世界遺産と世界史14.シルクロードとクシャーナ朝&漢


世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物(日本、1993年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」に登録されている法隆寺や法起寺は7~8世紀の建築で、世界最古の木造建造物群とされている。
これらの建物はヨーロッパ~アジアの意匠を集大成して造られた。
そもそも仏教の塔はサーンチーのストゥーパ①のように、シッダールタ(ブッダ。釈迦)の遺灰である仏舎利を収める供養塔のこと(「9.インダス文明と古代インド」参照)。
それが中国の楼閣建築の上に取りつけられたことから木造の塔が誕生した。
法隆寺ではこれを五重塔、法起寺では三重塔という形で表現した。
※①世界遺産「サーンチーの仏教建造物群(インド、1989年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」
そして仏像や仏画は、後述するようにバーミヤン③やタキシラ④をはじめとするガンダーラとその周辺で生まれたもの(マトゥラー起源説もあり)。
法隆寺の釈迦三尊像は日本人離れした顔立ちをしているし、焼失した金堂壁画はアジャンター石窟⑤の影響が見られることでも有名だ。
※③世界遺産「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群( アフガニスタン、2003年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」
④世界遺産「タキシラ(パキスタン、1980年、文化遺産(iii)(vi))」
⑤世界遺産「アジャンター石窟群 (インド、1983年、文化遺産(i)(ii)(iii)(vi))」
さらに、法隆寺の中門に見られる柱にはパルテノン神殿⑥や宗廟⑦などで使用された古代ギリシアのエンタシス(柱の一部をふくらませて優美さと安定感をもたらした)が用いられているし、玉虫厨子の図柄などはヘレニズム・ペルシアの影響を受けていることで知られている。
※⑥世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」
⑦世界遺産「宗廟(韓国、1995年、文化遺産(iv))」
法隆寺はこれだけの歴史を背負った寺院。
そしてこうした文化は主にシルクロードを通って伝わった。
* * *


西アジアから中央アジア、中国に至る広大な大地を占めているのは主にステップと砂漠だ。
ステップは雨季に背の低い草が広がるだけの荒野で、半ば砂漠といった土地も少なくない。
古来、中央アジアのグレートステップにはスキタイ人やソグド人、パルティア人、月氏、匈奴といった遊牧民族が暮らしており、彼らは移動を繰り返しつつ各地の産物を別の土地に運んで隊商貿易を行った。
中国をはじめとする東アジアと中央アジアや南アジア、西アジア、ヨーロッパをつなぐ東西貿易のルートを主要産品である絹(シルク)の名を取ってシルクロード※という。
※世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通、2014年、文化遺産(ii)(iii)(v)(vi))」
シルクロードには主として2つのルートがあった。
ひとつは中国からモンゴルやカザフスタンに入り、ロシア南部を通ってヨーロッパに入る北回りのルートで、ステップロード(草原の道)と呼ばれる。
もうひとつが中国から中央アジアのカザフスタン南部やキルギス、アフガニスタン等のオアシス都市をつないでインドや西アジア、ヨーロッパに至るルートで、オアシスロード(オアシスの道)と呼ばれている。
細かく見ていけばステップロードやオアシスロードにもさまざまなルートがあり、それ以外にも中国南部からミャンマーを経てインドに至る西南シルクロードや、中国南部から東南アジアを経てインド、西アジア、東アフリカに至るシーロード(海の道)なども存在した。
いずれのルートにも言えることだが、これらの道をひとり、あるいは一団の旅人が行き来していたわけではない。
隊商がつなぐのは都市と都市であって、そうした多数の隊商をつなげることでこうしたルートになるということだ。
なお、世界遺産暫定リストにはシルクロード関係の以下の資産が記載されている
- ウズベキスタンのシルクロード遺跡(ウズベキスタン)
- タジキスタンのシルクロード遺跡(タジキスタン)
- キルギスのシルクロード遺跡(キルギス)
- シルクロード(カザフスタン)
- トルクメニスタンのシルクロード遺跡(トルクメニスタン)
- シルクルート[シルクロード](イラン)
- インドのシルクロード遺跡(インド)
シルクロードの中でも東西南北の文化が盛んに交流したのがオアシスロードのガンダーラとその周辺の土地だ。
ガンダーラには複数の都市国家が成立していたが、アケメネス朝、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝の支配を受けたあと、インドのマウリヤ朝に侵略され、さらにバクトリア、パルティア(アルサケス朝)に支配された。
おかげでアラブ、ペルシア、ギリシア、インド、遊牧民族の文化が複雑に混じり合うことになった。
その成果のひとつが仏像だ。
仏教国であるマウリヤ朝の支配以来この地には仏教が伝わっていたが、アレクサンドロス帝国やバクトリアのギリシア人たちがもたらした神々の彫刻をまねて、人々は仏像や、仏像を二次元に落とした仏画を作り出した。
それまではストゥーパが寺院のシンボルだったが、ストゥーパの内外に仏像が設置されるようになり、やがて多彩な仏像や仏教壁画が寺院を飾るようになる。

