世界遺産と世界史28.モンゴル帝国の世界征服

20 Largest Empires in the World。こちらの動画によると、世界史上最大版図を築いたのは大英帝国で、以下モンゴル帝国、ロシア帝国、ハプスブルク帝国(スペイン帝国)、ウマイヤ朝、清が続いている。


世界史上、もっとも大きな領域を支配した国はどこだろう?

時代や領土の捉え方でさまざまな見方ができるため、これを示すのは難しい。

でも、一般的には以下が上位に数えられている。

  • モンゴル帝国[13世紀]:ユーラシア大陸の3割以上を占めた大帝国。陸続きの領土としては文句なしに史上最大ながら、最大版図を築いた13世紀後半には実質的には分裂していた。
  • ハプスブルク帝国[18世紀]:オーストリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、ハンガリー等のヨーロッパ諸国、北アメリカ南部~南アメリカ、フィリピン等を領有して「太陽の沈まぬ帝国」を築いた。
  • 大英帝国[20世紀]:カナダ、オーストラリア大陸、インド亜大陸、アフリカのエジプト~南アフリカにいたるライン上の国々を支配し、こちらも「太陽の沈まぬ帝国」といわれた。
  • ロシア帝国[19世紀]:現在世界最大を誇るロシアの領土に加えて、モンゴルやアラスカも治めていた。もっとも、極地も多くて人口密度が非常に少ない土地も少なくない。
  • ウマイヤ朝[7世紀]:中央アジア、西アジア、北アフリカ、ヨーロッパのイベリア半島を支配下に治め、イスラム教を広めた。イスラム諸国では最大を誇る。
  • 清[18世紀]:現在の中国に加えてモンゴルや中央アジアまで領土を広げた。モンゴル帝国≠元と考えた場合、中国の歴代王朝で最大版図となる。

これらに続くのがフランス(西アフリカ、アメリカ~カナダ東部を領有)やポルトガル王国(ブラジルを領有)、アッバース朝(イスラム帝国)、元、アレクサンドロス帝国、大日本帝国といったところだ。

世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観」
オルホン渓谷の雄大な景色。1235年にオゴタイが首都カラコルムを建設するまで、チンギス・ハーンら王族・貴族もこのようなゲル(ユルト、パオ)で生活していた。世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観」構成資産

多くの場合、超大国は先端的な文明がもたらした圧倒的な軍事力によって誕生する。

古代、アレクサンドロス帝国の重装歩兵ファランクスや重装騎兵ヘタイロイ。

大航海時代、ハプスブルク帝国やポルトガル王国の大型船や銃、火薬、騎馬。

産業革命以後、大英帝国やフランス、大日本帝国の重火器等々。

 

では、陸続きの大地を史上最大規模で征服したモンゴル帝国の強さはどこにあったのだろう?

よく挙げられるのは以下のような理由だ。

  • ウマの質・量
  • モンゴル弓の性能
  • 騎兵の熟練度・作戦能力
  • 中国やイスラムの先端技術
  • 非情さと心理戦術
  • 千戸制

モンゴル人が飼育していたウマは小さく短足である代わりに持久力にすぐれ、長距離移動に適していた。

これをひとり数頭持ち、ウマが疲れると乗り換えることでスピードを緩めずに移動した。

1日の移動距離は平均的な軍隊の2~3倍に及ぶ約70kmで、場合によっては敵の伝令よりも早く到達したという。


身軽なモンゴル騎兵や強力なモンゴル弓を使う弓騎兵は準備が整う前に相手を取り囲み、ハイエナのように弱点を見つけ出してそこをいっせいに攻撃した。

重装歩兵や重装騎兵のような強力な兵隊で守ろうとしても、やって来てはすぐに消え去る弓騎兵によって弓のいっせい射撃を浴び、動けば騎兵に容易に側面や背後を取られた。

あるいは相手が強いと見るや敗走と見せかけ、敵をおびき寄せてこれを打ち破った。

子供の頃からウマとともに生活し、仲間同士以心伝心で動物たちを囲み、部族間闘争に慣れたモンゴル人は生まれながらの騎兵で、騎兵戦術の習熟度は他国の比ではなかった。

 

