世界遺産と世界史44.ウィーン体制と七月・二月革命

ウィーン会議の様子を描いたドイツ・オペレッタの名作、エリック・シャレル監督『会議は踊る』。宮崎駿監督『風立ちぬ』でも歌われた「ただ一度だけ」の名シーン

 

世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」の旧博物館=アルテス・ムゼウム
市民に対して芸術を開放することに賛同してフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が建設を命じたベルリンの旧博物館=アルテス・ムゼウム。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこの博物館のある島を芸術と科学の聖域として整備した。世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ、1999年、文化遺産(ii)(iv))」構成資産 C:Pöllö

<ウィーン体制の成立>


1814年、ナポレオン1世によって塗り替えられたヨーロッパの地図や秩序を整理するために、オスマン帝国以外のヨーロッパ各国の代表がオーストリアのウィーン※に集まって会議を行った。

※世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 

[関連サイト]

ウィーン歴史地区/オーストリア(All About 世界遺産)


ウィーン会議はオーストリア外相メッテルニヒが議長を務め、フランス外相タレーラン、ロシア皇帝アレクサンドル1世、イギリス外相カスルレー、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、プロイセン宰相ハルデンベルクらそうそうたるメンバーが出席した。


しかし各国の利害は一致せず、それにもかかわらず夜は華やかな舞踏会が開催されて時間を浪費したことから「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られたが、ナポレオン1世のエルバ島脱出に脅威を覚えた各国は妥協案をまとめ、1815年にウィーン議定書の調印に至った。


そもそもヨーロッパの混乱の原因はフランス革命にある。

フランスはその点で責任を追及されて賠償金や領土の割譲を迫られたが、タレーランは正統主義を提唱。

もともとの王政や領土を正統として市民革命を否定するもので、これがウィーン会議の理念として受容された。


しかしながら完全に元に戻されたわけではなく、ロシアやオーストリア、プロイセンといった大国主導で進み、大国間では勢力均衡が図られた。

世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」
ナポレオン1世がウィーンに入城した際は司令部が置かれ、1814~15年にはウィーン会議の舞台となったシェーンブルン宮殿。世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア、1996年、文化遺産(i)(iv))」構成資産

大きな動きは以下。

  • フランス:ブルボン朝が復活し、ルイ16世の弟であるルイ18世が王位に就き、セネガルを手に入れた
  • スペイン:フランス同様ブルボン朝が復活し、フェルナンド7世が復帰した
  • ドイツ連邦:神聖ローマ帝国が復活しない代わりに35の君主国と4つの自由市からなるドイツ連邦が誕生し、神聖ローマ帝国同様、プロイセンやオーストリアを含んだ連合王国の形で成立した。これに伴ってライン同盟は解体された
  • オーストリア:ドイツ連邦の盟主となり、イタリア北部のロンバルディアやベネチア共和国領を獲得し、ロンバルド=ヴェネト王国を建てて国王を兼ねた
  • ポーランド立憲王国:ナポレオン1世が築いたワルシャワ大公国はポーランド立憲王国となり、ロシア皇帝がポーランド王を兼ねた(第四次ポーランド分割)
  • ロシア:ポーランド立憲王国とフィンランド大公国の王を兼ね、実質的にロシア領に組み込んだ。また、オスマン帝国からベッサラビアを獲得した
  • プロイセン:ザクセン王国、ワルシャワ大公国、ラインラント、スウェーデンなどから領地を獲得して東西に版図を広げた
  • イギリス:フランスからマルタ島、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得した
  • オランダ:ネーデルランド連邦共和国は南ネーデルランドを獲得し、立憲君主政を掲げてネーデルランド連合王国となった
  • スイス:永世中立国として承認された


そしてロシア皇帝アレクサンドル1世は君主間で旧来の王政やキリスト教による統治を強化する神聖同盟を提唱。

ローマ教皇、イギリス国王、オスマン皇帝を除くヨーロッパのほとんどの君主が参加し、自由・平等の理念やナショナリズムといった革命精神の拡大を警戒した。


また、やはり1815年にイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの4か国でヨーロッパの安定を図る四国同盟が成立。

