世界遺産と世界史45.イタリアとドイツの成立

 一八四八年革命はほぼ抑えられたが、ウィーン体制は崩壊し、欧州各国は新たな秩序を求めて覇を競い合っていた。


イギリスはアメリカ独立による国力低下をカバーするためにアジアやオセアニアに触手を伸ばし、ロシアは南下政策をとって地中海や西アジアを目指し、フランスはアジア・アフリカ進出の拠点としてアルジェリアやエジプト・トルコに接近し、プロイセンは産業革命とドイツ統一によって大国化を画策し、オーストリアはドイツとバルカン半島における覇権を狙い、イタリアやドイツの小国群はこうした帝国に対抗するためにひとつにまとまる必要に迫られていた。


一方、アナトリア半島(現在のトルコのある場所)を中心にバルカン半島や西アジアに広い勢力を誇ったオスマン帝国(オスマン・トルコ)だったが、19世紀には著しく弱体化しており、セルビアやギリシアの独立運動に対しても決め手を欠いていた。

列強は諸民族の独立運動やオスマン帝国の衰退に乗じて中欧・東欧・西アジアへの干渉を強め(東方問題)、現代の世界地図に多大な影響を与えるヨーロッパの再編が行われようとしていた。


* * *

世界遺産「イスタンブール歴史地域」
イスタンブール。手前が金角湾で、奥がボスボラス海峡。両者に挟まれた半島状の地域が世界遺産「イスタンブール歴史地域」登録の旧市街だ。(C) Istanbul-und-Türkei-Community

 

<東方問題とクリミア戦争>

 

ロシアは広大な版図を得ていたが、ほとんどは氷に閉ざされたツンドラ(永久凍土の上にできた荒原)や森林で、目立った産業もなかった。

海岸線の多くは北極海沿いにあり、冬は凍結するため港として使用することができなかった。

このため1年中港として活用できる不凍港が必要とされた。

そこで目をつけたのが地中海を通じて大西洋につながる黒海だ。

 

18世紀後半、ロシア皇帝エカチェリーナ2世は、オスマン帝国の保護下で黒海北部を治めていたクリミア・ハーン国を併合し、クリミア半島を入手。

アレクサンドル1世はギリシア独立戦争(1821~29年)に介入し、オスマン帝国&エジプトと英仏露で争われたナヴァリノの海戦に勝利して、アドリアノープル条約で黒海北岸を獲得した。

 

クリミア半島の港はたしかに不凍港だったが、地中海に出るにはオスマン帝国の首都イスタンブール※を横切るボスボラス海峡とダーダネルス海峡という細い海峡を通らなければならない。

ロシアは1829年にオスマン帝国から商船の通航権を得てはいたが、両海峡をオスマン帝国が押さえている限り、ロシアは自由な港を得たとはいいがたい状態だった。

※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ、1985年、2017年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))

 

[関連サイト]

イスタンブール/トルコ

世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」の聖イサク大聖堂
ピョートル大帝が建てた教会をベースに、アレクサンドル1世、ニコライ1世が完成させた聖イサク大聖堂。高さ101mを誇る新古典主義様式で、ロシア帝国の象徴とされる。世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア、1990年、2013年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」構成資産

 

この頃、オスマン帝国と対立を深めていたのがエジプトだ。

エジプトはナポレオンの遠征以来フランスが占領していたが、フランス軍はイギリスとオスマン帝国の連合軍に敗れてオスマン帝国領に復帰していた。

この間の混乱で力を蓄えたのがムハンマド・アリーだ。


ムハンマド・アリーは対フランスの司令官として活躍してエジプト民衆の人心を掌握し、1805年にエジプト総督に就任。

総督は王に匹敵する権限を認められていたことから実質的にオスマン帝国からの独立・自治を勝ち取り、ムハンマド・アリー朝が成立した。


1811年、ムハンマド・アリーはエジプトで力を保ち続けてきたマムルーク(トルコ人兵士)約500人を宴会と称してカイロのシタデル(城塞)※に集め、彼らを虐殺して政権の安定を確保(シタデルの惨劇)。

その後フランスを模範として紡績機や織機などを導入して近代的な官営工場を建設したほか、造船所・兵器工場・印刷所を造り、陸海空軍を整備し、農業や教育を改革して近代化を推し進めた。

※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」

世界遺産「カイロ歴史地区」のムハンマド・アリー・モスク
ムハンマド・アリーが建設し、死後の1875年に完成したカイロ・シタデルのムハンマド・アリー・モスク。トルコ風の意匠と美しい内装で知られている。世界遺産「カイロ歴史地区」構成資産。(C) Olaf Tausch

 