また、モンゴル人はシルクロード※を通して中国やイスラムの文化をよく知っており、火薬やカタパルト(投石機)といった新兵器をいち早く導入した。

ヨーロッパ戦線では神出鬼没な騎兵が謎の兵器を放ち、爆音と煙幕で敵を混乱に陥れた。

元寇では陶器に爆薬を詰めた鉄砲(てつはう)が用いられたのは有名な話。

南宋攻略ではイスラム圏から技術者を呼び寄せて回回砲という当時世界最強を誇った火砲まで投入した。

※世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通、2014年、文化遺産(ii)(iii)(v)(vi))」


また、モンゴル軍は残忍非道なことでも知られていた。

逆らった都市は徹底的に破壊し、住民を虐殺。

残った者を先頭に立たせて次の城に向かい、城の堀を死体で埋め尽くしてからその上を渡ることもあったという。

元寇の際も、その先頭に立っていたのは高麗や金、南宋の軍人だった。

こうした話が恐怖を生み、敵を恐れさせ、戦意を喪失させた。

 

1241年、リーグニッツでの戦いでモンゴルは10万以上のヨーロッパ兵を殺害したといわれる。

そのためこの戦はドイツ語で「ワールシュタット(死体の山)の戦い」と呼ばれている。

このあとモンゴル軍は神聖ローマ皇帝の牙城・ウィーン※に迫るが、第2代ハーン・オゴタイの急死によって撤退する。

このまま攻め続ければヨーロッパはすべてモンゴル領になっていたかもしれないといわれている。

※世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 

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モンゴル帝国の版図の推移


モンゴル帝国の歴史を見ていこう。


女真族の建てた金の下で奴隷階級にあえいでいたモンゴル人たちは、部族の壁を越えて団結を進めていた。

その中で頭角を現したのが、モンゴル人発祥の地であり聖地とされる大ボルハン・ハルドゥン山※の出身者、テムジンだ。

そして1206年、モンゴルの長老集会=クリルタイでテムジンがハーン(汗。カン。君主)の地位に就き、チンギス・ハーンを襲名する。

※世界遺産「大ボルハン・ハルドゥン山とその周辺の聖なる景観(モンゴル、2015年、文化遺産(iv)(vi))」

 

そしてそれまでの部族制を改めて、千戸制を敷く。

千戸制では十戸ごとに十戸長を置き、十人の十戸長の上に百戸長、十人の百戸長の上に千戸長を設け、それぞれの責任を明確化した。

規律は非常に厳格で、ミスに対して戸長は死刑をはじめとする厳罰に処され、団体責任も負わされた代わりに、手柄は部族や人種に関係なく評価された。

このため戸ごとに団結し、高いレベルで競争が維持された。

 

モンゴル高原を統一したチンギス・ハーンは、まずは隣接する西夏、金と開戦。

野戦では連勝するも堅固な城の攻略には不慣れで、なかなか落とすことができなかった。

それでも1215年に金の首都・燕京を落とすが、金は直前に首都を開封に遷して難を逃れた。

 

チンギス・ハーンは金攻略を部下に任せ、自らは大西征=シルクロード攻略を開始する。

まずは中央アジアの西遼(カラ・キタイ)を攻め、1218年にこれを攻略。

続いて、かねてよりモンゴルに敵対的だったホラズム朝を攻め、首都サマルカンド①や旧首都クニヤ・ウルゲンチ②、ブハラ③を攻略すると跡形もなく破壊し、数百万の住民を虐殺。

生き残った者は次の戦の先頭に立たされ、逆らう者は容赦なく殺された。


このあとニーシャープール、メルフ④、バーミヤン⑤、イスファハン⑥、タブリーズ⑦、ヨルハン⑧といった拠点都市も次々と攻略され、ホラズム朝の王族はロシアやインドへ逃走。

結局チンギス・ハーン没後の1231年にホラズム朝は滅亡する。

サマルカンドやブハラ、イスファハンなどは現在その美しい街並みで知られているが、ほとんどはモンゴルが去ったあとに再建された街なのだ。

※①世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン、2001年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 ②世界遺産「クニヤ・ウルゲンチ(トルクメニスタン、2005年、文化遺産(ii)(iii))」

