世界遺産と世界史49.世界分割

世界遺産「モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝」
滝の高さ最大約110m、幅は1,700mに及ぶ世界三大瀑布のひとつ、世界遺産「モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝(ザンビア/ジンバブエ共通、1989年、自然遺産(vii)(ix))」。1855年にデイヴィッド・リヴィングストンがはじめてヨーロッパに伝え、その偉大さから女王の名が冠された

国家と結び付いた独占資本(巨大企業)や金融資本(巨大銀行)が市場を独占し、植民地に資本を投下して利益を吸い上げ、その富によって軍事力を強化し、さらに植民地を拡張する――


19世紀後半~20世紀頭にかけて、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ、イタリア、ベルギー、日本という8か国の帝国主義国家が地球の陸地の過半数を領有し、世界人口の三分の一を支配したという。

こうした国々は19世紀末から好景気に入り、世紀末文化が栄え、ベルエポック(すばらしき時代)を謳歌した。


なお、「帝国」は本来皇帝が統治する国家を示すが、イギリスやフランスの君主は国王で、アメリカには皇帝も国王もいない。

しかしこうしたこととは無関係に、資本の力を背景に多数の国(植民地)を従えている国を帝国主義国家という。


本章は、アフリカの分割→太平洋の分割→アメリカのカリブ海政策→列強の分裂とバルカン半島→イスラムの反帝国主義運動を順に解説する。

 

* * *

<アフリカの分割>


15世紀、ポルトガルによるアフリカ航路やインド航路の「発見」から、アフリカは金や象牙や奴隷を供給する港市(こうし)として利用されてきた。

アフリカは巨大な大陸だったがヨーロッパが関係するのは港だけで、19世紀半ばまで内陸部はほとんど未解明のままだった。


16~19世紀の奴隷貿易によってアフリカ大陸内部の諸民族は大きなダメージを受けていた。

1,000~1,500万人が大西洋を渡り、一部はアジアに運ばれ、それ以前にアフリカの港に着くまでに多くの奴隷が亡くなったという。

奴隷制が廃止された19世紀半ばのアフリカの人口は約1億人と見られるので、かなり高い割合でアフリカの人々が奴隷になっていたことがわかる。


奴隷貿易を行ったのはヨーロッパやアラブの奴隷商人だったが、内陸で奴隷狩りを行ったのは主としてアフリカの民族で、先進国から武器を買い、その武器で奴隷を集めてヨーロッパやアラブ諸国に売りさばいていた。

一例がダホメ王国(首都アボメイ①)やアシャンティ王国(首都クマシ②)で、両国は17世紀から金や奴隷の貿易で繁栄した。

※①世界遺産「アボメイの王宮群(ベナン、1985年、2007年拡大、文化遺産(iii)(iv))」

 ②世界遺産「アシャンティの伝統的建築物群(ガーナ、1980年、文化遺産(v))」


なお、奴隷貿易の拠点となった世界遺産には以下のような例がある。

  • ザンジバル島のストーンタウン(タンザニア、2000年、文化遺産(ii)(iii)(vi))
  • モンバサのジーザス要塞(ケニア、2011年、文化遺産(ii)(v))
  • モザンビーク島(モザンビーク、1991年、文化遺産(iv)(vi))
  • ル・モーンの文化的景観(モーリシャス、2008年、文化遺産(i)(vi))
  • クンタ・キンテ島と関連遺跡群(ガンビア、2003年、文化遺産(iii)(vi))
  • ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群(ガーナ、1979年、文化遺産(vi))
  • ゴレ島(セネガル、1978年、文化遺産(vi))
  • サン・ルイ島(セネガル、2000年、2007年拡大、文化遺産(ii)(iv))
  • アシャンティの伝統的建築物群(ガーナ、1980年、文化遺産(v))
  • アボメイの王宮群(ベナン、1985年、2007年拡大、文化遺産(iii)(iv))
世界遺産「アボメイの王宮群」
ダホメ(アボメイ)国王の王宮施設群。王国は奴隷貿易で繁栄し、港周辺は奴隷海岸と呼ばれた。19世紀に奴隷貿易が廃止されると衰退し、19世紀後半にフランス=ダホメ戦争に敗れて植民地となった。世界遺産「アボメイの王宮群」構成資産。(C) Joachim-Huber

 

19世紀に入ると、そんな未知の大陸に足を踏み入れる探検家が現れはじめた。

19世紀前半にマンゴー・バークが西アフリカのニジェール川を探検してトンブツトゥ※に到達し、19世紀半ばにはリチャード・バートンがナイル川の源流を探索中にタンガニーカ湖やヴィクトリア湖を発見した。

※世界遺産「トンブクトゥ(マリ、1988年、文化遺産(ii)(iv)(v))」


19世紀後半にはイギリスの伝道師リヴィングストンがやはりナイル川の源流を求めて探検中にヴィクトリアの滝①やマラウイ湖②を発見し、アフリカ東部~南部の多くを明らかにした。

リヴィングストンはアフリカで行方不明となったが、1871年にアメリカの新聞社の特派員スタンリーに発見されて救出された。

※①世界遺産「モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝(ザンビア/ジンバブエ共通、1989年、自然遺産(vii)(ix))」

 ②世界遺産「マラウイ湖国立公園(マラウイ、1984年、自然遺産(vii)(ix)(x))」


[関連サイト]