1818年、ムハンマド・アリーはイスラム教の聖地メッカとメディナを治めていたスンニ派の一派・ワッハーブ派のワッハーブ王国を滅ぼすと、1820~22年にはスーダンを攻略して版図に収めた。

さらに1821~29年のギリシア独立戦争でもオスマン帝国の依頼を受けて出兵し、戦争には敗れるもののクレタ島とキプロス島を獲得した。


ギリシア独立戦争参加の代償としてムハンマド・アリーはオスマン帝国にさらにシリアを要求するが、オスマン帝国はこれを拒否。

1831年に攻撃を開始し、第一次エジプト=トルコ戦争(1831~33年)がはじまった。

オスマン帝国はロシアにふたつの海峡の通航権を与えて支持を得るが、ロシアの進出を恐れたイギリスとフランスはオスマン帝国のマフムト2世にシリアなどの統治権をエジプトに引き渡すことを認めさせた。


オスマン帝国は1839年、シリア奪還を目標に第二次エジプト=トルコ戦争(1839~30年)を開始。

ムハンマド・アリーはネジブの戦いでこれを破ると、シリア総督を兼ねたエジプト総督の世襲権を要求した。

フランスはエジプトの支援に回ったが、エジプトのこれ以上の台頭を恐れたイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンがオスマン帝国を支持。

孤立を恐れたフランスが撤退すると、ムハンマド・アリーはイギリス軍に敗退した。


1840年のロンドン会議でムハンマド・アリーはエジプトとスーダン総督の世襲権を認められたが、シリアについてはオスマン帝国に返還した。

ロシアのボスボラス海峡とダーダネルス海峡の通航権については停止され、海峡は封鎖された。

世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」のクレムリン大宮殿
ニコライ1世が建設したモスクワのクレムリン大宮殿。1849年の竣工で、125×63mを誇る。世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場 (ロシア、1990年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」構成資産

1851年、ロシアの支援もあって、正教徒たちはフランスが所持していたエルサレム※の管理権をオスマン帝国に認めさせた。

翌年、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に迫って聖地管理権を回復。

これに対してロシアのニコライ1世は、聖地管理権とオスマン帝国領内の正教徒保護を名目にクリミア戦争を開始した(1853~56年)。

※世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請、1981年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 

1854年にイギリス、フランス両国と、イタリア統一のために両国に恩を売りたいサルデーニャ王国がオスマン帝国側について参戦。

ロシア軍数十万~100万に対して連合軍は5~7万程度にすぎなかった。


しかし、蒸気船をはじめ産業革命以降に飛躍した近代装備を誇る英仏軍にロシアは対抗できず、1855年にクリミア半島の古代都市ケルソネソス※に築かれたセヴァストーポリ要塞が陥落してロシアは大敗を喫し、30万ともいわれる死者を出す。

このときの体験をもとに書かれた小説がトルストイ著『セヴァストーポリ』で、この戦争に従軍看護婦として参加したのがイギリスのナイチンゲールだ。

※世界遺産「古代都市[タウリカのヘルソネソス]とそのホーラ(ウクライナ、2013年、文化遺産(ii)(v))」

 

1856年のパリ会議で締結されたパリ条約では、ボスボラス海峡とダーダネルス海峡における軍船の通航が禁止され、黒海は中立化された。

また、ロシアはベッサラビアをモルダヴィア公国に割譲し、モルダヴィア公国は隣のワラキア王国とともに独立を認められた。

モルダヴィア公国とワラキア王国は1859年に統一し、1866年にルーマニア公国となり、1878年にルーマニア王国として独立する。


ここまでロシアの南下政策はことごとく失敗に終わったが、ヨーロッパ諸国がしのぎを削る東方問題はそのまま残された。

世界遺産「トランシルヴァニア地方の要塞教会群のある集落のビエルタン聖堂
三重防壁に囲まれたビエルタン聖堂。ルーマニアの地はモンゴル帝国やオスマン帝国、ロシア帝国をはじめ、数々の侵略を受けた。このため教会もこうして要塞化している。世界遺産「トランシルヴァニア地方の要塞教会群のある集落(ルーマニア、1993年、1999年、文化遺産(iv))」構成資産


<ロシアの改革>

 

ロシアの後進性はロシア国内でも指摘されていたが、クリミア戦争で露呈した英仏との差はいかんともしがたく、近代化が不可欠なのは誰の目にも明らかだった。

特に改革が必要とされたのが農奴制だ。


農奴制は貴族の荘園に農奴を一生縛り付けておくもので、2,000万人はいるという彼らが自由民となって都市に移り住み、その労働力を工業や商業のために使わなくては産業革命や工業化は進まない。

