世界遺産と世界史29.オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の時代

スルタン・アフメット・モスク(ブルー・モスク)
オスマン帝国第14代皇帝アフメット1世によって1609年に建てられたスルタン・アフメット・モスク。ブルー・モスクの異名を持ち、イスタンブールでもっとも美しいモスクとして知られている。世界遺産「イスタンブール歴史地区」構成資産

ティムール朝が滅んだのち、小アジア・ペルシア・デカン高原でそれぞれ現在のトルコ・イラン・インドのもとになる大帝国が生まれる。

オスマン帝国(オスマン・トルコ)、サファヴィー朝、ムガル帝国だ。


この時代にトルコ芸術、ペルシア芸術、インド芸術は頂点に達し、トプカプ宮殿やスレイマニエ・モスク、イスファハンのイマーム広場、タージ・マハルといった世界遺産が誕生する。

まずはオスマン帝国の歴史を見てみよう

Ottoman=オスマン帝国、Safavid=サファヴィー朝、Mughul=ムガール帝国の版図

イェシル・ジャミイのミナレット
ブルサのイェシル・ジャミイのミナレット。ブルサにはオスマン1世らの陵墓も残されている

* * *

 

<オスマン帝国>

 

1299年、オスマン1世はブルサ※を拠点に小アジアの片隅に新たな国を興す。

周辺の地方勢力を平定し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領を侵食しながら次第に領土を拡大。

続くオルハン、ムラト1世の時代にはダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島に進出し、1366年にはアドリアノープル(現在のエディルネ)に遷都する。

イスラム教徒によるアジア方面からの初のヨーロッパ進出だ。

※世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地(トルコ、2014年、(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」


この時点でビザンツ帝国は首都コンスタンティノープル※(現在のイスタンブール)を領有する程度にまで弱体化していた。

しかしながらその都は三方をボスポラス海峡、金角湾に守られ、残り一方をテシオドスの城壁をはじめとする三重の城壁が取り囲んだ難攻不落の城郭都市。

330年にローマ皇帝コンスタンティヌスが遷都してから、1204年の第4回十字軍による攻略を除いて、1,000年の独立を貫いてきた。

オスマン帝国は南北からビザンツ帝国を挟んだものの、このあと100年の間、攻略に至らない。

※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ、1985年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 

[関連サイト]

イスタンブール/トルコ

 

オスマン帝国はブルガリア帝国をはじめとするバルカン諸国を打ち破り、1389年のコソボの戦いでセルビア王国に勝利すると、バルカン半島南部の多くを支配。

ヨーロッパ各国はイスラム国家の侵入に対してニコポリス十字軍を結成し、神聖ローマ帝国、ハンガリー王国、フランス王国、ポーランド王国、イングランド王国、ベネチア共和国、ジェノヴァ共和国などが連合して討伐に乗り出した。

 

1396年、オスマン帝国のバヤジット1世はのニコポリスの戦いでこれを撃破。

この活躍が認められてバヤジット1世はスンニ派イスラム教最高指導者であるカリフからスルタン(国王)の称号を与えられた。

ブルー・モスク内部
ステンドグラスや青い装飾タイル、象嵌細工で彩られたブルー・モスク内部。ドームに沿って円形に窓を配置し、光あふれる神の空間を演出した。現在もモスクとして使われている
トプカプ宮殿
城壁に囲われたトプカプ宮殿。19世紀にドルマバフチェ宮殿が完成するまで、オスマン皇帝の居城となっていた

ヨーロッパを恐怖に陥れたオスマン帝国だったが、西から現れたティムールが小アジアに侵入。

1402年、アンカラの戦いに敗れると、バヤジット1世は捕らえられたのちに死去し、オスマン帝国はこれで一度滅亡してしまう。

 

1412年、その息子メフメト1世がオスマン帝国を再興すると、失った領土を次々に奪還。

続くムラト2世の時代には以前とほぼ同じ領域まで勢力を回復した。


第7代皇帝(スルタン)・メフメト2世は悲願のコンスタンティノープル攻略に着手。

1452年、金角湾の対岸にルメリ・ヒサルという城砦を建築し、ビザンツ帝国と対峙する。

人数は諸説あるが、ビザンツ側の5千~1万弱に対してオスマン帝国は10万強。

しかもオスマン側にはキリスト教徒の奴隷を訓練したスルタン直属の傭兵部隊イェニチェリがおり、最先端の火砲や大砲(そのひとつが有名なウルバンの巨砲)を装備していた。

 