 ③世界遺産「ブハラ歴史地区(ウズベキスタン、1993年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 ④世界遺産「国立歴史文化公園“古代メルフ”(トルクメニスタン、1999年、文化遺産(ii)(iii))」

 ⑤世界遺産「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン、2003年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ⑥世界遺産「イスファハンのジャーメ・モスク(イラン、2012年、文化遺産(ii))」

 ⑦世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン、2010年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 ⑧世界遺産「ゴンバデ・カーブース(2012年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 

おおよそホラズム朝を攻略したチンギス・ハーンはふたたび目を東に転じ、1227年にチベット系の西夏を滅ぼすが、同年に急死する。

 

[関連サイト]

サマルカンド/ウズベキスタン

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13世紀のユーラシア大陸
13世紀のユーラシア大陸
世界遺産「ヤロスラヴリ市街の歴史地区」
11世紀、キエフ公国によって築かれたヤロスラヴリの救世主顕栄聖堂。モンゴル軍に破壊されるが、その後はモスクワ大公国やロシア帝国の要衝となった。旧市街は世界遺産「ヤロスラヴリ市街の歴史地区(ロシア、2005年、文化遺産(ii)(iv))」に登録されている

ここで彼の主な一族をまとめておこう(丸数字がハーン)。


■チンギス・ハーン①の一族

  • ジュチ[長男]-バトゥ[ジュチの次男]
  • チャガタイ[次男]
  • オゴタイ②[三男]-グユク③[オゴタイの長男]、ハイドゥ[オゴタイの五男カシの子]
  • トゥルイ[四男]-モンケ④[トゥルイの長男]、フビライ⑤[同四男]、フラグ[同五男]、アリクブケ[同六男]


ジュチの父はチンギス・ハーンではなかったという話があり、チャガタイは人望がなく、第2代ハーンに就いたのは三男・オゴタイ。

この辺りは必ず長男が跡を継ぐ漢民族の王朝とは対照的だ。

 

オゴタイはチンギス・ハーンの遺志を継いで金を攻め、南宋と同盟して1234年にこれを攻略。

1235年には首都カラコルム※を建設した。

※世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観(モンゴル、2004年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

また、オゴタイはバトゥに命じてチンギス・ハーンの西征を継続させた。

1236年、総司令官の地位を与えられたバトゥはカスピ海の北を通ってヨーロッパに侵入する。

この頃キエフ公国は分裂して複数の公国・大公国が並立していたが、これらルーシ諸国を次々と破ってヤロスラヴリ①やドミトロフ、ボルガル②、ウラジーミル③、スーズダリ③といった都市を破壊し、1240年にはルーシの中心キエフ④を攻略した。

ルーシ諸国では虐殺と逃走の結果、人口は半分に減ったといわれている。

※①世界遺産「ヤロスラヴリ市街の歴史地区(ロシア、2005年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「ボルガル歴史的考古学的建造物群(ロシア、2014年、文化遺産(ii)(vi))」

 ③世界遺産「ウラジーミルとスーズダリの白い建造物群(ロシア、1992年、文化遺産(i)(ii)(iv)」

 ④世界遺産「キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールスカヤ大修道院(ウクライナ、1990年、2005年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

世界遺産「クラクフ歴史地区」
世界遺産「クラクフ歴史地区」、中央広場に立つ旧市庁舎鐘楼(左)と織物会館。広場には毎時、聖マリア教会で吹かれるラッパの音が響き渡る。モンゴル軍襲来に際してラッパ吹きがその危機を知らせたが、演奏を終える前に射殺されたという。逸話にちなんで演奏は途中で中断される
キエフの聖ソフィア大聖堂
11世紀に建てられたキエフの聖ソフィア大聖堂。モンゴル軍はキエフも破壊したが、交渉によって壊滅は免れた

その勢いのままバトゥはハンガリー王国、ポーランド王国に攻め込み、クラクフ①を占拠。

ヨーロッパ側もスピシュスキー城②などを築いて対抗したが、連戦連敗。

1241年4月9日、モンゴル軍はリーグニッツでポーランド王国、神聖ローマ帝国、ドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団といったヨーロッパ連合軍と対峙し、散々に打ち破った(ワールシュタットの戦い)。

