世界遺産と世界史9.インダス文明と古代インド
以前、インドからトルコ・中東を抜けてエジプトへ、バスを乗り継いで旅をした。
いつまでも変わらぬ景色に度肝を抜かれた。
どこまで行っても砂や礫や岩石が転がる砂漠やステップ。
時折見かける緑の中には必ず川があり、そこに張り付くように人々が暮らす街があった。
こんな地方に大国ができた秘密はこの便のよさにある。
インド中部の熱帯雨林や東南アジア、中国南部の森林地帯、古代ヨーロッパは人が自由に行き来するには緑が深すぎる。
それに、そもそも食料豊富な地域では大きな領域を支配する意味も、他の地域に移動する意味もない。
だから森林を切り拓く高い文明が誕生するまで、街はできても巨大な国家はできなかった。
そう感じた。
* * *


その中東の砂漠・ステップ地帯の東の端に位置するのがインダス川だ。
上流に降水量豊富な湿地帯を抱えた乾燥地帯である点はチグリス川、ユーフラテス川、ナイル川と同じ。
おかげで紀元前7000~前5000年ほどには農耕・牧畜が行われていた。
その証拠のひとつがパキスタンの世界遺産暫定リスト記載のメヘルガル遺跡だ。
農耕・牧畜を基礎とする定住生活は次第に広がっていき、紀元前2500年頃にはハラッパ①、モヘンジョダロ②、ラフマン・デリ③、ドーラビーラ④をはじめとする都市国家群が誕生する。
インダス文明だ。
※①③パキスタン世界遺産暫定リスト記載
②世界遺産「モヘンジョダロの遺跡群(パキスタン、1980年、文化遺産(ii)(iii))」
④インド世界遺産暫定リスト記載
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モヘンジョダロはレンガによって築かれた都市遺跡。
整然と区画整理されており、下水道やゴミ処理施設、浴室、水洗トイレを完備。
汚水は一個所に集められ、微生物によって自然処理したあと肥料として用いることで有機農法を実現した。
ちなみに、パリに下水道が整備されたのが14世紀、完備は18世紀半ば、ロンドンが19世紀後半だ。
それ以前は窓から道路へ屎尿を捨てており、その臭いを嫌って太陽王ルイ14世が世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園(フランス、1979年、2007年、文化遺産(i)(ii)(vi))」を建てたエピソードは有名だ(実際にはベルサイユ宮殿でもおまるに入れた屎尿はその辺に捨てられていた)。
また、ハラッパ、モヘンジョダロに共通する特徴に、宮殿や神殿、軍事施設や武器、戦争の跡が見つからない点が挙げられる。
メソポタミアやエジプトと異なり、強力な国王や神官がおらず、中央集権的な政治システムが整っていなかったようだ。
これほどの文明を築いたインダス諸都市であったが、紀元前1800~前1500年頃、突如放棄されてしまう。
戦争の跡がないということは、ハラッパもモヘンジョダロも直接侵略されたわけではないということ。
その理由は諸説あり、アーリア人の侵入、気候変動によるインダス川の流路の変化、木々の伐採による環境破壊などが挙げられている。
イラン高原やインダス川上流にいたアーリア人が移動したのは確かなようで、紀元前1500年頃から南下を開始。
これに押される形でその地に住んでいたドラヴィダ人もインド北西部、その後インド南部を中心に移動。
アーリア人はやがてインド北西部にまで到達し、拡散していった。
なお、紀元前3200~前2300年に栄えたシャフレ・ソフテ①、紀元前2500~前900年ほどに反映したアラビア半島のディルムン②などではメソポタミア文明とインダス文明の交流が確認されている。
※①世界遺産「シャフレ・ソフテ(イラン、2014年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」
②世界遺産「カラット・アル-バーレーン-古代の港とディルムンの首都(バーレーン、2005年、2008年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」
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アーリア人がもたらし、のちのインドの宗教、思想、哲学に多大な影響を与えたのが「ヴェーダ」だ。
「知識」を表すヴェーダは膨大な思想・信仰・芸術体系で、多彩な神々への信仰や祭祀から音楽・文学まで、あらゆる分野の文化を伝えた。
その最古の記録が『リグ・ヴェーダ』だ。
この時代、インド北部、ガンジス川の川沿いに多数の都市国家が生まれる。
マガダ、コーサラの二大国を中心に、ヴェーダが広まっていく紀元前1500~前500年頃を「ヴェーダ時代」という。
ヴェーダを聖典とするバラモン教もこの時代に誕生した。
バラモン教は司祭であるバラモンの祭祀を重要視しており、やがてそのバラモンが社会の要職を支配。
社会をバラモン>クシャトリア(貴族・戦士)>ヴァイシャ(農工商人)>シュードラ(奴隷)に加え、それらの階級にさえ入れない不可触民という4階級+1のヴァルナ(色。階級)に分け、身分を世襲させた(ヴァルナ制)。