ヴィクトリアの滝/ザンビア・ジンバブエ

世界遺産「アプラヴァシ・ガート」
イギリスが奴隷を廃止して労働力不足にみまわれると、クーリー(苦力)と呼ばれるアジア人、特にインド人労働者を投入してカバーした。クーリーとの間で契約を結んだため契約移民労働と呼ばれるが、労働は過酷だった。この移民の施設が写真の「アプラヴァシ・ガート(モーリシャス、2006年、文化遺産(vi))」だ。(C) Avinash-Meetoo

 

スタンリーは中央アフリカを流れるコンゴ川を下っていたが、1878年からベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けてふたたびコンゴ川流域を探検した。

ベルギーはこれを機にコンゴの植民地化を図ったが、議会が反対したことからレオポルド2世の私有地として管理した。


ベルギーのこうした行動に対し、すでにアフリカに拠点を置いていたイギリスやフランスといった先行国が反発。

この頃すでに産業革命が進んで奴隷貿易は廃止されており、アフリカは象牙や奴隷の供給地としてではなく、工業のための原料や工場の供給地、そして新たな市場と捉えられており、帝国主義的な植民地として開発が期待されていた。


こうした利害を調整するためにドイツのビスマルクが調停して1884~85年にベルリン会議を開催。

最初に占領した国が領有権を持つという先占権や、占領はヨーロッパ人の安全や商業活動を保証する実効支配を条件とすることなどが確認された。


この会議でコンゴをレオポルト2世の私有領として認め、コンゴ自由国が成立した。

レオポルド2世はオランダがジャワ島などで強制栽培制度を実施して利益を上げていたことを聞き、コンゴ自由国でもゴムの栽培や象牙の採取を強いた。

重い人頭税と過酷な労働を強制し、逆らう者の手足を容赦なく切断するなど圧政を展開した。

一説では当時の人口の半分、1,000万人以上が犠牲になったという。

その残虐非道な行いが国際社会の非難を浴びると、レオポルド2世は1908年にコンゴ自由国をベルギーの植民地に改め(ベルギー領コンゴ)、行政府やキリスト教会を築き、資本を投入して工業化を促し、植民地経営を行った。

世界遺産「ジェンネ旧市街」大モスク
スーダン・サヘル様式の特有のフォルムが美しいジェンネの大モスク。13世紀に築かれたモスクを起源とするが、現在のものはフランスの統治下で植民相が再建を認め、1907年に完成した。世界遺産「ジェンネ旧市街(マリ、1988年、文化遺産(iii)(iv))」構成資産。(C) Devriese

 

先占権が認められて以降、欧米列強はアフリカに殺到して植民地化を急いだ。


スエズ運河株式会社の株を買収し、ウラービー革命(1881~82年)でエジプトを保護国化したイギリスは南のスーダンに侵攻。

スーダンはムハンマド・アリーの侵略以来エジプトの支配下にあったが、エジプトの混乱とイギリスの侵略を機にムハンマド・アフマドがマフディー(救世主)を名乗って反乱を起こしていた(マフディーの反乱。1881~99年)。


イギリスはこの頃、植民相ジョゼフ・チェンバレンのもとでエジプトのカイロ①と、1814~15年のウィーン会議のウィーン議定書で獲得したケープ植民地のケープタウン②を結ぶアフリカ縦断鉄道の建設を目指しており、この2都市とカルカッタ(現在のコルカタ)を結ぶ3C政策を推進し、南北からアフリカ内部へ進出を図っていた。

※①世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」

 ②世界遺産「ケープ植物区保護地域群(南アフリカ、2004年、2015年拡大、自然遺産(ix)(x))」

世界遺産「ケープ植物区保護地域群」
ケープタウンのテーブルマウンテン。山頂はテーブルマウンテン国立公園に指定されており、生物多様性ホットスポットに数えられるほど豊かな植生で知られる。その麓にある都市がケープタウンだ。世界遺産「ケープ植物区保護地域群」の構成資産

 

19世紀はじめ、アフリカ南部にはオランダ人入植者の子孫にあたる多数のブール人(イギリス人はボーア人と呼んでいた)がいた。

しかし、ケープ植民地がイギリス領になったことでブール人はイギリス人の手の届かない新たな土地を求めて奴隷とともに北上を開始した(グレート・トレック)。

ブール人は黒人奴隷を利用してプランテーションを経営していたが、1833年にイギリスが奴隷制を廃止したため経営が立ち行かなくなったことも影響したようだ。


ブール人はコイコイ人、ズールー人らとの戦いを経て、1839年にナタール共和国を建国。

イギリスは1842年にナタール共和国を攻撃して併合するが、難を逃れたブール人は1852年にトランスヴァール共和国、1854年にオレンジ自由国を打ち建てた。


ケープ植民地の植民相セシル・ローズは3C政策に基づくアフリカ縦断政策を推進し、現在のザンビアとジンバブエにあたる土地を攻略してローデシアと名付け、イギリスの植民地とした。

その後、トランスヴァール共和国でダイヤモンド鉱、オレンジ自由国で金鉱が発見されたこともあって両国の併合を画策するが失敗し、強引なやり方が批判されて首相の座を追われた。

世界遺産「ロベン島」
周辺の海流が速く、温度も低いことから、17世紀頃から脱出不能の流刑地として使われていた「ロベン島(南アフリカ、1999年、文化遺産(iii)(vi))」。20世紀後半からはネルソン・マンデラをはじめアパルトヘイトに反対する政治犯収容施設として使用された。(C) Rudiger Wolk, Munster

 

その後、チェンバレンはセシル・ローズが考えた植民地拡大政策を継承し、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を挑発。