このため皇帝アルクサンドル2世は1861年に農奴解放令を出し、農奴に職業選択や移動の自由を与えて貴族の支配から解放した。


しかし、農奴解放に対する貴族の反対は根強く、農奴制は骨抜きにされた。

土地は貴族のままで、農民に与えられる土地は有償で、しかも個人ではなく農民同士で税などを負担し合う農村共同体=ミールに与えられた。

このため自作農となる者は少なく、小作となった農民は以前の年貢よりも高い小作料を支払うケースもあり、生活が困窮する者も少なくなかった。

こうしたことから農民の不満がたまって各地で農民一揆が頻発した。


これ以外にもアレクサンドル2世は地方自治機関ゼムストヴォを設置したり、教育・司法・軍制の改革を行った。

ラジヴィウ宮殿
世界遺産「ワルシャワ歴史地区(ポーランド、1980年、2014年、文化遺産(ii)(vi))」のラジヴィウ宮殿(現大統領官邸)。18世紀の建設だが、アレクサンドル2世による同化政策後はロシアの官邸となった。

 

1863年、ロシアの自由主義的改革を見たポーランドの民族主義者たちは、ウィーン体制下でロシア皇帝が国王を兼ねていたポーランド立憲王国で反乱を起こす(ポーランド反乱)。

臨時国民政府を立てて農奴解放を行うが、ロシアは軍を送り込んでこれを鎮圧。

ロシアはポーランドの自治権を奪い、ロシア語の教育を強制するなどポーランドを事実上ロシアに組み込んだ。

このときマルクスを中心にポーランド支援を目的とした労働者の国際組織=第一インターナショナルが結成されている。


アレクサンドル2世は近代化のために自由主義的な改革を進めたが、こうした多くの反発を目の当たりにした。

このためポーランド反乱以後は反動的に皇帝による専制的な政治=ツァーリズムを強化し、労働者や知識層に対する弾圧を強めた。


そもそも自由主義改革を強く望んだのは英仏などの繁栄を知る都市部の知識階級層=インテリゲンツィアだ。

農民の真の解放こそ必要であると考えた彼らの一部は「ヴ=ナロード(人民の中へ)」をスローガンに農村に入り込み、啓蒙活動を行った(ナロードニキ運動)。


しかし、知識のない農民にその思いは通じず、運動は挫折。

一部は政府を一気に転覆させるテロリズムに走り、これが1881年のアレクサンドル2世暗殺をもたらした。

世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」の血の上の救世主教会
アレクサンドル3世が建設した血の上の救世主教会。アレクサンドル2世を弔うために暗殺現場に建てられた。完成はニコライ2世の時代で、内部・外部ともに華麗この上ない。世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア、1990年、2013年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」構成資産

 

これを見た次のアレクサンドル3世はツァーリズムを強化して改革派の弾圧を行い、暗殺犯をユダヤ人であるとしてユダヤ人迫害=ポグロムを行った。

この結果、多くのユダヤ人がロシアからヨーロッパやアメリカに移住した。


そんな中、1890年代にアレクサンドル2世の「上からの改革」が奏功し、外国資本を導入して工業化を進めて産業革命期を迎えた。

一例がシベリア鉄道で、フランス資本を導入して1891年に建設がはじまり、1905年に全線が開通。

ウラジヴォストークまで鉄道で結ばれたことによってロシアは太平洋進出の足掛かりを得た。

 

* * *

 

<イタリアの統一>

 

イタリアには長らく統一国家が存在せず、北は教皇領①やベネチア共和国②などの都市国家群、南はスペイン・ブルボン朝の王の下でナポリ王国やシチリア王国などが成立していた。

しかし、これらの国々がイギリス、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアといった大帝国と肩を並べるためには統一以外に方法はなかった。

※①世界遺産「バチカン市国(バチカン市国、1984年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「ベネチアとその潟(イタリア、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(v)(vi))」

 

[関連サイト]

バチカン市国 

ベネチアとその潟/イタリア

世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群」
フランツ・ヨーゼフ1世が生まれ、死したシェーンブルン宮殿の1900年当時の姿。オーストリア皇帝、ハンガリー国王、ロンバルド=ヴェネト国王を兼ねた王はこの宮殿をこよなく愛したという。世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア、1996年、文化遺産(i)(iv))」

 

北イタリアは神聖ローマ帝国の支配した時代が長く、イタリア戦争以後はオーストリアやフランス、スペインなどの介入が続いた。

ナポレオンのイタリア遠征軍が1796年に来襲するとイタリアの人々はこれを歓迎。

オーストリアを追い払い、ロンバルディア①、モデナ②、ベネチアといった北イタリアの多くを統一してチザルピナ共和国(1802年からはイタリア王国)を樹立した。

この国はウィーン会議のウィーン議定書で否定されてオーストリアの支配が回復するが、自由主義・民主主義・ナショナリズムは高揚してイタリア統一・独立を目指すイタリア統一運動=リソルジメントが広がった。

