世界遺産と世界史23.イスラム帝国の分裂

大帝国を築いたウマイヤ朝(アラブ帝国)、アッバース朝(イスラム帝国)の下、イスラム教は中央アジア、西アジア、北アフリカ、南ヨーロッパに広がり、現在に引き継がれるアラブ世界の基礎を築いた。

この頃、イスラム世界で力を持っていた実力者が以下だ。

  • カリフ……イスラム教最高指導者、アッバース朝の事実上の皇帝
  • イマーム……シーア派におけるイスラム教最高指導者
  • スルタン……地域の支配者。王
  • アミール……軍隊の長。総督。
アルハンブラ宮殿
細部まで美しいアルハンブラ宮殿。奥に見える角の装飾は、鍾乳洞に垂れ下がる鍾乳石スタラクタイトを模した「ムカルナス」と呼ばれるもの。スペインの世界遺産「グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区」構成資産

9世紀以降、アッバース朝の地方政権は次々と独立し、多数のイスラム国家が誕生しては滅亡し、盛衰を繰り返す。

この頃、イスラム教の最高指導者は「カリフ」だった。

カリフは創始者ムハンマドの後継者であり、神の代理人とされた。

 

カトリックの「教皇」を思わせるが、この頃のカリフはアッバース朝の皇帝のような存在でもあり、政教両面において指導者的な立場にあった。

そういう意味では教会に対しても優位にあったビザンツ帝国の皇帝に近いだろうか。


しかし、カリフの栄光はスンニ派内にとどまっており、シーア派などはその権威を否定。

自らカリフを名乗る国さえ現れる。

スンニ派内にあっても、やがてカリフは政治をスルタンに任せる形になり、政治力を削られていく。

ヨーロッパがカトリック・正教会に分裂し、さらに細かい宗派に分かれたように、イスラム教も細分化・再編成の時代を迎えていた。

 

以下ではアッバース朝が分裂していく様子を地域別に見てみようと思う。

その前に、登場する国々をシーア派-スンニ派、民族ごとに分けておこう。

アラブ人が凋落し、ベルベル人、ペルシア人、トルコ人が活躍しているのがわかる。

■シーア派王朝(他はスンニ派)

  • イドリース朝
  • ファーティマ朝
  • ブワイフ朝

■ベルベル人王朝

  • イドリース朝
  • アグラブ朝
  • ムラービト朝
  • ムワッヒド朝

■アラブ人王朝

  • アッバース朝
  • 後ウマイヤ朝
  • ナスル朝

■ペルシア人王朝

  • ターヒル朝
  • サーマーン朝
  • ブワイフ朝
  • ゴール朝

■クルド人王朝

  • アイユーブ朝

■トルコ人王朝

  • マムルーク朝
  • セルジューク朝
  • ホラズム朝
  • カラ・ハーン朝
  • ガズナ朝
  • デリー・スルタン朝

■モンゴル人王朝

  • カラ・キタイ(西遼)

メスキータ、円柱の森
メスキータ、円柱の森。784年、アブド・アッラフマーン1世が起工したモスクで、13世紀にキリスト教会となり、16世紀にはカール5世が大増築して聖堂となった。イスラム・ゴシック・ルネサンスが混在した珍しくも美しい意匠。ポルトガルの世界遺産「コルドバ歴史地区」構成資産

■イベリア半島・北アフリカ西部

  • イベリア半島:後ウマイヤ朝→ムラービト朝→ムワッヒド朝→ナスル朝
  • 北アフリカ西部:イドリース朝、アグラブ朝→ファーティマ朝→ムラービト朝

750年にウマイヤ朝はアッバース朝に滅ぼされたが、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世がただひとり生き残る。

彼の母親が北アフリカに広く分布する遊牧民族ベルベル人であったため、その助けを受けて北アフリカを抜け、イベリア半島(現在のスペイン、ポルトガルがある半島)まで逃走。

アッバース朝に対抗して756年、コルドバを首都に後ウマイヤ朝を建国する。

後ウマイヤ朝の王は最初「アミール」を名乗ったが、のちにアッバース朝・ファーティマ朝に対抗して「カリフ」を称した。


後ウマイヤ朝は、ウマイヤ朝・アッバース朝時代に発展した学問やイスラム芸術を洗練させて華麗な文化を築いた。

その最高峰が世界遺産「コルドバ歴史地区(スペイン、1984年、1994年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」登録のメスキータだ。

 

[関連サイト]