オスマン帝国は数か月にわたってコンスタンティノープルを包囲するが、ビザンツ帝国は城壁によって陸軍の攻撃を防ぎ、金角湾の入口に巡らせた鎖によって海軍の侵入を巧みに防いでいた。

これに対してメフメト2世は丸太に油を塗って道に並べ、その上に船を乗せて引っ張って、山越えを慣行。

突如金角湾に現れた70隻のオスマン艦隊によってビザンツ帝国の士気は大きく下がったといわれている。


こうした作戦もあって1453年、ついにコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡。

西ローマ帝国滅亡から続いていたヨーロッパの中世が終わりを告げた。

 

メフメト2世は正教会の総本山セント・ソフィア大聖堂(アヤ・ ソフィア)をモスクに改修し、豪華絢爛たるトプカプ宮殿やイスタンブール最大のモスクであるスレイマニエ・モスクを建設してイスラム都市イスタンブールとして整備した。

メフメト2世はその勢いでバルカン半島周辺と黒海周辺を次々に征服。

オスマン帝国の基盤を築いた。

世界遺産「ロードス島の中世都市」騎士団長の館
世界遺産「ロードス島の中世都市」、騎士団長の館。オスマン皇帝スレイマン1世の攻撃を受けたロードス騎士団は、ロードス島→シチリア島→マルタ島と移動して、世界遺産「ヴァレッタ市街(マルタ、1980年、文化遺産(i)(vi))」を建設する
オスマン帝国とサファヴィー朝の版図
16世紀、オスマン帝国とサファヴィー朝の版図

第9代皇帝、セリム1世の時代には目を東に転じ、ペルシアの地に興ったサファヴィー朝と交戦。

1514年にはサファヴィー朝のイスマーイール1世をチャルディラーンの戦いで打ち破った。

サファヴィー朝の脅威を退けたセリム1世は標的をマムルーク朝に移し、1517年に首都カイロ※を落としてこれを滅ぼした。

 

それまでマムルーク朝が管理していたイスラム教の二大聖地メッカとメディナを手に入れて、イスラム教最高指導者カリフを廃位。

実質的にオスマン帝国がイスラムの盟主となった。

のちの時代、オスマン家はカリフの地位をアッバース家から譲り受けたと主張し、オスマン皇帝はスルタン・カリフを兼ねる者としてイスラムの統一を促すことになる(スルタン=カリフ制)。

※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」

 

オスマン帝国最盛期を築くのが第10代皇帝スレイマン1世だ。

東では、サファヴィー朝と戦ってチグリス・ユーフラテス川沿いのメソポタミアと、黒海とカスピ海の間に広がるコーカサス地方の多くを領有。

南では、エジプトから西に軍を進めて北アフリカの多くを占領し、ロードス島①のロードス騎士団(聖ヨハネ騎士団)を撃破、さらにチュニス②を拠点とする海賊=赤ヒゲのバルバロスを配下に加えて提督に任じた。

北では、ハンガリー王国に対して1526年、モハーチの戦いに勝利してハンガリー領の多くを奪い取り、なんとフランス王国と結んでオーストリアを攻撃する。

※①世界遺産「ロードス島の中世都市(ギリシア、1988年、文化遺産(ii)(iv)(v))」

 ②世界遺産「チュニス旧市街(チュニジア、1979年、文化遺産(ii)(iii)(v))」

ホーフブルク宮殿
オーストリア、スペイン、オランダ、ハンガリー、中央アメリカ、南アメリカ、フィリピン等を領有し、「太陽の沈まぬ帝国」を築いたハプスブルク家の居城、ホーフブルク宮殿。世界遺産「ウィーン歴史地区」構成資産

当時フランス・ヴァロワ家と、スペイン・オーストリア・神聖ローマ帝国を治めていたハプスブルク家はイタリア領有を巡ってイタリア戦争を戦っており、フランスはスペインとオーストリア・ドイツに挟まれて危機的状況に置かれていた。

さらに宗教改革の時期でもあり、カトリックの権威に対してマルティン・ルターをはじめとする新教徒が新たな教会組織を立ち上げはじめていた(領邦教会)。

ヴァロワ家はハプスブルク家とともにカトリックの盟主を自認していたが、「敵の敵は味方」の論理でオスマン帝国と結び、さらに新教徒とも和解してなりふり構わずハプスブルク包囲網を構築した。

 