※①世界遺産「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ(イタリア、2003年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「モデナの大聖堂、トッレ・チヴィカ及びグランデ広場(イタリア、1997年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 

ウィーン体制下で北イタリアはロンバルド=ヴェネト王国となり、オーストリア皇帝が国王を兼ねてオーストリア軍がイタリアに駐留。

統一・独立はオーストリアはもちろんフランスにも警戒され牽制された。

 

フランス二月革命後の一八四八年革命でリソルジメントが活発化し、ベネチアやミラノ※で暴動が勃発。

これをサルデーニャ王国が支援し、一時は共和政を宣言した。

※世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院(1980年、文化遺産(i)(ii))」

 

[関連サイト]

シェーンブルン宮殿/オーストリア

 モデナ大聖堂、市民の塔とグランデ広場/イタリア

世界遺産「サヴォイア王家の王宮群」のカッチャ宮殿
サルデーニャ王国の首都が置かれたトリノのカッチャ宮殿。統一後はイタリア王国の首都となり、サヴォイア家の宮殿が多数造られた。世界遺産「サヴォイア王家の王宮群」構成資産。(C) Daniel-Ventura

 

サルデーニャは現在のフランスのサヴォイア地方とイタリアのピエモンテ地方を拠点とするサヴォイア家の公国で、18世紀のスペイン継承戦争でイギリス、オーストリア側についてフランス軍を破ったことでシチリア島を入手し、王国となった。

 

1720年にシチリア島をサルデーニャ島と交換してサルデーニャ王国が成立。

ウィーン体制下では首都トリノ①やジェノヴァ②を中心に北西イタリアを押さえ、北イタリアでロンバルド=ヴェネト王国と覇を競い合うまでに成長した。

※①世界遺産「サヴォイア王家の王宮群(イタリア、1997年、2010年、文化遺産(i)(ii)(iv)(v))」

 ②世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度(イタリア、2006年、文化遺産(ii)(iv))」

 

サルデーニャ王国のピエモンテ地方では、1820年に秘密結社カルボナリ(炭焼党)によるピエモンテ蜂起、1831年にはフランス七月革命の影響で反乱が起こるが、いずれもオーストリアによって鎮圧された。

一八四八年革命ではサルデーニャ王国とオーストリア軍の戦闘が起こったが、サルデーニャの敗北に終わっている。

 

1849年、ローマ①でマッツィーニ率いる青年イタリアの運動が実を結び、ローマ共和国が成立。

教皇ピウス9世はナポリ②に亡命した。

※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂、イタリア/バチカン市国共通、1980年、1990年、2015年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア、1995年、2011年、文化遺産(ii)(iv))」

 

オーストリアの勢力拡大を恐れたフランスのルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)は、教皇の復権を掲げて軍を進め、ガリバルディ率いるローマ共和国軍を撃破。

国内のカトリックへのアピールもあって、以後ローマにフランス軍を常駐させた。

サルデーニャ王国をはじめとする北イタリアの反乱はこうして鎮圧され、リソルジメントはまたも失敗に終わった。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂
イタリア統一を成し遂げた国父を称えて息子ウンベルト1世が建設したローマのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂。中央の騎馬像はもちろんヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度-ガリバルディ通り」のガリバルディ通り
ガリバルディを記念してその名がついたジェノヴァのガリバルディ通り。周辺には宮殿が立ち並んでいる。世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度-ガリバルディ通り」構成資産

1849年、サルデーニャ王国でヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が国王に即位し、首相にカヴールを任命する。

このふたりが中心となって王国の近代化を進めつつ、イタリアの統一を計画した。

 

1853年にはじまるクリミア戦争においてイギリス、フランスを支援して軍を派遣。

これでコネクションを作ると、フランス皇帝となったナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、秘かに支援を得ることに成功する。

 

この密約を知ったオーストリアが1859年に宣戦布告し、これを機にサルデーニャ王国はイタリア統一戦争(伊墺戦争)を開始。

ロンバルディアを押さえると、パルマ、モデナ、トスカーナなどでもオーストリアに対する反乱が勃発し、これらの国を帰属させて一気に北イタリアの多くが統一された。

 

これを見たナポレオン3世はサルデーニャの大国化と教皇領への侵攻を恐れ、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世と単独講和して(ヴィラフランカの和約)撤退してしまう。

しかしながら翌1860年、サルデーニャはサヴォイア、ニースの割譲を条件に、ローマに軍を駐留させているフランスの許可を得て中部イタリアを併合する。

 

