世界遺産と世界史43.フランス革命とナポレオン

フランス皇帝ナポレオン1世とイギリス軍司令官ウェリントンとの間で争われたワーテルローの戦いを描いた1970年のイタリア・ソ連合作映画、セルゲイ・ボンダルチュク監督『ワーテルロー』予告編

 

イギリスの名誉革命・産業革命、アメリカの独立革命で力を得たのは国王でも貴族でも領主でも特権商人でも軍人でもなく、市民(ブルジョワジー)だった。


ここでいう市民とは、主に都市で商工業を担う資本家であり、経済的に主役に躍り出ながらも政治的にはほとんど権利を持たない平民階級のこと。

啓蒙思想によって科学的な思考法を身につけ、資本によって工場などを経営し、自由な取り引きを求めて自由主義を掲げ、政治への参加を求めて民主主義を要求し、土地を仲立ちとした封建社会の打倒と市民社会の実現を目指していた。

 

しかし、国王や貴族といった既得権者はその利権を簡単には手放さない。

フランスでは第一身分の聖職者が約12万人、第二身分の貴族が約38万人、これに対して第三身分の平民は2,450万人。

それでいて第一・第二身分が土地や重要官職のほとんどを握り、富を持っているのに免税特権を持ち、税金を払うことさえほとんどなかったという。

世界遺産「モンサンミッシェルとその湾」
フランス革命期には修道院が廃止され、囚人の監獄として使用された世界遺産「モンサンミッシェルとその湾(フランス、1979年、2007年拡大、文化遺産(i)(iii)(vi))」

もっとも悲惨だったのが農奴で、農奴は第三身分に含まれてはいたが、その最下層に位置していた。

貢租(地代)や賦役(無償労働)を払うためにほとんど奴隷のように働かされ、明日食べるものにさえ困っていたという。

イギリスではさまざまな要因で農民が自由農民=ヨーマンや農業資本家になったり、都市に出て工場勤めを行って市民の一端を形成した。


産業革命や市民革命の進展具合はこうした農民・農奴の開放の度合である程度計ることができる。

彼らの労働力をうまく取り込んで産業革命につなげることが近代化のベースとなると同時に、一人ひとりが市民であることを強く意識することが国民国家の創設につながるからだ。

フランスでは農奴の解放が遅れたが、それが近代化についてイギリスに大きなリードを許した一因でもある。


プロイセンやロシアでは近代化が進んで穀物生産が減った西ヨーロッパに穀物を輸出するために、16世紀頃からグーツヘルシャフトと呼ばれる農場領主制を敷き、逆に農奴制を強化しており(再版農奴制)、農場領主=ユンカーが地位を高めていた。

プロイセンやロシアで急速な工業化が進むのは、市民革命が浸透して19世紀に農奴を開放して以降のことである。

フランスではこのように農民が没落していた。

「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃない」

マリー・アントワネットの言葉として有名だが、実際は彼女のものではないようだが、いずれにせよ身分の差はここまで広がっていた。


こうした身分の分断をイギリスとアメリカは革命で乗り切った。

革命は短期における体制や構造の大転回で、それまでの価値観を根こそぎ覆してしまう。

イギリスは名誉革命を通して「国王は君臨すれど統治せず」という立憲君主政を成立させ、アメリカは独立することで君主を置かない共和政を完成させて、市民社会を成熟させた。


しかし、フランスの事情は複雑だった。

啓蒙思想の広がりで第二身分の中にも王権に反対する者も多く、革命を予感する者もいた。

しかし第三身分も一枚岩ではなく、農民や都市の工場労働者は第一・第二身分を中心としたアンシャン・レジーム(旧体制)には反対していたが、富を独占するという点でブルジョワジーが主導する自由主義・資本主義にも賛成しかねていた。