こうしてフランスの後ろ盾を得たオスマン帝国は、1529年にハプスブルク家の帝都ウィーン※を包囲(第一次ウィーン包囲)。

オーストリア軍の反撃にあい、慣れない寒さもあってウィーン攻略は断念するものの、スレイマン1世はその名をヨーロッパ中にとどろかせた。

※世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア、1996年、文化遺産(i)(iv))

 

[関連サイト]

ウィーン歴史地区/オーストリア


スレイマン1世とフランスのフランソワ1世は共通の敵ハプスブルク家に対抗するために連携の深化に同意。

次のセリム2世の時代にかけてオスマン帝国はフランスに通称特権カピチュレーションを認め、領事裁判権(治外法権)や通商の自由などを認め、エルサレムの聖地管理権を与えた。

これはオスマン帝国が小国に恩恵を与えるといったイメージのものであり、18世紀以降のような不平等条約を強いられたようなものではなかった。


ヨーロッパとの戦いは地中海でも進められた。

1538年、フランスを除くカトリック連合軍(ハプスブルク家のスペイン、教皇軍、ベネチア等)とオスマン帝国との間でプレヴェザの海戦が勃発。

これに勝利したスレイマン1世は地中海の制海権を掌握した。

世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」
世界でもっとも美しいモスクのひとつ、世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群」。「世界一美しいモスク」と称されるモスクは他に、先述したイスタンブールのブルー・モスク、後述するイスファハンのシェイク・ロトフォラー・モスク、エルサレムの岩のドーム、アブダビのグランド・モスクなどがある

スレイマン1世の死後、跡を継いだ息子セリム2世はキプロスを攻めてこれを支配。

スペインやベネチア①を中心としたカトリック連合軍の反撃を受け、1571年、レパントの海戦に敗北してしまう。

しかしながらフランスが仲介した講和条約はオスマン帝国に有利に進められ、キプロスの領有を確保した。


なお、セリム2世がアドリアノープルに造った宗教複合施設がセリミエ・モスク②だ。

トルコ史上最高の建築家と称されるミマール・スィナンの最高傑作で、直径31.5mを誇る巨大なドームと高さ70mのミナレットが特徴だ。

ミマール・スィナンがデザインした世界遺産には、イスタンブールのスレイマニエ・モスクやヴィシェグラードのメフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋③がある。

※①世界遺産「ベネチアとその潟(イタリア、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(v)(vi))

 ②世界遺産「セリミエ・モスクと複合施設群(トルコ、2011年、文化遺産(i)(iv))」

 ③世界遺産「ヴィシェグラードのメフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋(ボスニア・ヘルツェゴビナ、2007年、文化遺産(ii)(iv))

 

[関連記事]

ベネチアとその潟/イタリア

 

オスマン帝国が領土を増やしたのもこの頃までだ。

1683年には第二次ウィーン包囲を実施するが、失敗。

これを受けて教皇インノケンティウス11世はオーストリア、ポーランド・リトアニア、ロシア、ベネチアといった国々に呼び掛け、神聖同盟を結成してオスマン帝国に対抗。

16年にわたる大トルコ戦争の末、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国はハンガリー、トランシルヴァニア、スロベニア、クロアチアなど多くの領土を失った。

 

オスマン帝国は1922年まで存続するが、これ以降は衰退期に入ることになる。

この後のトルコについてはいずれ解説する。

 

なお、上に登場しないオスマン帝国関連の世界遺産としては、オスマン帝国時代の伝統家屋が美しいサフランボル①、十字軍時代に切り拓かれた街をオスマン帝国が復興したアッコ②などがある。

※①世界遺産「サフランボル市街(トルコ、1994年、文化遺産(ii)(iv)(v))

 ②世界遺産「アッコ旧市街(イスラエル、2001年、文化遺産(ii)(iii)(v))

 

* * *

世界遺産「イスファハンのイマーム広場」
サファヴィー朝の象徴、世界遺産「イスファハンのイマーム広場」。正面がイマーム・モスク、左がシェイク・ロトフォラー・モスク、右にアリ・カプ宮殿。アリ・カプ宮殿裏のチェヘル・ソトゥーン庭園は世界遺産「ペルシア庭園」の構成資産

<サファヴィー朝>

 