さて。
アレクサンドロス帝国以降の入植により、ギリシア人は西アジアや中央アジアに進出した。
彼らが建てた国のひとつがバクトリアだ。
バクトリアはやがてパルティアや大月氏といった遊牧民族の侵入で滅びるが、人々はインド北部に移動してマウリヤ朝を滅ぼし、ギリシア人国家を建国する(グリーク朝)。
これにより、ガンダーラをはじめとするヘレニズム文化がインドにもたらされることになる。
その頃。
中国の西域にいた月氏(げっし)は匈奴に押され、バクトリアの地に移動して大月氏として力を振るう。
そして1世紀に首都をシルスフ※に置いてクシャーナ朝を建国。
2世紀に首都をプルシャプラ(現在のペシャワール)、副都をマトゥラーに定めたカニシカ王はインド北部を平定し、インド~中央アジアに至る大帝国を打ち立てる。
※世界遺産「タキシラ(パキスタン、1980年、文化遺産(iii)(vi))」
カニシカ王は仏教を庇護したことから仏教美術が大いに発展した。
クシャーナ朝がアジアの東西南北を結ぶ要衝にあり、特に中国と接し、インド北部を占めていたことから、仏教美術はインドや中国・日本にまで伝えられた。
こうした中央アジア発のガンダーラ美術に対し、インドではマトゥラーで広まった仏教芸術・マトゥラー美術が発展した。
カニシカ王が建てた仏教寺院が世界遺産「タフティ・バヒーの仏教遺跡群とサリ・バロールの近隣都市遺跡群(パキスタン、1980年、文化遺産(iv))」登録のタフティ・バヒー寺院だ。
ストゥーパを中心に僧院が建造され、数多くの仏像も発見されている。
クシャーナ朝から次のグプタ朝期の仏教美術、特に石窟寺院や仏像、壁画が集まっているのが世界遺産「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン、2003年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」だ。
また、世界遺産「タキシラ」にはマウリヤ朝やクシャーナ朝の仏教遺跡や、バクトリアのギリシア遺跡が混在している。
こうしてインド北部をまとめたクシャーナ朝に対して、南部はサータヴァーハナ朝が支配していた。
サータヴァーハナ朝が行っていたのが海のシルクロードを使った海上貿易だ。
陸路でローマ帝国領に行くためには多数の国を経る必要があるが、紅海やペルシア湾を使えば直接貿易を行うことができた。
こうしてアラビア海を中心に、東南アジアや中国さえ結んで交易を行い、大いに繁栄した。


