世界遺産と世界史51.ファシズムと世界恐慌

第一次世界大戦で主戦場とならなかったアジアでは列強の衰退や需要によって産業が振興し、好景気に沸いた。

また、ベルサイユ体制の民族自決原則や宗主国の弱体化、東欧各国の独立、ロシア革命の成功などによって民族運動や社会運動が活発化し、各地で独立機運が高まった。

しかし、欧米列強は東欧諸国の独立は認めたものの、民族自決を植民地に適用することはなく、既得権の維持を図った。


ヨーロッパは大戦の後遺症に苦しんでいた。

敗戦国が賠償金に追われていただけでなく、戦勝国であるイギリスやフランスの経済も低迷していた。

特に苦しんでいたのがドイツだ。

巨額な賠償金の支払いは先が見えず、世界恐慌時にはアメリカに次ぐダメージを受けて破綻状態に追い込まれていた。


ドイツは経済的に叩かれ、軍備さえ放棄させられていた。

そして世界には国際連盟があり、軍縮会議が行われ、不戦条約で多くの国が戦争放棄を宣言した。

それなのになぜ時代はまた世界大戦へと舵を切ったのか?


まずはアジア・アフリカの第一次世界大戦後の動きから見てみよう。

 

* * *

世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」
1911年の辛亥革命で最後の皇帝・宣統帝は退位したが、溥儀はしばらく紫禁城の内邸で生活を送っていた。1924年に皇族がすべて退去すると翌年から故宮博物院として整備された。世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国、1987年、2004年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」構成資産 (C) Gisling

<戦後のアジア・アフリカ民族運動>


■中国

 

1911年の辛亥革命で清は倒れたが、中華民国では皇帝が袁世凱の大総統に置き換わっただけで、民主的な近代国家は生まれず、国内では複数の勢力が割拠し、列強の外圧も受け、政権は安定しなかった。


中国の知識層は個人レベルから思想の改革が必要と考え、1915年ほどから北京大学を中心に伝統的な封建制度や儒教思想を否定する新文化運動=文学革命がはじまった。

その発端となったのが陳独秀の発行した雑誌『新青年』で、儒教的な身分・家族制度を否定して民主主義と科学を掲げ、青年層の大きな支持を得た。

この雑誌誌上で胡適は白話文学(書き言葉を文語から口語に変えたもの)を提唱し、魯迅はこれを受けて口語で『狂人日記』や『阿Q正伝』などを発表した。


また、李大釗(りだいしょう)らによってマルクス主義やロシア革命の研究が進められ、共産主義の萌芽が見られた。

1919年に反帝国主義を掲げるソビエト政府は中国に有していた特権を放棄。

コミンテルンが陳独秀や李大釗を支持して1921年に中国共産党が結成された。


1914年に第一次世界大戦が勃発してから日本はドイツに宣戦し、ドイツの租借地である膠州湾(こうしゅうわん)の青島(チンタオ)やミクロネシアの島々を占領した。

そして1915年にドイツ利権の継承などを求めて中華民国に二十一か条の要求を突きつけ、この多くを認めさせた。

こうした日本に対し、朝鮮半島や中国で数々の反対運動が巻き起こった。


1919年3月1日、ウィルソンの「平和に関する布告」で掲げられた民族自決を実現するために、パリ講和会議に乗り込んで日本からの独立を宣言しようとした朝鮮人の一団が逮捕された。

これに反発してソウルのパゴダ公園で独立万歳を叫ぶデモが起こり、全国各地へ飛び火。

のべ100万人を超える大規模な独立運動に発展した(三・一独立運動)。


朝鮮総督府は軍と警察を動員して鎮圧に乗り出し、数千人の死者と約5万人の逮捕者を出した。

やがてデモは鎮圧されたが、上海で亡命政府として大韓民国臨時政府が結成され、初代大統領に李承晩(イ・スンマン)が就任した。

これまで朝鮮総督府は1910年の韓国併合時より軍の指揮下にあって武断政治を敷いていたが、これ以降、朝鮮人の地方官を採用し、出版や集会の自由を一部認めるなど軍政を緩めて文化政治に転換した。

ベルサイユ条約調印式の様子
1919年6月28日、ベルサイユ宮殿におけるベルサイユ条約調印式の様子。中国は二十一か条の要求の取り消しが受け入れられなかったことからこれを拒否した

中国は1919年のパリ講和会議で二十一か条の要求の取り消しを求めたが退けられたため、これに反発して同年5月4日に北京大学を中心にデモを起こり、親日的な官僚の襲撃や日本製品のボイコット・ストライキなどが行われ、上海など各地に拡大した。

これを受けて政府は対象となった官僚を罷免し、ベルサイユ宮殿※で締結されたベルサイユ条約の調印も行わなかった。

※世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園(1979年、2007年拡大、文化遺産(i)(ii)(vi))」


[関連サイト]

ベルサイユ宮殿/フランス


孫文の国民党は1913年に解散し、秘密結社・中華革命党を経て1919年に中国国民党となり、総理に就任。

孫文は反帝国主義・反軍閥を掲げて連ソ・容共・扶助工農(ソ連との協力・共産党員の受け入れ・商工農従事者の援助)を打ち出し、1924年には共産党員の国民党入党を認め、統一戦線による北京軍閥政権と列強の打倒を打ち出した(第一次国共合作)。