 

このあとモンゴル軍はハンガリー王国の首都ペスト③を落とし、神聖ローマ帝国の聖都ウィーン④に迫るが、オゴタイ急死の報告を受けてバトゥは撤退する。

※①世界遺産「クラクフ歴史地区(ポーランド、1978年、文化遺産(iv))」

 ②世界遺産「レヴォチャ歴史地区、スピシュスキー城及びその関連する文化財(スロバキア、1993年、2009年拡大、文化遺産(iv))

 ③世界遺産「ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト(ハンガリー、1987年、2002年拡大、文化遺産(ii)(iv))」

 ④世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 

[関連サイト]

ウィーン歴史地区/オーストリア

 

オゴタイの死後、第3代ハーンはなかなか決まらず、約5年後にグユクがその座に就く。

グユク就任に反対していたバトゥはモンゴルに戻らず、病気を理由に東ヨーロッパ高原に滞留。

カスピ海の北、ヴォルガ川沿いの首都サライやブルガール①を拠点としたバトゥの支配地がキプチャク・ハーン国(ジョチ・ウルス)となる。

 

キプチャク・ハーン国は配下のルーシ諸国に納税させ、軍役を課した。

これを行う限り干渉は少なかったが、怠れば即座に征服された。

このようなモンゴル人(タタール人)の支配体制を「タタールの軛(くびき)」という。

 

ちなみにこの頃、小さな地方都市ながらキプチャク・ハーン国の徴税官として力をつけ、急速に力を伸ばしたのがモスクワ②で、1263年にはモスクワ大公国に成り上がった。

※①世界遺産「ブルガールの歴史的考古学的遺跡群(ロシア、2014年、文化遺産(ii)(vi))」

 ②世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 

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アレッポのウマイヤド・モスク
中央のドームとミナレット(塔)は世界遺産「古都アレッポ」のウマイヤド・モスク。ミナレットはシリア内戦によって2013年に倒壊した。アレッポはメソポタミア文明の時代から数多の戦争に巻き込まれてきた交通の要衝で、フラグやティムールの攻撃も受けている

グユクがわずか2年で死去すると、第3代ハーンにモンケが就任する。

この時点で権力の座はオゴタイ家からトゥルイ家に移行。

これに反対したオゴタイ家がチャガタイ家と結んで反乱を企てるが、これを察知したモンケはオゴタイ家の有力者を次々と粛清する。

この頃から中央アジアを拠点としていたオゴタイ家、チャガタイ家は次第に中央の統制から離れ、のちの時代の反乱につながる。


国内を平定したモンケは、弟のフビライとフラグを総司令官に、それぞれ東アジア、西アジアの攻略を命じる。

エルサレム、岩のドーム
エルサレム、岩のドーム

まずはフラグだ。

1253年に西征を開始したフラグは、ペルシア(中央アジアから現在のイランの地)の反対勢力を次々と撃破すると、そこで手に入れた捕虜を先頭に進撃し、1258年には最大の標的であるアッバース朝の首都バグダード※を包囲。

イスラム教最高指導者でありアッバース朝の王であるカリフ・ムスタアスィムを殺し、バグダードは徹底した破壊と掠奪、虐殺を受ける。

※イラクの世界遺産暫定リスト記載

 

さらにフラグはアッバース朝の軍隊やトルコ人奴隷マムルークの傭兵部隊を吸収してシリアに侵攻し、アレッポ①、ダマスカス②を攻略。

イスラム最後の砦、エジプトのマムルーク朝攻略を目指して聖地エルサレム③の直前まで迫ったが、モンケの病死によって撤退し、とりあえずタブリーズ④に引き返した。

※①世界遺産「古都アレッポ(シリア、1986年、文化遺産(iii)(iv))」

 ②世界遺産「古都ダマスカス(シリア、1979年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ③世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請、1981年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 ④世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン、2010年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

[関連サイト]