コルドバ歴史地区/スペイン


後ウマイヤ朝は北からキリスト教徒による国土回復運動=レコンキスタ、南からベルベル人の国ムラービト朝の圧力を受けて1031年に滅亡。

イベリア半島ではキリスト教とイスラム教の小国が乱立する。

フェズ
フェズのタンネリ・ストリート(なめし皮職人街)。フェズは家々が上下左右にランダムに並んでおり、迷路そのもの

この時代、北アフリカ西部では遊牧民族であるベルベル人が定住生活をはじめ、イスラム教に改宗していた。

そのためモスクを中心にさまざまな都市を造り、新国家を建設した。

 

768年、ベルベル人は現在のモロッコでフェズ①を建設し、789年にイドリース朝を建てる。

また、隣のアルジェリアやチュニジア、リビア周辺に首都カイルアン②やチュニス③を造ってアグラブ朝を建国する。

こうした国々は909年にチュニジアで興ったファーティマ朝により統一される(後述)。

※①世界遺産「フェズ旧市街(モロッコ、1981年、文化遺産(ii)(v))」

 ②世界遺産「カイルアン(チュニジア、1988年、2010年、文化遺産(i)(ii)(iii)(v)(vi))」

 ③世界遺産「チュニス旧市街(チュニジア、1979年、2010年、文化遺産(ii)(iii)(v))」

 

なお、フェズにあったカラウィーン・モスクのマドラサ(モスク付属の学問所)がカラウィーン大学だ。

一説では859年の創立で、ヨーロッパの諸大学(たとえば1088年創立のボローニャ大学)よりも古く、「世界最古の大学」といわれることもある(中国やインドの教育機関を大学と数えると、そちらの方がはるかに古い)。

このように、イスラム教諸国は宗教と学問・芸術を一体視しており、モスクを中心にそれらを大いに振興した。

こうしてイスラム圏で飛躍した学問・芸術はのちにヨーロッパに輸入され、14世紀にはじまる文芸復興=ルネサンスを引き起こす。

 

1056年、同じモロッコの地にベルベル人王朝であるムラービト朝が興ると、「神の国」を意味する王都マラケシュ①を建設して遷都。

ファーティマ朝の版図を奪い、一時はガーナ王国を滅ぼして西アフリカにまで迫り、コルドバやセビリア②を征服してイベリア半島にも進出した。

※①世界遺産「マラケシュ旧市街(モロッコ、1985年、文化遺産(i)(ii)(iv)(v))」

 ②世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館(スペイン、1987年、2010年、文化遺産(i)(ii)(iii)(vi))」

 

[関連サイト]

フェズ旧市街/モロッコ

マラケシュのジャマ・エル・フナ広場
古来あらゆる屋台が集まってきたマラケシュのジャマ・エル・フナ広場。モロッコの世界遺産「マラケシュ旧市街」に含まれているだけでなく、単独で無形文化遺産「ジャマ・エル・フナ広場の文化的空間」に登録されている
アルハンブラ宮殿
アルハンブラ宮殿

1130年、さらにベルベル人王朝ムワッヒド朝が興ると、1147年にムラービト朝を侵略。

ムワッヒド朝はマラケシュ、コルドバをベースに北アフリカを広く治め、イベリア半島のレコンキスタに対抗するためにヨーロッパにも積極的に進出した。

 

ムラービト朝やムワッヒド朝は西アフリカ内部にも進出し、マリ王国のトンブクトゥ①やジェンネ②といった国々と交易を行った。

トンブクトゥやジェンネはベルベル人の一派、トゥアレグ人の造った交易拠点。

ベルベル人やトゥアレグ人はこの時代、この他にもガダーミス③、アイット・ベン・ハドゥ④などさまざまなオアシス都市を造ってサハラ交易をリードした。

これらは「25.アフリカの交易とイスラム教」で解説する。

※①世界遺産「トンブクトゥ(マリ、1988年、文化遺産(ii)(iv)(v))」

 ②世界遺産「ジェンネ旧市街(マリ、1988年、文化遺産(iii)(iv))」

 ③世界遺産「ガダーミスの旧市街(リビア、1986年、文化遺産(v))」

 ④世界遺産「アイット・ベン・ハドゥの集落(モロッコ、1987年、文化遺産(iv)(v))」

 

[関連サイト]

アイット・ベン・ハドゥ/モロッコ


13世紀に入るとキリスト教国であるアラゴン王国やカスティリャ王国が力を増し、イベリア半島の半分以上を占領。

一方でイスラムの小国同士の抗争が起き、その中で勢いを失ったムワッヒド朝はイベリア半島から撤退する。

 

イベリア半島において、イスラム最後の牙城となったのがグラナダ※を首都とするナスル朝だ。

ナスル朝は北アフリカのイスラム諸国の支援を得て善戦。

しかし1492年、アラゴン王国とカスティリャ王国が連合して誕生したスペイン王国によって滅ぼされ、レコンキスタが完結。

イスラム勢力はイベリア半島から駆逐された。

なお、ナスル朝が造ったイスラム建築の最高傑作がアルハンブラ宮殿※だ。

※世界遺産「グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区(スペイン、1984年、1994年、文化遺産(i)(iii)(iv))」