しかし、孫文は1925年3月に病死してしまう。


1925年5月、上海の日本人経営の紡績工場でストライキが起こると、日本人の責任者が中国人労働者を射殺する事件が起こる。

5月30日に青島でも同様の事件が起きると抗議運動が起こり、上海に飛び火。

これを鎮圧しようとしたイギリス警察が発砲して多くの死者を出した。

これを機にストライキは全国に広がり、日本やアメリカ、イギリス、イタリアが弾圧に回った(五・三〇運動)。


ナショナリズムの高揚を確認した中国国民党は同年7月に広州で広東国民政府(主席・汪兆銘/おうちょうめい)を樹立。

翌1926年、蒋介石率いる国民政府軍は北京政権の打倒を目標に北伐を開始し、1927年に拠点を武漢に北上させ(武漢国民政府)、まもなく南京・上海の占領に成功する。


この頃、国民政府の間でも対立が表面化していた。

大衆運動の拡大や反帝国主義の拡大を図る、共産党を中心とした汪兆銘らの左派。

浙江(せっこう)財閥や列強の支持を受けており、共産党の資本主義批判・帝国主義批判が自らに向かうことを恐れる蒋介石らの右派。

特に右派は共産党排除の方向に舵を取りはじめていた。


上海では、国民政府軍が到達する前に共産党の周恩来らの支援を受けて労働者が蜂起し、臨時政府を打ち立てていた。

1927年4月、蒋介石はこの臨時政府を攻撃して共産党を上海から排除(上海クーデター)。

南京国民政府を建てて主席に就任すると、広州や北京でも共産党の弾圧を行い、李大釗らを殺害した。


こうして第一次国共合作は崩壊。

武漢国民政府でも右派が勢力を広げ、南京国民政府と統合された。

こうして基盤を築くと、1928年4月、蒋介石は北伐を再開する。


この頃、日本は北京の北東、満州の地で勢力を広げようとしていた。

満州の実力者である奉天の軍閥・張作霖(ちょうさくりん)の協力を得ようと画策するが、張はこれに応じない。

張が北伐軍と戦い、北京に引き上げる途中、満州に投入されていた日本の関東軍が彼の乗る列車を爆破して殺害してしまう(張作霖爆殺事件)。


これに対して息子・張学良は軍閥を継いで蒋介石と提携。

国民政府の北京入城を認め、満州の旗を中華民国の青天白日旗に変えて抗日戦線を統一した(易幟/えきし)。

これにより、国民政府による中国統一が一応は成功を収めた。


上海クーデター以降、国民党による弾圧を受けた共産党は大きな打撃を受け、農村や辺境に拠点を移して再起を図っていた。

江西省の井崗山(せいこうざん)では毛沢東(もうたくとう)が紅軍を組織し、勢力を広げた。

1931年、毛沢東はソ連の支援を受けて瑞金(ずいきん)で中華ソビエト共和国臨時政府を建てて主席に就任。

蒋介石は国民政府軍を送って共産党討伐に乗り出した。

マハトマ・ガンディーの半生を描いたリチャード・アッテンボロー監督『ガンジー』予告編。参加エキストラ30万以上という空前の規模で制作された第55回アカデミー賞作品賞受賞作

 

■インド


第一次世界大戦においてイギリスはイギリス領インド帝国内の人々に対し、自治を約束する代わりに戦費と兵力の協力を求め、多数のインド兵が西部戦線などに投入された。


そして民族自決の求めに応じて1919年にインド統治法を制定するが、中央政府の自治を認めず、州などの地方に一定の自治を認めるにすぎなかった。

同時に制定されたローラット法はインド総督に逮捕状なしでの逮捕や裁判なしでの投獄を認めるもので、民族自決の理念と反対にイギリスの支配体制を強化しようとするものだった。


同年、パンジャーブ地方のアムリトサルでローラット法に反発するデモが起こり、イギリス軍がこれに発砲(アムリトサル事件)。

千人を超える死傷者を出し、インド全域で反英運動が激化した。


この時期、非暴力・不服従の反英運動を掲げたのがマハトマ・ガンディーだ。

ガンディーは1893年に南アフリカ(ナタール共和国、トランスヴァール共和国、オレンジ自由国)にわたり、クーリー(苦力)として働いていたインド人に対する差別を目にして差別撤廃運動に尽力した。

ヒンドゥー教の物語歌集『バガヴァッド・ギーター』に記された不殺生の教えを参考に非暴力・不服従を理念とするサティヤーグラハ(真理の把握)運動を立ち上げ、トランスヴァール共和国の指紋押捺などに対して暴力的な抵抗をしない代わりに法にも従わないことを宣言し、一定の成果を収めた。


その後インドに帰国したガンディーはローラット法の制定を機にサティヤーグラハ運動を開始し、アムリトサル事件が起こるとインド国民会議でイギリスに対するあらゆる非協力を決定し、全国規模で派兵や政府行事の拒否・イギリス製品の不買・裁判のボイコットなどを行った(非協力運動)。

ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院/ゴールデン・テンプル)
アムリトサルにあるシク教の聖地ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院/ゴールデン・テンプル)。アムリトサルではローラット法に反対する大規模なデモが起こり、軍が投入されて非武装の多くの市民が殺害された。インドの世界遺産暫定リスト記載

この頃、イスラム教徒の間ではオスマン帝国のカリフ(スンニ派のイスラム教最高指導者)の地位を守るためにヒラーファト運動が起こっていた。

オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れ、スルタン=カリフ制が崩れてカリフの権威が落ちたのはイギリスの仕業であるとして反英運動に展開。

ガンディーが協力を表明したことからヒラーファト運動はヒンドゥー教徒にも広まり、一方ヒンドゥー教徒を主体としたインド国民会議の非協力運動にもイスラム教徒が参加して、両宗教が結束して運動を進めた。