のちの時代にはさらに細分化し、生まれながら職業=ジャーティまでが固定化される(カースト制)。
バラモン教は4~5世紀に多彩な神々を取り込みヒンドゥー教としてインド全土に広まるが、このヴァルナ制、あるいはカースト制はインド憲法で禁止された現代のインドでも根強く残っており、街を歩いていれば区画や家の形等で簡単に区別することができる。
バラモン教から派生した哲学=世界の真理を解き明かす活動が「奥義」を意味するウパニシャッドだ。
この世の謎を追究していくと必ず世界の不思議と、私という存在の不思議、主客ふたつに行き着く。
ヴェーダの時代も「私」と「他者(世界)」の謎は盛んに議論され、ウパニシャッドは私の原理=アートマン(我)と世界の原理=ブラフマン(梵)の合一、すなわち梵我一如を謳った。
その哲学は仏教哲学やジャイナ哲学をはじめとするアジアの哲学に大きな影響を与えた。
紀元前6世紀前後になると、都市国家の対立から戦士階級クシャトリア、貿易の活発化から商人階級ヴァイシャが力を増していく。
差別への不満からバラモンの権威や祭祀、ヴァルナ制を否定した宗教が次々と登場。
中でも特に支持されたのヴァルダマーナのジャイナ教とガウタマ・シッダールタの仏教だ。


ジャイナ教が重視するのが正しい信仰、知識、行為の「三宝」。
三宝のために種々の戒律があり、特に対立の否定が大きな特徴だ。
まず、動物を食べず、植物も実や葉や茎など再生できる部分に限って非殺傷を主張する。
そして、他人や物を傷つけることを否定して非暴力を掲げ、対立を生む所有を否定して非所有を謳った。
これらに従って厳しい修行に励む行者も多い。
非暴力不服従運動のマハトマ・ガンディーもジャイナ教徒として生まれている。
そのジャイナ教の開祖ヴァルダマーナはマガダ国の有力部族の子息として誕生。
王女と結婚して王子となるが、両親の死を期にすべてを捨てて出家する。
苦行に励むがやがて娑羅双樹の下で悟りを開き、「偉大なる者」マハーヴィーラと呼ばれるようになる。
この辺りはガウタマ・シッダールタの物語とそっくりだ。
ガウタマ・シッダールタが生まれたのはマガダ、コーサラに挟まれた釈迦族の国で、ネパールのルンビニ①の地だ。
釈迦族の王子として16歳で結婚するが、生老病死の四苦をつねに感じていた彼は、妻も息子も捨てて突如出家してしまう。
激しい修業ののちブッダガヤ②の菩提樹の下で悟りを開き、「目覚めた人」ブッダと呼ばれるようになる。
その後サールナート③ではじめて説法を行い、クシナガル④で没するが、弟子たちはやがてその教えを仏教へと展開する。
①~④を仏教四大聖地と呼び、いずれも世界遺産と関係がある。
※①世界遺産「仏陀の生誕地ルンビニ(ネパール、1997年、文化遺産(iii)(vi))」
②世界遺産「ブッダガヤの大菩提寺(インド、2002年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」
③④インドの世界遺産暫定リスト記載
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ジャイナ教も仏教も、当初は哲学的色彩が強く、宗教ではなかった。
神や悪魔や霊、占いや預言、天国や地獄やあの世といった形而上学的な(超常的な)話をすることはなかったし、「これを信じろ」とか「こう生きろ」などと思想を主張することもなかった。
言葉の意味は文化や人によって変わるので相手によって話す内容を変えたし(仏教の対機説法、ジャイナ教のスヤード・ヴァーダ)、そもそも真理は言葉を超えているので書物に残そうとさえしなかった(仏教の無記、ジャイナ教のアネーカーンタ・ヴァーダ)。
言葉で伝えられないものであるから、自分自身で考え・感じることを重視した(仏教の自灯明、ジャイナ教の個人主義)。
ただ、先述のウパニシャッド哲学同様、アートマンとブラフマン、つまり「私」と「他者(世界)」の問いについてはさまざまな考えを残している。
したがって宗教的な儀式、聖書的な書物、神殿的な建物、仏像のような象徴といったものはいっさい残さなかった。
宗教的な思想や仏典や寺院や石像はすべてのちの時代に作られたものなのだ。
たとえば仏教やジャイナ教の神々は、ブッダやマハーヴィーラとその弟子や師を神格化したり、バラモン教や土着の神々を取り入れて発達したもの。
たとえば仏教の仏像やジャイナ教の石像は、アレキサンダー大王が南アジアに攻め入って以降伝わったギリシア彫刻をマネて、弟子たちが作り出したもの。
ただ、ブッダの弟子たちは師の言葉だけは正しく伝えようと、皆で集まって経(教え)・論(解釈)・律(戒律)の三蔵を整えた。
これを結集(けつじゅう)という。
特に最重要の教説=経については間違いがないよう全員で唱和し、口伝で伝えられた。
これがお経の起源だ。
これらをもとに、後年数多くの仏典が作られるようになる。
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紀元前317年頃、マガダ国ではチャンドラグプタがナンダ朝を倒し、首都をパータリプトラに定めてマウリヤ朝を建てる。