1818年にはフランスが加盟して五国同盟となった。


* * *

世界遺産「ヴァルトブルク城」
ルターが『新約聖書』のドイツ語版を書き上げたヴァルトブルク城。ブルシェンシャフトはじまりの地としても知られている。1517年にマルティン・ルターが95か条の論題を掲げたことから、1817年に宗教改革300年祭が祝われた C:Metilsteiner

<ウィーン体制の動揺>


フランス革命によって自由主義やナショナリズム(国民主義)はヨーロッパ市民の間に広まった。

ウィーン体制はこれらを否定するものだったが、市民の勢いは抑えきれず、さまざまな抵抗運動を引き起こした。


1815年、ナポレオン戦争に参加した学生を中心にイエナ大学でドイツ学生組合ブルシェンシャフトが結成された。

自由主義とナショナリズムの名の下にドイツの改革や統一を求め、1817年にヴァルトブルク城※で行われた宗教改革300年祭に際してその動きは他大学への広がりを見せた。

ドイツ連邦下の各国はこの動きを警戒し、オーストリア宰相メッテルニヒは1819年、カールスバードの決議を行い、ブルシェンシャフトを厳しく弾圧した。

※世界遺産「ヴァルトブルク城(ドイツ、1999年、文化遺産(iii)(vi))」


スペインではフェルナンド7世の復帰でブルボン朝が再興されたが、絶対王政に対する反発は強く、自由主義や民主主義・近代化を求めて市民の運動が活発化した。

1820年に国軍が反乱を起こして1812年憲法(ナポレオン戦争下で成立した憲法)の復活を要求。

フェルナンド7世はこれを認めるが、1822年に革命軍に捕らえられて王位は廃位された。

これに驚いたヨーロッパ諸国、特に王政の強化を図るフランスとオーストリアは介入を主張し、1823年にフランス軍が侵入。

鎮圧に成功してフェルナンド7世は復位した。

この際、自由主義を進めるイギリスがこのスペイン立憲革命を支持したため、五国同盟は事実上解体した。

世界遺産「リオデジャネイロ:山と海の間のカリオカの景観」
1809年にポルトガルの首都となり、1815年からはポルトガル=ブラジル連合王国、1822年からはブラジル帝国、1889年からはブラジル連邦共和国の首都となり、1960年まで首都としてあり続けたリオデジャネイロ。世界遺産「リオデジャネイロ:山と海の間のカリオカの景観(ブラジル、2012年、文化遺産(v)(vi))」構成資産

1820年、ポルトガルでも自由主義革命が起こった。

 

ポルトガル王室は1808年にブラジルへ退避しており、1815年にポルトガル=ブラジル連合王国が成立していた。

スペイン立憲革命の影響を受けて1820年にポルト①で自由主義革命が起こり、リスボン②などに飛び火。

国王ジョアン6世は帰還要求を受けて1821年にリスボンに戻って再遷都を行い、1822年に憲法を起草した。

※①世界遺産「ポルト歴史地区、ルイス1世橋およびセラ・ド・ピラール修道院(ポルトガル、1996年、文化遺産(iv)」

 ②世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔(ポルトガル、1983年、2008年拡大、文化遺産(iii)(vi))」

 

[関連サイト]

ポルト歴史地区/ポルトガル(All About 世界遺産)

 

摂政としてブラジルに残ったジョアン6世の息子ペドロは、独立を望むブラジルの人々に担がれて1822年にブラジル帝国の独立を宣言。

初代皇帝ペドロ1世として即位し、1824年には憲法を制定して立憲君主政に移行した。

1825年にポルトガルは独立を承認した。

 

1826年、ポルトガルのジョアン6世が崩御すると、王位継承で混乱が起きる。

 

ブラジル皇帝ペドロ1世が一時王位を継ぐが、すぐに女王マリア2世に譲位。

彼女が幼かったため弟のミゲルを摂政とした。

 

しかし、やがてミゲルは王を僭称して絶対王政への復帰と立憲政府の打倒を画策。

これに対して反乱が起こり、ポルトガル内戦が勃発(1828~34年)した。

ペドロ1世は自由主義側(反絶対王政派)に立って内戦に加わり、1834年に勝利。

立憲政府が復活し、マリア2世が王位に就いた。

 