しかし運動は次第に加熱し、1922年に農民暴動が起こって警察官を殺害すると、ガンディーが運動の中止を指示。

まもなくガンディーは逮捕・投獄されてしまう。

これで運動方針に混乱が生じてヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が表面化。

さらに1922年にはトルコでスルタン制が廃止されてオスマン帝国が滅亡し、1924年にはカリフ制も廃止されためヒラーファト運動も消滅した。


1927年、インド統治法改正のための憲政改革調査委員会が開かれたが、インド人が含まれていなかったことからふたたび反英運動が高揚。

インド総督は自治領とすることを約束したが、具体的な提案はなかった。


インド国民会議の内部でも自治でよしとする者やあくまで独立を要求する者など意見に相違が大きかった。

ガンディーは復帰するとこれらの意見をとりまとめ、1929年に急進派ネルーらの意見を採用して完全独立(プルーナ=スワラージ)を求めることを決議した。


1930年、ガンディー一行は製塩禁止法に反発して約400km離れた海岸まで歩き、イギリス警察の暴力にあいながらも自分の手で塩を作って法に従わないことをアピールした(塩の行進)。

イギリスは数万人を逮捕して圧力を加えるが、かえって反英機運は全土に広がり、サティヤーグラハ運動が復活した。

世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園」
ムガール帝国時代の名城・ラホール城のアーラムギーリー門。ジンナーはこの町でパキスタンの建国を宣言した。ガンジーはインド建国の父、ジンナーはパキスタン建国の父とされている。世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園」構成資産 (C) Rohaan Bhatti

運動の高まりを警戒したインド総督アーウィンは1830~32年にかけてイギリスで円卓会議を開催。

第二回円卓会議でガンディーもインド国民会議の代表として招待され、インド全体の完全な自治を要求したが、イスラム教徒は親イギリスの態度を示して分離選挙を求めるなど意見がまとまらず、合意に至ることはなかった。


1935年、イギリスは新インド統治法を制定。

州の自治は大幅に認めたが、イギリスがインド統治を行う内容であることに変わりはなかった。

1937年、この法の下で州選挙が行われるとインド国民会議派が多くの州で第一党となったが、この結果を受けてイスラム教徒は危機感を覚え、対立は深刻化した。


全インド=ムスリム連盟はこの頃からイスラム教徒の独立国家創設を掲げ、ジンナーらは1940年のラホール※大会でイスラム国家パキスタンの建国を決議した(パキスタン決議)。

※世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン、1981年、文化遺産(i)(ii)(iii))」


■インドネシア


オランダ領東インドのジャワ島では1911年にサレカット=イスラム(イスラム同盟)が結成され、イスラム教徒がオランダに自治を要求し、第一次世界大戦後には独立運動に発展した。


1920年にはインドネシア共産党が結成され、サレカット=イスラムに変わって大規模な独立運動を立ち上げた。

1926年に武装蜂起を起こすも失敗し、大弾圧にあって壊滅的な被害を受けた。


1927年、スカルノが独立を掲げてインドネシア国民党を結成。

これも弾圧を受け、スカルノが逮捕されると運動は鎮圧された。

世界遺産「ハノイ -タンロン王城遺跡中心地区」
ハノイにある世界遺産「ハノイ -タンロン王城遺跡中心地区(ベトナム、2010年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」。1802年にベトナム中部のフエを首都とするグエン朝(阮朝)が起こるまで、タンロンは長きにわたってベトナムの首都とされた。南部で勢力を広げるグエン朝に対し、共産主義勢力は北部で活動を強め、ここタンロンも共産党の拠点となった

■インドシナ半島

 

ベトナム、カンボジア、ラオスを統一したフランス領インドシナでも民族運動が高揚していた。

ソ連のコミンテルンは反帝国主義の立場から民族運動を支援。

1925年にホー・チ・ミンが結成したベトナム青年革命同志会を母体に、1930年、インドシナ共産党が誕生した。

弾圧を受けながらも農村を中心にソビエトを作り、農民運動を促した。


1886年、ビルマ戦争(英緬戦争。1824~86年)の結果イギリス領インド帝国に組み込まれたビルマでは、1930年にアウンサンらの指導者の下でタキン党が結成され、反英運動を展開した。

これに対してイギリスはビルマをインドと分離し、ビルマ総督を置いて準自治領とした。


■フィリピン

 

アメリカの支配下に入っていたフィリピンでは1907年にフィリピン議会が開催され、フィリピン人を参加させて権限を委譲し、一部の自治を認めた。

しかし農業生産はアメリカの一存で決定されるなど経済的にはアメリカの影響は依然強く、大資本の下で農民は困窮した生活を強いられた。


第一次世界大戦後にはフィリピンでも民族自決の動きが高まり、農民反乱が頻発する。

アメリカ国内でもフィリピン独立を支持する声が高まり、1934年にアメリカ議会でフィリピン独立法が成立して1946年の独立を約束。

翌年には独立準備政府が発足した。

世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」三池炭鉱万田坑
1902年に炭の採掘を開始した三池炭鉱万田坑。第一次世界大戦の需要から戦中・戦後に大幅に増産し、第二次世界大戦後の経済復興期まで日本のエネルギー産業の主力として大きな役割を果たした。世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業(日本、2015年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産

■日本

 

産業革命に成功し、資本経済を発展させて大国の仲間入りを果たした日本では、日露戦争前後から労働運動や社会主義運動・民主化運動の高まりを見せていた。

1905年に日露戦争で賠償金を得られなかったことから日比谷焼打ち事件が起こり、これを発端として民主主義を求める大正デモクラシーが起こる。


労働争議や農民運動が頻発し、1918年には米価の暴騰をきっかけに富山県魚津町で暴動が起こり、これが全国各地に飛び火(米騒動)。

軍が鎮圧に成功したが、寺内内閣は総辞職に追い込まれた。


この後、衆議院議員であり政党・立憲政友会の党首である原敬が首相に就き、閣僚のほとんどを立憲政友会が占めたことで本格的な政党内閣が成立する。


1925年には普通選挙法が制定され、財産制限が撤廃されて25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。