インド史を進めよう。
クシャーナ朝はペルシアのササン朝に敗れると、ササン朝の傀儡政権となる。
その後チャンドラグプタ1世のグプタ朝によってインドから駆逐され、バクトリアの地へと帰ることになる。
グプタ朝は4~5世紀、チャンドラグプタ2世のときに最盛期を迎える。
南インドの一部を除いてインドのほぼ全土を掌握。
仏教美術はさらに洗練され、ギリシア等の影響を廃したインド特有の様式を確立し、グプタ美術として花開く。
この前後の時代にアジャンター①、エローラ②、エレファンタ③というインド三大石窟が造られた。
アジャンターは仏教、エレファンタはヒンドゥー教の石窟群だが、エローラは仏教・ジャイナ教・ヒンドゥー教の混合石窟で、仏教・ジャイナ教の神々が次第にヒンドゥー教に吸収される姿を見ることができる。
また、ナーランダ僧院④が造られたのもこの頃で、仏教修業の中心地として機能した。
※①世界遺産「アジャンター石窟群(インド、1983年、文化遺産(i)(ii)(iii)(vi))」
②世界遺産「エローラ石窟群(インド、1983年、文化遺産(i)(iii)(vi))」
③世界遺産「エレファンタ石窟群(インド、1987年、文化遺産(i)(iii))」
④世界遺産「ビハール州ナーランダ・マハーヴィハーラ[ナーランダ大学]の遺跡(インド、2016年、文化遺産(iv)(vi))」
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この時代には仏像だけでなく、バラモン教やジャイナ教の神像も作られた。
一般の人々の間ではそれらの神々が次第に融合を果たし、仏教、ジャイナ教、バラモン教の差異は次第にあいまいになっていく。
こうして成立するのがヒンドゥー教だ。
ヒンドゥー教は宗教といっても明確な定義があったわけではない。
バラモン教のヴァルナ制(カースト制)をはじめとする慣習を引き継いで、さまざまな神々を雑多に信じる民間信仰にすぎなかった。
それがグプタ朝の時代、『マヌ法典』が成立してヴァルナ制が強化され、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった叙事詩が広まることで神々の物語が体系化され、共通の神概念を持つようになる。
そして仏教やジャイナ教の神々は雑多な神々の一部として認識され、ヒンドゥー教に吸収されていく。
6世紀にグプタ朝に変わってハルシャ王のヴァルダナ朝が北インドを統一する。
ハルシャ王は仏教を庇護し、玄奘(三蔵法師)や義浄もブッダが悟りを開いた聖地ブッダガヤ※やナーランダを訪れたが、この頃から仏教やジャイナ教は衰退の一途を辿る。
※世界遺産「ブッダガヤの大菩提寺(インド、2002年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」
以降のインド・スリランカ史については「24.イスラムの拡散とインド、東南アジア」へ。
* * *


シルクロードの東、中国に目を向けてみよう。
秦までの話は「10.長江・黄河文明と古代中国」参照のこと。
中国統一を成し遂げた秦だったが、戦争や土木工事に駆り出される民衆の負担は重かった。
紀元前209年、兵役に向かう途中、事故で期日に間に合わなくなった陳勝と呉広は、死刑になるくらいならということで仲間とともに反乱を起こす。
そのときの言葉が有名な「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王や貴族や将軍とオレたちの種族と何が違うんだ)」だ。
この反乱はまもなく鎮圧されるが楚の項梁が引き継ぎ、反乱は全国に飛び火して混乱を極めた。
秦に対する戦いの中で力を伸ばしたのが項梁の子・項羽と劉邦だ。
紀元前206年、劉邦が秦の都・咸陽(かんよう)に入ると皇帝・子嬰(しえい)は即座に降伏する。
手柄を取られた項羽は怒り狂うが、咸陽郊外で酒を酌み交わして和解(鴻門の会)。
項羽は劉邦を漢中に左遷すると、子嬰らを殺し、阿房宮と咸陽宮を徹底的に破壊して火を放つ。
秘境といってもいい漢中の王(漢王)に飛ばされた劉邦は、やがて項羽に対して兵を挙げる。
彭城(ぼうじょう)の戦いをはじめ劉邦はことごとく戦に敗れるが、紀元前203年、ついに垓下(がいか)の戦いに勝利。
項羽は包囲されたのち(四面楚歌)、自害する。
紀元前202年、劉邦は皇帝に即位し(以下、高祖)、長安を都に定めて漢を建てる。
中国ではこのように皇帝の家系が変わると元号(国名)が変わる。
これを「易姓(えきせい)革命」と呼ぶが、このため「○○朝」という言い方はされない。
易姓革命には皇帝が血縁のない者に自ら位を譲る禅譲(ぜんじょう)と、強制的に位を奪う放伐があるが、実質的には放伐でも禅譲に見せかけることが多い。
高祖は劉氏による統一を進め、全土を国に分けたのちに一族の者を「王」として送り込んで治めさせ(郡国制)、それ以外の地域では秦の時代の郡県制と封建制を併用した。
続く文帝・景帝は内政に力を尽くし、農業を支援したので国は大いに潤った(文景の治)。
紀元前154年、力を増す中央政府に対して劉一族の国である呉と楚を中心に呉楚七国の乱を起こす。
これを鎮圧すると大きな国はなくなり、郡県制に戻って漢の中国支配はほぼ固まった。