古都アレッポ/シリア

聖地エルサレム

フラグと本隊は撤退したが、その部下キト・プカはシリアに留まり、戦を継続。

マムルーク朝に戦いを挑むが、1260年にアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝第4代スルタン・クトゥズとバイバルス(のちの第5代スルタン)連合軍に敗れてしまう。

これによりモンゴル帝国の不敗神話は破られ、西への勢力拡大は終了する。

フラグは自らハーン就任を目指していたようだが、フビライとアリクブケによる後継者闘争を伝え聞いたことでこれをあきらめ、タブリーズを首都にイル・ハーン国を建てる。

 

続いてフビライだ。

フビライは南宋を包囲するために、1254年にチベットと大理を攻略。

1259年には高麗を服属させて日本にも降伏を勧告するが、鎌倉幕府の執権・北条時宗に拒否されてしまう。

 

フビライの遅攻にしびれを切らしたモンケは自ら南宋の攻略を開始。

しかしながら1259年、その途中で病気を患って急死してしまう。

モンケの弟であるフビライ、アリクブケはそれぞれクリルタイを開催してハーンを名乗って対立。

結局アリクブケは降伏し、こちらもまもなく病死する。

 

1260年、正式に第5代ハーンに就いたフビライは1264年に大都(現在の北京)に遷都し、それ以前に建設していた上都※を夏の離宮として両都を整備。

また、1271年には年号を中国風に元に定め、中国化を進めた。

※世界遺産「上都[ザナドゥ]の遺跡(中国、2012年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」

 

モンゴル帝国はこの時代までに、1240年にキエフ、1258年にアッバース朝を攻略し、ヨーロッパ・西アジア方面でははるか彼方の国々まで征服していた。

しかしながら中国・南宋に対してはオゴタイ、モンケが南征に失敗し、1260年代になっても攻め落とせていない。

これは、南宋が豊かな経済力を背景にした強力な軍事力を有していた点、河川を利用した水軍戦はモンゴルの比ではなかった点、強力な城壁を有していた点、名将・孟キョウらがこれらを利用した見事な防衛戦を築いていた点が理由として挙げられる。


モンゴルを統一したフビライは、ふたたび南宋攻略に着手。

イスラムの戦術家を招聘して攻城計画を練り上げ、南宋が最大の防衛拠点としていた襄陽(じょうよう)と樊城(はんじょう)というふたつの都市を数年にわたって取り囲み、回回砲という当時最先端の火砲(火薬弾投石機)まで投入した。

 

こうして5年にわたる戦い(襄陽・樊城の戦い)ののちにこれを撃破。

1276年に首都・臨安(現在の杭州※)が落ち、1279年に宋は滅亡した。

※世界遺産「杭州西湖の文化的景観(中国、2011年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 

モンゴル帝国最大版図というのはだいたいこの1279年前後のことを示す。

ということは、帝国の外征の成功もこれでほぼ終わりということになる。

 

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ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区
世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区」の瑞門。タンロン(昇龍)は1010年にリー朝(李朝)の首都となり、1802年にグエン朝(阮朝)がフエに遷都するまで、ベトナム北部の中心であり続けた(一時、タインホアに遷都したことはある)

少し遡って1274年、配下に収めた高麗軍を先頭に日本を攻めるも(元寇、文永の役)、日本軍の抵抗と暴風の影響で遠征に失敗。

1281年には南宋軍を加えて攻め込むが(弘安の役)、これも同様に退けられる。

 

フビライはベトナム北部の大越・チャン朝(陳朝)、ベトナム南部のチャンパー王国に対しても遠征を実施。

チャン朝は一時首都・タンロン①昇竜)を奪われるが、ジャングルやハロン湾②を利用したゲリラ戦を展開してこれを奪還。

チャンパー王国は海から攻撃を受けるが、チャン朝と同盟してこれを打ち破った。

※①世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区(ベトナム、2010年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 ②世界遺産「ハロン湾(ベトナム、1994年、2000年拡大、自然遺産(vii)(viii))」

 

[関連サイト]

ハロン湾/ベトナム

 

元軍は海路を利用してインドネシア方面にも進出してジャワ島のシンガサリ王国を滅ぼすが、元に協力して成立したマジャパヒト王国の裏切りにあって敗退。

マジャパヒト王国はスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国を破ってスンダ列島の多くを支配し、一大海洋王国を築いた。


