世界遺産と世界史47.アジアの衰退・植民地化

産業革命がもたらした大資本を背景に経済力と軍事力を高めた欧米列強は東ヨーロッパや西アジア、ラテン・アメリカ諸民族のナショナリズムを煽って大国からの離脱を促し、中央アジアや南アジア・東南アジア・アフリカで植民地化を進めて支配域を広げていく。


オスマン帝国やムガル帝国、清をはじめとするアジアの大国は17~18世紀以降、徐々に領土を削られ、分裂して弱体化が加速。欧米帝国主義による支配は着実に世界を蝕んでいく。


ここではオスマン帝国、ムガル帝国の衰退の様子、中央アジアの動向、東南アジアの植民地化を見ていこう。

なお、オスマン帝国とムガル帝国、サファヴィー朝のこれ以前の歴史については「世界遺産と世界史29.オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国の時代」を参照のこと。


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世界遺産「イスタンブール歴史地域」トプカプ宮殿
ボスポラス海峡から見上げたオスマン皇帝の居城トプカプ宮殿。15世紀にメフメト2世が建立し、1853年にドルマバフチェ宮殿に移るまで皇宮であり続けた。世界遺産「イスタンブール歴史地域」構成資産

 

<オスマン帝国、ムハンマド・アリー朝、ワッハーブ王国の動き>

 

17世紀後半以降、オスマン帝国の衰退がはじまった。

そのはじまりが1683年の第二次ウィーン包囲だ。

 

オスマン帝国はフランスのルイ14世から援軍を出さないという中立の確認を得て、神聖ローマ帝国の帝都ウィーン※を包囲する。

これに恐れをなした神聖ローマ皇帝レオポルド1世はドイツのバイエルンに逃れたが、ポーランド=リトアニアが援軍に駆けつけるとオスマン軍は敗退。

オスマン帝国の不敗神話が終結すると、その後も敗走を続けた。

※世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア、2001年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 

[関連サイト]

ウィーン歴史地区/オーストリア

 

結局、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国はハンガリー、トランシルヴァニア、スロベニア、クロアチアなどをオーストリアに割譲した。

 

黒海については、18世紀後半にロシア帝国のエカチェリーナ2世によって侵食された。

この辺りにはオスマン帝国を宗主国とするタタール人国家クリミア・ハーン国があったが、オスマン帝国は第一次ロシア=トルコ戦争 (第一次露土戦争。1768~74年)に敗退。

戦後、ロシアはクリミア・ハーン国を保護国化すると、1783年に併合し、黒海から地中海・大西洋に抜ける念願の不凍港をクリミア半島に確保した。

 

1787~92年の第二次ロシア=トルコ戦争で、タタール人の依頼を受けたオスマン帝国はロシアとふたたび開戦。

しかしロシアが首都イスタンブール※に迫ると、オスマン帝国は講和に応じてロシアのクリミア半島領有を認めた。

※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ、1985年、2017年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 

[関連サイト]

イスタンブール/トルコ

世界遺産「古代都市[タウリカのヘルソネソス]とそのホーラ」
ウクライナ正教会の聖地であり、ギリシア植民都市の遺跡が残る世界遺産「古代都市[タウリカのヘルソネソス]とそのホーラ(ウクライナ、2013年、文化遺産(ii)(v))」。クリミア半島は古代から現在まで領有権争いが絶えず、2014年にはロシアが併合している。(C) Dmitry A. Mottl


一方、18世紀半ばのアラビア半島ではイブン・アブドゥル・ワッハーブがイスラム教の改革を唱えるワッハーブ派の運動を起こす。

ワッハーブ派は、トルコ人やイラン人が信じるスーフィズム(神秘主義)や聖者崇拝を堕落と見なし、神の言葉を記した『コーラン』やムハンマドの言行録『ハディース』に立ち戻った本来の信仰の復権を目指した。


そして同志ムハンマド・イブン・サウードを養子にしてサウード家と結び付き、1744年頃にサウード家とともにワッハーブ王国を建国してリヤドを首都に定めた。

この教えはオスマン帝国やサファヴィー朝の支配下にあったアラブ人の信頼を勝ち取ってアラビア半島へ拡散。

1803年にメッカ、1804年にはメディナというイスラム教二大聖地を手に入れた。


この頃、エジプトはナポレオンによる遠征の結果フランスが占領していたが、オスマン帝国はイギリスと組んでフランス軍を破り、オスマン帝国の支配が復活していた。

対フランス戦で活躍して民衆の支持を得て、1805年にエジプト総督に就いたのがムハンマド・アリーだ。

オスマン帝国が追認した総督は王に匹敵する権限を認められていたことから、事実上ムハンマド・アリー朝が成立した。

世界遺産「カイロ歴史地区」
12世紀に英雄サラディンが築いたカイロのシタデル。サラディンはマムルークを登用して十字軍を打ち破ったが、ムハンマド・アリーはこのシタデルでマムルークを虐殺して重用を終わらせた。世界遺産「カイロ歴史地区」構成資産。(C) Ahmed Al.Badawy