両国が同盟を結ぶと、1899年に南アフリカ戦争(ブール戦争)を開始した。

戦いは1902年まで続いたが、キッチナー将軍の活躍もあって植民地政府が勝利して両国は消滅。

ブール人の自治は認められたもののイギリスの植民地に編入された。

南アフリカ戦争は作家コナン・ドイルやのちの首相チャーチルが従軍していたことでも有名だ。


1910年、イギリスはケープ植民地、ナタール、トランスヴァール、オレンジの4州からなる南アフリカ連邦を設立し、自治国とした。

南アフリカ連邦にはブール人が多く残っており、長らく黒人奴隷を使っていたこともあって黒人に強い差別感情を抱いていた。

これがアパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策を生み出し、1912年には差別に対抗するためにANC(アフリカ民族会議)が設立された。


南北からアフリカ縦断を完成させようとするイギリスに対して、フランスもアフリカ進出を急いでいた。


フランスは1830年、国内で支持回復を狙ってシャルル10世がアルジェリアに出兵してこれを占領。

シャルル10世はまもなく七月革命で失脚するが、その後フランスの植民地として支配を続けた。


フランスは隣のチュニジアの併合も企てるが、1870年のプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に敗れた隙を突いてイタリアが侵出。

しかしこれを抑えて1881年に首都チュニス※に侵攻して保護国とした。

イタリアは反発し、ドイツやオーストリア=ハンガリーに接近して1882年に三国同盟を結成する。

※世界遺産「チュニス旧市街(チュニジア、1979年、文化遺産(ii)(iii)(v))」

世界遺産「アルジェのカスバ」
18世紀後半までオスマン艦隊の拠点となったアルジェ。19世紀のアルジェリア侵攻によってフランスに占領され、やがてアルジェリア全土が植民地化した。城塞地区であるカスパは世界遺産「アルジェのカスバ(モロッコ、1992年、文化遺産(ii)(v))」に登録されている

 

フランスはチュニジア、アルジェリアをフランス領北アフリカとし、サハラ砂漠とその周辺を押さえてフランス領西アフリカ(首都サン・ルイ①)、西アフリカ南部と中央アフリカ北部をフランス領赤道アフリカとした。

アフリカ東部については1888年に紅海の入口にジブチ港を造ってフランス領ソマリランドを建設。

さらに1890年にはマダガスカルのメリナ王国(首都アンブヒマンガ②→アンタナナリボ)を保護国化した。

※①世界遺産「サン・ルイ島(セネガル、2000年、2007年拡大、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「アンブヒマンガの丘の王領地(マダガスカル、2001年、文化遺産(iii)(iv)(vi))」


フランスは西アフリカ-ジブチ-マダガスカルをつなぐアフリカ横断政策を計画し、西アフリカから東進してスーダンに侵入。

このため1898年、スーダンでイギリスのアフリカ縦断政策とフランスのアフリカ横断政策が衝突する。

フランスはファショダを押さえるが、イギリス軍のキッチナーがフランス軍を包囲(ファショダ事件)。

結局フランスが撤退し、キッチナーは翌年マフディー軍を破ってスーダンを植民地化した。

このあとキッチナーは南アフリカ戦争に投入され、そこでも活躍している(先述)。


イギリスとフランスはエジプトやスーダンのほか、モロッコでも争っていた。

モロッコでは1660年にアラウィー朝が成立していたが、19世紀に入るとフランスが軍を送り、イギリスと不平等条約を結び、スペインとスペイン=モロッコ戦争を戦い、ドイツもその領土を狙うなど、列強の標的となっていた。

しかし、1904年の英仏協商でイギリスとフランスの妥協が成立し、イギリスはエジプト、フランスはモロッコの支配権を確立した。

世界遺産「ザンジバル島のストーンタウン」
白い石造の高層住宅が立ち並ぶ世界遺産「ザンジバル島のストーンタウン」。1832年にストーンタウンを首都としてザンジバル王国が成立するが、東アフリカ分割によってその領土は切り刻まれた。島民の独立志向は強く、現在でも入島にはパスポートが必要だ

 

ドイツは1871年に帝国が誕生したばかりで国内統一に忙しく、植民地獲得競争に出遅れていた。

1884~85年のベルリン会議以後、ビスマルクはトーゴ、カメルーンに進出。

東アフリカではイギリスやフランスと協調して分割を行った。


この頃、東アフリカではアラブ人政権のザンジバル・スルタン国が支配域を広げていた。

そのうちのタンガニーカ(現在のタンザニア)をドイツが獲得してドイツ領東アフリカ、ケニアにあたる部分をイギリス領東アフリカとし、ザンジバル島※はイギリスの保護領となった。

フランスはコモロ諸島を獲得している。

※「ザンジバル島のストーンタウン(タンザニア、2000年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」


[関連サイト]

ザンジバル島のストーンタウン/タンザニア


1888年、ヴィルヘルム2世はビスマルクを解任すると、世界政策と称して植民地拡大政策を推進。

1890年にはロシアと締結していた再保障条約の更新を拒否し、イギリスやフランスとの対決も辞さない覚悟で海外進出を強化した。


ヴィルヘルム2世が目指していたのはベルリン①、バグダード②、ビザンティウム(イスタンブール)③を結ぶ鉄道路線の敷設、すなわち3B政策で、これによりイギリスの3C政策や、バルカン半島やアジアにおけるロシアの南下政策と対立した。

※①世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ、1990年、1992・1999年拡大、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 ①世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ、1999年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②イラクの世界遺産暫定リスト記載

 ③世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ、1985年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」