これらの動きとは別に、1860年5月、ガリバルディが赤シャツ千人隊と呼ばれる義勇兵を率いて両シチリア王国(シチリア王国とナポリ王国が合併して成立した国)のシチリア島とナポリを相次いで占領。

ガリバルディはマッツィーニらとともに王のない共和政体を目指していたが、住民投票の結果もあってサルデーニャ王国による統一を認め、両国をサルデーニャ王国に献上した。

世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」のグアイダ城砦
チェスタ城砦から眺めたグアイダ城砦。サンマリノは周囲を断崖絶壁に囲まれた天然要塞で、ナポレオン戦争、イタリア統一戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦といった戦争で中立を保ち、301年以降ほとんどの期間、独立を貫いた。世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山」構成資産

 

1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はイタリア王国の成立を宣言し、自ら初代国王位に就いた。

首都は1865年までトリノに置かれ、その後フィレンツェ※に遷都した。

※世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア、1982年、2015年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 

さらに1866年、イタリア王国はプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争/7週間戦争)でプロイセン側について勝利し、オーストリアからベネチアを獲得。

1870年にはプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)でフランスが敗れてローマから撤退すると、ローマを占領して教皇領を併合し、翌年には首都をローマに遷した。

 

これをもってリソルジメントは完成したが、トリエステ、南チロルなどはオーストリア領にとどまって「未回収のイタリア」となり、サンマリノ※は都市国家として独立を守り、独立を望む教皇はイタリアと対立を続けた。

※世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山(サンマリノ、2008年、文化遺産(iii))

 

[関連サイト]

サンマリノ歴史地区とティターノ山/サンマリノ

 

ちなみに、この頃のイタリアを描いた物語がデ・アミーチス著『クオーレ』とコッローディ著『ピノキオ』だ。

前者の一部は日本で『母をたずねて三千里』としてアニメ化された。

 

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世界遺産「ライン渓谷中流上部」のプファルツ城
船のような形をしたプファルツ城と、背後にはグーテンフェルス城。連邦時代、ライン川に沿って国境が張り巡らされていたため、多くの城が集中している。世界遺産「ライン渓谷中流上部」構成資産

<ドイツの統一>


ドイツではこれまで神聖ローマ帝国→ライン同盟→ドイツ連邦という形で連帯していたが、たとえばドイツ連邦は35の君主国と4つの自由市からなるもので、統一国家と呼べるものではなかった。

こうした国々を移動するためにはそれぞれの国境を抜けなければならず、それぞれで関税を支払わなければならない。

たとえばライン川沿い※には多くの城が立ち並んでいるが、これらは城塞であると同時に税を徴収するための税関でもあった。

※世界遺産「ライン渓谷中流上部(ドイツ、2002年、文化遺産(ii)(iv)(v))」


[関連サイト]

ライン渓谷中流上部/ドイツ


こうした不便もあって商工業の発達は阻害され、産業は農業に限られていた。

これに対して1834年、プロイセンを中心としてドイツ関税同盟が発足し、域内の関税が撤廃され、経済的な統合が実現した。


ちなみに、ドイツ関税同盟をツォルフェラインという。

これにちなんで名付けられた炭坑がツォルフェライン炭坑※だ。

石炭生産で一時世界最大を誇り、ドイツの重工業の飛躍に大いに貢献した。

※世界遺産「エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群(ドイツ、2001年、文化遺産(ii)(iii))」

世界遺産「エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群」の第12採掘坑
世界遺産「エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群」の第12採掘坑。この建物は21世紀に入ってから建てられたもので、直線的でシンプルなバウハウス様式を取り入れており、「世界でもっとも美しい炭鉱」と称された。(C) Avda
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」の旧国立美術館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」の旧国立美術館。プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は科学と芸術の促進にも力を入れ、シュプレー川の中州に博物館・美術館群を建設した

こうした成果もあり、1840年代にはドイツで産業革命がはじまった。

 

ドイツの場合、イギリスに後れを取っている綿織物をはじめとする軽工業ではなく(第一次産業革命)、最初から製鉄や鉄道・機械といった重工業に力点を起き(第二次産業革命)、プロイセンを主体とした上からの革命を行った。

この改革を促進し、他国の上を行くためにも産業界はドイツの統一を強く望んだ。

 

一八四八年革命では3月にプロイセンの首都ベルリン※で自由主義と統一国家創設を目指して革命運動が起こる(三月革命)。

しかし共和政と君主政、大ドイツ主義(オーストリア領のドイツを含むオーストリア主体の統一)と小ドイツ主義(オーストリア領を排除したプロイセン主体の統一)の対立が解消できず、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世もドイツ皇帝就任を拒否したため、失敗に終わった。