 

ムハンマド・アリーは1811年、エジプトで勢力を誇っていたトルコ人兵士マムルークをカイロのシタデル(城塞)※で虐殺して政権を掌握(シタデルの惨劇)。

フランスから紡績機や織機などを輸入して官営工場を建設し、造船所・兵器工場・印刷所などを造って近代化を推し進め、軍を整備し、農業や教育なども改革して富国強兵に努めた。

※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト、1979年、文化遺産(i)(v)(vi))」


1818年、オスマン帝国のマフムト2世はメッカとメディナ奪還のため、ムハンマド・アリーにワッハーブ王国の征伐を命令。

ムハンマド・アリーはこれに応えてワッハーブ王国を滅ぼした。

この勢いでムハンマド・アリーは1820~22年にはスーダンを占領してスーダン総督も兼務した。


ワッハーブ王国はこのあと1823年にサウード家が再興するが(第二次ワッハーブ王国、あるいは第一次サウード王国。首都ディルイーヤ※)、こちらもオスマン帝国の支援を受けたラシード家により1889年に滅亡する。

さらに時代を下って1932年、サウード家が建国してアラブの盟主を自負しているのが「サウード家のアラビア」、すなわちサウジアラビアだ。

※世界遺産「ディルイーヤのトライフ(サウジアラビア、2010年、文化遺産(iv)(v)(vi)」

世界遺産「ディルイーヤのトライフ」
第一次サウード王国の首都ディルイーヤのサアド・イブン・サウード宮殿。ナジャディ様式の宮殿や庭園が見事。ディルイーヤはワッハーブ派の拠点として繁栄したが、王国の滅亡とともに廃墟となった。世界遺産「ディルイーヤのトライフ」構成資産。(C) Petrovic-Njegos


この頃、バルカン半島でも諸民族のナショナリズムが高まって独立運動が相次ぎ、特にギリシアで深刻化していた。

1821にギリシア独立戦争(~29年)が起こり、秘密結社フィリキ・エテリア(友愛会)を中心とした独立派が1822年にアテネのアクロポリス※を占領。

オスマン皇帝マフムト2世はエジプトのムハンマド・アリーに支援を求め、反撃に転じた。

※世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア、1987年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi))」


[関連サイト]

アテネのアクロポリス/ギリシア

ウジェーヌ・ドラクロワ『キオス島の虐殺(シオの虐殺)』
ウジェーヌ・ドラクロワ『キオス島の虐殺(シオの虐殺)』1824年、ルーブル美術館。オスマン帝国による虐殺の様子を描いた作品で、この事件を機に欧米列強は反オスマンに転じたといわれる

当初は、フランス革命以前の王政や領土を正統として市民革命を否定する「正統主義」を掲げてオスマン帝国を支持していたヨーロッパ諸国だったが、イスラム教徒がキリスト教徒を弾圧したことで反発。

イギリス、フランス、ロシアがギリシア支援に転じ、1827年には3か国の連合艦隊がナヴァリノの海戦でオスマン帝国とエジプトの艦隊を撃破した。

1829年のアドリアノープル条約でロシアはオスマン帝国から黒海北岸を獲得。

1830年のロンドン会議でギリシアの独立が合意され、1832年のコンスタンティノープル条約で正式に認められた。


エジプトは戦後クレタ島とキプロス島を獲得し、さらにオスマン帝国に援軍の報酬としてシリアを要求。

これが拒否されるとムハンマド・アリーはオスマン帝国を攻めて第一次エジプト=トルコ戦争(1831~33年)を起こす。

オスマン帝国はロシアにボスボラス海峡とダーダネルス海峡の通航権を与えて支援を受けるが、ロシアの南下を恐れるイギリスとフランスはマフムト2世に迫り、シリアの統治権をエジプトに譲ることを認めさせた。


このあとオスマン帝国はシリア奪還、エジプトは独立を目標に第二次エジプト=トルコ戦争(1839~30年)を開始。

イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンがオスマン帝国、フランスがエジプトを支持するが、孤立を恐れたフランスが撤退すると、エジプト軍はイギリス軍の前に敗退した。