 

レコンキスタについては「33.ハプスブルク家とレコンキスタ」参照。

 

[関連サイト]

グラナダのアルハンブラ宮殿/スペイン

 

* * *

アズハル・モスク
972年建造のアズハル・モスク。ムハンマドの娘ファーティマ・アル・ザハラから命名された。マドラサはまもなくイスラム最高学府となり、世界中から学生が集まった。世界遺産「カイロ歴史地区」構成資産

■エジプト周辺

  • ファーティマ朝→アイユーブ朝→マムルーク朝

909年、チュニス近くにファーティマ朝が成立する。

イスラム教創始者ムハンマドの娘ファーティマ・アル・ザハラの名を取ったシーア派王朝で、王族はファーティマの血を引く者であることを宣言し、スンニ派アッバース朝の権威を否定。

王は後ウマイヤ朝同様「カリフ」を名乗り、アッバース朝の征伐を目標に掲げた。

こうしてこの時代、3人のカリフが並び立つ。

 

10世紀にはエジプトを占領して北アフリカを統一し、969年には新首都カイロ①を建設。

さらに東伐を進め、エルサレム②を落とす。

 

ファーティマ朝も学問や芸術を支持し、988年にはカイロのアズハル・モスク①のマドラサとしてアズハル大学(のちのカイロ大学)を設置した。

※①世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」

 ②世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請、1981年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 

11世紀に入るとスンニ派のセルジューク朝(セルジューク・トルコ)が西アジアの多くを版図に収め(後述)、エルサレムを占領してファーティマ朝と対立する。

しかし、1096~1099年の十字軍遠征によってエルサレムはキリスト教徒の手に渡り、さらに周辺にはエルサレム王国やエデッサ伯国といった聖地四国をはじめとするキリスト教諸国が成立。

エルサレム王国はたびたびエジプトへ侵入する。


キリスト教国に対抗するために、ダマスカス※を拠点とするザンギー朝のヌールッディーンはファーティマ朝を支援するために将軍シールクーフをカイロに派遣。

シールクーフが亡くなると、その甥であるクルド人・サラディン(サラーフッディーン、サラーフ=アッディーン)がファーティマ朝の宰相に任命された。

※世界遺産「古都ダマスカス(シリア、1979年、2011年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 

1169年、サラディンは宰相・最高司令官として事実上の王に君臨し、アイユーブ朝が成立。

1171年にファーティマ朝のカリフが亡くなると、アッバース朝のカリフから支配者・王を意味する「スルタン」の称号を受け、代わりにカリフを廃止してスンニ派国家へと路線を変えた。


セルジューク朝がバグダードを支配して以来、アッバース朝のカリフは宗教上の指導者にすぎず、国を治める力は失っていた。

教皇が皇帝を、天皇が将軍を指名するように、各地の王をスルタンに任命し、実際の統治はスルタンに任せていた。

※イラクの世界遺産暫定リスト記載

 

シーア派-スンニ派の対立を収め、エジプトを落ち着かせたサラディンは、いよいよキリスト教討伐を開始する。

1187年にはエルサレムを奪還。
1189年には西欧三大王、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世が連合した第三回十字軍を撃破。

サラディンはキリスト教諸国と戦いながら版図を広げ、エジプトからシリアに至る一帯を統一し、十字軍勢力の多くを駆逐した。

 

サラディンはキリスト教徒と戦いながらも、十字軍のような虐殺や略奪を厳しく禁じ、老人や女性、子どもは丁重に扱った。

エルサレムを異教徒に開放し、巡礼も認めていた。

こうした紳士的な態度から英雄と崇められ、敵味方に愛されたという。

 

アイユーブ朝は、遊牧民族で騎馬技術にすぐれたマムルークと呼ばれるトルコ人奴隷を軍隊として組織してキリスト教徒に対抗していた。

第7代スルタン、サーリフはマムルークの妻シャジャル・アドゥルを娶り、寵愛した。
1250年にサーリフが急死するとシャジャル・アドゥルが史上初の女性スルタンとなり、マムルーク朝がスタート。

女性であることに対する反対も多かったため、同じマムルークのアイバクと再婚し、スルタンの座を譲った。

 

この頃、第3代ハーン・モンケの命を受けた総司令官フラグ率いるモンゴル帝国軍が来襲し、アッバース朝のカリフ、ムスタアスィムを殺害して西アジアのほとんどを席巻(アッバース朝の滅亡)。

フラグはダマスカス、アレッポ※を落とし、エルサレムとマムルーク朝攻略の準備を進めていたが、幸いなことにこの頃モンケが急死したためタブリーズに撤退する。

世界遺産「古都ダマスカス(シリア、1979年、2011年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」