こうした事情がフランスの革命を複雑化していく。


* * *

世界遺産「パリのセーヌ河岸」のエッフェル塔
フランス革命百周年を記念して建設されたエッフェル塔。1889年にパリで開催された第4回万国博覧会において公開された。高さ312.3m(現在は324m)を誇り、当時もっとも高い建造物だった。世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」構成資産

<フランス革命>


七年戦争やフレンチ=インディアン戦争をはじめ、ルイ14世の時代から繰り返してきた戦争の負担は想像以上に重かった。

アメリカ独立戦争ではアメリカ側に立ってイギリスに勝利したものの、植民地を獲得できたわけでもなく、得られたものは少なかった。

おまけに1788年は干ばつによる歴史的な凶作で、飢饉が多発して社会不安は頂点に達していた。


ルイ16世は財務総監職にテュルゴー、ネッケルを起用して財政改革を行うが、もはや増税は避けられない。

すでに第三身分への税負担は重いので、第一・第二身分への課税を決意して、1789年5月にベルサイユ宮殿※で三部会(第一・第二・第三身分の代表者からなる身分制議会)を招集する。

※世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園(フランス、1979年、2007年、文化遺産(i)(ii)(vi))」

 

[関連サイト]

ベルサイユ宮殿/フランス(All About 世界遺産)


三部会では議決権を巡り、第一・第二身分が各身分1票での投票を主張するのに対して、第三身分は各議員1票を主張。

このとき、第一・第二身分の議員はそれぞれ約300人、第三身分には約600人がいて、第三身分の議員数は第一・第二身分の合計を上回っていた。


三部会の空転にしびれを切らした第三身分は、自分たちこそが国民の代表であるとして国民議会の発足を宣言。

第一・第二身分の議員の中にも合流する者が出始めると、国王は議場を閉鎖して第三身分の議員を締め出した。

 

そこで国民議会はベルサイユ宮殿のジュー・ド・ポーム(球戯場)を議場に定め、憲法制定まで解散しないことを決議した(球戯場の誓い)。

世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園」のジュー・ド・ポーム(球戯場)
第三身分を中心に憲法制定を誓ったジュー・ド・ポーム(球戯場)。英訳が "Tennis Court Oath" であることから「テニスコートの誓い」とも呼ばれる

ルイ16世は三部会と国民議会の解散を宣言するが、国民議会はこれを無視。

国民議会がパリ市民の圧倒的な支持を得ていることを見たルイ16世は、第二身分に国民議会への合流を指示して三部会は消滅。

国民議会は憲法制定に向けて動き出す。


1789年7月14日、ルイ16世は秘密裏に軍を動員して国民議会の武力制圧を図るが、これを察知したパリ市民は廃兵員で武器を奪い、火薬や弾薬を保管していたバスティーユの牢獄を急襲して武装蜂起する(バスティーユ牢獄の襲撃=フランス革命勃発)。

バスティーユの牢獄は政治犯を収容していたことから圧政の象徴とされ、さんざんに打ち壊された。


パリ市民はアメリカ独立戦争で活躍したラファイエットを総司令官に任命。

人々は赤と青の2色からなるパリ市旗に白を入れたトリコロール(3色旗)を掲げ、これが現在のフランス国旗のベースとなった。


こうした動きに呼応して全国の農民が蜂起し、貴族たちの館を襲撃。

封建社会の打倒を目指して革命を訴えた。


8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を宣言。

これにより領主裁判権(領主が荘園内の問題を自ら裁定する権利)や教会への十分の一税などが廃止され、身分制度廃止に踏み込んだ。


ただし、保有地の地代(貢租)については有償廃止とされた。

土地の所有権を得たい農民に、貨幣で支払う場合は20年、生産物で支払う場合は25年といった年貢の一括支払いを求めたもので、これができる農民は少なく、自営農民になる者はわずかだった。