他にも、ロシア北部のノヴゴロド王国はタイガやツンドラに、インド西部のデリー・スルタン朝はヒマラヤ山脈と熱帯雨林、ラージプート族の要塞群に守られて、モンゴル軍の襲来を防いだ。

ミャンマーのバガン朝(首都バガン①)はモンゴル軍の侵入を防いだものの、内部分裂によって滅亡。

 

タイでは、モンゴルの大理支配を受けてタイ族が南下して13世紀にスコータイ朝(首都スコータイ②)を建国。

その頃弱体化していたアンコール朝(首都アンコール・トム③)の隙を突いて、その一部がさらに南下して1351年にアユタヤ朝(首都アユタヤ④)を建てた。

その後、アユタヤ朝はスコータイ朝、アンコール朝を倒してこれらを吸収している。

※①ミャンマーの世界遺産暫定リスト記載

 ②世界遺産「古代都市スコータイと周辺の古代都市群(タイ、1991年、文化遺産(i)(iii))」

 ③世界遺産「アンコール(カンボジア、1992年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 ④世界遺産「古都アユタヤ(タイ、1991年、文化遺産(iii))」

 

[関連サイト]

未来の世界遺産2 バガン

アンコール/カンボジア

古都アユタヤ/タイ

 

同時にこの頃、モンゴル帝国内部でも内乱が相次いだ。

中央アジアのオゴタイ家、チャガタイ家はフビライの指示を聞かず、ほとんど独立していた。

1260年、フビライの第5代ハーン即位に際してはアリクブケを後援し、1261年にはオゴタイ家のハイドゥが反旗を翻す(ハイドゥの乱)。

ハイドゥはオゴタイ家、アリクブケ家、モンケ家などの支持を得てフビライに抵抗。

フビライは1294年に亡くなるが、結局ハイドゥを討つことはできなかった。

 

1301年にハイドゥが亡くなるとチャガタイ家が跡を継ぎ、アルマリクを首都にチャガタイ・ハーン国が成立。

対立していた両者が去ったことで元とチャガタイ・ハーン国は関係を修復する。

 

この時点でモンゴル帝国は元、キプチャク・ハーン国、イル・ハーン国、チャガタイ・ハーン国の4か国に分裂。

国境を接する元×キプチャク・ハーン国×イル・ハーン国×チャガタイ・ハーン国は相互に対立し、国境を接しないイル・ハーン国-元は友好関係を保った。


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グーリ・アミール廟
ティムールが眠るサマルカンドのグーリ・アミール廟。ドームや正面(写真右)のイーワーンは極彩色のタイルや象嵌細工、モザイクで覆われおり、トルコ・ペルシア芸術の粋を集めて造られた。世界遺産「サマルカンド-文化交差路」構成資産

4か国のその後を見てみよう。


■元

フビライの死後、孫のテムルが跡を継ぐが、そのテムルもまもなく死去。

このあと血で血を洗う後継者争いが勃発する。

 

中央では貴族の汚職や横領が常態化し、財政悪化を防ぐために重税を課し、交鈔(こうしょう)という貨幣を乱発したおかげでインフレを起こし、政治的・経済的に疲弊。

さらに14世紀に相次いだ水害のために民衆の生活は困窮し、各地で反乱が相次いだ。

 

最大の反乱が1351年、仏教の一派である白蓮教徒の起こした紅巾の乱で、反乱軍は首都・大都を占領して元軍を北へ追い出した。

白蓮教徒のひとり、朱元璋(しゅげんしょう)は各地の反乱を平定し、1368年に皇帝位に就いて明を建国する。


朱元璋は元軍を追って北伐をはじめるが、モンゴル人たちは大都奪還をあきらめてモンゴル高原へ帰り、もとの遊牧生活に戻っていった。

朱元璋も深追いしなかったため、モンゴルへ去ってもハーンは存在し、北元(首都はふたたびカラコルム※)という国として存続した。

※世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観(モンゴル、2004年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」


結局元は1271年から100年弱で中国から撤退した。

 

