世界遺産と世界史39.啓蒙思想とプロイセン、ロシア

世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」、ペテルゴフ宮殿
ピョートル大帝の夏の離宮、ペテルゴフ。通称「ロシアのベルサイユ」。バロック様式の大宮殿で、20の宮殿を内包している。当時世界最高の技術で築かれた噴水群は圧巻。世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」構成資産

ルネサンス以降の科学の発達や宗教改革によって、次第に人々の中に宗教や迷信に捉われない「自由な視線」が広まっていった。


17~18世紀にはガリレオやケプラー、コペルニクス、ニュートン、ジェンナー等が現れて、観測した事実に基づいて自然科学を飛躍的に発達させた(科学革命)。

ベーコン、オッカム、デカルト、スピノザ、ライプニッツといった哲学者が理論づけを行い、こうした理性的な態度はやがて社会科学に対しても拡張された。

こうして生まれたのが啓蒙思想だ。


「蒙」は暗いという意味で、道理がわからないことを示す。

そして啓は「啓(ひら)く」こと。

英語では "Enlightenment" 。

"light" (光)と化すること= "enlighten" すること。

つまり、無知で盲目だった状態から抜け出し、世界を見通す理性的な目を手に入れることを意味する。

たとえば国家に対してこのような問いが持ち上がる。


なぜ人は国家に従属しなくてはならないのか?


絶対王政では、国王は神の代理として国を治めた。

しかし、「神とか天使とかよくわからない存在に頼らずに、もっと理性に基づく合理的な方法で物事を考えようよ」というのが啓蒙思想だ。

だから国家について、「人が集まって社会が生まれ、人はその社会と自発的に契約を結んで自分の権利を守っている」というような考え方(社会契約説)が生まれたりする。

ここでホッブスの考え方を見てみよう。


社会ができる以前の自然状態についてホッブスは、お互いが理性によって権力を拡大しようとする「万人の万人に対する闘争」状態であるとした。

この闘争状態を終わらせるためには、各自が自然権(人が人として持つ普遍の権利)を一旦放棄し、国家という巨大な権力を持つ怪物=リヴァイアサンに預けて統治してもらえばよいと説いた。


こうした考え方を利用したのが啓蒙専制君主だ。

世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」、エルミタージュ美術館冬宮
エルミタージュ美術館の冬宮。エカチェリーナ2世のコレクション展示室が美術館のはじまりで、冬宮は王宮として使われていた。世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」構成資産

専制政治とは、ある個人や少数の支配者に権力が集中して歯止めのない政治体制を示し、これを行う君主を専制君主と呼ぶ。

絶対王政も一種の専制政治だ。


絶対主義の場合、王権神授説を唱えて神の名の下に権力を集中させた。

これに対して啓蒙思想の下に集中させるのが啓蒙専制主義だ。


人々の権利を守るためには国家に権力を集中させるべきで、それでこそ戦争や犯罪から個人の権利を守り、平等で平和な社会を築くことができる。

そのうえ国家主導で近代化を推し進めれば、大いに繁栄が望める。

ならば啓蒙専制君主に権力を集めよう、というわけだ。


権力を集中させるという意味では絶対主義も啓蒙専制主義も変わりないが、後者は「国家のために」「国民のために」という大義名分がより強調されている。

それは下記ふたりの言葉の違いにも表れている。


ルイ14世「 朕は国家なり」

フリードリヒ大王「君主は国家第一の僕(しもべ)」


啓蒙専制主義といえばプロイセンやロシア、オーストリアだが、前二者はこの時代まだまだ後進国で、オーストリアは没落の危機にあった。

これらの国々が先進国に昇り詰めるためにはこのような思想を必要としたのだ。


ではこの啓蒙専制君主、フリードリヒ大王が活躍したプロイセンの興隆を見てみよう。


* * *

世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」、シャルロッテンブルク
フリードリヒ1世が王妃ゾフィー・シャルロッテのために夏の離宮として建設したシャルロッテンブルク。1695年の着工で、約1世紀をかけて完成した。世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」構成資産 (C)Axel Mauruszat