しかしながらこれを機に領主-農奴という関係は自由契約を仲立ちとした領主-小作という関係に変わっていく。

なお、1793年に無償廃止が行われて封建的特権は廃止される。

世界遺産「パリのセーヌ河岸」のテュイルリー庭園
テュイルリー庭園。かつてはここにテュイルリー宮殿があり、ベルサイユ行進でルイ16世は王宮をテュイルリー宮殿に戻した。1871年のパリ・コミューンで焼失。奥に見えるのはルーブル美術館。世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」構成資産

8月26日には「人間は自由であり、権利において平等な者として誕生し、また存在する」と自由・平等、主権在民、言論の自由などをうたった人権宣言を採択。

しかしながら、ルイ16世はこれを承認しなかったため、法として成立させることができなかった。


10月5日、小麦の不作や物価の高騰に苦しむパリの女性がパンを求めてベルサイユ宮殿まで抗議の行進を開始。

人権宣言を起草したラファイエットはその後に軍を従軍させた。


女性たちはベルサイユ宮殿でルイ16世にパンを要求し、さらに人権宣言を承認させる。

さらにルイ16世をパリのテュイルリー宮殿に連れ帰り、国民議会もパリに移動した(ベルサイユ行進)。


1790~91年にかけて、市民の求めに応じて教会の財産を没収して国有化し、ギルドを廃止。

度量衡を統一するなど自由・平等を掲げて各種法案を可決した。


これに耐えかねたルイ16世と王妃マリー・アントワネットは1791年6月20日、妻の実家であるオーストリアへ逃亡を図るが、ヴァレンヌの町で露見してパリに引き戻される(ヴァレンヌ逃亡事件)。

それまで第一・第二身分に反感を持っても国王には同情的な第三身分は少なくなかったが、国を捨てたことで同情と信頼を一気に失い、革命はより先鋭化する。

同年8月、フランス王政の危機を察知したオーストリアとプロイセンは、王政廃止が自国へ及ぼす影響を恐れ、ルイ16世の国王としての地位の継続を求め、そうでない場合は宣戦布告を行うと宣言する(ビルニッツ宣言)。

こうした外圧と、もともと国王を君主とする立憲君主政を目指していたことから、とりあえずは王政の継続が確認された。


同年9月3日、1791年憲法が制定され、立憲君主政や制限選挙制(一定の税を納めた有産市民のみが投票できる選挙制度)を確立。

国民議会は解散され、10月にははじめての選挙が行われて立法議会が成立した。


議会では、国王の排除と共和政を求めるジロンド派と、これ以上の改革を求めないフイヤン派(立憲君主派)が対立していた。

王政の廃止を恐れるルイ16世はオーストリアに通じて革命政権の打倒を要請。

緊張が高まるなか、1792年にジロンド派が政権を握ると、4月にオーストリアに対して逆に宣戦布告を宣言する。


フランス軍の中には国王に同情的な指揮官や兵士も多く、ルイ16世やマリー・アントワネットはそうした王党派の指揮官に革命軍への反抗を指示したり、オーストリアに作戦を漏らしていたという。

このためフランスは連敗に次ぐ連敗で、オーストリア・プロイセン連合軍は国境を越えてフランスに侵入する。


フランスの危機、革命の危機に際して政府が危機を訴えると、全国から義勇軍が集結。

マルセイユからやってきた義勇兵たちが歌っていたのがラ・マルセイエーズで、現在のフランス国歌になっている。

パリ同時多発テロ事件のあと、世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園」のベルサイユ宮殿両院合同会議場で国家ラ・マルセイエーズを歌うオランド大統領と上下院のメンバー

 