[関連サイト]

イスタンブール/トルコ

世界遺産「ラバト:近代都市と歴史的都市が共存する首都」
17世紀にアラブ人が建造した旧市街と、20世紀の植民時代にフランス人が築いた新市街が一体化したエキセントリックな世界遺産「ラバト:近代都市と歴史的都市が共存する首都」
世界遺産「エッサウィラのメディナ[旧名モガドール]」
港を守る城壁から眺めたモロッコ・アラウィー朝の主要港モガドール。現在はエッサウィラと呼ばれ、非常に美しい街並みで知られている。世界遺産「エッサウィラのメディナ[旧名モガドール](モロッコ、2001年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産

 1904年に英仏協商でフランスがモロッコの支配権を確認すると、ドイツはこれに強く反発。

1905年にモロッコのタンジールに上陸して緊張が高まった(第一次モロッコ事件/タンジール事件)。

翌年アルヘシラス会議が開催されてモロッコの機会均等が認められたものの、フランスはその権益を死守。

1911年、ドイツはふたたび軍艦をアガディール派遣すると(第二次モロッコ事件/アガディール事件)、ドイツはフランスの支配権を認める代わりとしてコンゴの一部を獲得した。


フランスはアラウィー朝(首都メクネス①)のスルタンと1912年にフェズ②でフェズ条約を結び、モロッコの保護国化が完了した。

このあとフェズの治安が安定しないためラバト③に遷都し、フランス人建築家アンリ・プロストが1912~1930年にかけて計画都市を造り上げた。

※①世界遺産「古都メクネス(モロッコ、1996年、文化遺産(iv))」

 ②世界遺産「フェズ旧市街(モロッコ、1981年、文化遺産(ii)(v))」

 ③世界遺産「ラバト:近代都市と歴史的都市が共存する首都(モロッコ、2012年、文化遺産(ii)(iv)」


[関連サイト]

フェズ旧市街/モロッコ

エッサウィラのメディナ/モロッコ

世界遺産「ハラール・ジャゴル要塞歴史都市」
ソマリアとの国境に位置し、エチオピア戦争やオガデン戦争の舞台となった世界遺産「ハラール・ジャゴル要塞歴史都市(エチオピア、2006年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(v))」。イタリアは何度かこの城郭都市を占領したが、領有には至らなかった

 

イタリアはエジプトが支配していた東アフリカのソマリランドに進出し、イギリス領ソマリランドの隣にイタリア領ソマリランドを樹立。

さらにエリトリアを支配すると、植民地化を目指してエチオピア帝国に侵攻したが、アドワの戦いで大敗してアディスアベバ条約でエチオピアの独立を承認した(第一次エチオピア戦争。1889~96年)。


イタリアは北アフリカでも植民地獲得に乗り出し、第二次モロッコ事件でフランスとドイツが争っている隙を突いてオスマン帝国のトリポリ、キレナイカに侵攻した(イタリア=トルコ戦争/伊土戦争。1911~12年)。

この戦いに勝利すると両地域を獲得し、この地をリビアに改名した。


アフリカ航路やインド航路を切り拓き、16世紀には西アフリカと東アフリカの海を支配していたポルトガルは衰退著しく、現在のマラウイやザンビア、ジンバブエはイギリスのローデシアが誕生したことで断念し、ベルギー領コンゴができたことでコンゴ川周辺も喪失。

モザンビーク(ポルトガル領東アフリカ)とアンゴラ(ポルトガル領アンゴラ)を領有するのみとなった。


こうしてアフリカ大陸はエチオピア帝国とリベリア共和国を除いて帝国列強の支配下に落ちた。

世界遺産「ファジル・ゲビ、ゴンダール地域」
19世紀後半にエチオピア皇帝メネリク2世がアディスアベバを建設するまで首都が置かれたファジル・ゲビ。17世紀に皇帝ファシラダスが築いた都市で、写真は王宮ファシラダス。世界遺産「ファジル・ゲビ、ゴンダール地域(エチオピア、1979年、文化遺産(ii)(iii))」構成資産。(C) Justin-Clements

 

エチオピアは13世紀からソロモン朝が続いていたが、伝統あるキリスト教国であり、標高の高い内陸国で、貿易により近代兵器も備えていたことから植民地化が難しく、第一次エチオピア戦争でもイタリア軍が敗退した。


リベリアはもともとアメリカ植民協会が黒人解放奴隷を帰還させるために築いた植民地で、1847年に独立していた。

アメリカと強い関係があったため、独立を保つことができた。


最後に、帝国主義国家がアフリカで行った分割統治を解説しておこう。

列強はアフリカを支配する際、大きな民族を分断し、多数の民族で構成されるのように国境を引き、その中の少数派の民族を取り立てて他の民族を差別した(アフリカに直線の国境が多いのもこの恣意的な国境が原因だ)。

これにより民族の一体化を防ぎ、対立を煽って自国に対する反発を防いだ。


ルワンダの例を挙げると、ドイツの植民地だったルワンダ=ブルンジが第一次世界大戦後にベルギー領に移行したあと、ともに暮らしていて民族の区別があまりなかった住民をツチ族とフツ族に分け、少数派のツチ族を政府や企業の要職に就かせ、教育・税・労働・教会等々、さまざまな場面で差別待遇を行った。