チャンドラグプタは史上はじめてインド北部の都市国家群を統一。
アレキサンダー大王の部隊の攻撃を退け、その勢いで現在のバングラデシュからパキスタン、アフガニスタン、ネパールからインド中部に至る大帝国を成立させる。
特に重要なのがパキスタンからアフガニスタンに広がるガンダーラの土地だ。
ここでギリシアの文化とインドの文化が混じり合い、アショーカ王が仏教を伝えることで仏像が誕生することになったといわれている(別説あり)。
マウリヤ朝の最大版図はチャンドラグプタの孫・アショーカ王が実現した。
伝説ではアショーカ王はとんでもない暴君で、母親と99人の兄弟を殺して王に即位し、外征においても破壊と殺人を繰り返したという。
ところがカリンガ王国征服の際の惨状を見て改心し、仏教に帰依。
仏教のダルマ(法。摂理・倫理)を根本原理とする平穏な政治を志すようになったという。
アショーカ王は仏教にさまざまな形で貢献した。
ダルマを伝える勅令をアショーカ・スタンバ(アショーカ・ピラー)という石柱の上に刻み、全国各地に打ち立てた。
各地に散らばった仏典を集めて再編纂し(第三回仏典結集)、仏教の体系化を進めた。
伝説だが、8つに分けて奉納されていたブッダの遺骨のうち7つを発見・発掘し、84,000に分割したのち各地にストゥーパを造って奉納した。
この「ストゥーパ」は墓を意味するサンスクリット語で、以来、仏教寺院ではブッダの遺骨=仏舎利(ぶっしゃり)を収めて供養塔とした。
現在南アジアや東南アジアに広く見られるストゥーパやパゴダがこれに当たる。
仏教が後漢から魏晋南北朝時代に中国に渡った際に「塔」の字があてられ、やがて三重塔や五重塔といった多層塔に発展した。
といっても、のちの時代では本物の仏舎利が収められることは稀で、別の高僧の遺骨やマンダラ等を代用として収ることが多いという。
ちなみに、日本のお墓に見られる卒塔婆(そとうば)もストゥーパに由来する。

アショーカ王が関係する世界遺産は少なくない。
アショーカ・スタンバを目印に発見されたのが「仏陀の生誕地ルンビニ(ネパール、1997年、文化遺産(iii)(vi))」で、インドの世界遺産暫定リスト記載のサールナートやクシナガルにも立っている。
「錆びない鉄柱」として有名な「デリーの鉄柱」はアショーカ・スタンバを模したもので、世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド、1993年、文化遺産(iv))」に含まれる。
アショーカ王のストゥーパの中でもっとも有名なのが世界遺産「サーンチーの仏教建造物群(インド、1989年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」の8つのストゥーパで、そのうち3つが現存。
世界遺産「タキシラ(パキスタン、1980年、文化遺産(iii)(vi))」にあるダルマラジカもアショーカ王のストゥーパと言われる。
また、世界遺産「ブッダガヤの大菩提寺(インド、2002年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」のマハーボディ(大菩提寺)はアショーカ王が建てたストゥーパの上に建てられたと言われており、悟りを開いたその場所にはアショーカ王が置いた金剛座が残されている。
アショーカ王はスリランカにまで部下を派遣し、仏教を広めたという。
紀元前4~後11世紀、スリランカにはシンハラ王国が栄えていた。
紀元前3世紀にアショーカ王の弟とも息子とも伝えられるマヒンダが仏教を伝えると、当時の王・デーワーナンピヤ・ティッサは仏教に改宗。
首都アヌラーダプラにイスルムニヤ寺院をはじめとする寺院やストゥーパを建立する。
また、アショーカ王の妹・サンガミッタはブッダガヤの菩提樹を植樹。
これがいまなお枝を広げるスリー・マハー菩提樹だと伝えられている。
これらは世界遺産「聖地アヌラーダプラ(スリランカ、1982年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」に含まれている。
紀元前1世紀、ワッタガーマニ・アバヤ王の時代にタミル人の侵略を受けてアヌラーダプラを一時放棄。
王はダンブッラに逃れて僧たちに助けられる。
首都を奪還した後、王は僧たちに石窟を贈ると、以来ダンブッラは仏教の聖地となった。
その後石窟は黄金の仏像や仏教壁画で覆われ、黄金寺院と呼ばれるようになる。
世界遺産「ダンブッラの黄金寺院(スリランカ、1991年、文化遺産(i)(vi))」 だ。
さて。
アショーカ王の死後、マウリヤ朝は急速に衰退し、変わって中央アジアに成立した遊牧民族・大月氏が建てたクシャーナ朝が台頭する。
以降の時代の解説は「14.シルクロードとクシャーナ朝&漢」で解説する。
次回は、長江、黄河文明について解説する。
[関連サイト]
※以上、All About 世界遺産の記事。詳細は上にて解説。
ブッダの物語でオススメはなんといってもヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』
手塚治虫『ブッダ』もおもしろい