<プロイセンの台頭>


プロイセンの歴史はホーエンツォレルン家にはじまる。


ホーエンツォレルン家は1415年に神聖ローマ皇帝ジギスムントの命でブランデンブルク選帝侯に就任。

この選帝侯が治めるブランデンブルク辺境伯領はいまでこそベルリンがあるドイツの中心だが、当時は「辺境」の名の通り片田舎にすぎなかった。


16世紀、ホーエンツォレルン家のアルブレヒトがドイツ騎士団総長に就任。

ドイツ騎士団はポーランド=リトアニアに敗れて領土を奪われ、ドイツ国境付近のプロイセンに追いやられていた(ドイツ騎士団については「世界遺産と世界史21.東西教会の分裂と十字軍」「世界遺産と世界史38.三十年戦争とイギリス革命」参照)。


アルブレヒトは教皇の命を受けて戦っていた純然たるカトリックだったが、ルターの考え方に深く感銘を受けるとプロテスタントに改宗。

1525年に騎士団の名を返上し、ポーランドの下にプロイセン公国を打ち立てる。


1618年にブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公を継承すると同君連合ブランデンブルク=プロイセンが成立。

スペイン継承戦争(1701~13年)で神聖ローマ皇帝レオポルド1世に援軍を送ったことからプロイセン王に任ぜられ、1701年にプロイセン王国に昇格する。


初代国王フリードリヒ1世(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世)はルイ14世とパリに憧れ、首都ベルリンに投資して大幅に改造。

ベルリンは「シュプレー川のアテネ」と呼ばれるほどに繁栄した。

このときベルサイユ宮殿をまねて造った宮殿がシャルロッテンブルク※だ。

※世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ、1990年、1992・1999年拡大、文化遺産(i)(ii)(iv))」

世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」、サンスーシ宮殿
オーストリア継承戦争の最中にフリードリヒ大王によって建設されたサンスーシ宮殿。ベルサイユ宮殿を模して大王自ら設計を行ったといわれ、その華やかな内装はフリードリヒ・ロココ様式と呼ばれている。世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」構成資産 (C)Mbzt
世界遺産「バイロイト辺境伯のオペラハウス」
フリードリヒ大王の姉でバイロイト辺境伯の妻だったウィルヘルミーネの要望で建設されたオペラハウス。バロック様式の豪奢な造りで内装が特に見事。世界遺産「バイロイト辺境伯のオペラハウス(ドイツ、2012年、文化遺産(i)(iv))」構成資産

フリードリヒ1世の死後、息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が王位を継承する。

父の華やかさとは対照をなす質実剛健さで、あだ名は「兵隊王」。

街造りや芸術に金を費やすのではなく、経済を活性して軍備を拡張し、富国強兵に努めた。

一例として、背の高い軍人ばかりを集めた巨人連隊を組織したり、フランスで迫害されていた優秀なユグノー(カルヴァン派プロテスタント)を受け入れて商工業を盛り上げた。


プロイセンが大国になり上がるのはフリードリヒ大王(フリードリヒ2世)の時代だ。

「哲人王」と呼ばれ、芸術と学問に秀で、拷問や検閲を廃止するなど啓蒙思想に影響を受けた合理的な政策を推進。

それは「君主は国家第一の僕(しもべ)」という言葉によく表れている。

一方で名声と領土拡張に対する野心は強く、数々の戦争を戦った。


この頃、ハプスブルク家では男子が生まれず、娘のマリア・テレジアがオーストリアとハンガリー、ボヘミアの王位を継承した。

ハプスブルク家は代々男子が王位を継承してきたので、この即位に周辺国が反発。

世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」
マリア・テレジアの時代に完成したハプスブルク家の離宮、世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア、1996年、文化遺産(i)(iv)」。こちらはウィーン・ロココ様式といわれ、「オーストリアのベルサイユ」と称される