■キプチャク・ハーン国

キプチャク・ハーン国でも時間が経つごとに統制は緩み、15世紀にはカザン・ハーン国やクリミア・ハーン国(首都バフチサライ※)いった国々が独立。

モスクワ大公国が勢力を強めると貢納を怠るようになり、これに対して遠征を行ったが、イヴァン3世に敗れてしまう。

急速に弱体化したキプチャク・ハーン国は1502年にクリミア・ハーン国に吸収されて滅亡。

ただし、その一族はクリミア・ハーン国で18世紀まで存続する。

※ウクライナの世界遺産暫定リスト記載

 

■イル・ハーン国

キプチャク・ハーン国やマムルーク朝と対立関係にあったが、元やビザンツ帝国と交流を持ち、キリスト教にも寛容だった。

しかし次第にペルシア化が進み、1300年前後、カザン・ハーンの時代にイスラム教に改宗し、イスラム王朝となった。

 

カザン・ハーンの弟・オルジェイトゥは首都をソルターニーエ※へ遷都。

巨大なドームを備えたオルジェイトゥ廟※はのちのインド・イスラム建築の典型となった。

※世界遺産「ソルターニーエ(イラン、2005年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

その後イル・ハーン国は分裂するが、これらの国々はティムールによって統一される。


■チャガタイ・ハーン国

チャガタイ・ハーン国でも時間が経つにつれて土着の文化との融合が進んでトルコ化・イスラム化し、中央の統制が緩むと14世紀には東西に分裂してしまう。

 

14世紀、西チャガタイ・ハーン国に登場するのがティムールだ。

幼少期からその才能を見出されていたティムールは、フサインとともに1364年に共同ハーンに就任。

フサインが失脚すると、サマルカンドを首都に定めてティムール朝を建て、東西チャガタイ・ハーン国を吸収する。

ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟
ティムールが建築を命じた世界遺産「ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟」。砂漠やステップが広がる中央アジアでは生命をもたらす「青」の街が旅人を癒した。この辺りは青をもたらすコバルトや銅、ターコイズの名産地でもあった

■ティムール朝

ティムール朝も紹介しておこう。

まずはティムールの建てた建造物群から。

 

ティムールは世界中から優秀な建築家や学者を集めて、チンギス・ハーンによって廃墟となった首都サマルカンド①を整備した。

ペルシア芸術の粋を集めたサマルカンド・ブルーといわれる青タイルによって砂漠のオアシス都市を美しく彩り、モスクやマドラサ(モスク付属の高等教育機関)を設置して宗教・教育・文化振興にも力を入れた。

また、ティムールが生まれたとされる第二の都市シャフリサブス②に、ティムール最大の建造物といわれる夏の離宮アク・サライを建設した。

 

ティムールが建てた美しい建造物群は中央アジア・ペルシア・アラブが入り交じった多彩な文化の集大成といえるもので、特にサマルカンドのグーリ・アミール廟①や、カザフスタンに築いたホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟③のような巨大なドーム建築は、その後のインド・イスラム建築に大きな影響を与え、インドのフマユーン病④やタージ・マハル⑤などのムガル芸術へと引き継がれていく。

※①世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン、2001年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 ②世界遺産「シャフリサブス歴史地区(ウズベキスタン、2000年、文化遺産(iii)(iv))

 ③世界遺産「ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟(カザフスタン、2003年、文化遺産(i)(iii)(iv))」

 ④世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド、1993年、文化遺産(ii)(iv))」

 ⑤世界遺産「タージ・マハル(インド、1983年、文化遺産(i))」

 

[関連サイト]

タージマハル/インド

デリーのフマユーン廟/インド

 

ティムールが目指したのはモンゴル帝国の再興だ。

その後も西と南へ向けて侵略を続け、ペルシア(現在のイラン)をほぼ掌握する。

そしてインドに攻め入って、モンゴル帝国も手こずったデリー・スルタン朝(トゥグルク朝)を打ち破り、首都デリー※を占領。

さらに東ヨーロッパではキプチャク・ハーン国に侵入して首都サライを破壊した。

※世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド、1993年、文化遺産(iv))」

 