しかし一方で、こうした運動の先鋭化と共産主義運動を警戒した政府は治安維持法を制定して抑圧を図った。

世界遺産「カイロ歴史地区」
1922年に首都となったカイロの世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」。独立は達成したもののイギリスが政治的な影響力を維持していたため不満はくすぶり続けた。この後エジプトは米ソ間を行き来することになる (C) Joonas Plaan

■エジプト

 

エジプトではオスマン帝国の下でムハンマド・アリー朝が続いていたが、実質的にはイギリスの支配下にあった。

1914年、オスマン帝国の参戦を機にイギリスはエジプトの正式な保護国化をオスマン帝国に通知した。


エジプトはパリ講和会議に代表団を送って独立を訴えるが実現せず、戦後はこの代表団を中心にワフド党を結成して独立運動を展開した。

1919年、エジプト各地でデモやストライキが頻発し、イスラム教徒のみならずキリスト教徒(コプト教徒)なども参加して全土的な大運動に発展。

これを受けてイギリスは独立承認を決意した(エジプト革命)。


1922年、イギリスが保護権を放棄したことでカイロ※を首都とするムハンマド・アリー朝エジプト王国が成立。

しかしイギリスはエジプトの防衛権や、スーダンやスエズ運河の駐屯権などを保持しており、独立は完全なものではなかった。

1936年のエジプト=イギリス同盟条約でイギリスはエジプトの主権を認めたが、イギリスはスーダンやスエズ運河には駐屯を続けた。

※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、 1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」


■イラン

 

イギリスとロシアの介入を受けていたカージャール朝は、第一次世界大戦でオスマン帝国が侵攻して混乱に陥った。

カージャール朝にはもはや国土をまとめる力はなかった。


1921年、カージャール朝の軍人レザー・ハーンがテヘランでクーデターを起こし、最高司令官に就任。

1925年にはアフマド=シャー(国王)を退位させて自らが王位に就いてレザー=シャー(パフレヴィー1世)を名乗り、パフレヴィー朝を建国した。

レザー=シャーは立憲君主制を掲げながら軍事力を背景に独裁体制を築き、トルコ革命にならって強力な王権の下で西欧化・近代化を進めてイギリスとロシアの影響力を低減させた。

ただし、石油利権は相変わらずイギリスが保持していた。


パフレヴィー朝は1935年、国号をイランに改名している。

世界遺産「古都ダマスカス」ウマイヤド・モスク
世界遺産「古都ダマスカス(シリア、1979年、2011年拡大、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」のウマイヤド・モスク。レバント地方を統括していたのはオスマン帝国のシリア総督だが、1918年にイギリスのロレンス大佐(アラビアのロレンス)とアラブ反乱軍がダマスカスに入城し、大戦終結までにアラビア半島とレバント地方の大半を掌握した (C) Jerzy Strzelecki

■アラビア半島・レバント地方

 

オスマン帝国の領土だったアラビア半島やレバント地方(現在のシリア、トルコ、レバノン、ヨルダン、イスラエル周辺)では1918年にメッカのアミール(総督)であるハーシム家のフサイン・イブン・アリーによって、メッカを首都とするヒジャーズ王国が成立していた。

第一次世界大戦後、フサインはアラビア半島の統一を図ったが、イギリスとフランスが国際連盟の委任統治領を保有していたため実現しなかった。


アラビア半島の中央部・ネジドではサウード家のイブン・サウードが勢力を広げていた。

スンニ派の一派・ワッハーブ派を信仰するイブン・サウードはワッハーブ王国の再興を目指し、イギリスの支持を得た。


1924年にヒジャーズ国のフサインがカリフを称すると、これに反発してヒジャーズ王国を攻撃。

メッカ、メディナ、ジェッダ※などを落とすと、同年にヒジャーズ=ネジド王国を建ててヒジャーズ王国を併合した。

ヒジャーズ=ネジド王国はアラビア半島の多くを統一し、1932年に「サウード家の国」を意味するサウジアラビアに改称した。

※世界遺産「ジェッダ歴史地区:メッカへの玄関口(サウジアラビア、2014年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」


シリアでは1920年にハーシム家のファイサルを国王としてシリア・アラブ王国が成立したが、フランスとの間で戦争が起こって併合されてしまう(フランス=シリア戦争)。

シリアはフランス委任統治領シリアとなるが、第二次世界大戦中の1941年にレバノン、戦後の1946年にシリアがフランスから独立する。


イラクはイギリス委任統治領メソポタミアとなり、シリア・アラブ王国を追い出されたファイサルが国王に就いた。

クルド人の独立運動が活発化するがこれを抑え、1932年にイラク王国として独立する。


やはりイギリスの委任統治領となったトランスヨルダンではハーシム家のフサインの次男アブドゥッラーを首長としてトランスヨルダン首長国が成立。

1928年にトランスヨルダン王国となり、1946年に現代につながるヨルダン=ハシミテ王国が成立する。


西アジアはこうして多くがイギリス、フランスに切り刻まれた。

それは直線で区切られた国境を見てもよくわかる。

イギリスとフランスはまた無関係の貴族を王に据えて傀儡政権を築き、石油をはじめとする利権を確保した。

こうした国境と西欧・王族に対する反発が現在の中東の混乱を生んでいる。

世界遺産「ロベン島」
数多くの政治犯が収容された世界遺産「ロベン島(南アフリカ、1999年、文化遺産(iii)(vi))」。第一次世界大戦前後にはハンセン病患者の隔離病棟として使用された (C) Rudiger Wolk, Munster

■アフリカ

 