※世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ、1990年、1992年、1999年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

 世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ、1999年、文化遺産(ii)(iv))」

世界遺産「フェルクリンゲン製鉄所]
ビスマルクが支援を行った世界遺産「フェルクリンゲン製鉄所(ドイツ、1994年、文化遺産(ii)(iv))」。1873年の創業で、1986年まで稼働を続けてドイツを支えた。(C) GrieSoß

プロイセンはあくまでオーストリアを排除した小ドイツ主義による統一を目指していた。

1861年にヴィルヘルム1世がプロイセン国王に就くと、翌年農場領主ユンカー出身のビスマルクを首相に任命。

ビスマルクは兵器(鉄)と兵士(血)を増強する鉄血政策を敷いて軍事力を拡張した。

 

一方、オーストリアではチェコ人・ハンガリー人・イタリア人らによる改革・独立運動が次々と弾圧されていた。

そして1849年にオーストリアは帝国の不分割を宣言し、帝国憲法を制定した。

当然これはオーストリア領内のドイツにも適用され、ドイツの分割編入をもくろむプロイセンを牽制した。

 

1864年、デンマーク・ユトランド半島のシュレスヴィヒ州とホルシュタイン州でドイツ系住民がドイツ連邦への編入を求めて暴動を起こす。

デンマークは鎮圧にかかるが、プロイセンのビスマルクはオーストリアとともにデンマークに侵攻してこれを撃破。

シュレスヴィヒ州をプロイセン、ホルシュタイン州をオーストリアが治める形でガシュタイン協定が結ばれた。

このデンマーク戦争によって北欧の大国デンマークは大国の座から陥落した。

世界遺産「ケルン大聖堂」
ドイツ帝国の象徴、世界遺産「ケルン大聖堂(ドイツ、1996年、2008年、文化遺産(i)(ii)(iv))」。1880年、高さ157mの双塔を持つ巨大な大聖堂は建設開始から632年を経て完成し、皇帝ヴィルヘルム1世が竣工式を執り行った
世界遺産「ヴィルヘルムスヘーエ城公園」
世界遺産「ヴィルヘルムスヘーエ城公園(ドイツ、2013年、文化遺産(iii)(iv))」。ヘッセン選帝侯国のカール方伯が18世紀に築いた噴水公園だが、ヘッセン選帝侯国はオーストリアについたため、プロイセン=オーストリア戦争後にプロイセンに併合された

デンマーク戦争でオーストリア軍を観察したビスマルクは勝利を確信し、オーストリアに対する戦争を決意。

ホルシュタイン州の領有を巡ってオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を煽り、1866年にプロイセン=オーストリア戦争が勃発する。

 

鉄血政策と産業革命で最新の武器や鉄道などの移動手段を備えていたプロイセンは、旧式の軍制を敷くオーストリアに対してケーニッヒスベルクの戦いで圧勝。

プロイセンはホルシュタイン州を併合し、戦争はわずか7週間で終結した。

 

1866年、プロイセン=オーストリア戦争の講和条約であるプラハ条約でオーストリアを盟主とするドイツ連邦の解体が決定し、オーストリアはドイツから除外された。

プロイセンがハノーヴァーやナッサウ、フランクフルト、ヘッセンなどを獲得して領土を広げた一方で、プロイセンを支援したイタリア王国によってオーストリアはベネチアを接収された。

 

この機に乗じてオーストリアでは各民族の独立運動が高まり、翌年マジャール人にハンガリー王国(首都ブダペスト※)の自治を認める代わりにオーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねることで妥協し(アウスグライヒ)、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。

※世界遺産「ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト(ハンガリー、1987年、2002年、文化遺産(ii)(iv))」

 

これを受け、チェコ人やスロバキア人、セルビア人、クロアチア人、ウクライナ人といったスラヴ系民族やルーマニア人などの独立運動はますます盛んになっていく。

世界遺産「ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト」の国会議事堂
世界遺産「ドナウ河岸、ブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト」の国会議事堂。1873年、ブダ、オーブダ、ペシュトが合併してブダペストとなり、ハンガリー王国の首都となった。ゴシック・リバイバル様式の国会議事堂はマジャール人の王国の象徴となった

 

ドイツ連邦が解体された代わりに、プロイセンは1867年にライン川の支流であるマイン川以北の22か国をまとめて北ドイツ連邦を結成。

カトリックで親オーストリア的だったバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン・ダルムシュタットの南ドイツ4か国は南ドイツ連邦を組織する予定だったが、こちらは成立しなかった。

 