そして西アジアでは1402年に小アジア(アナトリア高原)のオスマン帝国(オスマン・トルコ)を撃破(アンカラの戦い)。

のちに大帝国を築くオスマン帝国だが、このときは滅亡寸前に追い込まれた。

 

さらにフラグと同様にアレッポとダマスカスを落とし、エジプトのマムルーク朝と対峙する。

しかしながらこの頃体調が悪化し、国内の反乱も増えたため、ここで撤退。

その後中国への遠征を計画するが、1405年に病没し、遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に祀られた。


ティムール朝も次第に細分化し、1507年に滅亡。

しかしながらティムールの血を引くバーブルがインドの地でティムール朝を再興する。

これがムガル帝国だ。

 

* * *

元朝を訪ねた有名人たちの行路
元朝を訪ねた有名人たちの行路(かなり適当)
中尊寺
中尊寺金色堂の覆堂。宮殿や寺院が金で覆われているというジパングの黄金伝説は、金色堂がモデルになっているという話も。世界遺産「平泉-仏国土[浄土]を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群(日本、2011年、文化遺産(ii)(vi))」構成資産

少しだけ、モンゴル帝国時代の文化も見てみよう。


モンゴル帝国はユーラシア大陸の多くを支配し、駅伝制を敷いて交易路を確保した。

人々はバイザと呼ばれる通行許可証を持つことで駅伝(ジャムチ)を利用し、キャラバンサライで寝泊まりしたり、ウマを利用することを許された。

これにより、ムスリム商人を中心に多くの商人たちが東西南北を行き交い、文化の交流が進んだ。

代表的な人物を紹介しよう。

 

13~14世紀に大都を訪れ、15年以上にわたって元に仕えていたのがベネチア商人マルコ・ポーロだ。

著書『東方見聞録』(『世界の記述』)の中でアジア各地の様子を生き生きと描いており、伝え聞いた日本を「黄金の国ジパング」と記したのも有名な話だ。

 

西・東・東南アジア、東ヨーロッパ、北アフリカを旅し尽くしたのがイブン・バットゥータだ。

もともとモロッコ生まれの学者で、イスラム教徒として聖地メッカを巡礼したのち、東アジア・東南アジアの旅に出掛けた。

その様子は著書『三大陸周遊記』に記されている。

ワールシュタットの戦いのあと、ローマ教皇インノケンティウス4世がバトゥの下に遣わせた使者がプラノ・カルピニだ。

プラノ・カルピニは和約を申し入れたが、バトゥにハーンであるグユクと直接話すように言われたため、カラコルムを訪ねてグユクと面会した。

グユクが朝貢を求めたため交渉は失敗したが、アジアの様子を伝えた著書『モンゴルの歴史』は大いに評価された。

 

13世紀、フランス王ルイ9世が送った使者がギョーム・ルブルクだ。

モンゴル軍はヨーロッパでも掠奪・虐殺を働いたが、キリスト教徒がなしえなかったイスラム打倒は高く評価していた。

そのためルイ9世はイスラムに対する同盟とキリスト教布教を求めてルブルクを派遣。

ルブルクもバトゥに会ったのちカラクルムでモンケと面会したが、同盟は拒否された。

 

イル・ハーン国やチャガタイ・ハーン国では一時ネストリウス派のキリスト教が信奉されており、イル・ハーン国はビザンツ帝国と交流もあった。

こうしたツテを使って宣教に訪れたフランシスコ会の司祭がモンテ・コルヴィノだ。

コルヴィノはイル・ハーン国を経由して1300年前後に大都に到着すると、教会を建設してカトリックの布教を行った。

 

南宋時代に発展した海のシルクロードと、モンゴル帝国時代にいっそう整備されたシルクロードによって、世界の距離は縮まり、東西の文化は大いに交流した。

この時代を経て、世界の文明はいよいよ加速度的に発展していく。


以降の中国史は「世界遺産と世界史40.明と清の繁栄」、モンゴル史は「世界遺産と世界史41.東アジア・東南アジアの植民前史」を参照のこと。

 


次回はティムール朝後の西アジア、オスマン朝とサファヴィー朝を紹介する。

 


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