南アフリカではイギリスが自治を認め、1910年にケープ植民地、ナタール、トランスヴァール、オレンジの4州からなる南アフリカ連邦が成立した。

黒人奴隷を使っていたことから差別感情は強く、人種隔離政策=アパルトヘイトが敷かれた。

これに対して1912年にANC(アフリカ民族会議)が設立され、差別撤廃運動がはじまった。


第一次世界大戦が終わってもアフリカ諸国の独立はなかなか前進しなかったが、アメリカ大陸のアフリカ系住民の間では、故郷であるアフリカの解放と差別撤廃を自分たちの問題と捉えてその解決を図る思想、パン=アフリカニズムが台頭した。

1900年にはロンドンでパン=アフリカ会議が開催され、北米・カリブ海・アフリカの代表が集って植民地主義や1899年の南アフリカ戦争(ブール戦争)に対して反対の声を上げた。


1919年にパリで開催されたパン=アフリカ会議では植民地の自治の推進や差別の撤廃などが決議され、その後も数度の会議が実施された。

 

* * *

ダウ工業株平均の動き。NYダウはダウ・ジョーンズ社が発表している優良銘柄の平均株価指数。ブラック・サーズデーからの一週間でアメリカの国家予算の10倍以上が吹き飛んだ

 

<世界恐慌とファシズム>


■世界恐慌


第一次世界大戦後、「狂騒の20年代」といわれる空前の好景気に沸いていたアメリカ経済。

ヨーロッパの戦争と復興を背景に工業生産力を拡大していたが、やがて生産過剰に陥ってしまう。

同様に、農業でも需要の高まりから増産を続けていたが、ヨーロッパの復興に伴って需要は減り、供給過剰による農業価格下落で農業不況に見舞われた。


加えてヨーロッパ各国が自国産業を保護するために高関税政策をとり、過度な賠償金や戦債支払いも国際貿易の伸び悩みをもたらしていた。

これらに加えてソ連の成立やアジア資本の成長もマーケットの縮小を促した。

こうした状況にもかかわらず、アメリカには世界中の資本が集中して土地や株の投機に使われて、株価は異常なまでに高騰を続けた。


1929年10月24日、ウォール街のニューヨーク株式市場で株価が突然大暴落を起こす(ブラック・サーズデー)。

投資家は世界中から資金を引き揚げ、投資家の破産や企業の倒産が金融機関の倒産を引き起こし、それがまた倒産と株価の下落を招き、工業生産や商業・貿易取引の激減、物価の急落、失業率の急上昇をもたらして、アメリカ経済のみならず世界規模の大不況を引き起こした。

1932年までに株価は約87%下落し、失業率は3%から25%に上昇、工業生産は54%ほどに縮小した。


アメリカは1930年にスムート・ホーレー法によって関税を引き上げて保護貿易を行うと、各国も追随して国際貿易が縮小し、さらなる貿易不振を引き起こした。

1931年にオーストリアの銀行クレディット・アンシュタルトが倒産すると金融恐慌が発生し、ドイツ経済が壊滅的な被害を受け、これがイギリスやフランスに飛び火してヨーロッパの景気悪化が進んだ。


アメリカ大統領フーバーは当初自由放任主義をとっていたが、この状況を見てフーバー・モラトリアムを発表して賠償金や戦債支払いの1年間停止を行ったが、大きな効果はなかった。

ドイツが賠償金支払いの不能を宣言すると、国際賠償問題会議を開催して賠償金を大幅に減額した。

ただし、計画経済を行っていた社会主義国ソ連についてはその影響をほとんど受けることがなかった。

スタインベックのピューリッツァー賞&ノーベル文学賞作品を映画化したジョン・フォード監督『怒りの葡萄』予告編。世界恐慌後、生まれ育った故郷を追いやられ、明日をも知れぬ貧困に苦しむ農民と、ニューディール政策によって立て直しを図るアメリカの姿を描き出している


1933年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは世界恐慌から脱するために「新規まき直し」を意味するニューディール政策を開始する。

まず、金融面ではドルの暴落による金の流出を防ぐために金本位制を停止し、紙幣と金との交換を中止。

グラス・スティーガル法で銀行の運営と通貨を政府が厳しく監視し、証券取引委員会を設置して過度な投機や過剰融資を抑制した。

 

産業面では全国産業復興法(NIRA)を制定し、政府と企業が協力して生産価格や最低賃金・労働時間などを定めて市場の安定化を図り、同時にテネシー川流域開発公社(TVA)のような公共事業を行って産業振興と失業率の低下に努めた。

農業面では農業生産法(AAA)によって生産量を調整して価格の安定化を図り、減収の損益を補助金でカバーした。

 

労働者に対してはワグナー法を制定して、労働者の団結権や団体交渉権を確立し、この結果労働組合活動が活発化して産業別労働者組織委員会なども結成された。

また同年に社会保障法が制定されて、貧困層や老人に対する保障が充実化された。

 

外交面では1933年にソ連を承認し、孤立主義と中立法の立場からファシズムに対しても中立を守った。

また、強圧的な外交から善隣外交に転換し、アメリカの干渉権を記したキューバ憲法のプラット条項を廃止し、1934年にはフィリピンに対して10年後の独立を認めた。

 

イギリスではマクドナルドが挙国一致内閣を組織し、財政削減を行ってやはり金本位制を停止した。

1932年のオタワ連邦会議ではイギリス連邦内に特恵関税を適用し、それ以外の国に対して高関税を課してスターリング・ブロック(ポンド・ブロック)を打ち立てた。

 

さらに、英米に追随してフランスも金本位制を離脱してフラン・ブロックを形成。

こうしてドル・ポンド・フランは金を用意する必要がなくなったことから通貨発行が自由になり、通貨を多数発行することで通貨安に誘導して輸出産業の振興を図ると同時に、輸入品に高い関税をかけて自国産業の保護を行った。