 

フラグの部下キト・プカはそのまま戦いを続け、マムルーク朝と対峙。

1260年、これをアイン・ジャールートの戦いで迎え撃ったのが第4代スルタン・クトゥズとバイバルスで、モンゴル軍の不敗神話を打ち破った。

 

この直後、バイバルスはカイロで第5代スルタンの座に就くと、カリフの一族を保護し、叔父をムスタンスィル2世として就任させることでカリフ復権に貢献。

カリフを断絶から救っただけでなく、聖地メッカとメディナの保護を進め、イスラム圏全域にその名を響かせた。

 

マムルーク朝はトルコ人政権ということでアラブ人の反対にもあったが、こうした功績と、首都カイロをはじめ各地に熱心にモスクを建造したことから、人々の支持を集めていった。

マムルーク朝は1517年にオスマン帝国(オスマン・トルコ)に敗れるまで存続する。

 

* * *

イスファハンのジャーメ・モスク
世界遺産「イスファハンのジャーメ・モスク」。841年に建築がはじまり、時代時代に改修・増築が行われ、セルジューク朝時代にほぼ現在の姿になったと見られる。イスファハン最古のモスク

■トルコ人の民族移動

 

マムルーク朝が出たところで、少しトルコ人の動きを記しておこう。

突厥やウイグル等のトルコ系国家については「27.北方騎馬民族とその周辺」参照。


トルコ人=小アジア(アナトリア高原。現在のトルコ)というイメージがあるが、中央アジア5か国のうちタジキスタン以外のキルギス、ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタンの主要構成民族はトルコ系だし、コーカサス地方のアゼルバイジャンなども同様だ。

中央アジアや西アジア、トルコにトルコ人が進出するのがこの時期なのだ。


もともとトルコ人はモンゴル高原やアルタイ山脈といった砂漠地帯に住んでいた遊牧民族。

この辺りは名馬の産地でもあり、モンゴル人と並んで騎馬技術に秀でていた。


トルコ人は古代からさまざまな小国を築いていたが、552年に誕生した突厥(とっけつ)は騎馬軍団を率いてモンゴル人王朝・柔然を撃破。

中国北部~モンゴル高原~中央アジアに至る大領域を統一する。

アケメネス朝を起源と考えるペルシア人が1971年にイラン建国2,500年祭を祝ったように、トルコ人はこの突厥を起源と考えており、1952年にはトルコ建国1,400周年を祝っている。


突厥は582年に東西に分裂して唐の支配下に入ると、8世紀に滅亡。

これを滅ぼしたのが同じトルコ系のウイグルで、彼らが現在の中国・新疆ウイグル自治区に住むトルコ人の祖先となる。

 

ウイグルは唐や吐蕃と対立し、トルコ系のキルギスの攻撃を受けて滅亡。

キルギスもまもなく滅び、このあと中国北方は遼をはじめとするモンゴル人の進出を受け、多くのトルコ人が西へ向かうことになる。

 

こうして誕生した国が9世紀のカラ・ハーン朝だ。

この頃、中央アジアにはさまざまな小国が並立していたが、ペルシア人のイスラム王朝サーマーン朝が建つと各国は急速にイスラム化していった。

カラ・ハーン朝のトルコ人もイスラム化しており、トルコ人初のイスラム国家となった。


トルコ人の一部はさらに西へ進み、西アジアに進出。

捕らえられ、奴隷として売り払われた者もあったが、トルコ人奴隷マムルークは軍人として重用され、騎馬軍団を編成して各地を転戦した。

その間に力をつけ、なかには王朝を乗っ取ったり、独立を果たすマムルークも現れた。

 

こうして中央アジア、西アジアにさまざまなトルコ人国家が誕生していく。

 

* * *

サーマッラーのマルウィヤ・ミナレット
「イラクの至宝」と呼ばれる美しく壮大なマルウィヤ・ミナレット。9世紀に造られたもので、高さは約55mにもなる。世界遺産「都市遺跡サーマッラー」構成資産

■西アジア

  • アッバース朝→ブワイフ朝→セルジューク朝→ホラズム朝→モンゴル帝国

前回の最後で書いたアッバース朝のその後を続けよう。

 

アッバース朝は次々と地方政権が独立し、力を失っていた。

それを補うためにトルコ人奴隷マムルークを利用したのはアッバース朝も同様だ。

マムルークの力で国を保ってはいたが、逆にマムルークが勢力を伸ばし、バグダードを荒らしていた。

 