1820年、イタリアでも秘密結社カルボナリ(炭焼党)による反政府運動が起きていた。

イタリア北部ではロンバルド=ヴェネト王国が成立し、オーストリア皇帝フランツ1世がフランチェスコ1世として国王に就いていた。

これに対し、自由と国民国家の樹立を目指して結成されたのがカルボナリだ。

スペイン立憲革命の影響を受けてナポリ①で蜂起し、ピエモンテ②などに波及。

しかし、オーストリア軍の侵入を受けて失敗に終わった。

※①世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア、1995年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ(イタリア、2003年、文化遺産(ii)(iv))」

世界遺産「サヴォイア王家の王宮群」のヴァレンティーノ城
サルディーニャ王国のサヴォイア家フィリベルトが整備したヴァレンティーノ城。サルディーニャ王国はナポレオン戦争時にサルディーニャ島以外の領地を失うが、ウィーン会議で回復。その後はオーストリアに対抗してイタリア統一運動をリードした。世界遺産「サヴォイア王家の王宮群(イタリア、1997年、文化遺産(i)(ii)(iv)(v))」構成資産

ギリシアでもフランス革命の影響を受けて独立運動が活発化していた(ギリシア独立戦争)。

 

ギリシアはイスラム教を奉じるオスマン帝国下にあっても信教の自由を認められて「オスマンの平和(パックス・オトマニカ)」を享受していたが、ギリシアに対するトルコ人の土地収奪が進み、西欧が近代化すると、オスマン帝国に対する不満が広がった。

1814年に秘密結社フィリキ・エテリア(友愛会)が結成されると、これを中心に武装蜂起が準備され、1821年に独立戦争を開始。

1822年にはアテネのアクロポリス※を占領し、独立を宣言して憲法を制定した。

※世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」


オスマン皇帝マフムト2世はエジプト総督ムハンマド・アリー(実質的にはムハンマド・アリー朝の王ムハンマド・アリー1世)の支援を受けると攻勢に転じ、1826年にアテネ奪還に成功。

ヨーロッパ諸国は当初オスマン帝国の正統をうたってギリシア独立を否定していたが、キリスト教徒がイスラム教徒に虐殺される事態に対して親ギリシアの空気が醸成された。


ロシアはオスマン帝国が正教会の頂点であるコンスタンティノープル総主教グリゴリオス5世を処刑して以来、国交を断絶しており、1825年に神聖同盟を脱退してオスマン帝国と対立を深めた。

イギリス外相カニングもギリシアを支持し、フランスもギリシア・エジプトへの影響力を増すためギリシア支援に転じた。


1827年、英仏露の連合艦隊は帆船時代最後の大海戦と呼ばれたナヴァリノの海戦でオスマン帝国とエジプトの連合艦隊を撃破。

これを機にギリシア軍はペロポネソス半島を占領し、アテネをはじめとする諸都市を奪還した。

1829年にオスマン帝国とロシアはアドリアノープル条約を締結し、ロシアは黒海北岸を獲得。

ギリシアの独立は1830年のロンドン会議で承認され、1832年のコンスタンティノープル条約で正式に認められた。


ロシアでも皇帝の専制政治対して不満が募っていた。

1825年、アレクサンドル1世が急逝してニコライ1世が即位すると、青年将校たちが自由主義改革を求めてデカブリスト(十二月党員)の乱を起こす。

この乱はただちに平定されるが、ロシアの革命運動の契機となった。


* * *

南アメリカ、版図の推移


<ラテン・アメリカ諸国の独立>


アメリカの独立とフランス革命によって、自由主義とナショナリズムはヨーロッパだけでなく、ラテン・アメリカ諸国にも広がっていた。


独立運動の先駆けとなったのがハイチだ。

ハイチのあるエスパニョーラ島は1492年にコロンブスが上陸した島で、スペインによる支配で先住民はほぼ絶滅してしまった。

その後、黒人奴隷を投入してコーヒーやトウモロコシ、サトウキビのプランテーション経営を開始。

17世紀にはフランス人がサンドマングと呼ばれる島の西部に進出し、ファルツ戦争の結果フランス領となった。


サンドマングで自由を求める声が高まり、1791年に黒人奴隷の暴動が勃発。

1794年にフランスで国民公会が奴隷制の廃止を宣言すると勢いづき、独立運動に発展する。

世界遺産「国立歴史公園-シタデル、サン・スーシ、ラミエ」のシタデル・ラフェリエール
1804年に独立したハイチで、国王アンリ1世がフランスの侵攻に備えて建設したシタデル・ラフェリエール。20万人を動員したが、フランスが攻めてくることはなかった。世界遺産「国立歴史公園-シタデル、サン・スーシ、ラミエ」構成資産