それぞれドル・ブロック、スターリング・ブロック、フラン・ブロック内での貿易に特化して不況の脱出を図ったが、マーケットの縮小と貿易不振のために返って不況は長引いた。

 

これに対し、ベルサイユ条約ですべての植民地を失ったドイツや、多くの植民地を持たない日本やイタリアはいずれのブロックにも参加できず、自らブロックを作ることもできなかった。

この結果、国内産業は疲弊し、資源の輸入にすら支障を来すに至り、領土拡大・植民地獲得に舵を切ることになる。

 

そのひとつの動きが1935年のドイツの再軍備宣言で、これに対してフランスとソ連は同年に仏ソ相互援助条約を締結。

フランス国内はこれでまとまりを見せ、首相ブルムを中心に共産党までもが協力して反ファシズムを掲げる人民戦線内閣を成立させた。

世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」故宮博物院
世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群」登録の北京故宮・金水河。紫禁城は故宮博物院として公開されたが、満州で日本が勢力を広げると蒋介石は略奪・破壊を恐れて多くの収蔵品を南京に運び出した。収蔵品の一部は第二次世界大戦後に国民政府とともに台湾に渡り、台湾故宮博物院に展示された (C) Gisling

■満州事変と日中戦争


日本は第一次世界大戦中の戦時景気で工業を飛躍させたが、戦後から相次ぐ恐慌によって長い景気低迷期を迎えた。


大戦後に襲ったのが戦後恐慌で、欧州列強が復興すると生産が過剰となり、生糸や綿糸が暴落して大きな打撃を受けた。

1923年には関東大震災によって震災恐慌が起こり、震災手形の処理を失敗して金融恐慌が引き起こされた。

さらに1927年には金解禁で金本位制に戻り、金の輸出が再開されたことをきっかけに物価の下落や輸出減少が起こって昭和恐慌が発生。

これに1929年の世界恐慌が重なって経済は縮小した。


社会不安と政府への不信が広がるなか、軍部は植民地の拡大によって解決することを主張。

1931年9月18日、柳条湖(りゅうじょうこ)で南満州鉄道を爆破すると、これを国民政府の張学良の犯行であるとして関東軍が軍事行動を起こして瞬く間に満州を占領した(満州事変)。


1932年1月、上海で日本人僧侶が中国人に殺害された事件をきっかけに海軍が出動して中国軍と交戦。

3月に中国軍を上海から撤退させると5月に停戦協定を結んだ(上海事変)。

これは満州に集まった諸外国の目をそらすための関東軍の謀略だった。

国際連盟でジュネーブ軍縮会議が開催されていたこともあり、こうしたムードに水を差す日本の動きは強く非難された。


中国の国民政府は日本の侵略を国際連盟に提訴。

常任理事会で撤退勧告が可決され、調査団の派遣を決めた。


1932年3月、関東軍は清朝の元皇帝・溥儀を執政(のちに皇帝)に据えて満州国を建国。

日本の犬養内閣は関東軍の動きに批判的だったが、5月の五・一五事件で犬養毅首相が海軍将校らに殺害されると政党政治は終わりを告げ、軍部主体の政体へ移行する。


日本は9月に日満議定書を結んで満州国を承認。

翌月、リットン調査団は一連の事変が関東軍の謀略である可能性を指摘した最終報告書を提出し、これを元に1933年2月の国際連盟総会で満州国が不承認となり、日本の撤退を決議した。

日本はこれを受けて翌月、国際連盟を脱退する。


このあと日本は万里の長城※を越えて北京に接近し、内モンゴルなどにも勢力を拡大。

国内では1936年に二・二六事件が起こって将校らが蔵相や内大臣らを殺害し、軍部が力を得てファシズム(国家主義・全体主義・侵略政策を掲げる独裁的な政治形態)へ傾倒していく。

※世界遺産「万里の長城(中国、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」


[関連サイト]

万里の長城/中国

古代より漢民族と他民族を隔てた世界遺産『万里の長城』。中国清朝を建国したのも満州族で、万里の長城の北より北京を落として清朝を建てた。そして日本も傀儡国家・満州国を建てたうえで北京に南下し、中国侵略を図った

 

蒋介石の国民政府は南東部の南京を首都としていたこともあり、まず国内を安定させてから外敵にあたるという安内攘外策をとっていた。

このため華北を半ば無視して日本よりも中国共産党・紅軍への対応を優先した。


中国共産党は1934年より1年余をかけ、中国南部の瑞金から北部の延安に行軍を行い(長征)、直線距離で1,500km、全行程1万km以上といわれる移動を徒歩にて完遂した。

その間に人数は1/10にまで減ったという。


1935年8月、中国共産党は方針を転換し、反ファシズムのために内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を宣言(八・一宣言)。

翌年、張学良が東北軍を使って蒋介石を西安で監禁し、戦線の結成を説得した(西安事件)。

張学良の必死の説得のほか、共産党の周恩来らも説得に駆けつけた結果、蒋介石はこれを承諾した。


1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が戦いを開始した(盧溝橋事件)。

これを受けて両党の間で第二次国共合作が成立し、日中の全面戦争となった(日中戦争。~1945年)。


日本軍は上海に続いて1937年12月に首都・南京を占領。

国民政府は武漢→重慶に退くと(重慶政府)、日本軍はこれを追って武漢を攻略し、重慶爆撃を行った。

南部では香港などの主要都市を落としたが、北部では1939年にモンゴルでソ連軍と衝突して大敗を喫すると(ノモンハン事件)、ソ連と休戦協定を結んで北進を断念した。


1940年、日本は汪兆銘を立てて南京国民政府を成立させて中国の分断を図るが、民衆の支持を得ることはできなかった。

世界遺産「フェルクリンゲン製鉄所」
ヨーロッパ最先端の製鉄技術を有し、ドイツ最大の鉄鋼生産を実現してドイツの産業と経済を支え続けた世界遺産「フェルクリンゲン製鉄所(ドイツ、1994年、文化遺産(ii)(iv))」。第二次世界大戦中には約7万人もの戦争捕虜が強制労働に従事した (C) Lokilech