1840年のロンドン会議でムハンマド・アリーはエジプトとスーダン総督の世襲権を認められた代わりに、シリアについてはオスマン帝国に返還した。

世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群」
エルサレムの岩のドーム。カピチュレーション(オスマン帝国がフランスに認めた特権)によって16世紀からフランスが聖地管理権を得ていたが、1919年のサイクス=ピコ協定によってエルサレムはイギリスの委任統治領となって消滅する。世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群」構成資産

 

1851年、オスマン帝国内部で発言権を強める正教徒たちは、ロシアの支援を得てフランスが所持していたエルサレム※の管理権をオスマン帝国から手に入れる。

翌年フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に迫って聖地管理権を回復すると、ロシアのニコライ1世は聖地管理権と正教徒の保護を名目にクリミア戦争(1853~56年)を開始する。

※世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請、1981年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」


[関連サイト]

聖地エルサレム


オスマン帝国はロシアの南下政策を警戒するイギリス、フランス、サルディーニャ王国の支援を受けて攻勢を強め、1855年にクリミア半島のセヴァストーポリ要塞を攻略。

オーストリアの参戦もあってオスマン帝国の勝利に終わり、1856年のパリ条約でロシアの海峡通航が禁止され、ロシアはベッサラビアをモルダヴィア公国に割譲し、モルダヴィア公国は隣のワラキア王国とともに独立を認められた。


1875年にボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ブルガリアの正教徒がオスマン帝国に対して反乱を起こすと、セルビアやモンテネグロの正教徒がこれを支持。

いずれもスラヴ人であることから同じスラヴ系のロシアがパン=スラヴ主義の下で保護に回り、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)が勃発した(1877~78年)。


この戦いはロシアの勝利で終わり、1878年のサン=ステファノ条約で黒海沿岸の領土をロシアに割譲し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を認め、ブルガリア公国が自治公国とされた。

ロシアは事実上ブルガリアを保護国とし、そのブルガリアは黒海からエーゲ海に達する巨大な領土を入手。

これにイギリスやオーストリア=ハンガリーが反発し、同年のベルリン条約で調整され、ブルガリア公国はエーゲ海沿いの領土を縮小されてオスマン帝国内に留まることとなり、代わりセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立は認められた。

このとき、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を得、イギリスはキプロス島を獲得している。

世界遺産「アッコ旧市街」
十字軍の拠点だったがその後廃墟となり、18世紀にオスマン帝国によって再建されたアッコの城壁。エルサレムの玄関口ということで多くの国の標的となった。世界遺産「アッコ旧市街(イスラエル、2001年、文化遺産(ii)(iii)(v))」構成資産

 

こうしてオスマン帝国はヨーロッパの領土の半分以上を失い、「瀕死の病人」といわれるほどに没落した。


近代化の遅れから没落が進むオスマン帝国は、その危機感から19世紀中盤にアブデュル・メジト1世がタンジマート(恩恵改革)を断行。

ギュルハネ勅令を出して法治主義の下で帝国民の諸権利を定め、宗教にかかわらず法の下の平等原則を認めた。


近代化を進めたいオスマン帝国は英仏から資金を借り入れて鉄道を建設し、産業を振興。

ところが1838年にトルコ=イギリス通商条約を締結して以来、ヨーロッパの工業製品が流入し、国内の産業が打撃を受けて衰退した。


クリミア戦争に敗れるとさらなる近代化が求められ、1876年、宰相ミドハトがアジア初の憲法であるミドハト憲法を発布して立憲君主政に移行。

ところがロシア=トルコ戦争がはじまるとアブデュル・ハミト2世はミドハトを追放し、議会を解散して憲法も停止してしまった。


オスマン帝国はこのあと立憲政治を支持する派閥と皇帝による専制政治を支持する派閥に分かれ、政権の奪い合いが続くことになる。

世界遺産「サフランボル市街」
黒海の南北をつなぐ黒海貿易の中心として栄えた世界遺産「サフランボル市街(トルコ、1994年、文化遺産(ii)(iv)(v))」。特にオスマン帝国の時代に繁栄し、当時の木造建築がよく残されている。(C) Makalp

 

この頃、エジプトもトルコと同様に近代化と相次ぐ戦争、ヨーロッパ製品の流入によって莫大な債務を抱え、事実上の財政破綻に陥っており、1860年代以降はイギリス、フランスの財政管理を受けていた。