着々と大国化を進めるプロイセンに対し、フランスのナポレオン3世は戦々恐々としていた。

1870年、プロイセン王家であるホーエンツォレルン家の分家出身のレオポルドがスペイン王位を継承すると、東西から挟まれる形となったフランスは強く反発。

ビスマルクは電報を改ざんするなどして両国の敵愾心を煽りに煽り(エムス電報事件)、特にドイツで統一の機運が高まった。

プロイセン=オーストリア戦争で国土を拡張してドイツ統一を近づけたように、ビスマルクはさらに戦争を利用して統一を実現しようとしていたといわれる。

 

1870年7月、フランスがプロイセンに対して宣戦を布告。

北ドイツ連邦に南ドイツ諸国も加わり、フランスとドイツの全面対決となった(プロイセン=フランス戦争)。

 

プロイセンは宣戦布告の段階ですでに準備は整っており、すぐさまフランスに侵攻。

9月1日のスダンの戦いに敗れると、ナポレオン3世は捕えられてしまう。

これを聞いたパリ市民は暴動を起こして臨時政府を樹立し、第二帝政は崩壊する。

 

プロイセン軍は1871年1月ににベルサイユ宮殿※を占領し、鏡の間でヴィルヘルム1世のドイツ帝国皇帝戴冠式を行い、ドイツ帝国が成立した。

ドイツ帝国は神聖ローマ帝国を次ぐものという意味で第二帝国と呼ばれることもある。

※世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園(フランス、1979年、2007年、文化遺産(i)(ii)(vi))」

世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園」、鏡の間
世界遺産「ベルサイユの宮殿と庭園」、鏡の間。プロイセン国王の戴冠式はケーニヒスベルクで行われていたが、初代ドイツ皇帝の戴冠式は敵国フランスの象徴・ベルサイユ宮殿で開催され、世界に衝撃を与えた。(C) Myrabella

 

フランス臨時政府が莫大な賠償金とアルザス州、ロレーヌ州の割譲を条件に講和すると、3月にプロイセン軍がパリ※に入城する。

 

こうした数々の屈辱に対して労働者を中心とするパリ市民は自治政府パリ=コミューンを樹立するが、臨時政府との戦いに敗北。

臨時政府が政権を取り戻すと、プロイセン軍はドイツに帰還した。

なお、プロイセン=フランス戦争の結果、フランスのローマ駐留軍が撤退したため、イタリア王国がローマを占領している。

※世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス、1991年、文化遺産(i)(ii)(iv))」


4月にはドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)を制定し、プロイセン王がドイツ皇帝位を世襲し、プロイセン首相がドイツ帝国宰相となることが定められた。

事実上、皇帝位はホーエンツォレルン家の世襲で、宰相についてはビスマルクが約20年にわたって独裁的な権力を握った。


形的には連邦制で立憲君主政の体裁をとっているが、実態は帝政に近いものだった。

たとえば法の最終決定権は上院にあたる連邦参議院にあったが、議長は宰相が兼ねていた。

議員は22の連邦国と3自由都市の代表によって構成されたが、29%の議席をプロイセンが握っていた。

また、下院にあたる帝国議会の議員は男子普通選挙で選ばれたが、決定権は認められておらず、審議権しかなかった。

こうした専制体制に対し、カトリックや労働者階級から反発が高まった。


教皇ピウス9世はプロテスタントが主流を占めるプロイセンの台頭に危機感を持ち、ドイツの統一に反対を表明し、カトリックを振興する南部諸邦の独立を主張した。

こうした介入にビスマルクは反発し、それまで教会に届けを出していた出生や結婚・死亡通知を役所へと変更した(文化闘争)。

世界遺産「パリのセーヌ河岸」のパリ市庁舎
世界遺産「パリのセーヌ河岸」登録のパリ市庁舎。パリ=コミューンの本部が設置されたがその後の混乱の中で焼失し、19世紀後半にネオ・ルネサンス様式で再建された

 

労働者の間で社会主義運動が高まり、ラサールやベーベルによって主導された。

1875年、この両者の派閥が合同で社会主義労働者党を結成。

1878年にヴィルヘルム1世狙撃事件が起こると、政府は社会主義者鎮圧法を制定して社会主義活動を非合法化した。

しかしながら社会主義は労働者の中に浸透していき、1890年には社会主義労働者党が改称して社会民主党が誕生した。

ビスマルクは社会主義を弾圧する一方で、災害保険・疾病保険・養老保険などの社会保険制度を充実させ、労働者の批判をかわした。


外交について、ビスマルクは中央集権化・近代化を進めることを優先して周辺国と盛んに同盟を結んだ。

 