イスラム教にはスンニ派、シーア派のほか、こうした権威的な教えを否定し、神との直接的な交流を求めるスーフィズム(神秘主義)が浸透していた。

現在トルコやイラン、エジプトなどで見られる回転舞踊(セマー。スーフィーダンス)で有名なメヴレヴィー教団などもその一例だ。


13~14世紀、シャイフ・サフィーが興したスーフィズムの一派がサファヴィー教団だ。

シャイフ・サフィーとその一族はアルダビールにモスクやマドラサ(モスク付帯の高等教育施設。大学)を建設し、イスラム宗教都市を築き上げた。

これが世界遺産「アルダビールのシェイフ・サフィー・アッディーンの修道院と聖者廟複合体群と寺院群(イラン、2010年、文化遺産(i)(ii)(iv))」だ。


ティムール朝が衰退したあと、サファヴィー教団の長・イスマーイール1世がサファヴィー朝を建国する。

最初は地方政権のひとつにすぎなかったが、次第に勢力を伸ばしてペルシアの要衝タブリーズ※を占拠。

国が大きくなるとペルシアである程度の信者がいるシーア派の十二イマーム派に改宗して国教とし、ペルシア王を意味する「シャー」を名乗ってペルシアの盟主となる。

オスマン帝国がスンニ派の盟主であったため、それに対抗する必要上シーア派を選んだという背景もあったようだ。

これ以後、サファヴィー朝の版図となったイラン、イラク、コーカサス地方ではシーア派が主流となり、現在でもイランやイラク、アゼルバイジャンなどではシーア派が多勢を占めている。

※世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン、2010年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

スーフィー・ダンス。旋回を続けることでトランス状態に入り、神との合一を果たす

 

イスマーイール1世はバグダード①やメルフ②を次々と落として勢力を拡大。

やがてオスマン帝国と国境を接し、対立していく。

※①イラクの世界遺産暫定リスト記載

 ②世界遺産「国立歴史文化公園“古代メルフ”(トルクメニスタン、1999年、文化遺産(ii)(iii))」

 

オスマン帝国のセリム1世は小アジアでシーア派を弾圧していたことから戦争は不可避となり、1514年にチャルディラーンの戦いが勃発。

オスマン帝国の繰り出す火砲や大砲の前にイスマーイール1世は散々に打ち破られ、はじめての敗北を喫してしまう。

 

イスマーイール1世没後、オスマン帝国のスレイマン1世の攻撃を受けてメソポタミアやコーカサス地方を奪われ、首都をタブリーズからガズヴィーンへ遷都。

その後もオスマン帝国との戦いが続き、サファヴィー朝は一時神聖ローマ帝国やスペイン、ポルトガルに近づくが、同盟は失敗した。

イスファハンのイマーム広場、シェイク・ロトフォラー・モスク
イスファハンのイマーム広場、シェイク・ロトフォラー・モスク。世界でもっとも美しいモスクのひとつ。全体の造形も美しいが、細部の精緻なアラベスクがまたすばらしい

サファヴィー朝の最盛期はアッバース1世によってもたらされた。

アッバース1世は一時オスマン帝国と和平を結び、その間にオスマン帝国のイェニチェリに対抗するためにシャー直属の奴隷兵団グラームを組織し、さらに火砲・大砲を装備して軍の近代化を図った。

 

1597年、アッバース1世はイスファハン※に遷都。

モスク、マドラサ、庭園などを整備し、商業の振興を図ると、イスファハンは東西南北を結ぶ要衝となり、やがて人口は50万を超え、世界各地の文化が集った。

特にイマーム広場の美しさは「イランの真珠」と讃えられ、「世界の半分」を集めたといわれるほどの繁栄を誇った。

※世界遺産「イスファハンのイマーム広場(イラン、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」

 世界遺産「ペルシア庭園(イラン、2011年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 

[関連サイト]

イスファハンのイマーム広場/イラン

 

軍政を改革し、国力を強めたアッバース1世は、17世紀はじめにオスマン帝国と開戦。

コーカサス地方を奪還し、一部の土地を奪い取った。

また、アッバース1世は大航海時代に力をつけたイングランドやオランダなどのヨーロッパ海洋王国と同盟を結び、オスマン帝国に対抗した。

これによって海軍も近代化し、スペインやポルトガルのインド洋進出を阻んだ。

 

これだけの繁栄を誇ったサファヴィー朝だったが、アッバース1世の死後、衰退は早かった。

幼い君主や政治に関心のない君主が続いたことで政治は安定せず、オスマン帝国の逆襲や、クルド人やコサックなど諸民族の反乱が相次ぎ、国は荒廃した。

1722年にはアフガニスタンで起こったホターキー朝にイスファハンを落とされてしまう。

 

