっては奴隷時代よりもひどい生活に落ちる者もいた。


身分的にも完全な平等が実現したわけではない。

ミシシッピ州では投票に際して人頭税の支払いや法律条文を読めることを条件としたため、事実上黒人に投票は認められなかった(白人にも同様の措置がとられたが彼らの多くはクリアできた)。

南部諸州ではこのミシシッピ・プランのように州法などで黒人の権利が制限されする例も少なくなかった。


たとえば土地の所有や武器の所持などが制限され、異人種間の結婚が禁止されるなど、黒人差別は黒人取締法などで合法化された。

また、交通機関や学校、娯楽施設などにおいて人種ごとに分断する黒人分離政策がとられた。

「分離するが平等である」という州法は1896年の最高裁判決によって認められたため、人種差別は法的なバックグラウンドを得た。

さらに、白人の一部はKKK(クー・クラックス・クラン)などの秘密結社を組織して黒人に対して暴力的な迫害を加えた。


こうした差別は21世紀の現在においても問題となっている。

世界遺産「クルアーニー/ランゲル-セント・イライアス/グレーシャー・ベイ/タッチェンシニー-アルセク」のランゲル・セントイライアス国立公園、ブラックバーン山とケニコット氷河
アラスカにある世界遺産「クルアーニー/ランゲル-セント・イライアス/グレーシャー・ベイ/タッチェンシニー-アルセク(アメリカ/カナダ共通、1979年、1992・1994年拡大、自然遺産(vii)(viii)(ix)(x))」のランゲル・セントイライアス国立公園、ブラックバーン山とケニコット氷河
世界遺産「イエローストーン国立公園」
1872年に誕生した世界初の国立公園にして世界ではじめて登録された世界遺産「イエローストーン国立公園(アメリカ、1978年、自然遺産(vii)(viii)(ix)(x))」のアメリカバイソン

南北戦争終結後、西部では金銀などの採掘が急増し、牛の牧畜、小麦の生産などが飛躍的に高まった。

西部の発達とともに東部-西部を結ぶ有線通信網や交通機関が整備され、1869年にはシカゴとサンフランシスコを結ぶ最初の大陸横断鉄道・セントラルパシフィック鉄道が開通した。

 大陸横断鉄道の完成により大西洋から太平洋への移動は格段に簡単になり、アジアに対しても大西洋~アフリカ~アジアという東回りではなく、太平洋を横断して中国に到達する太平洋航路の確立が望まれた。

これが1853年のペリーの日本来航につながることになる。

 

西漸運動は1890年代のフロンティアの消滅によって終結し、インディアンの人口は100万人以上から25万人まで激減したという。

アメリカバイソン(バッファローの一種)についても食肉やゲームハンティング、インディアンを餓死させる手段としてバッファロー・ハンターによる乱獲が行われ、6,000万頭ほどいたものが数百頭にまで激減した。

 

また、南北戦争後に重工業が急速に発達し、第二次産業革命が起こった。

石炭・石油・鉄鋼石などの豊富な資源に恵まれたアメリカは19世紀末にはイギリス、ドイツを抜いて世界一の工業国の座に上りつめた。

主に労働力となったのは東欧・北欧、あるいは中国やマレー半島からの移民=クーリー(苦力)だった。

クーリーとして働いていた中国人がのちにアメリカ大陸をはじめ世界中に拡散し、各地に中華街を築くことになる。


1867年にはロシアからアラスカを買収。

ロシア皇帝アレクサンドル2世は当時鉄道の整備など国内の近代化に注力しており、セイウチやラッコ以外に資源のないアラスカを売り、その資金源とした。

ロシアは1891年にシベリア鉄道の建設をはじめる一方、アラスカでは1896年に金鉱が発見され、ゴールドラッシュで沸いた。

北米大陸本土におけるアメリカ合衆国の領土はこれによりほぼ確定した。

 

世界遺産「ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ」
先住民ブラック・フット族のバッファロー狩猟地、世界遺産「ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ(カナダ、1981年、文化遺産(vi))」の荒涼たる風景。バッファローに生活を依存していた先住民も多く、西欧人のバッファロー狩りは彼らに移住を促す狙いもあった


アメリカは国内の基盤を固めると、巨大な資本を背景にいよいよ海外植民地の獲得に乗り出していく。

その発端がアメリカ=スペイン戦争(米西戦争。1898年)だ。

 

1860年代からキューバで独立運動が起こっていたが、スペインはこれを鎮圧。

1890年代にはホセ・マルティ率いる独立運動が活発化して1895年にキューバ共和国が独立を宣言する。

スペインは弾圧を続けるが、キューバに投資していたアメリカは介入を決断。

1898年にハバナ①にいたアメリカ軍艦メイン号が爆破されて沈没すると(メイン号事件)、マッキンリー大統領はスペインに宣戦布告してアメリカ=スペイン戦争がはじまった。

サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城②を巡る海戦などを経てアメリカ勝利に終わり、同年に開催されたパリ会議でパリ条約が締結され、キューバの独立が認められ、アメリカはフィリピン、プエルトリコ、グアムを獲得し、キューバのグアンタナモ基地の土地が永久租借となった。

※①世界遺産「オールド・ハバナとその要塞群(キューバ、1982年、文化遺産(iv)(v))」

 ②世界遺産「サンティアゴ・デ・キューバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城(キューバ、1997年、文化遺産(iv)(v))」

 

独立運動に揺れていたフィリピンはアメリカに協力してアメリカ=スペイン戦争を戦ったが、その結果アメリカ領に組み込まれて独立派ならなかった。

これに対してフィリピン戦争(1899~1902年)が起こったが、アメリカは武力で弾圧した。

 

中国分割に出遅れたアメリカは、国務長官ジョン・ヘイが1899年に中国の門戸開放・機会均等・領土保全というヘイの三原則を唱え、通商権や関税・入港税といった利権を各国に均等に解放されるよう要求した。

 

1900代にはまずセオドア・ローズヴェルト大統領が、棍棒を携えて穏やかに話すという「棍棒外交」を行い、海軍力を背景にカリブ海諸国に積極的に介入した。

一例がパナマで、1903年にコロンビアからパナマ共和国が独立を宣言すると、アメリカは海軍を派遣してコロンビア軍の動きを阻止し、独立を成功に導いた。

パナマ運河条約により、アメリカは独立の承認と引き換えにパナマ運河と周辺の主権を獲得し、パナマは事実上保護国となった。

 

続くタフト大統領は資本を投下して経済的支配を強化する「ドル外交」を展開。

次のウィルソン大統領は、かつて宣教師たちが神を信じさせて穏やかに心を開かせつつ、時に武力を用いたように、アメリカが掲げる民主主義や自由主義の正義を説きつつ武力行使も辞さない「宣教師外交」を展開した。

 

 

次回はアジアに焦点を当て、オスマン帝国の動きを中心に解説する。



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