プロイセンのフリードリヒ大王は強硬に反対し、彼が国王に即位した1740年にシュレジエン割譲を要求して占領してしまう(1740~48年、オーストリア継承戦争)。

そのうえバイエルンやザクセンが皇帝位を狙って立ち上がり、ハプスブルク家の宿敵フランス・ブルボン家のルイ15世がこれを支援(ザクセンはまもなく和解)。

同じブルボン家のスペインは、スペイン継承戦争でハプスブルク家にイタリアのミラノ公国を奪われていたことからフランス側に回って参戦する。

そして一連の国々でバイエルン公を神聖ローマ皇帝カール7世として即位させてしまう。

 

オーストリア側には当時アメリカやインドでフランスと関係が悪化していたイギリスがついたが、軍は派遣せず、経済支援に留まった。

マリア・テレジアは周囲を完全に包囲されてしまったが、最後まで戦い抜いた。

 

1745年、オーストリアに侵入したプロイセンをなんとか撃退。

同年にカール7世が急死すると、夫であるトスカーナ公をフランツ1世として神聖ローマ皇帝に即位させる。

といっても実権はオーストリアやハンガリーの王である妻マリア・テレジアのもとにあり、皇帝はすでに象徴君主にすぎなかった。

 

1748年、アーヘン※の和約で終戦を迎え、プロイセンはシュレジエンを獲得。

その他の土地はオーストリアがほぼ取り返し、マリア・テレジアとフランツ1世の王位・皇帝位も承認された。

※世界遺産「アーヘン大聖堂(ドイツ、1978年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

世界遺産「ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場」
マリア・テレジアが「これぞ宮殿」、ナポレオンが「ヨーロッパでもっとも美しい邸宅」と称賛したヴュルツブルクのレジデンス。神聖ローマ皇帝ヨハン・フランツが18世紀にバルタザール・ノイマンに造らせた。世界遺産「ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場(ドイツ、1981年、文化遺産(i)(iv))」構成資産
世界遺産「デル・モンテ城」
フリードリヒ大王が築いた八角形で構成される美しい城塞、世界遺産「デル・モンテ城(イタリア、1996年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

マリア・テレジアはプロイセンに対する復讐を決意。

啓蒙思想を取り入れて農奴を開放して土地改革を行い、貴族の特権を排除して商工業を振興、軍を再編して富国強兵に努めた。

外交においてはプロイセンの孤立化を図り、ルイ15世の愛妾であるポンパドゥール婦人に接近。

長年の宿敵ブルボン家と和解した(外交革命)。

これによってルイ16世のもとに嫁ぐのがマリー・アントワネットだ。

 

さらにロシアの女帝エリザベータと結び、女性3人の活躍でプロイセン包囲網を敷く。

加えてスペインがフランスに追随し、一方でイギリスはフランスと対する形でプロイセンについた。


包囲網に驚いたフリードリヒ大王は先制攻撃を仕掛けて七年戦争(1756~63年)が勃発。

当初は連勝するが、フランス軍とロシア軍が到着すると戦況は逆転し、一時は首都ベルリンを占領されて大王は死さえ覚悟した。


プロイセンは多くの軍を失っていたが、オーストリアも戦費負担が増大して困窮。

フランスはアメリカやインドにおけるイギリスとの戦いで消耗し、ロシアでは1761年にエリザベータが急死してしまう。

ピョートル3世がロシアの皇帝位に就くと、彼がフリードリヒ大王の崇拝者であったことからプロイセンと単独講和して包囲網から離脱。

これを機に和平交渉が進み、プロイセンとオーストリアとの間で1763年にフベルトゥスブルク条約が結ばれて終戦を迎えた。


これによりプロイセンのシュレジエン領有が確認され、大国としての地位を確定させた。

一方、ハプスブルク家はその権威を失墜させるが、マリア・テレジアはプロイセンに長男ヨーゼフ2世の神聖ローマ皇帝就任を認めさせることでなんとか面目を保った。


なお、七年戦争ではイギリス、フランス、スペインの間でパリ条約も結ばれている。

パリ条約については以下で述べる。 

* * *

テレンス・マリック監督『ニューワールド』予告編。ヴァージニアのジェームズタウン建設の物語で、実話をもとに先住民との交流を描き出している


世界遺産「グラン・プレの景観」
17世紀、フランス人は太平洋岸の広大な草原=グラン・プレを切り拓いて入植を開始した。しかしアン女王戦争、ジョージ王戦争などに巻き込まれ、七年戦争でイギリスに追放された。世界遺産「グラン・プレの景観(カナダ、2012年、文化遺産(v)(vi))」構成資産