836年に第8代カリフ、ムータスィムが首都をサーマッラー※に遷都したのは、こうした批判をかわし、マムルークをバグダードから引き離すためだともいわれている。

マルウィヤ・ミナレットをはじめとする壮麗な宮殿やモスクを築いたが、50年ほどで打ち捨てられ、ふたたびバグダードに遷都する。

※世界遺産「都市遺跡サーマッラー(イラク、2007年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

946年、イランの地に興ったペルシア人によるシーア派王朝ブワイフ朝がバグダードに入城。

アッバース朝のカリフはブワイフ朝の王ムイッズ・ウッダウラに大アミール(総督)の称号を与え、イラクの統治を任せた。

 

1038年、トルコ人トゥグリル・ベグは中央アジアでスンニ派のイスラム王朝セルジューク朝(セルジューク・トルコ)を建国。

西アジア、現在のイランの地を占領すると、シーア派の手からカリフを救うという名目でバグダードへ進出する。

1055年にブワイフ朝を倒してバグダードを占領。

カリフは彼にアミールより上の称号であるスルタン(支配者。王)を与え、西アジアの支配者に任じた。

こうしてカリフの力は政教で分離され、政治力をアミールやスルタンに譲り、権威は急速に失われていった。

 

セルジューク朝は確固たる首都を築かず、宮殿や行政機能を頻繁に移動させていたと考えられている。

首都的な機能を果たした都にはニーシャープール、イスファハン①、メルフ②などが挙げられる。

※①世界遺産「イスファハンのイマーム広場(イラン、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」

 ②世界遺産「国立歴史文化公園“古代メルフ”(トルクメニスタン、1999年、文化遺産(ii)(iii))」

 

セルジューク朝はその勢いで西伐を進め、第2代スルタン、アルプ・アルスラーンは小アジア(現在のトルコ)に侵入。

ビザンツ帝国と戦い、1071年にマラズギルトの戦いで勝利すると、皇帝ロマノス4世を捕縛する。

小アジアの多くを占領すると、トルコ人が移住を進め、一帯をイスラム化。

たとえばキリスト教徒がカッパドキア※の地下や奇岩に隠れ住み、洞窟教会や地下都市を盛んに建設したのもこの頃だ。

※世界遺産「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群(トルコ、1985年、文化遺産(i)(iii)(v)、自然遺産(vii))」

 

[関連サイト]

カッパドキア/トルコ

 

カッパドキアのウチヒサール
カッパドキアのウチヒサール。カッパドキアとは「見てはならぬ」の意味。キリスト教徒たちは奇岩を掘り抜き、地下に都市を築いて教会や住居を造って隠れ住んだ

セルジューク朝は中央アジアからトルコ、エジプトの手前までを支配し、広大な版図を築いた。

首都は何度か変えているが、そのうちメルフ①は最盛期を迎え、イスファハン②なども繁栄した。

※①世界遺産「国立歴史文化公園“古代メルフ”(トルクメニスタン、1999年、文化遺産(ii)(iii))」

 ②世界遺産「イスファハンのジャーメ・モスク(イラン、2012年、文化遺産(ii))」

 

これに危機意識を持ったビザンツ皇帝アレクシオス1世が教皇ウルバヌス2世に援軍の派遣を要請。

こうして結成されるのが十字軍だ(詳細は「21.東西教会の分裂と十字軍」参照)。

 

11世紀後半、セルジューク朝は後継者争いで複数のスルタンが並立し、事実上分裂。

そして十字軍にも敗れ、西アジアにエルサレム王国などのキリスト教国の成立を許してしまう。

サンジャルの時代に中央アジアやインドのガズナ朝、ゴール朝を撃破するなど再興しかけるが、彼の死後急速に衰退し、1194年、ホラズム朝によって滅亡する。


分裂した地方政権のうち、1077年に小アジアで独立したのがルーム・セルジューク朝だ。

この王朝の時代に造られたのが世界遺産「ディヴリーイの大モスクと病院(トルコ、1985年、文化遺産(i)(iv))」だ。

ルーム・セルジューク朝はモンゴル軍、イル・ハーン国といった国々の圧力を受けて、14世紀初頭に滅亡する。


同じ1077年、やはり地方政権が独立したペルシア人スンニ派王朝がホラズム朝だ。

初期の首都はクニヤ・ウルゲンチ①、のちにサマルカンド②に遷都した。

セルジューク朝の衰退に乗じてイラン・イラクの地を占領し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を獲得。

セルジューク朝の版図をそのまま吸収して12~13世紀に一気に勢力を広げるが、ホラズム朝の滅亡は悲惨なものだった。

※①世界遺産「クニヤ・ウルゲンチ(トルクメニスタン、2005年、文化遺産(ii)(iii))」

 ②世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン、2001年、文化遺産(i)(ii)(iv))」

13世紀前半にチンギス・ハーン率いるモンゴル軍が来襲し、ブハラ①、クニヤ・ウルゲンチ、サマルカンド、ニーシャープール、メルフ②、イスファハン、タブリーズ③といった拠点都市を次々と攻略。