■ナチス=ドイツの台頭


第一次世界大戦後のドイツは過度な賠償金やフランスの圧力に苦しんでいた。

1923年のフランス・ベルギーによるルール占領やハイパー・インフレに対してワイマール共和国打倒の声が上がり、ヒトラーらによるミュンヘン一揆は鎮圧されたものの、政府や諸外国に対する不満は募った。


ミュンヘン一揆を主導したナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党。ナチ党員をナチスと呼ぶ)は活動を禁止されていたが、インフレ抑制に成功して安定を取り戻した政府は1924年に恩赦を与え、ヒトラーとナチ党が活動を再開した。


1929年に世界恐慌がはじまると、ただでさえ賠償金の支払いに苦しむドイツは実質的に財政破綻に追い込まれ、失業者があふれるなどアメリカに次ぐ被害を受けた。

ナチ党はイタリアのファシズムに学び、この危機に対してベルサイユ体制の打破、民族主義とユダヤ人をはじめとする他民族の排斥、共産主義の排除などを掲げ、大衆宣伝によってナショナリズムを煽って大きな支持を集めた。

1932年の総選挙でナチ党が第一党に躍り出ると、翌年1月、大統領ヒンデンブルクは党首ヒトラーを首相に任命してヒトラー内閣が誕生した。


そしてヒトラーは「国民の信を問う」として国会を解散。

同年2月、国会議事堂の放火をドイツ共産党の犯行と断定すると、ワイマール憲法に定められた緊急命令権を利用して大統領緊急令を発令し、基本的人権を停止してドイツ共産党を解散させた(国会議事堂放火事件)。

3月には内閣に立法権を与える全権委任法を成立させて議会を止めると、社会党や共産党の活動を禁止して政党活動も停止させた。

これにより一党独裁が実現し、憲法は効力を失ってワイマール共和国は事実上崩壊した。

世界遺産「ベルリンの近代集合住宅群」
ワイマール共和国時代、低所得者層の生活環境を向上させるために建てられた世界遺産「ベルリンの近代集合住宅群(ドイツ、2008年、文化遺産(ii)(iv))」。ヴァルター・グロピウス、 ブルーノ・タウトといったモダニズム建築の巨匠たちによるシンプルで機能的な意匠が特徴的だ (C) Marbot

1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼ねるドイツ帝国元首=総統の地位に就き、ヒトラー総統による総統国家が成立。

これにより選挙で選ばれる大統領もいなくなり、軍の指揮権をも掌握して軍に忠誠を誓わせた。


一連の決定に対してドイツ国民の承認を得るため同年8月に国民投票を実施。

投票率は95%を超え、賛成票約90%で信任された。

ヒトラーによって成立した独裁国家はナチス=ドイツと呼ばれ、総統を皇帝と見なして神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ第三帝国とも称された。


ナチ党の思想はナチズムといわれ、政党名に「社会主義」を掲げているが社会主義ではない。

国家を第一として個人の人権を軽んずる全体主義思想であり、アーリア人(インド・ヨーロッパ系民族の祖先)、特にゲルマン民族を至上とする極端な民族主義をとっていた。

その一例が1933年に制定された断種法(心や体に障害を持った者を排除する法律)や1935年のニュルンベルク法(ユダヤ人の公民権を奪って活動を禁止する法律)だ。


市民の政治活動はもちろん文化活動も極端に制限され、反対派や他民族、特にユダヤ人やロマ(いわゆるジプシー)はゲットー、のちには強制収容所に収容された。

人々はゲシュタポ(秘密警察)、SS(親衛隊)、SA(突撃隊)に監視され、法的な手続きを経ずに取り締まりを行ったため多くのドイツ人が国外に逃亡・亡命した。

世界遺産「「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群」第12採掘坑
こちらもドイツ工業を支えた産業遺産「エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群(ドイツ、2001年、文化遺産(ii)(iii))」。特にこの第12採掘坑のモダニズム建築は「ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群(ドイツ、1996年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」の影響を強く受け、「世界で最も美しい炭鉱」と呼ばれている (C) Thomas Wolf, www.foto-tw

その一方で、ナチス政権は内政・外交で多くの成功を収めもした。

内政では、保護貿易を推進して国内経済を隔離し、自動車専用道路アウトバーンの建設をはじめとする公共事業や軍需産業の育成などによって急速に雇用を回復。

減税を行い、有給休暇の制度整備や保養施設の建設をはじめ労働環境の整備に努めた。


外交では、1933年のジュネーブ軍縮会議で軍事平等権が認められなかったことから国際連盟を脱退してベルサイユ体制から離脱。

1935年にはベルサイユ条約によって国際連盟管理地となっていたフランス国境付近のザール地方を住民投票のうえで編入し、徴兵制の復活と再軍備を宣言した。

さらに、ロカルノ条約で非武装地帯となっていたラインラントに進駐したことでベルサイユ体制は完全に崩壊した。


フランスやイギリスはこれらに抗議し、国際連盟も問責決議を採択したが、ドイツはこれを無視。

一時は開戦も懸念されたがそれに至らず、国内でヒトラー神話がいっそう高まった。


1936年には四か年計画を推進して完全雇用と軍備拡張に専念。

8月のベルリン・オリンピックではこうした政策に反発して多くの国々がボイコットを表明したが、差別政策の緩和などを条件に開催が実現した。

世界遺産「ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群」
15世紀に建設されたソロヴェツキー修道院。ソロヴェツキー諸島は1917年の十月革命以降、強制収容所となり、スターリンの時代には数十万~数百万人が収容されて多くが死亡した。世界遺産「ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群」構成資産 (C) Franziska Nae_gele