黒人指導者トゥサン・ルヴェルチュールはイギリス軍を撃退するも、ナポレオン1世がフランス軍を投入するとルヴェルチュールは捕らえられ、1803年に獄死してしまう。

 

その遺志はジャン=ジャック・デサリーヌらに引き継がれ、1804年に中南米で初となる独立国家にして、黒人が主体となるはじめての共和国=ハイチ共和国が誕生。

デサリーヌはジャック1世として皇帝に就任した。

 

1806年、将軍アンリ・クリストフがクーデターを起こして北部を制圧。

ジャック1世が暗殺されると、政権を奪取して王位に就いた。

アンリは強力なシタデル(城塞)※を建設し、ベルサイユ宮殿を模してサン・スーシ宮※を建設してその力を見せつけた。

※世界遺産「国立歴史公園-シタデル、サン・スーシ、ラミエ(ハイチ、1982年、文化遺産(iv)(vi))」

 

なお、ハイチでプランテーションを経営していた農場主たちはカリブ海の島々に逃れて新たにプランテーションを起こした。

その一部はキューバに渡り、サトウキビやコーヒーの栽培を行った。

世界遺産「キューバ南東部のコーヒー農園発祥地の景観(キューバ、2000年、文化遺産(iii)(iv))」はそんな農場主たちが起こしたプランテーションに起源を持つ。

 

こうしてフランスの植民地経営は頓挫し、1803年にルイジアナをアメリカに売却した。

 

エスパニョーラ島東部は1819年に独立を宣言してドミニカ共和国となったが、1822年にハイチが併合。

改めて1844年に独立している。

 

ハイチの独立は黒人によってなされたが、それ以後の独立運動はほとんどが中南米で生まれ育った現地在住の白人=クリオーリョによって起こされた。

もともとスペイン統治下の植民地では、ヨーロッパ本国からの白人=ペニンスラールを頂点としてクリオーリョが続き、白人と先住民の混血=メスティーソ、白人と黒人の混血=ムラート、先住民、黒人がヒエラルキーを形成していた。

独立運動を主導したのは主にクリオーリョとメスティーソだ。

 

1808年にフランス軍がスペインに侵攻し、ナポレオン1世の兄であるジョゼフ・ボナパルトがスペイン王に即位すると、フランスに対する大規模な反乱が勃発する(スペイン独立戦争/半島戦争)。

スペイン本国のこの混乱に乗じて1810年代に南米各地で独立運動が加速する。

世界遺産「古都グアナファトとその銀鉱群」
メキシコ独立運動で揺れ動いた世界遺産「古都グアナファトとその銀鉱群(メキシコ、1988年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」。グアナファト州は独立運動の中心で、この地ではじめて独立側に勝利をもたらした
世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区」
グアナファトとともにメキシコ独立運動の拠点となった世界遺産「ケレタロの歴史史跡地区(メキシコ、1996年、文化遺産(ii)(iv))」

1810年9月16日、メキシコ・グアナファト州のドローレスでクリオーリョのミゲル・イダルゴが演説を行い、スペイン支配の苦痛を叫んで独立を主張した(ドローレスの叫び)。

これを機にクリオーリョやメスティーソに先住民が加わってメキシコ独立革命が勃発。

しかし、イダルゴはメキシコ副王軍に敗れて処刑されてしまう。

 

1820年にスペイン本国で立憲革命が起こると、副王側についていたイトゥルビデが本国を裏切って翌1821年にメキシコ帝国の独立を宣言。

イトゥルビデはアグスティン1世として皇帝位に就いた(メキシコ第一帝政)。

 

アグスティン1世は皇帝を頂点とする立憲君主制を敷いたが、皇帝は強権性を強めてすぐに議会と対立。

1823年に追放されるとイタリアに亡命し、翌年帰国したのち処刑された。

 

神聖同盟諸国はメキシコ出兵を企図するが、アメリカはそれに反発して1823年にモンロー教書を発表。

アメリカはヨーロッパとその植民地に干渉しない代わりに、ヨーロッパ諸国に南北アメリカ大陸への不干渉を求め、これにイギリスが同調した。

 