首都を失ったサファヴィー朝だが、タフマースブ2世が即位し、名将ナーディルがこれを支える形で勢いを盛り返し、1730年にイスファハンを奪還。

ナーディルはこの勢いで多くの領土を取り戻した。

 

力を強めるナーディルは1732年にタフマースブ2世を追放してアッバース3世を擁立。

1736年にアッバース3世を退位させ、自らがシャーとなってアフシャール朝を築き、ここにサファヴィー朝は滅亡する。

 

このあと群雄割拠の時代を経てイランを統一したのがトルコ系のアーガー・ムハンマドが建てたカージャール朝だ。

1796年に「シャー・ハン・シャー(王の中の王)」を名乗って王位に就き、ゴレスタン宮殿※を建設して首都をテヘランに定めた。

※世界遺産「ゴレスタン宮殿(イラン、2013年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」


* * *

ファテープル・シークリーのブランド・ダルワーザ
高さ40mにもなる世界遺産「ファテープル・シークリー」の南門、ブランド・ダルワーザ(偉大なる門)。アクバルが建てた都市のうち、宮廷地区とモスク地区が現存している。内部はイスラム建築とインド土着の建築が融合した不思議な空間が広がっている

<ムガル帝国>


ウズベキスタンの都市フェルガナの領主バーブルは、ティムールの玄孫(やしゃご。孫の孫)。

ティムール朝再興を図ってサファヴィー朝と同盟して中央アジアを攻めるが、なかなか領土の拡大に成功しない。

 

中央アジア征服をあきらめたバーブルは一転して南を攻め、インドに侵入。

1526年にはデリー・スルタン朝最後の王朝・ロディー朝を滅ぼしてデリー①とアグラを掌握し、ムガル帝国を興す。

 

勝敗を決定づけたパーニーパットの戦いにおいて、バーブルはロディー朝10万の兵力の1/10前後しか持たなかったらしい。

しかしサファヴィー朝から伝わった最先端の火砲・大砲のおかげで勝利を導いたようだ。

その後ラジャスタン②に基盤を置くラージプート族がデリーを攻撃するが、これも退けた。

※①世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド、1993年、文化遺産(iv))」

 ②世界遺産「ラジャスタンの丘陵要塞群(インド、2013年、文化遺産(ii)(iii))」

 

初代皇帝バーブルの死後、長男フマユーンが跡を継ぐ。

伝説では、フマユーンが大病を患った際にバーブルは自分が犠牲になると神に祈りを捧げ、実際フマユーンが回復した直後に病死したという。

世界遺産「デリーのフマユーン廟」
白大理石と赤砂岩のコントラストが美しい世界遺産「デリーのフマユーン廟」。ペルシア、インド芸術が融合したムガル芸術のひとつの完成形で、これ以後のムガル建築のひな形となった

フマユーンはインドの諸勢力との戦いに敗れて一時ペルシアのサファヴィー朝へ逃れ、亡命政権を樹立。

この間にシェール・シャーのズール朝がインド北部を治めたが、フマユーンはアフガニスタンに基盤を作ってからインドに侵攻し、1556年にズール朝を滅ぼし、インド北部を奪還した。

このときシェール・シャーが対フマユーンの防御砦として建築したのがロータス城塞※だ。

※世界遺産「ロータス城塞(パキスタン、1997年、文化遺産(ii)(iv))


その2年後にフマユーンが事故死すると、王妃ハージ・ベグムは亡き夫のためにデリーのヤムナ川沿いに9年をかけてそれまでにない壮麗な廟を建設する。

銀色に輝く巨大な白大理石ドーム、赤砂岩に白大理石の象嵌が美しいイーワーン、天国に流れる川と楽園を地上に表したチャハルバーグ (四分庭園)といった意匠はインド・イスラム芸術の粋を集めたもので、タージ・マハルをはじめとするムガル芸術に多大な影響を与えた。

※世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド、1993年、文化遺産(ii)(iv))」


[関連サイト]

デリーのフマユーン廟/インド

アグラ城塞
アグラ城塞。デリーのレッド・フォート同様、赤砂岩と白大理石を中心に造られており、やはり「レッド・フォート(ラール・キラー)」の異名を持つ

第3代皇帝に就いたのはフマユーンの息子アクバル。

アクバルは非イスラム教徒に課されていた人頭税ジズヤを廃止してヒンドゥー教の信頼を勝ち取り、ヒンドゥー教徒であるラージプート族の娘を娶ることでインド西部の支配を固めた。

さらにインダス川を下ってインド東部も治めると、インド北部からアフガニスタンにかけて、ムガル帝国の基盤を整えた。

 