これが第二次世界大戦後の独立戦争において政権を巡る民族紛争を引き起こし、1994年のフツ族によるツチ族の大虐殺につながっていく。


スーダンでイギリスは、北部でアラブ人、南部でキリスト教徒を優遇して分割統治を行い、これが南スーダンの独立やダルフール紛争にまで尾を引いている。

ジブチ、ソマリランド、ソマリアは主としてソマリ人の国だが、人種が少ないこのような場合は部族や氏族で分断して対立を煽った。

サハラ砂漠で勢力を誇る遊牧民族トゥアレグ人はマリ、ニジェール、アルジェリアなどに分割され、これも現在の独立運動につながっている。


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世界遺産「ウルル・カタ・ジュタ国立公園」エアーズロック(ウルル)
大地より335m立ち上がる世界で二番目に大きい一枚岩、世界遺産「ウルル・カタ・ジュタ国立公園」のエアーズロック(ウルル)。アボリジニの聖地でもあり、岩絵や祈祷所などが残されている

 

太平洋の島々は、オランダ東インド会社の依頼を受けて探検を行った17世紀のタスマンや、3回にわたって世界中を航海したイギリスのクックをはじめ、多くの航海士によって明らかにされていった。


オーストラリア大陸はクックによって探検され、1788年にイギリス領となって移民がはじまった。

当初は流刑植民地として囚人施設①を建てて犯罪者を送り込んだ。

やがて農地が開発されて自由移民も増加し、1828年に大陸全体が植民地となると、海岸部を中心に開拓が進んだ。

開拓と同時に先住民アボリジニの土地は収奪され、白人の持ち込んだ病気や虐殺により人口は激減し、タスマニア②のアボリジニは絶滅した。

オーストラリアでは50~100万人いたアボリジニが10万以下にまで減少したという。

※①世界遺産「オーストラリア囚人遺跡群(オーストラリア、2010年、文化遺産(iv)(vi))」

 ②世界遺産「タスマニア原生地域(オーストラリア、1982年、1989年拡大、文化遺産(iii)(iv)(vi)、自然遺産(vii)(viii)(ix)(x))」


アボリジニの生活を伝える世界遺産には以下のようなものがある。

  • カカドゥ国立公園(オーストラリア、1981年、1987・1992年拡大、文化遺産(i)(vi)、自然遺産(vii)(ix)(x))」
  • ウィランドラ湖群地域(オーストラリア、1981年、文化遺産(iii)、自然遺産(viii))」
  • タスマニア原生地域(オーストラリア、1982年、1989年拡大、文化遺産(iii)(iv)(vi)、自然遺産(vii)(viii)(ix)(x))」
  • ウルル・カタ・ジュタ国立公園(オーストラリア、1987年、1994年拡大、文化遺産(v)(vi)、自然遺産(vii)(viii))」
世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園」
ロイヤル・エキシビジョン・ビル。1901年の独立後は一時、国会議事堂としても使用された。世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園」構成資産

19世紀半ばに金鉱が発見されるとゴールドラッシュが起き、多くの移民が移住。

特に発展したのがメルボルンで、19世紀後半にはイギリス領でロンドンに次ぐ大都市となり、1880年に万国博覧会が開催されて「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた第二帝国の繁栄を見せつけた。

ロイヤル・エキシビジョン・ビル※は万国博覧会のメインホールとして使われた建物だ。

※世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園(オーストラリア、2004年、文化遺産(ii))」


[関連サイト]

ロイヤル・エキシビジョン・ビル/オーストラリア

 

ゴールドラッシュによって中国系移民が増えると彼らを排斥し、19世紀後半からは有色人種の移民を規制。

こうした差別政策が白人を至上とする白豪主義につながった。


オーストラリアは1901年に連邦自治領として独立している。

世界遺産「トンガリロ国立公園」
ルアペフ山、トンガリロ山、ナウルエホ山などの火山を擁する世界遺産「トンガリロ国立公園」の雄大な景色。火と大地を生む火山群は神のすまいとされ、マオリの人々に聖地として崇拝されてきた

 

ニュージーランドは1769年にクックが探検を行い、イギリス領となった。

19世紀に移民が増え、開拓がはじまると、イギリスは先住民マオリとイギリス国王(当時はヴィクトリア女王)の支配下に入ることや、土地をイギリスに売却することなどを定めたワイタンギ条約を締結する。

移民たちが農業と牧畜のために土地を次々と奪ったためマオリが反乱を起こすと(マオリ戦争。1860~72年)、イギリスは武力でこれを押さえ込んだ。


マオリの聖地とされていたのがトンガリロ※だ。

入植者たちの増加によって危機感を抱いたマオリは、土地の所有を断念し、ヴィクトリア女王に寄進する代わりに山を保護することを約束させた。

こうしてトンガリロは1894年にニュージーランド初の国立公園となった。

※世界遺産「トンガリロ国立公園(オーストラリア、1990年、1993年拡大、文化遺産(vi)、自然遺産(vii)(ix))」


ニュージーランドも1907年に自治領として独立している。

世界遺産「レブカ歴史的港町」セイクリッド・ハート教会
レブカのセイクリッド・ハート教会。(C) Merbabu

フィジーは19世紀後半にイギリスの植民地となり、砂糖のプランテーションが建設されてインド人労働者が導入された。

イギリス領フィジーとして整備されたのがレブカ※で、太平洋交易の要衝として発展した。

※世界遺産「レブカ歴史的港町(フィジー、2013年、文化遺産(ii)(iv))」


イギリスは他にボルネオ北部(南部はオランダ)、ニューギニア、ソロモン諸島南部、トンガなどを獲得している。


オーストラリアやニュージーランドを除くオセアニアは、ニュージーランド・ハワイ島・イースター島の三角形からなるポリネシアと、その西の北側にあたるミクロネシア、南側にあたるメラネシアに区分されている。