当時エジプトでもっとも重要な国家事業だったのがスエズ運河の建設だ。

第4代総督サイード=パシャはフランス人技師レセップスに開削権を与えると、レセップスはスエズ運河株式会社を設立して1859年に着工。

1869年に全長167kmに及ぶ大運河が完成した(レセップスはこのあと中米に飛び、1880年からパナマ運河の開削に参加する)。


スエズ運河は完成したものの、イギリス、フランスとは不平等条約を締結しているため関税自主権がないなど不利な状況で、エジプトの財政は困難を極めた。

1875年、仕方なくイギリスにスエズ運河会社の株式を売却。

それでも財政は好転せず、1876年に破綻してエジプトは完全に英仏両国の管理下に入った。


スエズ運河においてエジプトの民衆は過酷な労働に従事し、工事中の死者は2万人に達したといわれている。

イギリス、フランスに対する不満は膨れ上がり、ウラービー革命(1881~82年)となって爆発した。


陸軍大佐ウラービーは1881年、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、アラブ人による立憲政府の樹立を目指して武装蜂起。

エジプト政府はウラービーを大臣に昇格させ、憲法を制定したのち議会の開設を決定して民主化を進めた。


革命は成功したかに思われたが、1882年、イギリス軍がアレクサンドリアに上陸して武力鎮圧を開始。

エジプトを占領すると、実質的に支配下に収めた(正式に保護国にするのは1914年)。

ウラービーはセイロン島に流されるが、独立運動=ウラービー運動はエジプトの独立まで続けられることになる。


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世界遺産「ゴレスタン宮殿」
カラフルなアラベスクに覆われた世界遺産「ゴレスタン宮殿」。18世紀にアーガー・ムハンマドが建設し、19世紀にナセル・アッディーンが改修した宮殿で、ペルシア美術をベースにキリスト教美術やインド美術を取り入れて壮麗な宮殿を完成させた。(C) David Holt

<ペルシアと中央アジアの動向>

 

現在イランがあるペルシアの地では、サファヴィー朝のあとトルコ系スンニ派のアーガー・ムハンマドがイランを統一。

1796年に「シャー・ハン・シャー(王の中の王)」を名乗ってカージャール朝を建て、首都テヘランにゴレスタン宮殿※を建設した。

※世界遺産「ゴレスタン宮殿(イラン、2013年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 

この頃ロシアは中央アジアで南下政策を進めており、カージャール朝との間でイラン=ロシア戦争が勃発。

交易の要衝タブリーズ※をはじめカージャール朝は多くの領土を失い、1828年にトルコマンチャーイ条約を結んでロシアに治外法権を認め、東アルメニアを割譲した。

※世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン、2010年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」」

 

この頃、バクー※油田の開発がはじまってコーカサス地方の重要性が増し、イギリスがイランに進出して1840年にイギリス=イラン通商条約を締結した。

※世界遺産「城塞都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔(アゼルバイジャン、2000年、文化遺産(iv))」

世界遺産「城塞都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔」
城郭都市バクーの街並み。バクーは16世紀以降、オスマン帝国とサファヴィー朝の間で争奪が繰り返されたが、19世紀はじめにロシアが占領した。世界遺産「城塞都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔」構成資産

 

こうしたロシアやイギリス、スンニ派の台頭に対し、サファヴィー朝時代に浸透したイスラム教シーア派の聖職者や民衆の反発が高まり、シーア派から生まれたバーブ教の信者たちが1848年に武装蜂起(バーブ教徒の反乱)して対抗するが、カージャール朝に鎮圧された。


カージャール朝は次第に欧米列強の傀儡政権と成り下がり、たとえばタバコに関する全権をイギリスに売り渡して国王はそのバックマージンを受けていた。

この事実が知れ渡るとカージャール朝内で激しい非難が巻き起こり、タバコのボイコット運動に発展(1891年、タバコ・ボイコット運動)。

国王はイギリスへの全権譲渡を撤回したが、多額の違約金を支払うこととなった。


1904~05年の日露戦争での日本の勝利と、1905年にはじまる第一次ロシア革命の報が伝わると、反欧米とシャーの支配に対する反発が一気に高揚。

民衆の圧力に屈してカージャール朝は1906年、イラン憲法を制定して議会を開設した(イラン立憲革命)。

しかしながらロシアとイギリスは1907年に英露協商を結んでイラン分割を協議し、ロシアが武力によって議会を閉鎖した。


エジプトのウラービー運動やイランのタバコ・ボイコット運動に影響を与えたのがアフガーニーだ。

イギリスやロシアといった列強の侵出に対してパン=イスラム主義を唱えて対抗し、反植民地闘争をリードした。

アフガーニーの弟子にはムハンマド・アブドゥフがおり、アラブ民族主義運動へと展開している。

世界遺産「イチャン・カラ」
中世の美しい街並みが残るウクライナの世界遺産「イチャン・カラ」。ヒヴァ・ハーン国の主要都市で、18世紀にはカージャール朝の侵攻を受けて多くの建物が倒壊したが、その後修復された。(C) Patrickringgenberg