<英仏植民地戦争(第二次百年戦争)>

 

ここでイギリスとフランスの新世界における覇権争いを見てみよう。

 

両国は17~18世紀にかけて、ポルトガル→スペイン→オランダに続く海上帝国の覇権を争った。

ヨーロッパにおける両国の戦いについては「世界遺産と世界史37.絶対王政とオランダの台頭」「世界遺産と世界史38.三十年戦争とイギリス革命」も参照のこと。

 

フランスはカナダのケベック①やグラン・プレ②などに入植すると、ルイ14世の時代にアメリカ南部~中部~西部に至る広大な土地を獲得し、ルイの名前にちなんで「ルイジアナ」と命名する。

※①世界遺産「ケベック旧市街の歴史地区(カナダ、1985年、文化遺産(iv)(vi))」

 ②世界遺産「グラン・プレの景観(カナダ、2012年、文化遺産(v)(vi))」

世界遺産「ルーネンバーグ旧市街」
1753年にイギリスが建てた植民都市ルーネンバーグ。造船業と漁業で繁栄した。「ルーネンバーグ旧市街(カナダ、1995年、文化遺産(iv)(v))」構成資産 (C)Jeff Vienneau

一方イギリスは、アメリカ東岸にヴァージニアを開拓。

このヴァージニア植民地を目指し、迫害を受けていたピューリタンたちがイギリス本土を捨ててアメリカ移住を開始した。

その発端が、1620年にメイフラワー号に乗ってニュープリマスに到着したピルグリム・ファーザーズだ。

 

イギリス入植地関係で世界遺産になっているものにはルーネンバーグ①やブリムストーン・ヒル要塞②などがある。

※①世界遺産「ルーネンバーグ旧市街(カナダ、1995年、文化遺産(iv)(v))」

 ②世界遺産「ブリムストーン・ヒル要塞国立公園(セントクリストファー・ネーヴィス、1999年、文化遺産(iii)(iv))」


移民たちは理想的なキリスト教国家の創設を目標に、先住民との戦いや交渉を繰り返して領地を拡大。

これがニューイングランドをはじめとする植民地の基礎となる。


17世紀、第二次英蘭戦争に勝利するとオランダの植民地ニューネーデルランドを獲得し、中心都市ニューアムステルダムをニューヨークに改称。

こうしてアメリカ東岸はほぼイギリスが奪い、13の植民地が南北に連なった。

世界遺産「ケベック旧市街の歴史地区」、シャトー・フロンテナック
19世紀に開業したフレンチ・ロマネスク様式のホテル、シャトー・フロンテナック。この辺りもフレンチ・インディアン戦争の戦場となり、付近で行われたアブラハム平原の戦いでイギリスが勝利して英国領となった。世界遺産「ケベック旧市街の歴史地区」構成資産

両国の戦いが本格化するのが17世紀後半以降だ。

 

ヨーロッパでファルツ戦争(1688~97年)が戦われている最中にアメリカでウィリアム王戦争(1689~97年)が勃発。

続いてスペイン継承戦争(1701~13年)のときにアン女王戦争(1702~13)が起き、1713年のユトレヒト条約でイギリスはニューファンドランドやアカディア、ハドソン湾などを獲得した。

この結果、アメリカ大陸に関してイギリスは黒人奴隷貿易をほぼ独占。

イギリスで工業製品や武器を積み込み、アフリカで黒人奴隷に変え、さらにアメリカで綿花やタバコ・砂糖・コーヒーに交換してイギリスに運ぶ三角貿易によって莫大な利益を上げた。