ポリネシアのハワイ諸島では1795年にカメハメハ1世がハワイ諸島を統一してハワイ王国を建国。

19世紀前半に砂糖などのプランテーションがはじまり、中盤にはイギリスやフランスが領有を宣言したが、植民地化には至らなかった。

アメリカ、イギリス、フランス、清、日本に翻弄されるなか、1893年にカメハメハ朝最後の女王リリウオカラニが退位し、翌年共和政に移行してハワイ共和国が誕生した(ハワイ革命)。

しかし1898年のアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)で太平洋航路の重要性を再確認したアメリカは、航路の途中にあるハワイを同年に併合する。

アメリカは同年に開催されたパリ会議のパリ条約でフィリピンとグアム、カリブ海のプエルトリコを獲得している。

世界遺産「ラパ・ヌイ国立公園」アフ・トンガリキ
世界遺産「ラパ・ヌイ国立公園(チリ、1995年、文化遺産(i)(iii)(v))」アフ・トンガリキのモアイ。人の住む島から2,000kmも離れた孤島イースターに巨大なモアイが900体以上も発見されたことから歴史ミステリーとなった。18~19世紀、住民はフランスに奴隷として連れ出され、ほぼすべての文明が失われた


ドイツは19世紀に植民地経営を行う経済力のなくなったスペインから、パラオ諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島、マーシャル諸島などを含むミクロネシアの広大な海域を購入(ドイツ領ミクロネシア)。

他にメラネシアのビスマルク諸島やソロモン諸島北部、西サモアを領有した。


フランスは1843年にタヒチ王国の領有を宣言。

1853年にはニューカレドニア※を領有して流刑植民地として開発したが、ニッケルが発見されて鉱業開発が進んだ。

※世界遺産「ニューカレドニアのラグーン:リーフの多様性とその生態系(フランス、2008年、自然遺産(vii)(ix)(x))」


[関連サイト]

イースター島 ラパ・ヌイ国立公園/チリ


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世界遺産「ブリッジタウン歴史地区とその要塞」
イギリスが17世紀に建設し、堅固な要塞を建設して大英帝国のカリブ海における拠点となったブリッジタウン。世界遺産「ブリッジタウン歴史地区とその要塞(バルバドス、2011年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」構成資産

<アメリカのカリブ海政策>


19世紀に次々と独立を勝ち取ったラテン・アメリカ諸国だが、一部の大土地所有者が富を独占しており、中央アメリカの背後にはアメリカ、南アメリカの背後にはイギリスがいて、スペインもその影響力を残していた。


アメリカはイギリスやスペインなどヨーロッパ諸国の影響力を排除するため1889~90年にパン=アメリカ会議を開催し、南北アメリカ18か国が集まって協定を結んだ。


1898年にはアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が勃発。

キューバはこの頃スペインの支配下にあったが、独立運動を率いるホセ・マルティが1895年にキューバ共和国の独立を宣言する。

キューバに投資していたアメリカは介入を決断し、1898年にハバナ※に停泊していたアメリカ軍艦メイン号が爆破されると(メイン号事件)、マッキンリー大統領はスペインに宣戦布告して戦争がはじまった。

※世界遺産「オールド・ハバナとその要塞群(キューバ、1982年、文化遺産(iv)(v))

世界遺産「シエンフェゴスの都市歴史地区」
19世紀、スペインの支配下でフランス人移民が中心となって建設し、アメリカ=スペイン戦争後にアメリカの下で発達したシエンフェゴスの城砦。世界遺産「シエンフェゴスの都市歴史地区(キューバ、2005年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産。(C) San Roman, Jorge-E


サンティアゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城※を巡る海戦などを経てアメリカは勝利を収め、同年に開催されたパリ会議でパリ条約が結ばれて、キューバの独立は承認された。

これによりグアンタナモがアメリカの永久租借地となり、アメリカはフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得した。

※世界遺産「サンティアゴ・デ・キューバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城(キューバ、1997年、文化遺産(iv)(v))」


独立を勝ち取ったキューバだが、1902年に制定されたキューバ憲法にはアメリカのキューバへの干渉権や米海軍基地の設置が記されており(プラット条項)、事実上キューバはアメリカの保護国となった。


20世紀に入るとセオドア・ローズヴェルト大統領が棍棒を携えて穏やかに話すという「棍棒外交」を展開し、強大な軍事力をもってカリブ海諸国に積極的に介入した。

最たる例がパナマで、コロンビアからパナマ共和国が1903年に独立宣言を行うと、アメリカはこれを支援して独立を成功に導いた。

アメリカは独立承認と引き換えにパナマ運河と周辺の主権を獲得し(パナマ運河条約)、パナマも事実上保護国に収めた。

世界遺産「シーウェル鉱山都市」
アメリカの資本で20世紀はじめに築かれた世界遺産「シーウェル鉱山都市(チリ、2006年、文化遺産(ii))」。世界最大の銅産出量を誇ったエル・テニエンテ銅山を中心とした都市で、アメリカらしい街並みが広がっている。(C) Setnom


メキシコでは1861年にベニート・フアレスが政権をとるが、経済危機に陥ると債権利払いを一時停止。

これにフランス、スペイン、イギリスが反発してメキシコ出兵が行われた。

アメリカは同年に南北戦争が起こったことから軍を派遣できなかったが、これに抗議。

スペインとイギリスは交渉により早々に撤退するが、ナポレオン3世は戦いを継続し、1863年に首都メキシコシティ※を落とした。

※世界遺産「メキシコシティ歴史地区とソチミルコ(メキシコ、1987年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(v))」