いずれの街も攻撃を受けたが、特にクニヤ・ウルゲンチやサマルカンド、メルフ、ニーシャープールは跡形もないほど破壊され、犠牲者100万以上ともいわれる史上稀に見る大虐殺が行われた。

その理由は諸説あり、ホラズム朝のスルタンがチンギス・ハーンの使者を惨殺したりと、長期にわたる敵対関係が恨みを買ったためともいわれている。

※①世界遺産「ブハラ歴史地区(ウズベキスタン、1993年、2016年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「国立歴史文化公園“古代メルフ”(トルクメニスタン、1999年、文化遺産(ii)(iii))」

 ③世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン、2010年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

チンギス・ハーンが死ぬと、第2代ハーン、オゴタイが跡を継いで征伐を続行。

モンゴルに通じた人々の内乱にあい、1231年、ホラズム朝は完全に滅亡する。

 

その後第4代ハーン、モンケの命を受けたモンゴル軍が来襲し、1258年には総司令官フラグがバグダードを落とす。

このとき住民は大虐殺を受け、カリフ・ムスタアスィムも処刑されてしまう。

先述のようにマムルーク朝でムスタンスィル2世が立ってカリフは復活するが、アッバース朝はこれによって滅亡する。

 

[関連サイト]

サマルカンド/ウズベキスタン

 

* * *

デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群
インド最初のモスク、クトゥブ・ミナール。左は世界でもっとも高いといわれるミナレット。世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」構成資産

■中央アジア

  • ターヒル朝他→サーマーン朝→ガズナ朝、カラ・ハーン朝→カラ・キタイ(西遼)、ゴール朝→モンゴル帝国

現在中央アジアの多くがイスラム教国であるように、イスラム教は中央アジアにも広がった。

そのきっかけとなったのがサーマーン朝だ。

 

サーマーン朝は873年に興ったペルシア人のスンニ派王朝で、首都はシルクロードの要衝・ブハラ(世界遺産、前述)。

ブハラのイスマイール廟は中央アジア最古のイスラム建築といわれており、中央アジアのイスラム政権のさきがけとなった。

東西貿易で繁栄したのみならず、トルコ人奴隷マムルークを積極的に使い、強力な軍事力を有していた。

しかし10世紀には後継者争いで衰退し、999年、トルコ人国家カラ・ハーン朝の侵入により滅亡する。

 

サーマーン朝のマムルークが独立した王朝がガズナ朝だ。

サーマーン朝の東に建国し、一時はイラン-アフガニスタン-パキスタン-インドに至る地域を支配。

これをきっかけにインドへヒンドゥー教が伝わることになる。

しかし、その後セルジューク朝などの圧力を受け、12世紀にゴール朝に滅ぼされる。

9世紀にガズナ朝の北に勢力を広げたのがトルコ人初のイスラム王朝カラ・ハーン朝だ。

カラ・ハーン朝はサーマーン朝を倒したものの、ガズナ朝やセルジューク朝との戦いに敗北。

やがて国は分裂し、12世紀には完全に滅亡する。

 

このカラ・ハーン朝の地を奪って独立したのがモンゴル人国家カラ・キタイ(西遼)だ。

耶律大石が建てた国だが、1211年にモンゴル帝国に帰順し、やがて消滅する。

 

ゴール朝は1117年にガズナ朝から独立したペルシア人国家。

ガズナ朝を倒してその版図を奪うとインド北部を占領。

ガズナ朝よりもさらに奥、ガンジス川流域にまで進出し、インドにイスラム教をもたらした。

ゴール朝はホラズム朝やカラ・キタイの攻撃を受けて弱体化し、13世紀初頭に滅亡する。

なお、ゴール朝が築いた世界で二番目に高いミナレットが世界遺産「ジャムのミナレットと考古遺跡群(アフガニスタン、2002年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」だ。

 

インドではゴール朝のマムルーク、アイバクがインドに奴隷王朝を建国。

イスラム教国による北インドの支配=デリー・スルタン時代がはじまる。

このときアイバクが造ったインド初のモスクが世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド、1993年、文化遺産(iv))」。

高さ72.5mのミナレットはジャムのミナレットを模倣したといわれており、世界でもっとも高いミナレットとなっている。

 

なお、モンゴル帝国の中央アジア、西アジア進出については「28.モンゴル帝国の世界征服」で解説する。

 

 

次回はインド、東南アジア、アフリカのイスラム化を紹介する。

 