 

さらに、オーストリア継承戦争(1740~48)時にはジョージ王戦争(1744~48)が勃発。

七年戦争(1756~63年)の際にはフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)を争った。

フレンチ=インディアン戦争ではフランスはインディアンを味方につけてイギリスと交戦(ゆえにフレンチ=インディアン戦争)。

当初は戦況を優勢に運ぶも、イギリスが本格的に軍を導入すると形勢は逆転し、1763年にイギリスが勝利した。


同年、七年戦争やフレンチ=インディアン戦争の講和条約であるパリ条約において、イギリスはカナダとミシシッピ川以東のルイジアナ、西インド諸島の一部、セネガルを獲得。

スペイン領であるハバナ①やマニラ②も占領していたが、これらをスペインに返還する代償としてフロリダを手に入れた。

また、スペインはフランスからミシシッピ川以西のルイジアナを獲得し、この結果フランスはアメリカ大陸のほとんどの植民地を失った。

※①世界遺産「オールド・ハバナとその要塞群(キューバ、1982年、文化遺産(iv)(v))」

 ②世界遺産「フィリピンのバロック様式教会群(フィリピン、1993年、文化遺産(ii)(iv))」

 

イギリスは戦争で多くの土地を手に入れた代わりに財政が悪化し、これがアメリカでの課税強化につながりアメリカ独立を招き寄せる。

フランスでは戦争と財政改革の失敗でフランス革命やハイチ独立が起こり、スペインでも植民地への課税強化で南アメリカ諸国の独立が加速する。

世界遺産「タリン歴史地区[旧市街]」
良港で知られることからさまざまな国に狙われ、デンマーク、ドイツ騎士団領、スウェーデンと宗主国を変えたタリン。大北方戦争でロシア領に組み込まれた。世界遺産「タリン歴史地区[旧市街]、エストニア、1997年、2008年、文化遺産(ii)(iv))」

両国の争いはインドでも起こっていた。


イギリスはアンボイナ事件で東南アジアから撤退して以来、インドの経営に集中していた。

一方のフランスも1664年にコルベールがフランス東インド会社を再建してインドに進出。

ムガール帝国が弱体化すると内紛・反乱が頻発し、両国の進出・対立も極まった。


南インドでは三度にわたるカーナティック戦争が勃発(第一次:1744~48年、第二次:1750~54年、第三次:1758~61年)。

第一次、第二次はフランスのデュプレクスの活躍でイギリスを圧倒するが、デュプレクスが召喚された第三次ではイギリスの勝利に終わる。


1757年にはベンガル地方でプラッシーの戦いが起こり、クライヴ率いるイギリス東インド会社の傭兵部隊がフランス軍を打ち破る。

この一連の戦いでフランスはインド支配から脱落し、イギリスはベンガル地方の支配を固めて徴税権を獲得。

インドの植民地化を進めていく。


18世紀のこうした戦いにより、フランスは世界貿易から大きく後退。

一方イギリスは英仏植民地戦争に勝利して、ヨーロッパ、アメリカ、インドにおける覇権を確保。

世界の植民地のいずれかには日が照っているという「太陽の沈まぬ帝国(第一帝国)」を完成させた。


* * *

ロシアの版図の推移。なお、Kievan Rus'=キエフ・ルーシ、Moscowy=モスクワ大公国、Russian Tsardom=ロシア・ツァーリ国、Russian Empire=ロシア帝国、Soviet Union=ソ連、Russia=ロシアを示している


世界遺産「フェラポントフ修道院群」
14世紀に建設がはじまり、イヴァン3世、イヴァン4世の保護を受けた世界遺産「フェラポントフ修道院群(ロシア、2000年、文化遺産(i)(iv))」 (C)autotravel.org.ru

<ロシアの台頭>

 