1792年8月10日、国王の反政府的な動きを察知したパリ市民はルイ16世の王権を停止して一族をタンプル塔に幽閉(8月10日事件)。

王党派の貴族らを殺害する。


同年9月20日、フランス軍はプロイセン軍とヴァルミーで対峙し、激しい砲火を浴びる。

しかしラ・マルセイエーズを歌いながら反攻を開始し、プロイセンを退却させた。

このときプロイセン軍兵士として参加していた作家ゲーテは、「この日、この場所から新しい世界史がはじまる」と記したという(従軍していなかったとする説もある)。


フランス軍はこの勢いでベルギーを占領して封建制を廃止。

フランスに対する周辺国の警戒が高まった。


王権を停止したことで共和政をベースとした憲法の制定が必要となり、男子普通選挙(納税額にかかわらずすべての成人男子が選挙権を有する選挙)を実施。

9月21日に国民公会が召集されると、即日、王政の廃止と共和政の樹立が宣言された(第一共和政)。


国民公会では急進共和主義のジャコバン派が力を持っており、ルイ16世の処刑を主張。

賛成多数を持って可決され、1793年1月21日にルイ16世は現在のコンコルド広場で斬首され、10月にはマリー・アントワネットも処刑された。

世界遺産「パリのセーヌ河岸」のコンコルド広場
コンコルド広場の噴水とオベリスク。この広場に断頭台が設置され、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われた。世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」構成資産。ちなみにオベリスクはエジプトの世界遺産「古代都市テーベとその墓地遺跡」登録のルクソール神殿から運ばれたもの

国王の処刑はヨーロッパの王政国家を大きく動揺させた。

1793年2月、イギリスの首相ピットの呼び掛けで、オーストリア、プロイセン、ロシア、スペイン、オランダなどが第一回対仏大同盟を結成し、フランスと国内の革命派を牽制した。


フランスは一体となって対仏大同盟に立ち向かう必要があったが、国民公会は国をまとめあげることができなかった。

この頃、政権を握っていたのは資本家や大地主・商工業者といった富裕市民=ブルジョワジーの支持を集めるジロンド派で、これに自営農民や小作・小商人・職人・手工業者といった下層市民=サン・キュロットが支えるジャコバン派が迫っていた。


インフレによる食糧難に苦しむパリ市民はジロンド派の進める自由主義・資本主義に反発していた。

これを利用して強引に一体化を図るロベスピエール率いるジャコバン派は、「ブルジョワジーが貴族にとって代わろうとしているにすぎない」と非難し、1793年6月にジロンド派を国民公会から追放。

公安委員会を組織すると反対派を次々と処刑して独裁を開始する(ジャコバン独裁)。

国民公会は1793年憲法を制定して男子普通選挙を採用(延期ののち未実施)。

さらに封建地代の無償廃止や最高価格例による価格統制、亡命貴族の土地の競売などを行ってサン・キュロットの支持を集めながら徴兵制や革命暦などを推進した。

特に封建地代の無償廃止により領主-農奴の関係は完全に破壊され、農民は自作農や小作となって封建的身分制度から脱した。


しかしながら、インフレ抑圧の価格統制が商人や商工業者の反発を呼ぶと彼らを処刑。

同じジャコバン派同士でも意見が異なると処刑するといった恐怖政治が広まると、ロベスピエールは急速に支持を失い、1794年7月に逮捕されて幹部とともに処刑された(テルミドール反動)。


ジャコバン派が失脚するとブルジョワジーが力を盛り返し、1795年8月に1795年憲法を制定。

サン・キュロットを排除した富裕市民限定の制限選挙制を採用し、独裁のような権力の集中を防ぐために5人の総裁からなる総裁政府を樹立した。


総裁政府は権力が分散したため強力なリーダーシップを発揮できず、さまざまな派閥が政権を目指して活動を強めた。

一例として、私有財産の廃止を唱えたバブーフは共産主義政権を目指して反乱を企てたが、計画が漏れて失敗に終わった。


この間、対仏大同盟は続いており、フランスは強力なリーダーの下でひとつにまとまる必要に迫られた。

そんなときに登場するのがナポレオン・ボナパルトだ。


* * *

1927年のアベル・ガンス監督のサイレント映画『ナポレオン』。上はフランシス・コッポラが復元した作品の予告編

 

<ナポレオンの時代>

 

フランス革命前の1784年、コルシカ島出身のナポレオンは士官学校を卒業して将校として採用された。

 