世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区」
16世紀にスペインによって築かれた世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区」の街並み

フランスはハプスブルク家の血を引くマクシミリアンを皇帝に立ててメキシコ帝国を再興。

しかしプロイセンと緊張が高まったことからナポレオン3世が軍を撤退させると、フアレスを中心にメキシコ内乱が起こり、1867年にマクシミリアンは逮捕されてケレタロのサンタ・クルス修道院※で銃殺された。

※世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区(メキシコ、1996年、文化遺産(ii)(iv))」


1867年に政権を奪還したフアレスは不正選挙を行い、独裁政治を行って反感を買ったが、1872年に急死。

1876年にディアスが大統領に就任すると、その後35年にわたって続く長期独裁政権を打ち立てた。


ディアスは外国資本を呼び込んで鉱山開発や工業化を進めたが、土地を失って没落する農民が増加して農村は貧困化した。

ディアスに対する風当たりは強く、自由主義的な改革を唱えるマデロ、農地改革を目指すサパタやビリャらが立ち上がり、1910年に武装蜂起を開始。

翌年ディアスはフランスに亡命し、1917年にはカランサ大統領の下で民主主義を掲げる憲法が制定された。


アメリカのウィルソンは、かつて宣教師たちが神を信じさせて穏やかに心を開かせつつ、時に武力を用いたように、アメリカが掲げる民主主義や自由主義の正義を説きつつ武力行使も辞さない「宣教師外交」を展開。

メキシコ革命に介入したが失敗し、反米感情が高まった。


* * *

世界遺産「ベラットとギロカストラの歴史地区」
オスマン帝国時代のモスクや正教会の教会など、ヨーロッパとアジアの文化の融合が見られるギロカストラの街並み。世界遺産「ベラットとギロカストラの歴史地区(アルバニア、2005年、2008年拡大、文化遺産(iii)(iv))」。(C) Diego Galli

<列強の分裂とバルカン半島>

 

帝国列強は世界分割の中で植民地獲得競争を繰り広げる反面、利害の合うもの同士で同盟や協商という形で関係を築いていった。

同盟と協商の違いに細かな規定はないが、一般的に同盟は文書を交わした正式な関係で、協商は文書のない緩い関係を示す。

あるいはまた、同盟は一方が攻撃された場合に軍事支援を行う関係で、協商は軍事支援を含まないといわれることもある。


ビスマルク体制下では独墺露が三帝同盟、独墺伊が三国同盟、独露が再保障条約を結び、英が光栄ある孤立を貫いていた。


1890年にドイツが再保障条約の更新を拒んだことから、ロシアは翌年資本を求めてフランスと露仏同盟を締結。

1902年にイギリスは孤立を解き、ロシアを牽制するため日英同盟を結び、1904年にはドイツに対抗するため英仏協商を締結した。

日露戦争後、ロシアは東アジアにおける南下政策を断念し、関係を改善するため1907年に日露協約を締結し、バルカン半島へ侵出を図るドイツに対抗するため英露協商を結んだ。

こうして英仏露は三国協商と呼ばれる関係を構築した。


独墺伊の三国同盟の一端を担っていたイタリアは、南チロルやトリエステといったオーストリア領に留まった「未回収のイタリア」を巡ってオーストリア=ハンガリーと関係が悪化。

これに対抗するためイタリアはフランスに接近して1902年に仏伊協商を結んだ。

ドイツとオーストリア=ハンガリーはパン=ゲルマン主義で一致し、三国協商と対立した。


1908年にオスマン帝国で青年トルコが政権を握ると(青年トルコ革命)、オーストリア=ハンガリーは1878年のベルリン会議以来統治していたボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。

また、オスマン帝国下にあったブルガリアもこの機に乗じて独立を宣言し、翌年承認された。

世界遺産「古代都市ネセバル」
紀元前1000年前後からトラキアの都として発展したネセバルの城砦。オスマン帝国とブルガリアの間を行き来して独特の文化を育んだ。世界遺産「古代都市ネセバル(ブルガリア、1983年、文化遺産(iii)(iv))」構成資産

 

バルカン半島のセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアはオスマン帝国に対する軍事同盟として1912年にバルカン同盟を結び、ロシアはこれ以上のオーストリア=ハンガリーのバルカン半島進出を防ぐためにこれを支援した。

こうしてバルカン半島ではオスマン帝国とパン=ゲルマン主義、パン=スラヴ主義が激しく対立した。


1911年、イタリア=トルコ戦争が起こってイタリアがオスマン帝国からリビアを奪うと、これに触発されたバルカン同盟はアルバニアの反乱を契機にオスマン帝国に宣戦布告(第一次バルカン戦争。~1913年)。

ロシアがバルカン同盟の支援に回ったこともあってバルカン同盟が勝利した。

1913年のロンドン条約でオスマン帝国はヨーロッパ領とクレタ島を失い、ついにヨーロッパから撤退した。

戦後、アルバニアの独立が承認されたほか、マケドニアが分割されてブルガリアが大きく勢力を伸ばした。


ブルガリアはもともとトルコ系で、マケドニアの領有権を主張していた。

このため1913年にセルビアやギリシアに侵攻して第二次バルカン戦争がはじまった。

オスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアがセルビア・ギリシア側についたためブルガリアは敗北を喫し、ブカレスト条約によってブルガリアは領土を削られた。