中世から近世にかけて、現在のウクライナ、ロシア西部に君臨していたのは、ノヴゴロド公国※やモンゴル帝国の名残であるキプチャク・ハーン国(ジュチ・ウルス)だ。

そしてキプチャク・ハーン国の徴税を請け負い、急速に力をつけたのがモスクワ大公国だ。

この辺りは「世界遺産と世界史28.モンゴル帝国の世界征服」「世界遺産と世界史20.東欧の形成とビザンツ帝国」参照のこと。

※世界遺産「ノヴゴロドの文化財とその周辺地区(ロシア、1992年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 

15世紀に、モスクワ大公国のイヴァン3世がノヴゴロド公国を征服。

キプチャク・ハーン国への貢納を拒否して「タタールのくびき(モンゴル人=タタール人の支配体制)」を終わらせた。 

世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」、ウスペンスキー大聖堂
ツァーリに即位するイヴァン4世の戴冠式が行われたウスペンスキー大聖堂、あるいは生神女就寝大聖堂。生神女は聖母マリアを示す。世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」構成資産 (C)Bin im Garten

そしてイヴァン3世はビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝の姪であるソフィアをめとる。

ローマ①で育ったソフィアはモスクワにイタリア文化を持ち込み、これに影響を受けたイヴァン3世はモスクワのクレムリン(城塞)②にロマネスク建築をはじめとする華やかな建造物を建設。

ウスペンスキー大聖堂やアルハンゲリスキー大聖堂、ブラゴヴェシェンスキー大聖堂などがその一例だ。

こうしてモスクワは「第三のローマ」といわれるほどに繁栄する(「第二のローマ」はコンスタンティノープル)。

※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン、1980年、1990年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(モスクワ、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 

1453年、ビザンツ帝国はオスマン帝国の侵入によりコンスタンティノープル※が落城して滅亡。

このためイヴァン3世の孫である雷帝イヴァン4世がローマ帝国を継ぐ者として皇帝=ツァーリを名乗り、ロシア・ツァーリ国が成立する。

※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ、1985年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 

[関連サイト]

ローマ歴史地区/イタリア・バチカン

イスタンブール/トルコ

世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」
イヴァン3世の時代に急速に発展したモスクワのクレムリン。もともとクレムリンは「城塞」の意味で、赤い城壁の内部に宮殿や大聖堂が造られた。写真中央はクレムリン大宮殿。世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」構成資産
世界遺産「コローメンスコエの昇天教会」
イヴァン4世の誕生を記念して造られた世界遺産「コローメンスコエの昇天教会(ロシア、1994年、文化遺産(ii))」。八角形の木造屋根が特徴的だ (C)A.Savin

そのイヴァン4世はわずか3歳でモスクワ大公に即位。

そのため貴族たちが開く貴族会議によって国家が運営され、貴族の力が強化されていく。

これに反発したイヴァン4世は成長すると親衛隊オプリーチニキを結成。

貴族の権力を抑え、反発する貴族を次々と暗殺し、反乱の気配があったノヴゴロドでは3万人以上が殺害されたという(ノヴゴロド虐殺)。


この頃、キプチャク・ハーン国はカザン・ハーン国(首都カザン※)、アストラハン・ハーン国、シビル・ハーン国、クリミア・ハーン国の4つに分裂していた。

イヴァン4世はクリミア・ハーン国以外の3国を征服。

特にイェルマークがシビル・ハーン国を占領すると、領土はシベリアにまで広がった。

※世界遺産「カザン・クレムリンの歴史遺産群と建築物群(ロシア、2000年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