ジャコバン派を支持し、ロベスピエールらと知り合い、イギリス軍や王党派と戦いを繰り返すことで地位を上げるが、テルミドール反動で逮捕されて失脚。

しかし、1795年にパリで起こった王党派によるヴァンデミエールの反乱を鎮圧すると軍司令官として復活し、総裁政府成立後の1796年にはイタリア派遣軍司令官に任命される。

 

ナポレオンがイタリアに派遣されたのはイタリアから侵入してくるオーストリア軍を防ぐためだ。

この頃、イタリアはベネチア共和国やサルディーニャ王国などを除いてオーストリアに支配されており、オーストリアからの解放を求める市民や封建的身分制度からの解放を欲する農民がフランス軍を歓迎したため、戦況を有利に進めることができた。

ナポレオンは破竹の勢いで攻め進み、ウィーン※に迫るとオーストリアから和約を引き出すことに成功し(カンポ・フォルミオ条約)、第一回対仏大同盟を崩壊に導いた。

※世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 

対仏大同盟は消滅したが、オーストリアは完全に矛を収めたわけではないし、フランスへの圧力を強めるイギリスは大西洋と地中海両面からフランスに睨みを利かせている。

そこで帰国したナポレオンはイギリスとインドの連絡を絶ち、地中海の制海権を得る目的で、中継基地となっているエジプト攻略を提案。

これが採用されて1798年にエジプト遠征を開始する。

 

この遠征でナポレオンはマケドニアのアレクサンドロス大王と同じように多くの学者を引き連れてエジプトを訪れており、その結果ロゼッタ・ストーンを発見している。

ロゼッタ・ストーンは古代エジプトの神聖文字・民衆文字・ギリシア文字で記された対訳碑文で、シャンポリオンの解読によりエジプト史の解明に大いに貢献した(現在、ロンドンの大英博物館収蔵)。

世界遺産「ベネチアとその潟」
ベネチア。中央がサン・マルコ鐘楼、右がドゥカーレ宮殿、左がマルチアーナ図書館。1797年、ベネチア共和国はナポレオンに占領され、仏墺間で調印されたカンポ・フォルミオ条約で消滅してロンバルド=ヴェネト王国が誕生した。世界遺産「ベネチアとその潟(イタリア、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(v)(vi))」構成資産

これに対してイギリスはエジプトを支配していたオスマン帝国やオーストリア、ロシアなどと第二回対仏大同盟を結成。

フランス海軍は敗れてナポレオンはエジプトで孤立し、イタリアではフランス軍がロシア軍に敗れて国境が脅かされた。


こうした危機に、ナポレオンはエジプトを脱出して少人数で帰国。

1799年11月に総裁政府を倒すと、3人の統領から成る統領政府を立てて、第一統領に就任する(ブリュメール18日のクーデター)。

事実上の独裁政権の誕生だ。


ナポレオンは1800年にフランス銀行を開設し、フランを発行して通貨の安定を図り、同年に第二回イタリア遠征を敢行。

オーストリアやサルディーニャに勝利すると、翌1801年、敵対していたバチカンと和解するためローマ教皇ピウス7世と宗教協約を結ぶ。


1802年にはイギリスとアミアン和約を締結して和解し、第二回対仏大同盟を解消してフランスの安全を確保。

圧倒的な人気を得たナポレオンはこの年、終身統領に就任する。


しかし、この平和も長く続かず、1803年にイギリスはアミアン和約を破棄するとフランスに宣戦布告。

これよりナポレオン戦争の幕が切って落とされる(~1815年)。

ナポレオン戦争時の版図の推移。青がイギリスあるいは対仏大同盟側、赤がフランス側

 