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イタリアの世界遺産「ポルトヴェネーレ、チンクエ・テッレ及び小島群」
イタリアの世界遺産「ポルトヴェネーレ、チンクエ・テッレ及び小島群」の構成資産のひとつ、マナローラの絶景。クリックで外部記事へ
イタリアの世界遺産「ピサのドゥオモ広場」
イタリアの世界遺産「ピサのドゥオモ広場」、左がピサの斜塔、右が大聖堂。斜塔は傾いているだけでなく、途中で曲がっている。クリックで外部記事へ
イタリアの世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」
世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」。クリックで外部記事へ。

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・All About 世界遺産 新記事

 チンクエ・テッレ/イタリア

 ピサの斜塔とドゥオモ広場

 ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』

 グラーツ:歴史的デザイン都市

 ザルツブルク:バロックの都

Bizコンパス 世界の名言

 リンカーン 人民の人民による

 チャップリン 勇気・想像力・金

 本田宗一郎「挑戦した失敗」

 岡本太郎「毒を持て」

 ディズニー「未完成」

 ジョブズ「愚かであれ」

 ナポレオン「不可能はない」

 高杉晋作「おもしろき世」

 エジソン「1%の才能99%の汗」

・Bizコンパス 国際情勢連載

 なぜLCCが世界を席巻?

 なぜ日本のGDPは低迷?

 なぜ今TPP等の地域協定なのか?

 なぜシンガポールは豊かなのか?

 なぜ米国は銃規制できないか?

 なぜハリウッドは強いのか?

 なぜ外国人が渋谷の交差点に?

 なぜイスラムは仏を狙うのか?

 なぜスイスは永世中立なのか?

 なぜ中華料理はおいしいのか?

 なぜ難民が増えているのか?

 なぜ五輪は4年に1度の開催か?

 なぜイランは核開発するのか?

 なぜ台湾は独立できないのか?

 なぜアフリカはいつも戦争?

 なぜシーア派とスンニ派がある?

 なぜブータンは幸せの国なのか?

 なぜ世界でパンデミックが拡大?

 なぜ世界に親日国が多いのか?

 なぜイスラムは遺跡を壊すか?

 なぜ米国とキューバが接近?

 なぜ訪日外国人が増えたのか?

 なぜギリシャ危機が問題か?

 なぜウクライナで米露が対立?

 なぜ世界中に中華街があるのか?

 なぜ柔道はJUDOに勝てないか?

 なぜ捕鯨は野蛮なのか?

 なぜイスラムは西洋と戦うのか?

 なぜ日本料理は世界で人気か?

 なぜ中南米はミスコンに強いか?

 なぜ中国で民主化・独立運動か?

 なぜ英・西で独立運動なのか?

・Bizコンパス 世界遺産連載

 世界遺産の夜明けを導く2遺跡

 人類の歴史に挑戦する負の遺産

 危機遺産リストと世界遺産

 世界遺産が世界遺産でなくなる日

 キング・オブ・世界遺産

 自然遺産を守る意味 

 聖地が示す世界遺産の限界

 世界遺産と平和への挑戦

 世界遺産登録と今後の日本の遺産

 なぜ世界遺産は欧州に多いのか

 産業遺産と新しい世界遺産

 自宅で楽しむ世界遺産 ワイン編

 W杯! ブラジルの歴史と世界遺産

 なぜ伊勢神宮は世界遺産でない?

 一度の旅行でたくさんの世界遺産

 夏休みに訪れたい海の世界遺産

 世界遺産はじめて行くならここ!

 最新の世界遺産を訪ねよう!

 世界遺産で野生動物と触れ合う

 パワースポットの「聖なる山」

 立入禁止! 非開放の世界遺産

 神々が降り立つ聖地の世界遺産

 絶景と人工美が融合した鉄道

 愛と美を称える世界遺産

・その他

『朝日新聞 世界の扉』記事執筆。『Fine』自然遺産特集執筆。『地球の歩き方 MOOK 世界のビーチBEST100』『ノジュール』に旅のスペシャリスト・達人として参加。『PEN』でアフリカの世界遺産執筆。『MONOQLO』世界遺産特集取材協力。『女性セブン』で日本の世界遺産を解説。エクスナレッジ『聖地建築巡礼 世界遺産から現代建築まで、73の聖地を巡る旅』、洋泉社ムック『負の世界遺産』執筆。RKBラジオ、FM TOKYOで世界遺産特集出演。その他企業・大学広報誌等。

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<旅論:たびロジー>

1.あなたは幸せですか?

.麻薬は悪? ゴキブリは汚い?

.裸とワイセツ

 

<エロス論:エロジー>

.遊びの本質

.おいしい、美しい、気持ちいい

.文化SM論

 

<絵と写真の話>

.アートと魂~抽象画とポロック

.ロスコの扉 ~ロスコ・ルーム~

10.写真と抽象芸術~グルスキー

 

<哲学的探究:哲学入門>

1.哲学とは何か?