1613年、議会でミハイル・ロマノフが選出されてツァーリに即位し、ロマノフ朝がはじまる。

17世紀中盤にはステンカ・ラージンの反乱が起きて農民が蜂起するが、これを鎮圧して農奴制を強化した。


1682年にピョートル大帝(ピョートル1世)がツァーリに就くと、プロイセンの成功をまねて常備軍や官僚制を整備して中央集権化を進めた。

世界遺産「カザン・クレムリンの歴史遺産群と建築物群」
カザン・ハーン国の首都カザンに築かれた世界遺産のカザン・クレムリン。16世紀にイヴァン4世によって破壊され、17世紀のピョートル大帝の時代には繁栄を取り戻していた。中央の塔はスュユンビケ塔、右に並ぶ塔はクル・シャーリフ・モスクのミナレット (C)Untifler
世界遺産「リガ歴史地区」
「バルト海の真珠」リガ。タリンと同様、ドイツ騎士団やポーランド=リトアニア、スウェーデン、ロシアなど、時代時代に宗主国を変えた。ロシア帝国の下で繁栄し、モスクワやサンクトペテルブルクに続く都市に成長した 世界遺産「リガ歴史地区(ラトビア、1997年、文化遺産(i)(ii))」

この頃のロシア・ツァーリ国は、北極海やベーリング海、オホーツク海には港を持ち、それぞれの海に簡単に進出することができたが、北海に通じるバルト海はスウェーデンにおさえられ、大西洋-地中海に通じる黒海には港を持っていなかった。

バルト海と黒海を手に入れて西ヨーロッパに進出すること――

これがロシアの長年の悲願となっていた。


当時バルト海の覇権を握っていたのはスウェーデンだ。

三十年戦争以降支配を固めて大国化するスウェーデンに対し、ロシア、ポーランド=リトアニア、デンマーク=ノルウェーは秘かに同盟を結び、大北方戦争(1700~21年)を展開する。

当初はスウェーデンの猛攻が続くも、その後ピョートル大帝は徴兵制によって大軍を編成して反撃を開始。

ポルタヴァの戦いで勝利するとスウェーデン国王カール12世はオスマン帝国に亡命する。


カール12世の要請でオスマン帝国が参戦してロシアと対峙するが、両国はまもなく和解。

カール12世はその後北欧に戻るも結局戦死してしまう。

なお、カール12世によって破壊された街は数多く、リヴィウ①やネースヴィジ②などが一例として挙げられる。

※①世界遺産「リヴィウ歴史地区(ウクライナ、1998年、2008年拡大、文化遺産(ii)(v))」

 ②世界遺産「ネースヴィジのラジヴィール家の建築、住居、文化的複合体(ベラルーシ、2005年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

世界遺産「セルギエフ・ポサドのトロイツェ・セルギー大修道院の建造物群」、ウスペンスキー大聖堂
イヴァン4世の命でモスクワの同盟の大聖堂をまねて造られた、セルギエフ・ポサドのウスペンスキー大聖堂。1890年代の撮影。世界遺産「セルギエフ・ポサドのトロイツェ・セルギー大修道院の建造物群(ロシア、1993年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産
世界遺産「スオメンリンナの要塞群」
1748年、スウェーデンはロシアの侵攻に備えてヘルシンキの島々にヴォーバン式の星型要塞を建設した。これが世界遺産「スオメンリンナの要塞群(フィンランド、1991年、文化遺産(iv))」だ

その後、ピョートル大帝はスウェーデン海軍を破ってついにバルト海の制海権を掌握。

これによりスウェーデンに代わってロシアが大国として名乗りをあげる。

 

1712年、ピョートル大帝はバルト海沿岸に新しい首都を建設し、ローマで殉教した聖ペテロにちなんでサンクトペテルブルク※と命名。

おなじ湾内にバルチック艦隊を配置してバルト海に睨みを利かせた。

そして1721年、ツァーリに代わってローマ時代に使われた称号のひとつ「インペラトル」を名乗り、ロシア皇帝が治めるロシア帝国を建国した。

※世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」構成資産

 

黒海については、1696年、ピョートル大帝がオスマン帝国を破って黒海とつながるアゾフ海を占領。

大北方戦争時の和解でアゾフ海はオスマン帝国に返還されるが、その後の戦闘と交渉によって1739年にロシア領に組み込まれた。

これによりロシアはバルト海へ続く航路を確保した。


東アジアについてもピョートル大帝は領地を広げている。

まず1689年に清の康熙帝とネルチンスク条約を結んで国境を画定。

1727年にはネルチンスク条約で未確定だった西部の国境をキャフタ条約によって画定した。

 