1824年に憲法を制定して連邦共和政に移行し、メキシコ合衆国が成立。

1835年に憲法を廃止したためメキシコ共和国に移行する。

1836年にはテキサス共和国が独立して1845年にアメリカへの加盟を決定。

メキシコはこれに反発してアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争。1846~48年)を起こすが、これに敗れてテキサス、カリフォルニア、ニュー・メキシコを失った。

世界遺産「メキシコシティ歴史地区とソチミルコ」の国立宮殿
メキシコシティの国立宮殿。もともとアステカ皇帝の宮殿で、コルテスが宮殿を建て、焼失したのち再建された。メキシコ大統領は毎年9月15日、メキシコ独立運動の口火を切ったイダルゴの「ドローレスの叫び」をここで再演している。世界遺産「メキシコシティ歴史地区とソチミルコ(メキシコ、1987年、文化遺産(ii)(iii)(iv)(v)」構成資産 C:Reinhard Jahn, Mannheim

イダルゴの反乱が起こった1810年、ベネズエラのカラカスでも独立運動が起こる。

クリオーリョであるシモン・ボリバルはイギリスの協力を得るため渡英するが、これに失敗。

1811年にカラカスに戻ると、制憲会議を主導してベネズエラの独立を宣言する。


翌年スペイン軍に鎮圧されるが、ボリバルは一旦ジャマイカに逃れて兵力を整えると、ふたたび南米に上陸して運動を指揮。

カルタヘナ※でスペインに対する徹底抗戦を宣言し(カルタヘナ宣言)、抵抗運動を継続する。

そして1819年にボヤカの戦いに勝利すると、大コロンビア共和国の独立を宣言して初代大統領に就任した。

※世界遺産「カルタヘナの港、要塞群と建造物群(コロンビア、1984年、文化遺産(iv)(vi))」


やはり1810年、ラプラタ副王領(現在のアルゼンチン)でも独立運動が起こる。

最初に独立したのがパラグアイで、1811年にいち早く独立を宣言し、独裁制を敷いたのち鎖国してしまう。

世界遺産「リマ歴史地区」のサン・マルティン広場
1542年にペルー副王領の首都となったリマのサン・マルティン広場。左に立っているのは独立運動の英雄サン・マルティン像。近くにあるトーレ・タグレ宮殿はサン・マルティンの命で建設された。世界遺産「リマ歴史地区(ペルー、1988年、1991年拡大、文化遺産(iv))」構成資産

この頃、スペイン本土で独立運動の報を聞いていたのがサン・マルティンだ。

サン・マルティンはラプラタ副王領の生まれでスペイン軍の指揮官として働いていたが、退官したのち1812年に帰国してラプラタ連合州の独立運動に参加する。


1816年にラプラタ連合州はアルゼンチンとして独立を宣言。

しかしスペインの拠点であるペルー副王領の勢いは強く、これを排除してペルーを独立させない限り、真の独立はないと思われた。


そこでサン・マルティンはチリとアルト・ペルー(現在のボリビア)を先に独立させ、その後ペルーを攻略する遠大な計画を構想。

1818年にサンチャゴを落としてチリの独立を宣言し、イギリスの協力を得てペルーを攻撃すると、1821年にリマ※に入城して独立を宣言した。

※世界遺産「リマ歴史地区(ペルー、1988年、1991年拡大、文化遺産(iv))」


しかしながらサン・マルティンのペルー統一はうまく進まず、大コロンビアを打ち立てたシモン・ボリバルに協力を要請。

ところがふたりの会見は決裂し、サン・マルティンが戦いから手を引く一方で、ボリバルがペルーに進出してペルー副王軍と戦い、1824年のアヤクチョの戦いに勝利して独立を確定づけた。


その勢いのままボリバルはスクレ将軍を派遣してアルト・ペルーを攻略し、1825年にボリビアが独立した。

世界遺産「古都スクレ」
ボリビアの独立宣言調印式が行われたスクレ。都市の名は初代大統領の名から命名された。行政府・立法府が置かれた事実上の首都はラパスだが、現在も憲法上の首都はスクレになっている。世界遺産「古都スクレ(ボリビア、1991年、文化遺産(iv))」構成資産 C:Micah MacAllen