 

中央アジアのアフガニスタンの地では、18世紀中盤にアフガン王国が成立していた。

ロシアは南下政策によってアフガン王国にも進出し、カージャール朝を支援して侵攻させた。

これに対し、ロシアの南下をインド支配の脅威と考えたイギリスはアフガン王国に介入。

カージャール朝に対してアフガン王国の独立を認めさせた。

 

こうしたイギリスのアフガニスタン進出に対し、1838年にアフガン王国との間で三次にわたるアフガン戦争が勃発。

第一次アフガン戦争でアフガン王国が勝利してイギリスを撤退させたが、第二次でイギリスの保護国となり、第三次でラワールピンディー条約(1919年)を締結して王国の独立を回復した。

 

中国の新疆地区では1860年代にイスラム教徒の反乱(イリ事件)が起こった。

これに乗じてロシアが軍を進めてイリ地方を占領。

さらに中国の朝貢国であった中央アジアのブハラ・ハーン国(首都ブハラ①)やヒヴァ・ハーン国(首都タシケント。主要都市イチャン・カラ②)、コーカンド・ハーン国(首都コーカンド③)に進出して保護国化した。

1881年のイリ条約でイリ地方を清に返還するが、その代わりに新疆の一部を獲得し、賠償金や貿易特権を認めさせた。

※①世界遺産「ブハラ歴史地区(ウズベキスタン、1993年、2016年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 ②世界遺産「イチャン・カラ(ウズベキスタン、1990年、文化遺産(iii)(iv)(v))」

 ③ウズベキスタンの世界遺産暫定リスト記載

 

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世界遺産「レッド・フォートの建造物群」
第5代ムガル皇帝シャー・ジャハーンがアグラからデリーに遷都して居城とした赤い城=レッド・フォートの1785年当時の様子。インド大反乱ではイギリス軍の駐屯地となった

<ムガル帝国の滅亡>

 

ムガル帝国は第6代皇帝アウラングゼーブの死後、急速に衰退していた。

中央のデカン高原をマラータ王国を中心としたヒンドゥー連合・マラータ同盟が支配し、北部をシク教徒のシク王国、西部をラージプート族、東部をベンガルが押さえ、ムガル帝国にはデリー※周辺のみが残された。

※世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド、1993年、2016年、文化遺産(ii)(iv))」

 世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド、1993年、文化遺産(iv))」

 世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド、2007年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」

 

[関連サイト]

デリーのフマユーン廟/インド

 

変わって急速に勢力を伸ばしていたのがイギリスとフランスだ。

18世紀、世界各地で覇権を争っていた両国だが、ヨーロッパで起きた七年戦争(1756~63年)、アメリカ大陸のフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)、インドのカーナティック戦争(第一次:1744~48年、第二次:1750~54年、第三次:1758~61年)、プラッシーの戦い(1757年)でフランスは著しく疲弊。

フランスは1763年のパリ条約で北アメリカの植民地をほとんど失い、イギリスによるアメリカとインド支配が確定した。

この辺りの話は「世界遺産と世界史39.啓蒙思想とプロイセン、ロシア」を参照。

 

イギリス東インド会社はもともとマドラス(現在のチェンナイ)、ボンベイ(同、ムンバイ)、カルカッタ(同、コルカタ)に商館を置いていたが、プラッシーの戦いに勝利するとベンガル太守を傀儡とすることに成功。

1765年には徴税権ディーワーニーを獲得して統治機関として勢力を伸ばす。

こうしたイギリスの勢力拡大に対抗したのが南のイスラム政権・マイソール王国、中央のヒンドゥー連合・マラータ同盟、北のシク教徒・シク王国で、以下の戦争が続発する。

世界遺産「ジャイプールにあるジャンタール・マンタール」
ムガル帝国末期に天文学者でもあったジャイ・シン2世によって築かれた天体観測施設「ジャイプールにあるジャンタール・マンタール(インド、2010年、文化遺産(iii)(iv))」


■マイソール戦争:1767~99年

マイソール王国は16世紀にヴィジャヤナガル王国が滅んだ際にできた王国だ。アウラングゼーブの死後勢力を強め、南インドでイスラム教政権を確立した。フランスと同盟し、イギリスと四次にわたるマイソール戦争を戦ったが、1799年に首都スリランガパトラムが落城し、国王が戦死して敗北した。