アクバルは首都をアグラに遷都するとアグラ城塞①を建設。

子宝に恵まれなかったアクバルはスーフィズムの司祭に王子誕生を祈願し、これが叶うと感謝の意を込めて、アグラの北10kmほどの位置に「勝利の都」を意味するファテープル・シークリー②を建造する。

木造都市のようなインド風の街並みを石で造り上げたインド・イスラム折衷様式の美しい都ではあったが、気温の上昇から水の確保がままならず、わずか10年強で放棄され、首都はラホールへ移された。

アクバルは古くからの城砦をベースにラホール城③を建設するが、その後ふたたびアグラへ遷都している。

※①世界遺産「アグラ城塞(インド、1983年、文化遺産(iii))」

 ②世界遺産「ファテープル・シークリー(インド、1986年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 ③世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン、1981年、文化遺産(i)(ii)(iii))」

ヤムナ川から眺めたタージ・マハル
ヤムナ川とタージ・マハル。シャー・ジャハーンはヤムナ川の対岸に黒曜石で漆黒の霊廟の建て、その間を橋で渡す予定だったらしい。そしてコーランがいう最後の審判の日に復活し、橋の上でムムターズと再会することを夢見ていたという

ムガル帝国最盛期を築いたのが第5代皇帝シャー・ジャハーン、第6代皇帝アウラングゼーブの親子だ。

 

シャー・ジャハーンの妃はムムターズ・マハル。

インドのバザールで偶然であったふたりはひと目で恋に落ち、15歳と12歳で婚約し、5年後に結婚したという。

ふたりの中はむつまじく、シャー・ジャハーンはハーレムを築くこともなく、外征には必ずムムターズを伴い、結婚生活18年で14人の子をもうけた。

しかし、ムムターズは最後の女児を出産すると急死してしまう。

 

その死を悼んでシャー・ジャハーンが20年の歳月と2万人の労働力を投入して造ったのが白大理石の宝石廟タージ・マハル※だ。

チャハルバーグに写るその美しい姿は左右対称・天地対称・円対称で、その内部は宝石を散りばめた象嵌細工で満たされている。

※世界遺産「タージ・マハル(インド、1983年、文化遺産(i))」

 

[関連サイト]

 タージマハル/インド

 

この時代はインド・イスラム芸術の絶頂期で、シャー・ジャハーンはタージ・マハル以外にも数多くの建造物を建立している。

赤砂岩のアグラ城を改築し、白大理石でモティ・マスジド(真珠のモスク)をはじめとする美しい建物を増設。

デリーに遷都するとレッド・フォート(ラール・キラー)①を建設して居城とし、ラホール城を整備して噴水を多用したシャーリマール庭園を開設している。

また、現在のパキスタン南部のシンド地方の都市マクリ②に青タイルを多用したペルシア風のジャーメ・マスジド(金曜モスク)をはじめとする数々の文化財を築いた。

※①世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド、2007年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 ②世界遺産「タッタとマクリの歴史的建造物群(パキスタン、1981年、文化遺産(iii))

世界遺産「レッド・フォートの建造物群」
世界の王=シャー・ジャハーンがアグラからデリーに遷都した際に建設した世界遺産「レッド・フォートの建造物群」。内部には謁見殿やアーケード、アウラングゼーブが増設した大理石造りのモティ・マスジド(真珠のモスク)などがある
アグラ城のムサンマン・ブルジュから見たタージ・マハル
アグラ城のムサンマン・ブルジュから見たタージ・マハル。シャー・ジャハーンの死後、アウラングゼーブは父の棺をムムターズの棺の隣に安置した。現在もタージ・マハルの内部で、ふたりは寄り添うように眠っている

悲しい伝説が残っているのがアグラ城の八角塔ムサンマン・ブルジュだ。

シャー・ジャハーンは病床で長男を後継に指名。

しかし三男アウラングゼーブは長男を殺してその首をシャー・ジャハーンに送る。

さらに次男と四男も殺害し、シャー・ジャハーンをムサンマン・ブルジュに幽閉。

シャー・ジャハーンはヤムナ川のほとりに小さく見える妻の墓廟タージ・マハルを眺めながら7年をすごし、そのまま息を引き取ったという。


ムガル帝国最大版図を築いたのがそのアウラングゼーブだ。

アウラングゼーブはそれまでのイスラム・ヒンドゥー教の接近を嫌ってイスラム教による統治を行い、人頭税ジズヤを復活。

反対したラージプート族を力で平定すると、南インドのヒンドゥー勢力を倒して領土を広げた。

度重なる外征のための増税による貧困問題もあって、インドで大多数を占めるヒンドゥー教徒の反発を買い、治安は悪化。

それでもアウラングゼーブの治世中はなんとか一体を保った。

 