ウルグアイはブラジルとラプラタ副王領の間にあり、ポルトガルとスペインの利権が対立する場所にあった。

アルゼンチンで独立の機運が高まるとウルグアイも独立を目指すが、1821年にブラジルが併合。

スペイン、ポルトガルも入り乱れての戦いになるが、1828年にイギリスの仲裁で分離し、1830年に憲法を制定して共和国として独立した。


その1830年には大コロンビアが分裂してコロンビア、ベネズエラ、エクアドルが独立。

こうして1830年までに南米の多くの国々が独立した。


中央アメリカでは、1821年にメキシコ帝国が誕生してアメリカのテキサス、カリフォルニア、ニュー・メキシコからコスタリカにいたる大帝国が誕生(先述)。

しかし1823年にはグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、ロスアルトスが中央アメリカ連邦として独立。

1838年にホンジュラスが離脱すると、構成国が次々と独立した(ロスアルトスは1840年にグアテマラに併合)。


* * *

ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』1830年、ルーヴル美術館
ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』1830年、ルーヴル美術館。七月革命を主題としており、女性はフランスの自由の女神=マリアンヌを示している

<七月革命とその影響>


フランスではルイ18世が王位に就いてブルボン朝が復活したが(復古王政)、同時に憲法が制定されて立憲君主政が成立していた。

憲法は基本的人権や法の下の平等、所有権の不可侵などをうたっていたが、選挙権は貴族や地主に限られ、きわめて制限されたものだった。


1824年にルイ18世が亡くなると、弟のシャルル10世が即位する。

シャルル10世とそれを取り巻く貴族や聖職者らは極端に反動的な政策をとり、絶対王政の復活を画策した。

議会を解散したり、言論統制を行い、これらの批判をかわすために1830年にはオスマン帝国が支配するアルジェリア出兵を行った。

アルジェリアではこれ以降1962年の独立までフランスの植民地支配が続く。


1830年7月、パリ※で新聞の発行が停止されると不満が爆発して暴動が勃発(七月革命)。

「栄光の3日間」といわれる戦闘ののち、シャルル10世は退位し、ブルボン家の分家であるオルレアン家から自由主義者で知られるルイ・フィリップが迎えられて即位した(七月王政)。

 

王政を維持したのは、富裕市民=ブルジョワジーが急激な改革やジャコバン独裁の失敗を恐れたためといわれる。

これにより選挙権は拡大したが、市民のごく一部に限られていることには変わりなく、なお不満はくすぶった。

※世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

ショパン、練習曲ハ短調 作品10-12『革命』

 

フランス七月革命の影響はヨーロッパ各地に現れた。


1815年のウィーン会議でネーデルラント連邦共和国の支配下に入っていた南ネーデルランドでは、独立運動が一気に活発化。

オランダ国王ウィレム1世はブリュッセル※に軍を派遣するが、革命派はこれを退けて臨時政府を樹立し、独立を宣言した。

ベルギーの独立は1831年のロンドン会議で承認されたが、独立の代わりに王政を採ることを強いられると、ザクセン公レオポルドがレオポルド1世として王位に就いて立憲君主制を敷いた。

オランダは1839年にベルギーと和平条約(ロンドン条約)を結び、独立を認める代わりにフランスなどのカトリック諸国と結ぶことがないよう永世中立を宣言することを求めた。

こうしてベルギーは永世中立国となり、中世以来の毛織物産業や金融産業を活用してイギリスに続く産業革命を成し遂げる。

※世界遺産「ブリュッセルのグラン・プラス(ベルギー、1998年、文化遺産(ii)(iv))」

 

[関連サイト]

ブリュッセルのグランプラス/ベルギー(All About 世界遺産)


同じ1830年、事実上ロシアに併合されていたポーランドのワルシャワ※で反乱が起こる(ワルシャワ蜂起)。

ロシア士官学校で暴行を受けた学生らが暴動を起こすと、これに多くの市民が呼応。

ポーランド総督の宮殿を襲い、国会を開いて独立を宣言する。

フランスの義勇兵は改革を応援したが、プロイセンとオーストリアは革命の拡散を恐れてロシア側に回り、ロシアは軍を派遣して1831年にワルシャワを落として制圧した。

※世界遺産「ワルシャワ歴史地区(ポーランド、1980年、文化遺産(ii)(vi))」

 