1804年、法の下の平等や契約の自由、私有財産の不可侵などを定めたナポレオン法典を制定。

ナポレオンは政治的には独裁的な性格を強めていくものの、自由主義の推進者であり、対外遠征ではアンシャン・レジームからの解放者として振る舞った。

それは次のような言葉に表れている。


「私の真の栄誉は40度にわたる勝利にではなく、永久に保証されるであろう民法典にこそある」

「私はフランスに産業を創造した」


そして同年、ナポレオン1世として皇帝に就任。

皇帝は王以上の地位であり、王政を敷くアンシャン・レジームに属し、民主主義に反するものであるはずだが、ナポレオンは国民投票という民主的な方法によって皇帝に選出された。

第一帝政のはじまりだ。


皇帝位は本来、ローマ帝国の継承者たる地位であるはずだが、ナポレオンの皇帝位はローマ帝国とつながりがなかった。

そのナポレオンが皇帝を称し、各国のアンシャン・レジーム打倒を呼び掛けている――

 

この暴挙に対して1805年、イギリス、ロシア、オーストリアなどが第三回対仏大同盟を結成してフランスを包囲。

同年10月、ネルソン率いるイギリス海軍はフランス海軍をトラファルガーの海戦で散々に撃破した。

世界遺産「パリのセーヌ河岸」
1804年12月2日、ナポレオンの皇帝戴冠式が行われたパリのノートルダム大聖堂。この大聖堂はフランス革命以降、しばしば自由主義者らにアンシャン・レジームの象徴として破壊された。世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」構成資産

同年12月、ナポレオン1世は自ら軍を率いるとオーストリアに攻め込み、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍に勝利。

この戦いはフランス皇帝ナポレオン、オーストリアの神聖ローマ皇帝フランツ2世、ロシア皇帝アレクサンドル1世がまみえたことから三帝会戦とも呼ばれている。


1806年、ナポレオン1世は神聖ローマ帝国の下に集まっていたドイツの諸侯や都市を集めてライン同盟を結成。

バイエルンやウェルテンベルク、バーデンなど16か国は、王国や大公国などへの昇格と引き換えに神聖ローマ帝国からの離脱を宣言してライン同盟への参加を決めた。


これに伴い、フランツ2世は神聖ローマ皇帝位を放棄して帝国の解散を宣言。

ここに神聖ローマ帝国は消滅した。

ただし、ハプスブルク家はナポレオン1世が皇帝に即位した直後にオーストリアとハンガリーを中心にオーストリア帝国を再編し、フランツ2世は初代オーストリア皇帝フランツ1世に即位している。


1806年、プロイセンに勝利したナポレオン1世は首都ベルリン※に入城し、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発令。

諸国にイギリスとの通商を禁じつつ、フランスの貿易振興を画策した。

※世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ、1990年、1992・1999年拡大、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ、1999年、文化遺産(ii)(iv))」

世界遺産「ヴァレッタ市街」
聖ヨハネ騎士団が対オスマン帝国用に築いたマルタ島の城郭都市ヴァレッタ。1798年にナポレオン軍が侵攻するとヨハネ騎士団はヴァレッタを追放され、フランス、イギリスの支配を受けた。世界遺産「ヴァレッタ市街(マルタ、1980年、文化遺産(i)(vi))」構成資産

1807年にはプロイセン・ロシア連合軍を破ってティルジット和約を締結。

プロイセン領の半分ほどを奪ってワルシャワ大公国を建てると、これをフランスの属国とした。

ポーランド分割によって消滅したポーランドの復活ということでポーランド人は歓迎したが、大公はドイツのザクセン公だったし、ロシアやオーストリアに分割された領土は戻らず、再興には遠かった。

 

プロイセンを同盟国として取り込むと、ナポレオン1世はオーストリア・ハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと結婚してこれも同盟国化。

さらに自分の兄弟をスペイン王やオランダ王などに就任させ、イギリス、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国を除くヨーロッパのほとんどを手中に収めた。

 