内政に憂いがなくなったところで外征に乗り出したのが武帝だ。
この時代、朝鮮半島から中央アジアに至る広大な領域を匈奴が支配していた。
漢の高祖・劉邦は匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)と戦い、紀元前200年の白登山の戦いで大敗を喫し、匈奴に朝貢するという屈辱を受けていた。
武帝は匈奴に敗れてバクトリアに移った大月氏(のちにクシャーナ朝を建国)に対し、匈奴を挟み撃ちにするために同盟を結ぼうと張騫(ちょうけん)を派遣。
張騫は匈奴に捕らえられて10年以上も彼の地ですごすが、機を見て脱走し、大月氏へ赴く。
結局同盟は得られなかったが、烏孫や大宛といった西域との交流が進み、またその情報は衛青や霍去病(かくきょへい)の匈奴討伐に利用された。
衛青や霍去病の活躍もあって匈奴を討つと、武帝は内モンゴルやタリム盆地に迫る広大な国土を獲得。
紀元前111年、敦煌をはじめとする河西4郡を設置した。
さらに、同年にベトナムの南越を滅ぼして日南郡等10郡を、紀元前108年には朝鮮半島の衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡等4郡を置き、前漢の最大版図を築いた。
その後宦官(かんがん。後宮仕えの去勢された男子)、外戚(がいせき。皇后一族)らが勢力を伸ばし、力を握ったのが王家だ。
西暦8年、外戚・王莽(おうもう)は皇帝から禅譲を受け、新を建国する。
急激な改革で国内は混乱し、各地で反乱が相次ぐ中で、漢の劉氏の血を引く劉玄が赤眉の乱を起こす。
王莽は100万を超える軍を率いたが、紀元前23年、昆陽の戦いで劉秀を中心とする赤眉軍に破れ、新は滅亡する。
変わって帝位に就いたのが劉秀だ(以降、光武帝)。
光武帝は都を洛陽に遷すと漢を再興する(後漢)。
後漢の時代、版図を大幅に西に広げたのが班超(はんちょう)だ。
班超は1世紀に活躍した後漢の軍人で、西域都護として長年敦煌より西に在住して睨みを利かせた(都護は征服地に置かれた都護府の長)。
彼の時代に後漢は敦煌からはるか西、タリム盆地・タクラマカン砂漠を越え、クシャーナ朝の版図にまで迫った。
これにより、クシャーナ朝の仏教文化が直接中国に伝わることになる。
また、班超は部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に送った。
残念ながらローマには到達できなかったようだが、甘英はパルティアを越え、地中海にまで達したと見られている。


光武帝自ら豪族出身であるように、この時代に力を持ったのが地方の豪族だ。
農民が没落する一方で、郷挙里選(きょうきょりせん)によって推薦による官吏登用が可能になると、豪族たちは次々と政界に進出した。
宦官・外戚と豪族勢力との対立が起こり、政治は混乱した。
3世紀の黄巾の乱を皮切りに群雄割拠の時代に入り、魏・呉・蜀に分裂(三国時代)。
周辺でも遊牧民族である匈奴・羯(けつ)・鮮卑(せんぴ)・氐(てい)・羌(きょう)の五胡が勢力を強め、中国は混乱を極めた(五胡十六国時代)。
後漢末の三国時代から隋の統一までを魏晋南北朝時代と呼び、おおよそ三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代に分けられている。
魏の曹丕(文帝)は220年、皇帝・献帝から禅譲を受けることで後漢は滅亡。
その曹氏も司馬氏によって討ち取られ、265年、司馬炎(武帝)は魏の元帝から禅譲を受けて晋を建国。
しかしながら各地の王による反乱=八王の乱が起き、さらに匈奴が洛陽に侵入すると、その晋も滅亡してしまう。
この後しばらく中国には統一王朝が誕生せず、北部と南部それぞれに皇帝が誕生する南北朝時代を迎える。
まずは北朝だ。
中国北部は遊牧民族が入り乱れる五胡十六国時代を迎えるが、その中で力を増したのが北魏だった。
386年、鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)が北魏を建てて帝位に就き(道武帝)、太武帝が北部を統一した。
太武帝の時代に道教が、以降は仏教が保護されて、道教・仏教美術が大いに花開いた(後述)。
しかしまもなく北魏は東西に分裂し、東魏→北斉、西魏→北周と移り変わる。
そして南朝。
317年、晋の司馬氏の血を継ぐ司馬睿(しばえい)が皇帝に即位(元帝)。
国土を南に移し、首都を建康(現在の南京)に置いて晋を復興する(東晋)。
しかしこれも長続きせず、同じ建康を首都に宋→斉→梁→陳と推移する。
こうした南北朝の混乱は581年、楊堅が隋を建てて統一されるが、以降は「26.隋・唐・宋の時代」参照。
* * *