これ以降、ポーランドではたびたび独立運動や反乱が起こるが、ロシアやプロイセン、オーストリアに鎮圧され、独立は1918年まで先延ばしされる。

なお、この革命に際して帰国を望んだショパンは、父に諭されてパリにとどまってエチュード(練習曲)『革命』を作曲している。

世界遺産「ブリュッセルのグラン・プラス」のフラワーカーペット
世界遺産「ブリュッセルのグラン・プラス」のフラワーカーペット。中央の建物はブラバント公国の役所が置かれたことから「公の家」と呼ばれ、ハプスブルク家の領地になると「王の家」になった。フランス革命後に独立運動が盛り上がると、王の名は嫌われて「人民の家」と呼ばれた

長らく小国分裂状態が続いているドイツ連邦やイタリア北部でも独立と統一に向けた運動が活発化する。

 

1830年、ドイツでは市民やグーツヘルシャフト(大農園)の支配に苦しむ農民を中心に反乱が起こり、ドイツの革命と統一が熱望されるが、ドイツ連邦各国やオーストリア、プロイセンの圧力で鎮圧。

イタリア北部でも独立運動が起こるが、やはりオーストリア軍に制圧された。

しかしながらイタリアではマッツィーニが1831年に青年イタリアを結成し、イタリア統一運動は加速を続ける(青年イタリアは1834年に一旦解散するが、1843年に再結成してローマ共和国建国へ続く)。


七月革命の前後にイギリスでも種々の自由主義的改革が行われた。

 

まず信教の自由を求めて1828年に審査法が廃止された。

審査法は1673年に制定された法律で、官職に就くことができるのは国教徒に限られていたが、これを拡大。

カトリックを信仰するアイルランド人に対する差別は残されたが、これもオコンネルらの運動が奏功して1829年のカトリック教徒解放法でカトリックに拡大されて宗教的差別はなくなった。


1832年には第一次選挙法改正が行われ、産業革命で大きく変化した人口の変動に合わせた選挙区割りが実現した。

さらに産業資本家(富裕市民)にも選挙権が与えられ、地主を中心とした保守党と、資本家を中心とした自由党が編成された。

貿易の自由化も進められ、1833年には奴隷制(奴隷制度廃止法)が廃止され、同年の東インド会社の中国貿易独占権廃止(インド貿易独占権は1813年に廃止済み)に伴って同社は商業活動を停止した。

コブデン、ブライトらによる反穀物同盟の運動が盛んになると、1846年に穀物法(一定の値を下回った穀物の輸入を停止する法律)が撤廃。

1849年には航海法(イギリスとその植民地へ送られる輸送品はイギリスか原産国、最初の積出港の所属国の船で運ぶことを定めた法律)も廃止された。


しかしながら労働者に対する権利拡大は行われず、このため選挙権を有しない市民たちは男子普通選挙や被選挙権の財産制限の廃止、定期的な選挙区割りの実現など6か条からなる人民憲章 "Peoples Charter" を掲げ、チャーティスト運動と呼ばれる政治運動を行った。


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世界遺産「ヴロツワフの百周年記念ホール」
ナポレオン1世に対するライプツィヒの戦い戦勝百周年を記念して建設された展示ホール、世界遺産「ヴロツワフの百周年記念ホール(ポーランド、2006年、文化遺産(i)(ii)(iv))」。マックス・ベルク設計で、当時世界最大級の鉄筋コンクリート建築だ C:Taxiarchos228