フランス軍の強さは革命戦士としての強さであり、敗退は王政や封建制の復活を意味する。

市民たちは負けるわけにはいかず、アンシャン・レジームからの解放を目指して高い士気をもって戦闘にあたった。

各国でも王族や貴族・封建領主を除いてはナポレオン1世に同調する者も多く、市民や農民には特に歓迎された。

そしてナポレオン1世がヨーロッパを支配することで封建社会からの解放が進み、自由・平等といった革命の理念が輸出された。

 

しかし、時が経つにつれて人々は気づいていく。

ナポレオンと国王といったい何が違うんだ?――

 

ナポレオン1世による支配も圧政という点で王政と変わらず、自分たちがフランスによって虐げられている事実に気づく。

たとえば大陸封鎖令の強要によってイギリスとの通商が途絶えると、景気が悪化して多くの人々の生活が困窮した。

そして各国で民族意識や愛国心が鼓舞され、反ナポレオンの機運が高まった。

 

ナポレオンが広めた自由・平等といった理念がナポレオン自身を追い詰めていくのである。

世界遺産「ドブロブニク旧市街」
7世紀から1,000年以上にわたって独立を貫いたドブロブニクだが、1806年にナポレオン1世に降伏し、ウィーン会議後にオーストリア領に組み込まれた。世界遺産「ドブロブニク旧市街(クロアチア、1979年、1994年拡大、文化遺産(i)(iii)(iv))」構成資産

これが明確化したのがイベリア半島だ。

 

フランス革命以降、スペインとポルトガルはフランスの革命軍と戦っていたが、戦況の悪化に伴ってスペイン王カルロス4世はフランスと和解。

ナポレオン1世はスペインと同盟を結んでイギリス側につくポルトガルを攻撃する。


1806年に大陸封鎖令が発令されるが、イギリスとの交易で成り立つポルトガルはとても受容できず、これを拒否。

フランスとスペインは1807年にポルトガル遠征を行い、首都リスボン①を占領する。

 

このときポルトガル女王マリア1世やジョアン王子(のちのジョアン6世)らはイギリス海軍に守られてブラジルに退避。

リオデジャネイロに遷都②し、ブラジル公国を王国に昇格させ、1815年にはポルトガル=ブラジル連合王国を成立させた。

※①世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔(ポルトガル、1983年、2008年拡大、文化遺産(iii)(vi))」

 ②世界遺産「リオデジャネイロ:山と海の間のカリオカの景観(ブラジル、2012年、文化遺産(v)(vi))」

 

[関連サイト]

ジェロニモス修道院とベレンの塔/ポルトガル(All About 世界遺産)

ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』1814年、プラド美術館
ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』1814年、プラド美術館。マドリードのプリンシペ・ピオの丘で虐殺を行うフランス軍銃殺隊の様子を描いている。400名以上が逮捕され、女性や子供を含む43名が殺害された

スペインでは暴動が起きてブルボン朝のカルロス4世が追放されてフェルナンド7世が即位。

フランスがこの隙をついてスペインに侵攻したのに対して、スペイン市民が迎え撃った(1808~14年、スペイン独立戦争/半島戦争)。

 

しかし、フランス軍の勢いは止まらず多くのスペイン人が虐殺され、フェルナンド7世は退位。

ナポレオン1世の兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王に就いた。

このあともスペインの反攻が続き、ナポレオン1世が直接マドリード※に入城して鎮圧するが、民衆はゲリラ戦を展開して対抗した。

※世界遺産「マドリードのエル・エスコリアル修道院とその遺跡(スペイン、1984年、文化遺産(i)(ii)(vi))」


フランス軍は各地で略奪・破壊を繰り返し、ゲリラを虐殺した。

ナポレオン1世は解放者ではなく完全に侵略者と認識されるとスペインやポルトガル民衆の愛国心が目覚め、自国の独立を守る抵抗運動に身を投じた。

同じことが各国で起こっていた。

 