バルカン半島にはトルコ系、スラヴ系、ゲルマン系、ラテン系といったさまざまな人種が集まり、イスラム教、キリスト教カトリック、キリスト教正教会など宗教も雑多で、利害関係は複雑化した。

ここに大国の思惑が重なってきわめて不安定な状態となり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至る。


* * *

世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体」
古代から市場として栄え、19世紀にはイランとロシア、中央アジアを結ぶ貿易拠点として発達した世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン、2010年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」。(C) Fabienkhan

<イスラムの反帝国主義運動>


インドではイギリスの支配が進み、人々の生活は困窮していた。

このためイギリスは1885年に不満のはけ口としてインド人の意見を集約するインド国民会議を設置した。


1905年、ベンガル地方で民族運動が活発化したことから、イギリスはヒンドゥー教徒とイスラム教徒を分断するためにベンガル地方をイスラム教徒が多い東(現在のバングラデシュ)とヒンドゥー教徒が多勢な西に分けるベンガル分割令を発布。

しかしこれがかえって反発を呼び、それまで穏健だったインド国民会議の中にヒンドゥー教徒の急進派ティラクらが台頭して反対と独立を叫んだ。

1906年にインド帝国の首都カルカッタ(現在のコルカタ)で開催された大会では、英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育の4綱領を掲げ、イギリスに自治を要求した。


イギリスは急進派を弾圧しつつ穏健派を支援し、さらにイスラム教徒に接近して全インド=ムスリム連盟を結成させ、両宗教の分断を進めた。

こうした分割統治とインド人の政治参加を認めるなどの妥協を行ってガス抜きを行い、運動は下火となった。

イギリスは1911年には分割令を撤回し、インド帝国の首都をカルカッタからデリーに遷した。

世界遺産「レッド・フォートの建造物群」
インド帝国の首都がデリーに遷されるとイギリスは郊外にニューデリーと呼ばれる新しい街を建設した。これに対し、写真の世界遺産「レッド・フォートの建造物群」のある一角はオールドデリーと呼ばれている。(C) Alex-Furr

 

民族運動が高まるインドネシアでは、1911年にサレカット=イスラム(イスラム同盟)が結成された。

当初はジャワ島の染色業者による相互扶助組織だったが、熱心なイスラム教徒が多かったことから次第に政治色を強め、やがてジャワ島以外の島にも波及した。

第一次大戦後に独立運動の中心を担うが、オランダの弾圧と共産党との対立などにより衰退した。


西アジアや中央アジアではロシアが南下政策を進め、インド帝国を治めるイギリスが北上し、ドイツが3B政策で進出を強めていた。


こうした動きに対抗して、民族の自立とイスラムの団結を説くパン=イスラム主義を提唱したのがアフガーニーだ。

その思想はエジプトで立憲政府の樹立を目指すウラービー運動や、イランのカージャール朝で政府とイギリスの癒着に反対するタバコ・ボイコット運動に大きな影響を与え、反帝国主義運動を後押しした。

その弟子ムハンマド・アブドゥフはウラービー運動に加わり、民族や宗派の違いを乗り越えてイスラム教徒による新国家樹立を目指した。


トルコではオスマン皇帝アブデュル・ハミト2世が1876年に制定されたミドハト憲法を1878年に停止して専制政治を復活させた。

パン=イスラム主義を唱えてイスラムの団結を図る一方で、立憲主義者やキリスト教徒を強硬に弾圧した。

特にキリスト教徒であるアルメニア人に対する迫害は凄惨で、多くの虐殺を行った。


こうした圧政や「瀕死の病人」といわれたトルコの衰退を前に、トルコ人青年を中心として青年トルコが結成された。

1889年にイスタンブール進撃を開始すると、アブデュル・ハミト2世は軍を派遣して鎮圧にかかるが、軍が寝返ったことで失敗。

1908年に要求を認めてミドハト憲法を復活させたが(青年トルコ革命)、翌年皇帝の退位が可決され、メフメト5世がその跡を継いだ。

世界遺産「コトルの自然と文化-歴史地域」
混迷のバルカン半島を生き抜いたコトル。11世紀以降だけでも、ブルガリア、セルビア、ヴェネツィア、オスマン帝国、オーストリア、イタリア、フランス、オーストリア=ハンガリー、ユーゴスラビアなどが宗主国となっている。世界遺産「コトルの自然と文化-歴史地域(モンテネグロ、1979年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」構成資産。(C) Ggia


イランのカージャール朝ではロシアとイギリスの圧力が高まっていた。

タバコ利権をイギリスに売り渡したシャー(国王)に対して激しい非難が巻き起こり、タバコのボイコット運動に発展(1891年、タバコ・ボイコット運動)。

王は権利の譲渡を撤回した代わりに、莫大な違約金を支払った。

しかしながらその後も体制は変わらず、1901年には石油の採掘権をイギリスに売却している。


1904年にはじまる日露戦争での日本の勝利と、1905年にはじまる第一次ロシア革命の知らせを聞くと、シャーの支配に対する不満が一気に爆発。

立憲制の確立と王政打倒の機運が高まると、カージャール朝は1906年にイラン憲法を制定して議会を開設した(イラン立憲革命)。


しかしながらロシアとイギリスは1907年に英露協商を締結し、イラン北部をロシア、イラン南部をイギリスが獲得することで合意。

立憲革命に介入し、ロシアが武力によって議会を閉鎖した。



次回は第一次世界大戦を解説する。



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ぼくがこれまで撮影してきた写真を掲載していこうと思います。

 →世界遺産写真館

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