■マラータ戦争:1775~1818年

マラータ同盟はムガル帝国のアウラングゼーブと戦ったヒンドゥー教勢力だ。同盟はヒンドゥー教諸国から代表となる宰相を選出していたが、勢力争いにイギリスが介入して特定の諸侯を支援。これに反発したマラータ同盟は三次にわたるマラータ戦争を開始した。1778年にはインド利権をイギリスと競っていたフランス軍が参戦。マイソール戦争と並行して行われたことから苦戦するが、19世紀に入ると戦況は逆転し、ウェズリーの活躍もあってイギリスの勝利に終わった。


■シク戦争:1845~49年

シク教は16世紀にナーナクがイスラム教とヒンドゥー教を融合させて創始した宗教で、「ただひとつのもの」なる唯一神を信じる一神教的な教え。現在のパキスタン東部にあたるパンジャーブ地方のラホール※を中心に信仰を広げてシク王国を建国した。イギリスは中央アジアに侵出するロシアに対抗する意味でパンジャーブ地方が必要となって戦争を開始。第二次まで戦われた結果、イギリスがシク王国を併合した。

※世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン、1981年、文化遺産(i)(ii)(iii)

世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園」
ジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブなど代々ムガル皇帝による改修を受けたラホール城、アラムギーリー門。シク王国がこの地を奪うとやはり城塞として利用された。世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園」構成遺産。(C) World66.com

 

イギリスはこれら3つの戦争で勝利して支配すると同時に、一部を藩王国として藩王の自治に任せた。

その際、藩王国同士で連携が取れないように分割統治を行い、一方を優遇して対立を煽った。

こうして19世紀半ばにはインド全体の支配権を確立した。


イギリスはインドの富を吸収するために税制の改革を断行した。

ザミンダーリー制では、サミンダールと呼ばれる地主に徴税権を与え、農民から地代を徴収させた。

ライヤットワーリー制では、農民(ライヤット)に土地所有権を与えて直接地代を徴収した。

いずれにせよ地代はきわめて高く、拷問を含む取り立てを行ったことから農民の生活は困窮した。


農業においても、イギリスは農民にインド国内、あるいは中国などの市場で売れる作物、たとえば染料となる藍や麻薬アヘンの原料となるケシを栽培させた。

税制や農作物の変更によって農業を中心とした農村の共同体的な生活は崩壊し、食料生産も減ったことから貧困層が増え、たびたび飢饉が起こった。


イギリス東インド会社はこうした徴税権を背景にインド統治を取り仕切った。

一方、本国では自由貿易を求める声が高くなり、イギリス東インド会社の貿易独占権は徐々に削減された。

1813年の特許状法によってインド貿易の独占権、1833年の新特許状法で茶の貿易と中国貿易の独占権が廃止され、1834年に商業活動そのものを停止して統治機構として植民地行政にあたった。

世界遺産「ゴール旧市街とその要塞群」
星型城塞で囲われたゴール旧市街。スリランカはポルトガルやオランダに支配されたのち、1815年に首都キャンディ(「聖地キャンディ(スリランカ、1988年、文化遺産(iv)(vi))」)を落とされてイギリス領セイロンとなった。世界遺産「ゴール旧市街とその要塞群(スリランカ、1988年、文化遺産(iv))」構成資産。(C) Galle Media Works

 

イギリスは当初インドから手織りの綿織物=キャラコを買ってヨーロッパに輸出していたが、産業革命が進むにつれて綿花や綿糸の輸入に移行。

やがて安価な機械織綿織物が生産されるようになると逆にインドに輸出するようになり、インドの綿織物工業は大打撃を受けた。

こうしてイギリスは「イギリス→(工業製品・武器)→アフリカ→(黒人奴隷)→アメリカ→(綿花・タバコ・コーヒー・砂糖)→イギリス」という三角貿易から、「イギリス→(綿織物)→インド→(銀・アヘン)→中国→(茶)→イギリス」という三角貿易へ移行した。


インドが疲弊する中で、シパーヒー(セポイ)をきっかけとする大反乱が起こる。

シパーヒーは東インド会社の軍のインド人傭兵で、イスラム教徒やヒンドゥー教徒を中心に構成されていた。

彼らが使用する新式銃の弾薬包には牛脂や豚脂が塗布してあり、これを噛み切る必要があった。

ところがイスラム教徒にとってブタは不浄の動物であり、ヒンドゥー教徒にとってウシは神聖な動物であり、口に含むことは許されなかった。

こうした宗教上の理由に加えて、藩王国が取り潰されたことに対する不満や、インドの風習などを禁止・改編する政策への反発、待遇問題などもあって、東インド会社に対する不満は高まっていた。