<二月革命とその影響>


七月革命以降の運動は、ベルギーを除いてほとんどが鎮圧されてしまった。


フランスでは産業革命が本格化して資本家がさらに躍進するが、富裕層を除く中小資本家や労働者の不満はさらに募っていった。

ギゾー内閣は高まる選挙法改正要求に対して集会や宴会を禁止して取り締まりを行った。


1840年代後半に凶作と不況が続くと国民生活が悪化。

1848年2月、パリで違法行為にもかかわらず改革のための宴会が開催され、これに多くの市民が参加した。

市民たちがテュイルリー宮殿を襲撃すると、国王ルイ・フィリップはイギリスに亡命し、そのまま退位した(二月革命)。


臨時政府が樹立されると王政から共和政への変更を確認し、国王位は廃位された(第二共和政)。

そして男子普通選挙や言論の自由、奴隷制廃止などを確認。

4月には男子普通選挙が行われた。

当初臨時政府は社会主義者ルイ・ブランらを臨時政府に参加させてバランスをとっていた。

ルイ・ブランは国立作業所を造って労働者を集めるが、賃金の上昇に伴って6月に廃止を決定。

4月の選挙で社会主義者が大敗していたこともあり、労働者たちの不満が高まって6月に蜂起するが(六月蜂起)、臨時政府はこれを鎮圧した。

これにより、共和政がブルジョワジーを中心としたものであることが確認された。


同年11月に制定された第二共和政憲法ではフランス革命と同様「自由・平等・博愛」や三権分立を規定。

男子普通選挙、人民主権、一院制、大統領制などを掲げた。

そして憲法にしたがって12月に実施された大統領選挙ではナポレオン1世の甥にあたるルイ・ナポレオンが当選した。


国民に支持があったのはルイ・ナポレオンだが、議会では反対派が多く、政策が思うように進まない。

それどころか議会は普通選挙を後退させて制限を加えてしまう。

大統領の再任が禁じられていたこともあり(任期4年)、こうした問題を一気に解決するためにクーデターを決意する。


1851年12月2日、軍を導入すると議会を包囲してこれを解散(1851年12月2日のクーデター)。

12月21日に国民投票を行い、圧倒的な支持を確認してこれを合法化した。


翌1852年1月には新憲法を制定して大統領任期を10年に延長したうえ、議会にかけなくても国民投票で可決を可能とするなど各種権限を強化。

同年12月に国民投票を行い、やはり圧倒的な賛成を得てナポレオン3世として皇帝位に就いた(第二帝政)。

世界遺産「ケルン大聖堂」
世界遺産「ケルン大聖堂(ドイツ、1996年、2008年拡大、文化遺産(i)(ii)(iv))」。焼失したのち1248年に再建がはじまるが、16世紀に放棄。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が再建許可を出し、1842年に再建がはじまった。独立運動の広がりとともにドイツ統一の象徴となった

フランス二月革命により、ヨーロッパ各地の自由主義運動とナショナリズム運動が刺激され、一八四八年革命と呼ばれる連鎖的運動を引き起こした。

 

まずは1848年3月に起こったウィーン三月革命で、オーストリアの帝都ウィーンで民衆の蜂起が起こった。

オーストリア宰相メッテルニヒはウィーン体制の象徴だが、この革命によりウィーンを追われてイギリスに亡命した。

 

独立運動はハプスブルク家の治めるボヘミア(ベーメン、チェコ)、ハンガリー、ポーランド、ベネチア、ロンバルディアなどに波及。

自由主義やナショナリズムは各地に広がり、こうした動きは「諸国民の春」と呼ばれた。

これらの運動はオーストリアやロシアの軍に鎮圧されたが、その後の各国の独立に大きな影響を与えた。


同じく3月にプロイセンの首都ベルリン※でも自由主義とドイツ統一・国民国家創設を求めて革命運動が起きた。

国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は憲法と議会の制定、連邦国家の編成を約束し、5月にはフランクフルト国民議会が発足。

 

しかし共和政と君主政、大ドイツ主義(オーストリア領のドイツを含むオーストリア主体の統一)と小ドイツ主義(オーストリア領を排除したプロイセン主体の統一)の対立が解消できず、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世もドイツ皇帝就任を拒否したため、1849年に解散。

結局、革命はプロイセン軍によって制圧された。

※世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ、1990年、1992・1999年拡大、文化遺産(i)(ii)(iv))」


イギリスでは本土でチャーティスト運動が高まりを見せ、アイルランドでは独立運動が活発化した。

 

[関連サイト]

ケルン大聖堂/ドイツ(All About 世界遺産)

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結局、七月革命・二月革命で広がった自由主義とナショナリズムの運動はほぼ制圧された。

しかしながらメッテルニヒの失脚に象徴されるようにウィーン体制は崩壊し、絶対王政は時代遅れとなり、多くの国で多かれ少なかれ憲法と議会を認めざるをえない状況が訪れた。


これより西欧では自由主義と民主主義の運動が広がり、中欧・東欧ではナショナリズムによる民族自立・独立が進んでいく。



次回は東方問題、ロシアの南下政策、イタリアとドイツの成立を紹介する。



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