アウラングゼーブの死後ムガル帝国は分裂し、デカン高原をヒンドゥー連合であるマラータ王国を中心にマラータ同盟が占拠。

インド西部ではラージプートやシク教徒、東部ではベンガルなども独立し、ムガル帝国にはデリー周辺のみが残された。

また、イギリスやフランスも圧力を強めており、やがてイギリスによる植民地化へと進んでいく。

 


次回はヨーロッパが世界最先端の土地になるベースとなる中世ヨーロッパ史を紹介する。



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ぼくがこれまで撮影してきた写真を掲載していこうと思います。

 →世界遺産写真館

イギリスの世界遺産「ロンドン塔」
イギリスでもっとも歴史のある石造城塞であり、多くの囚人を収容した監獄兼処刑場で、世界一有名な幽霊屋敷でもある「ロンドン塔」。クリックで外部記事へ
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青の都・サマルカンド、グリ・アミール廟のイーワーンとドーム。世界遺産「文化交差路サマルカンド」構成資産。クリックで外部記事へ

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 ジョブズ「愚かであれ」

 ナポレオン「不可能はない」

 高杉晋作「おもしろき世」

 エジソン「1%の才能99%の汗」

・Bizコンパス 国際情勢連載

 なぜLCCが世界を席巻?

 なぜ日本のGDPは低迷?

 なぜ今TPP等の地域協定なのか?

 なぜシンガポールは豊かなのか?

 なぜ米国は銃規制できないか?

 なぜハリウッドは強いのか?

 なぜ外国人が渋谷の交差点に?

 なぜイスラムは仏を狙うのか?

 なぜスイスは永世中立なのか?

 なぜ中華料理はおいしいのか?

 なぜ難民が増えているのか?

 なぜ五輪は4年に1度の開催か?

 なぜイランは核開発するのか?

 なぜ台湾は独立できないのか?

 なぜアフリカはいつも戦争?

 なぜシーア派とスンニ派がある?

 なぜブータンは幸せの国なのか?

 なぜ世界でパンデミックが拡大?

 なぜ世界に親日国が多いのか?

 なぜイスラムは遺跡を壊すか?

 なぜ米国とキューバが接近?

 なぜ訪日外国人が増えたのか?

 なぜギリシャ危機が問題か?

 なぜウクライナで米露が対立?

 なぜ世界中に中華街があるのか?

 なぜ柔道はJUDOに勝てないか?

 なぜ捕鯨は野蛮なのか?

 なぜイスラムは西洋と戦うのか?

 なぜ日本料理は世界で人気か?

 なぜ中南米はミスコンに強いか?

 なぜ中国で民主化・独立運動か?

 なぜ英・西で独立運動なのか?

・Bizコンパス 世界遺産連載

 世界遺産の夜明けを導く2遺跡

 人類の歴史に挑戦する負の遺産

 危機遺産リストと世界遺産

 世界遺産が世界遺産でなくなる日

 キング・オブ・世界遺産

 自然遺産を守る意味 

 聖地が示す世界遺産の限界

 世界遺産と平和への挑戦

 世界遺産登録と今後の日本の遺産

 なぜ世界遺産は欧州に多いのか

 産業遺産と新しい世界遺産

 自宅で楽しむ世界遺産 ワイン編

 W杯! ブラジルの歴史と世界遺産

 なぜ伊勢神宮は世界遺産でない?

 一度の旅行でたくさんの世界遺産

 夏休みに訪れたい海の世界遺産

 世界遺産はじめて行くならここ!

 最新の世界遺産を訪ねよう!

 世界遺産で野生動物と触れ合う

 パワースポットの「聖なる山」

 立入禁止! 非開放の世界遺産

 神々が降り立つ聖地の世界遺産

 絶景と人工美が融合した鉄道

 愛と美を称える世界遺産

・その他

『朝日新聞 世界の扉』記事執筆。『地球の歩き方 MOOK 世界のビーチBEST100』『ノジュール』に旅のスペシャリスト・達人として参加。『PEN』でアフリカの世界遺産執筆。『MONOQLO』世界遺産特集取材協力。『女性セブン』で日本の世界遺産を解説。エクスナレッジ『聖地建築巡礼 世界遺産から現代建築まで、73の聖地を巡る旅』、洋泉社ムック『負の世界遺産』執筆。RKBラジオ、FM TOKYOで世界遺産特集出演。その他企業・大学広報誌等。

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<旅論:たびロジー>

1.あなたは幸せですか?