シパーヒーたちは1857年に武装蜂起するとデリー城(レッド・フォート※)を占領してムガル帝国のバハードゥル・シャー2世を皇帝に擁立。

イギリスに不満を持つ藩王国や「インドのジャンヌ・ダルク」の異名を持つラクシュミー・バーイーの反乱なども加わってインド大反乱へと発展する。

※世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド、2007年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」


しかし、大反乱とはいっても統制はとれておらず、バハードゥル・シャー2世も一応は皇帝擁立を認めたものの協力的ではなかった。

イギリス軍はこうしたほころびを突き、民族間・宗教間・カースト間の対立を煽って内部分裂を誘った。

そしてシク教徒やネパールのグルカ兵の協力を取り付けて反撃を行った。

世界遺産「デリーのフマユーン廟」
王妃ハージ・ベグムが亡き夫フマユーン(ムガル帝国第2第皇帝)に贈った世界遺産「デリーのフマユーン廟」。1858年、皇帝バハードゥル・シャー2世はフマユーン廟の内部で捕らえられたという

 

イギリスがデリーを包囲するとバハードゥル・シャー2世はあっさりと降伏を決意。

イギリス軍がデリーで虐殺・略奪・破壊行為を繰り返すなか、フマユーン廟※に避難しているところを捕らえられた。

※世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド、1993年、文化遺産(ii)(iv))」

 

[関連サイト]

デリーのフマユーン廟/インド

 

1858年、バハードゥル・シャー2世はムガル皇帝を廃位させられたのちビルマに流され、ムガル帝国は滅亡。

同時にイギリスは東インド会社を解散させ、1877年にヴィクトリア女王を皇帝としてインド帝国を建国する。

 

そして資本を投入して鉄道や電信を拡充し、コーヒー・紅茶・綿花などのプランテーションの経営や鉱山開発を行い、工場を築いて利益を上げた。

 

イギリスのインド支配を象徴する世界遺産には、ボンベイに築かれたヴィクトリア・ターミナス駅①や、紅茶の産地ダージリンに通されたダージリン・ヒマラヤ鉄道②、夏の首都シムラへ続くカルカ・シムラ鉄道②などがある。

※①世界遺産「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅[旧名ヴィクトリア・ターミナス](インド、2004年、文化遺産(ii)(iv))」

 ②世界遺産「インドの山岳鉄道群(インド、1999年、2005年、2008年、文化遺産(ii)(iv))

世界遺産「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅[旧名ヴィクトリア・ターミナス]」
1888年竣工の世界遺産「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅[旧名ヴィクトリア・ターミナス]」。大英帝国にふさわしい駅をということでゴシック様式の豪壮な駅舎が造られ、女王の名を冠してヴィクトリア・ターミナス駅と呼ばれていた。(C) Hkelkar

* * *

<東南アジアの支配>

 

■インドネシア周辺

 

東南アジア史に関して、これ以前の歴史は「世界遺産と世界史24.イスラムの拡散とインド、東南アジア」や「世界遺産と世界史41.東アジア・東南アジアの植民前史」を参照のこと。

 

東南アジアではイギリス、フランス、オランダが勢力を争っていた。

 

海洋で覇を唱えていたのがオランダだ。

1623年のアンボイナ事件でイギリスを排除してからスマトラ島やジャワ島からなる大スンダ列島、バリ島やコモド島からなる小スンダ列島、ボルネオの大半、モルッカ諸島などを支配していた。

オランダはジャワ島のバタヴィア※(現在のジャカルタ)を建設してオランダ東インド会社の拠点とし、ジャワ島を治めるマタラム王国と平和条約を締結した。

※インドネシアの世界遺産暫定リスト記載

 

17世紀以降、マタラム王国は内紛を繰り返し、18世紀半ばにふたつに分裂して自治区となって消滅。

オランダは東インド会社を解散させるとオランダ領東インドとしてオランダ政庁による直接統治を開始した。

 

オランダ政庁は作物の買い取り価格を一方的に取り決めたり、王族や貴族らによる土地貸借を禁じたりしたためさまざまな層の反発を買い、1825年にジャワ戦争が勃発(~1830年)。

指導者ディポネゴロを捕らえて鎮圧すると、財政立て直しのために畑や作物・生産量・農民の人数などを指定する強制栽培制度を制定した。

これによりオランダは莫大な利益を上げるが、人々の生活は困窮し、食糧不足から飢饉が頻発した。

 

同時期に、スマトラ島ではパドリ戦争(1821~37年)が起こっていた。

オランダのイスラム教弾圧に対する反乱だが、こちらもオランダ軍によって鎮圧された。

世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」
ジョージタウンのセント・ジョージ教会。左の天蓋はイギリス人船長フランシス・ライトの1786年の上陸を記念して設置されたもので、この年にペナン島がイギリスに割譲されてジョージタウンの建設がはじまった。世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群」構成資産