2.「正しい-間違い」とは何か?

3.証明とは何か?

4.わかる・理解するとは何か?

5.力とは何か? 波とは何か?

6.物質とは何か?

7.見る・感じるとは何か?

8.空間とは何か?

9.時間とは何か?

 

<哲学的考察:ウソだ!>

.無と偶然

.ことだま-はじめに言葉ありき

10.物質とは何か?

11.神とは何か?-一神教と多神教

 

<世界遺産NEWS>

新登録の無形文化遺産リスト

米大使館をエルサレムへ移転へ

最古のイヌの岩絵発見か

ロード・ハウ島ネズミ根絶計画

2017年新登録の世界の記憶

 

<世界遺産ランキング集>

登録基準に見る世界遺産

世界の七不思議

国内集計の世界遺産ランキング

海外集計の世界遺産ランキング

世界遺産国別ランキング

 

<UNESCOリスト集>

日本の遺産リスト

無形文化遺産リスト

世界の記憶リスト

世界遺産リスト

ユネスコエコパーク・リスト

世界ジオパーク・リスト

創造都市リスト

 

<世界遺産の見方>

知性的鑑賞法

感性的鑑賞法

異文化理解の方法論

正しい・間違いの基準

星と大地と古代遺跡

 

<味わう世界遺産>

.王様のワイン トカイ

.命の水 テキーラ

.ポルトガルの宝石 ポート

.神の贈り物チョコレート

 

<世界遺産で学ぶ世界の歴史>

.宇宙と地球の誕生

.地球と火山活動

.大陸移動と世界の形成

.生命の誕生 先カンブリア時代

.生命の進化 古生代から新生代へ

.人類の夜明け

.戦争の時代 ~メソポタミア

.古代エジプトの繁栄

.インダス文明と古代インド

10.長江・黄河文明と古代中国

11.欧州巨石文化とエーゲ文明

12.古代ギリシアの繁栄

13.アレクサンドロスとヘレニズム

14.シルクロードとクシャーナ&漢

15.東南&東アジア,アフリカの古代

16.南北アメリカ大陸の古代文明

17.共和政ローマと帝政ローマ

18.ローマの平和、そして分裂へ

19.民族大移動と西欧の形成

20.東欧の形成とビザンツ帝国

21.東西教会の分裂と十字軍

22.イスラム教とペルシア・アラブ

23.イスラム帝国の分裂

24.イスラムの拡散-インド,アジア

25.アフリカの交易とイスラム教

26.隋・唐・宋の時代

27.北方騎馬民族とその周辺

28.モンゴル帝国の世界征服

29.オスマン,サファヴィー,ムガル

30.中世ヨーロッパの飛躍

31.修道院とロマネスク&ゴシック

32.イギリス・フランスと百年戦争

33.ハプスブルク家とレコンキスタ

34.大航海時代

35.ルネサンス

36.宗教改革

37.絶対王政とオランダの台頭

38.三十年戦争とイギリス革命

39.啓蒙思想とプロイセン、ロシア

40.明と清の繁栄

41.東・東南アジアの植民前史

42.産業革命とアメリカ独立革命

43.フランス革命とナポレオン

44.ウィーン体制と七月・二月革命

45.イタリアとドイツの成立

46.帝国主義と米英仏

47.アジアの衰退・植民地化

48.清、朝鮮、江戸の開国・滅亡

49.世界分割

50.第一次世界大戦

51.ファシズムと世界恐慌

52.第二次世界大戦

 

<世界遺産写真館>

1.文化交差路サマルカンド1

2.文化交差路サマルカンド2

3.アッパー・スヴァネティ

4.グラナダのアルハンブラ宮殿1

5.グラナダのアルハンブラ宮殿2

6.コトル

7.プレアヴィヒア寺院

8.福建の土楼1

9.福建の土楼2

10.フォンニャ=ケバン国立公園1

11.フォンニャ=ケバン国立公園2

12.カタルーニャ堂とサンパウ病院1

13.カタルーニャ堂とサンパウ病院2

14.オフリド地域1

15.オフリド地域2

16.古都京都の文化財1

17.古都京都の文化財2

18.アントニオ・ガウディ作品群1

19.アントニオ・ガウディ作品群2

20.アンコール1

21.アンコール2

22.アンコール3

 

<世界遺産攻略法>

1.世界遺産検定攻略の理念と背景

2.世界遺産検定の概要

3.試験戦略の一般論

4.試験戦略の理念

5.世界遺産検定の受検戦略

6.試験勉強の3要素

7.世界遺産検定 最効率学習法

8.時事問題・世界史・検定講座

9.マイスター試験の概要

10.マイスター試験問1・2対策

11.マイスター試験問3対策

12.マイスター試験時間術&解答術

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