また、コサックの隊長ウラジミールに命じてカムチャッカ半島を探検させ、日本の情報を得ると交易を図った。

続いてベーリングを派遣してオホーツク海やベーリング海を探検させ、1741年にアラスカに到達するとこれをロシア領に組み入れた。

なお、ピョートル大帝は1725年に病没している。


その後、女帝エリザベータがプロイセンと結んで七年戦争(1756~63年)を戦うのはプロイセンの項目で書いた通り。

その後ピョートル3世がプロイセンと和解し、彼がフリードリヒ大王を崇めていたことから啓蒙専制君主政を推進した。

世界遺産「ヴィルニュス歴史地区」
リトアニア大公国の首都で、ポーランド=リトアニアでも主要都市となったヴィルニュス。第三回ポーランド分割によってロシアに編入された。世界遺産「ヴィルニュス歴史地区(リトアニア、1994年、文化遺産(ii)(iv))」
世界遺産「ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群」
イヴァン4世がソロヴェツキー諸島に建設を命じたソロヴェツキー修道院。世界遺産「ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群(ロシア、1992年、文化遺産(iv))」

ロシア帝国の版図をさらに拡大したのが、ピョートル3世の妻エカチェリーナ2世だ。

 

黒海のクリミア半島にはオスマン帝国の下についていたクリミア・ハーン国があったが、第一次ロシア=トルコ戦争(第一次露土戦争。1768~74年)によってクリミア・ハーン国を独立させることに成功。

1783年にはそのクリミア・ハーン国を併合し、黒海に領土を確立した。

これによりキプチャク・ハーン国由来の国はすべて消滅している。

 

1787~92年、オスマン帝国はクリミア半島のタタール人の依頼を受けてロシアとふたたび開戦(第二次ロシア=トルコ戦争)。

ロシアがオーストリアの支援を受けて攻め込み、首都イスタンブールに迫ると、オスマン帝国は講和に応じてロシアのクリミア半島領有を認めた。

 

この頃、ロシア、プロイセン、オーストリアによって「国王たちの菓子」といわれたポーランドの三度にわたる分割(1772年、1793年、1795年)が起こる。

 

ポーランド=リトアニアは大北方戦争でスウェーデン軍の攻撃を受け、その後もロシアやプロイセン、オーストリアなどの介入を受けて疲弊していた。

世界遺産「ノヴォデヴィチ女子修道院群」
スモレンスクの生神女大聖堂。ロシアの王家・貴族の中には尼になる者もいた。彼らを受け入れたのが世界遺産「ノヴォデヴィチ女子修道院群(ロシア、2004年、文化遺産(i)(iv)(vi))だ

このような状況を見たエカチェリーナ2世がこの問題に介入。

プロイセンのフリードリヒ大王はロシア領になることを恐れ、オーストリアのヨーゼフ2世とともにポーランドに迫り、第一回ポーランド分割を認めさせた。


続いてエカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ・ウィルヘルム2世と図り、フランス革命のドサクサに紛れて第二回分割を要求。

コシューシコが農民義勇軍を率いて蜂起するが、エカチェリーナ2世が鎮圧してポーランド国王に退位を要求する。

そしてロシア、プロイセン、オーストリアの3か国によって第三回分割が行われ、ポーランドは消滅した。

これによりロシアはウクライナやベラルーシを獲得し、黒海の基盤を固めた。


エカチェリーナ2世は東方にも使節を派遣してオホーツク海に侵出し、1792年にラクスマンを北海道に派遣して日本との通商を図った。

江戸幕府は鎖国を理由にこれを拒否している。


なお、エカチェリーナ2世が建設した建築物には、エルミタージュ美術館、タヴリーダ宮殿、聖イサク大聖堂などがある。

いずれも世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」に登録されている。



次回は中国史に戻って明と清を解説する。



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