.麻薬は悪? ゴキブリは汚い?

.裸とワイセツ

 

<エロス論:エロジー>

.遊びの本質

.おいしい、美しい、気持ちいい

.文化SM論

 

<絵と写真の話>

.アートと魂~抽象画とポロック

.ロスコの扉 ~ロスコ・ルーム~

10.写真と抽象芸術~グルスキー

 

<哲学的探究:哲学入門>

1.哲学とは何か?

2.「正しい-間違い」とは何か?

3.証明とは何か?

4.わかる・理解するとは何か?

5.力とは何か? 波とは何か?

6.物質とは何か?

7.見る・感じるとは何か?

8. 空間とは何か?

 

<哲学的考察:ウソだ!>

.無と偶然

.ことだま-はじめに言葉ありき

10.物質とは何か?

11.神とは何か?-一神教と多神教

 

<世界遺産NEWS>

慶州歴史地域の修復と真正性

来訪神行事を無形文化遺産推薦

カムチャツカ火山群で噴火続く

京都市が景観保護に新制度

陽明門&東大手門リニューアル

 

<世界遺産ランキング集>

登録基準に見る世界遺産

世界の七不思議

国内集計の世界遺産ランキング

海外集計の世界遺産ランキング

世界遺産国別ランキング

 

<UNESCOリスト集>

日本の遺産リスト

無形文化遺産リスト

世界の記憶リスト

世界遺産リスト

ユネスコエコパーク・リスト

世界ジオパーク・リスト

創造都市リスト

 

<世界遺産の見方>

知性的鑑賞法

感性的鑑賞法

異文化理解の方法論

正しい・間違いの基準

星と大地と古代遺跡

 

<味わう世界遺産>

.王様のワイン トカイ

.命の水 テキーラ

.ポルトガルの宝石 ポート

.神の贈り物チョコレート

 

<世界遺産で学ぶ世界の歴史>

.宇宙と地球の誕生

.地球と火山活動

.大陸移動と世界の形成

.生命の誕生 先カンブリア時代

.生命の進化 古生代から新生代へ

.人類の夜明け

.戦争の時代 ~メソポタミア

.古代エジプトの繁栄

.インダス文明と古代インド

10.長江・黄河文明と古代中国

11.欧州巨石文化とエーゲ文明

12.古代ギリシアの繁栄

13.アレクサンドロスとヘレニズム

14.シルクロードとクシャーナ&漢

15.東南&東アジア,アフリカの古代

16.南北アメリカ大陸の古代文明

17.共和政ローマと帝政ローマ

18.ローマの平和、そして分裂へ

19.民族大移動と西欧の形成

20.東欧の形成とビザンツ帝国

21.東西教会の分裂と十字軍

22.イスラム教とペルシア・アラブ

23.イスラム帝国の分裂

24.イスラムの拡散-インド,アジア

25.アフリカの交易とイスラム教

26.隋・唐・宋の時代

27.北方騎馬民族とその周辺

28.モンゴル帝国の世界征服

29.オスマン,サファヴィー,ムガル

30.中世ヨーロッパの飛躍

31.修道院とロマネスク&ゴシック

32.イギリス・フランスと百年戦争

33.ハプスブルク家とレコンキスタ

34.大航海時代

35.ルネサンス

36.宗教改革

37.絶対王政とオランダの台頭

38.三十年戦争とイギリス革命

39.啓蒙思想とプロイセン、ロシア

40.明と清の繁栄

41.東・東南アジアの植民前史

42.産業革命とアメリカ独立革命

43.フランス革命とナポレオン

44.ウィーン体制と七月・二月革命

45.イタリアとドイツの成立

46.帝国主義と米英仏

47.アジアの衰退・植民地化

48.清、朝鮮、江戸の開国・滅亡

49.世界分割

50.第一次世界大戦

51.ファシズムと世界恐慌

52.第二次世界大戦

 

<世界遺産写真館>

1.文化交差路サマルカンド1

2.文化交差路サマルカンド2

3.アッパー・スヴァネティ

4.グラナダのアルハンブラ宮殿1

5.グラナダのアルハンブラ宮殿2

6.コトル

7.プレアヴィヒア寺院

8.福建の土楼1

9.福建の土楼2

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