プロイセンでは政府が民衆の意見を取り入れ、封建社会に対する批判に応えるためにシュタイン、ハルデンベルクらが主導してプロイセン改革を断行。

農奴制を廃止して農民を解放し、都市の自治や営業の自由を進め、軍制改革を行って軍隊内での身分制を排除した。

同時に、哲学者フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」と呼ばれる講演を行い、ドイツの団結を呼び掛ける。

プロイセンの改革はフランスに対抗するために行った「上からの改革」だったが、この改革がやがて独立・ドイツ統一運動に発展する。

世界遺産「ミール地方の城と関連建物群」
ナポレオン戦争に巻き込まれて一部が破壊されたミール城。19世紀に入って修復され、現在の姿になった。世界遺産「ミール地方の城と関連建物群(ベラルーシ、2000年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産

1810年、ロシアは大陸封鎖令を破棄してイギリスに対して穀物を輸出。

これに対してナポレオン1世は1812年にロシア遠征を開始する。

 

6月に60万の兵を率いて進軍をはじめるが、このときの兵は各国からの寄せ集めで士気が低く、すでに解放軍と呼べるものではなかった。

地元の人々の協力を得られないために食糧調達もままならず、続々兵が逃亡して8月には約15万に減少。

しかしロシア軍が退却に退却を重ね、首都モスクワ※をも放棄したため、ナポレオン1世は10万の兵を率いてモスクワに入城する。

※世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 

ナポレオン1世は当初、モスクワを落とせばロシアも食糧も確保できると考えていた。

しかしロシア軍は住民とともにモスクワを退去し、焦土作戦で畑を燃やしていたため、フランス軍はどちらも確保できない。

兵士は困窮を極め、10月に冬が到来すると降雪がはじまったため、ナポレオン1世はやむなく退却を決意する。

 

すると、ここぞとばかりにロシア軍が現れて追撃を開始。

寒さと飢えのためにフランス軍は散々に打ち破られ、帰国できたのはわずか5,000人だったという。

 

なお、ナポレオン1世とロシアの戦いとその周辺を描いた小説がトルストイ著『戦争と平和』だ。

世界遺産「フォンテーヌブローの宮殿と庭園」の別離の階段
ナポレオン1世が「これこそまさに王の宮殿なり」と称え居城にしたフォンテーヌブロー宮殿。中央下の階段は、エルバ島に流される前にここで兵たちに別れを告げたことから「別離の階段」と呼ばれる。世界遺産「フォンテーヌブローの宮殿と庭園(フランス、1981年、文化遺産(ii)(vi))」構成資産
世界遺産「パリのセーヌ河岸」アンヴァリッドのナポレオンの棺
パリの廃兵院=アンヴァリッドのドーム教会地下に収められているナポレオン1世の棺。世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」構成資産 (C) Eric Pouhier

多くの兵を失ったナポレオン1世を見て、ヨーロッパ諸国が反撃を開始。

ロシア、オーストリア、プロイセンが中心となって連合軍を結成し、1813年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍を打ち破り、1814年にはパリへ入城。

ナポレオン1世は降伏し、イタリア半島に近いエルバ島へ流された。

 

フランスは王政復古を行い、ルイ16世の弟であるルイ18世が王位に就いてブルボン朝が復活する。

しかしながら王政の評判はきわめて悪く、1815年、これを耳にしたナポレオン1世はエルベ島を脱出して南フランスに上陸。

態勢を整えたあとパリに帰還して皇帝に復位する。

 

イギリス、オランダ、プロイセンは連合軍を結成してフランスに進軍。

ワーテルローの戦いでナポレオン1世を破ると、今度は南大西洋の孤島セントヘレナへ流された。

この復活劇はパリ入城から退位まで100日間で行われたことから「百日天下」といわれている。

 

 

次回はウィーン体制とその崩壊までを解説する。

 

 

[関連サイト]

モンサンミッシェル/フランス(All About 世界遺産)

ベネチアとその潟/イタリア(All About 世界遺産)

フォンテーヌブローの宮殿と庭園/フランス(All About 世界遺産)

 


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