1873年にドイツ、オーストリア、ロシアの間で三帝同盟を結成。

しかし、ロシアはオーストリアやオスマン帝国内のスラヴ系民族の独立を支援したため(パン=スラヴ主義)、ロシア-オーストリア間の対立が深まった。


1875年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの正教徒がオスマン帝国に対して反乱を起こす。

ブルガリアでも同じような反乱が起きると、セルビアやモンテネグロの正教徒がこれを支持。

正教徒たちはスラヴ系民族であったことからロシアのアレクサンドル2世が保護に回り、1877年にオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争:1877~78年)。


ロシアは一気にアドリアノープロを攻略し、オスマン帝国の首都イスタンブールに接近。

喉元まで攻め込まれたオスマン帝国は敗北を認め、1878年のサン=ステファノ条約で黒海沿岸の領土をロシアに割譲し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を認め、ブルガリア公国が自治公国とされた。

なお、ルーマニアはラテン系、ブルガリアはトルコ系が主要民族で、スラヴ系ではない。

世界遺産「モスタル旧市街の古橋地区」のスタリ・モスト
世界遺産「モスタル旧市街の古橋地区(ボスニア・ヘルツェゴビナ、2005年、文化遺産(vi))」のスタリ・モスト。この辺りは古くから正教徒のセルビア人、カトリックのクロアチア人、イスラム教徒をはじめ多数の民族が暮らしている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で破壊されたがその後再建され、和解の象徴となった

 

ロシアの狙いは地中海だ。

バルカン半島にセルビア、モンテネグロという親ロシアのスラヴ系国家を成立させることに成功し、事実上ロシアの保護国となったブルガリア公国は黒海からエーゲ海に及ぶ大きな領域を獲得した。

エーゲ海は地中海の一部であるから地中海への足掛かりを得たことになる。


こうしたロシアの南下政策&パン=スラヴ主義に対して、西アジアを狙うイギリスと、バルカン半島のゲルマン民族を保護するオーストリア=ハンガリーが開戦も辞さない構えで強く反発。

この危機に対してドイツのビスマルクが仲裁に入り、相互の利益を調整するために1878年にベルリン会議を開催する。


その結果、ブルガリア公国はエーゲ海沿いの領土を縮小され、オスマン帝国内に留まることになり、その代わりにセルビアやモンテネグロ、ルーマニアの独立は認められた。

バルカン半島にスラヴ人国家が誕生することを懸念するオーストリア=ハンガリーにはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を与え、西アジアの覇権を狙うイギリスはキプロス島を獲得した。


これにより東方問題には一応の決着がつき、ロシアはバルカン半島における南下を断念し、中央アジア・東アジアに目を転じて南下政策を継続することになる。

ドイツにとってもっとも脅威だったのがプロイセン=フランス戦争以来関係が悪化している隣国フランスだ。

そのためフランスと同盟を結ぶ可能性のある国々と矢継ぎ早に同盟を結んだ。


1881年、ドイツ、オーストリア、ロシア間で新三帝同盟を結成。

続いて1882年、ドイツ、オーストリア、イタリアで三国同盟を結ぶ。

バルカン半島を巡るオーストリア-ロシアの対立で新三帝同盟が破棄されると、ドイツ-ロシアの間で1887年に再保障条約を締結。

こうしてビスマルクはいわゆるビスマルク体制を敷いて万全を喫した。

なお、この間イギリスは外交において「光栄ある孤立」といわれる孤立主義をとった。

 

しかし、1888年にヴィルヘルム2世が29歳で即位するとビスマルクを辞任させて親政(君主が自ら政治を行うこと)を開始。

ドイツ人を中心としたゲルマン系による帝国創設を目指してパン=ゲルマン主義運動が広がっていたこともあり、イギリスなどに植民地の再配分を求め、世界分割による植民地獲得競争に乗り出した(世界政策)。

このため1890年にはロシアとの再保障条約の更新を拒否。

こうした政策はイギリス、ロシア、フランスとの対立を生み、第一次世界大戦の原因となっていく。


* * *


こうして1861年にイタリア、1871年にドイツと、ヨーロッパにふたつの大国が誕生した。

遠く日本でも1868年に江戸幕府が終わり、明治政府が生まれていた。


こうした国々は殖産興業・富国強兵を行い、上からの改革によって産業革命・近代化を成し遂げた。

しかしながら他の帝国のようにほとんど海外領土を持たず、資源も市場も不十分だった。


経済的基盤の脆弱性はやがて経済危機や政治的危機をもたらし、その危機がかえって強力な中央集権体制を生み出し、海外侵略を是とするファシズムとなって現れる。



次回はフランスの第二帝政・第三共和政、イギリスの第二帝国、アメリカの発展を解説する。

 


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