■ソ連のスターリン体制


1929年に政権を確立したスターリンは第一次・第二次五か年計画によって重工業を推進し、コルホーズとソフホーズによる農業の集団化を進めた。

資本主義諸国との貿易も限られており、経済を政府が統制する計画経済を行っていたため、世界恐慌の影響も最小限で食い止められた。


社会主義では国家が社会を統制する必要があり、強い中央集権が必要だった。

また、共産党内での勢力を盤石にするためにもスターリンは支配体制の確立を急いだ。


スターリンは内務人民委員部(NKVD)、連邦軍参謀本部情報総局(GRU)などの組織を使って取り締まりを行い、反対者はソロヴェツキー諸島※などに設置された強制収容所に投獄して粛清した。

1930年代にはじまり50年代まで続いた大粛清の犠牲者は数百万に上るといわれている。

この過程でスターリンは独裁体制を築き上げ、個人崇拝が広がった(スターリン体制)。

※世界遺産「ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群(ロシア、1992年、文化遺産(iv))」


社会主義体制が浸透すると、1936年にスターリン憲法を発布。

最高会議(ソビエト)の設立や普通選挙、階級間の平等、市民権、出版・集会・言論の自由などをうたったが、体制の保護が第一とされ、共産党に推薦された者しか立候補できないなど民主主義にはほど遠いものだった。

世界遺産「ビスカヤ橋」
1893年に開通した世界遺産「ビスカヤ橋(スペイン、2006年、文化遺産(i)(ii))」。エッフェル塔や自由の女神像の建設に関わったギュスターヴ・エッフェルの弟子アルベルト・パラシオが設計した世界初の運搬橋だ。スペインの海運向上に貢献したが、スペイン内戦時には一部被害を受けた (C) Bienes de Interes Cultural
世界遺産「マドリードのエル・エスコリアル修道院とその遺跡」
アルフォンソ13世をはじめ、スペイン・ブルボン王朝の代々国王が眠るエル・エスコリアル修道院。世界遺産「マドリードのエル・エスコリアル修道院とその遺跡(スペイン、1984年、文化遺産(i)(ii)(vi))」構成資産 (C) Hakan-Svensson-Xauxa

■枢軸の形成


ナチス=ドイツによるザール地方編入、ラインラント進駐を見たムッソリーニのイタリアは、1935年にエチオピア帝国を侵略。

毒ガスを用い、多数の住民を虐殺するなど凄惨な行軍を続け、翌年首都アディスアベバを落として併合を宣言し、イタリア領エチオピア帝国とイタリア領東アフリカ(現在のエリトリアやソマリアの地域)を建てた。

国際連盟はこれを非難して経済制裁を決議するが、参加国も少なく実効性に乏しかった。


スペインでは第一次世界大戦後、ブルボン朝の王政が弱体化していた。

1931年に国民投票の結果を受けて共和政体に移行し、国王アルフォンソ13世が退位してスペイン共和国が成立した(スペイン革命)。


この頃からスペインも世界恐慌の波に飲まれ、町には失業者があふれ、農村も荒廃して人々の生活は悪化した。

他国同様に右派が勢力を増すと1933年の総選挙で共和派が敗北して右派政権が誕生。

政権による左派や共産党の弾圧がはじまり、これに対して共和派や共産党はスペイン人民戦線を構築した。

1936年の選挙では人民戦線派が勝利して人民戦線内閣を成立させた。


この状況を見た軍部は、右派・王党派・地主層などの支持を得て武装蜂起を計画し、フランシスコ・フランコ将軍らがクーデターを決行。

この結果、スペインは内戦状態に陥った(スペイン内戦。~1939年)。

世界遺産「サラマンカ旧市街」
フランコ軍の重要拠点となったサラマンカ。その歴史地区は世界遺産「サラマンカ旧市街(スペイン、1988年、文化遺産(i)(ii)(iv))」に登録されている (C) Alejandro Flores

フランコがドイツとイタリアに支援を要請すると、両国は反共産主義を旗印にこれを支持。

一方、ソ連とコミンテルンが人民戦線を支持した。

イギリスやフランスは不干渉を表明したが、反乱軍の残虐行為に反発して西欧各国から多くの義勇兵が集結した。

ヘミングウェイやマルロー、オーウェルといった作家が参加し、多くの作品が書かれたことでも知られている。


1936年10月、ドイツとイタリア空軍の支援を得てフランコは首都マドリードに迫るが、人民戦線軍・市民・国際義勇軍の活躍でこれを堅守。

人民戦線はスペイン全土で善戦を続けていたが、次第に弾薬が底をつき、人々の生活も困窮して敗北を重ねた。

1939年にフランコはバルセロナ、マドリード、バレンシアを占領して内戦を終わらせた。


スペイン内戦を機にファシズムで共感する国々が接近し、1936年にドイツとイタリアがベルリン=ローマ枢軸と呼ばれる提携関係を締結。

同年、ドイツと日本がソ連とコミンテルンから自国を防衛するために日独防共協定を結び、翌年イタリアが加わって三国防共協定に拡大した。

イタリアはこれを機に国際連盟を脱退している。


第二次世界大戦の開始後、1940年に軍事同盟に格上げされ、日独伊三国同盟が結ばれた。

これら三国は枢軸国と呼ばれ、連合国と大戦を戦った。



次回は第二次世界大戦を解説する。

 


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