魏晋南北朝の時代は混乱の時代だったが、あらゆる民族が入り乱れた多文化の時代でもあった。
クシャーナ朝のもとで発展した大乗仏教はシルクロードを経由して敦煌に入り、漢代に中国へもたらされた。
漢代には武帝が董仲舒(とうちゅうじょ)の進言により儒教を取り入れていたこともあって、異国の宗教は受け入れられなかった。
しかしこの遊牧民族が活躍した時代、特に4世紀に北魏の庇護を受けて全土に広がった。
北魏の文成帝は仏教を庇護し、曇曜(どんよう)に雲崗石窟①を造らせた。
孝文帝が都を洛陽に遷すと今度は龍門石窟②を造営した。
雲崗の石仏はガンダーラ・遊牧民族色が残っているのに対し、時代を経た龍門は中国風に落ち着いているのがおもしろい。
また、敦煌にある莫高窟③には北魏から元代までおよそ1,000年の間に造られた膨大な量の石窟寺院と仏像、仏教壁画が残されている。
これらは中国三大石窟といわれ、インド三大石窟・中国三大石窟はすべて世界遺産に登録されている。
※①世界遺産「雲崗石窟(中国、2001年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」
②世界遺産「龍門石窟(中国、2000年、文化遺産(i)(ii)(iii))」
③世界遺産「莫高窟(中国、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(v)(vi))」

そして五台山①、峨眉山②、九華山、普陀山を仏教四大名山と呼ぶ。
これらも魏晋南北朝の時代によく整備されるようになった。
また、東晋の時代に慧遠(えおん)が廬山③(ろざん)で体系化したのが浄土教だ。
※①世界遺産「五台山(中国、2009年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」
②世界遺産「峨眉山と楽山大仏(中国、1996年、文化遺産(iv)(vi)、自然遺産(x))」
③世界遺産「廬山国立公園(中国、1996年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(vi))」
この時代に成立したのが道教だ。
道教とは、諸子百家の道家の老荘思想を大幅に改変し、民間信仰や神仙思想を加えたもの。
儒教・仏教と並んで中国の三教に数えられている。
寇謙之(こうけんし)が体系化して北魏の太武帝の庇護を得て華北に広まった。
恒山、華山、嵩山①、泰山②、衡山を五岳と呼び、いずれも道教の聖山として知られている。
嵩山や泰山に仏教寺院や道教の道観が盛んに造られたものこの時代だ(少林寺も同様)。
また、武当山③も道教の聖地で、この時代に道観が造られている。
※①世界遺産「河南登封の文化財 ”天地之中”(中国、2010年、文化遺産(iii)(vi))」
②世界遺産「泰山(中国、1987年、複合遺産(i)(ii)(iii)(iv)(v)(vi)(vii))」
③世界遺産「武当山の古代建築物群(中国、1994年、文化遺産(i)(ii)(vi))」
さて、ここで世界遺産登録基準の確認をしておこう。
今回紹介してきた世界遺産は6つの文化遺産登録基準のうち、1~4を満たすものが多い。
■文化遺産登録基準1~4
- (i) 人間の創造的な才能を表現する傑作であるもの
- (ii) 一定の期間、または世界のある文化圏において、建築・技術・記念碑・街並み・景観デザインの発展において、人類の価値の重要な交流を示しているもの
- (iii) 現存する、またはすでに消滅した文化的伝統や文明に関する唯一の、あるいはまれな証拠を示しているもの
- (iv) 人類の歴史の重要な段階を示す建築物、建築様式、技術集合体、または景観の顕著な例といえるもの
簡単に言うと、(i)人類の傑作、(ii)文化交流の跡、(iii)文化・文明の証拠、(iv)重要な建築物や景観、だ。
つまり登録基準1~4を満たす世界遺産は、美しくて、いろんな文化が交流したもので、その文化・文明の代表で、かつ重要性がきわめて高いもの、ということになる。
ちなみに、(v)は環境利用の例、(vi)は出来事・伝統関連、(vii)~(x)は自然遺産の登録基準だ。
自然遺産登録基準については「2.地球と火山活動」参照のこと。
次回は東南アジア、東アジアとアフリカの古代文明を紹介する。
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