■マレー半島

 

イギリスはマレー半島に進出し、ジョージタウン①、ムラカ①、シンガポール②という3つの海峡植民地を中心にマレー半島の支配を強化。

3港を自由港として関税を撤廃したことからインド商人や中国商人が集まって繁栄した。

※①世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア、2008年、2011年、文化遺産(ii)(iii)(iv))」

 ②世界遺産「シンガポール植物園(シンガポール、2015年、文化遺産(ii)(iv))」

 

[関連サイト]

ムラカとジョージタウン/マレーシア

 

3都市はイギリス直轄植民地だったが、やがてマレー半島の全域にわたる領域的な支配を確立。

1895年にはマレー連合州を成立させて保護国とした。

マレー連合州ではスズ鉱山やコーヒーやゴムのプランテーションを開発してクーリー(苦力)と呼ばれるインド人・マレー人・中国人労働者を導入。

これにより現在に至る多民族文化が浸透していく。

 

 

■ミャンマー

 

ミャンマーではコンバウン朝が成立していた。

1824年、コンバウン朝がアッサムを占領し、ベンガルに侵入したのに対してイギリス軍が反撃。

これを機に三次にわたるビルマ戦争(英緬戦争。1824~86年)が勃発する。

 

第三次ビルマ戦争でコンバウン朝はインドシナ半島で勢力を広げるフランスと同盟を結ぼうと画策するが、これを理由にイギリスに攻め込まれ、1886年に首都マンダレーが落城して滅亡した。

これによりミャンマーはインド帝国に併合された。

 

以後、イギリスのインド帝国とフランスのフランス領インドシナはシャム(タイ)を挟んで対立を深めていく。

世界遺産「フエの建造物群」
中国庭園の色彩が濃いミンマン帝廟。ミンマン帝は鎖国を行い、キリスト教を禁止して、外国勢力と外国文化の流入を防ごうとした。世界遺産「フエの建造物群」構成資産

■ベトナム

 

ベトナムではグエン・フック・アイン(阮福暎)がフランス人宣教師ピニョーやタイのアユタヤ朝の支援を得て1802年にグエン朝(阮朝)を興した。

1804年に清から越南王に任ぜられるが、自らは皇帝を称してザロン帝を名乗った。

 

1805年、首都フエ①にフランスで建築学を修めたレーヴァンホク(黎文学)にヴォーバン式と呼ばれる星型城郭を造らせ、北京の紫禁城②を四分の三に縮小した王宮を建設した。

グエン朝はこのように中国とフランスの先端的な文化を導入して近代化を図った。

※①世界遺産「フエの建造物群(ベトナム、1993年、文化遺産(iv))」

 ②世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国、1987年、2004年、文化遺産(i)(ii)(iii)(iv))」

 

[関連サイト]

フエの建造物群/ベトナム

北京と瀋陽の明・清朝皇宮群/中国

 

中国とフランスを利用しようとしたグエン朝だが、フランスは次第に介入を強化。

これを嫌った第2代皇帝ミンマン帝(明命帝)はフランスと断絶し、鎖国を実施する。

 

グエン朝はキリスト教布教を禁止していたが、フランス人宣教師がしばしば鎖国を破って潜入し、布教を図った。

グエン朝がこれを弾圧すると、宣教師殺害を口実にナポレオン3世が軍を進めて1858年にベトナム中部の港町ダナンを占領(インドシナ出兵/仏越戦争。1858~62年)。

ベトナムにこれを排除する力はなく、1862年のサイゴン条約でメコン川下流をフランスに割譲し、メコン川の通航権を認めた。

 

フランスはメコン川をさかのぼって中国への通商路を開こうと、メコン川上流にあるカンボジアを1863年に保護国化。

しかし、「ラオスのナイアガラ」の異名を持つコーンパペンの滝をはじめとした数多くの滝と浅瀬に阻まれて通商路は開拓できなかった。

コーンパペンの滝
ラオス-カンボジア国境付近に横たわるコーンパペンの滝(世界遺産ではない)。この辺りでは10kmにわたって滝が続くほか、15km近い川幅の中にシーパンドン(4,000の島)と呼ばれる無数の島々が点在している

この頃、北ベトナムには清に対する反乱である太平天国の乱を戦った兵士たちが流れてきていた。

中国の客家(ハッカ。中国南部の漢民族。華僑や華人が多い)出身の劉永福もそのひとりで、中国人義勇兵を集めて黒旗軍を組織していた。

そして劉永福はグエン朝の要請を受けてハノイに向かい、フランス軍と戦ってこれを撃破した。


フランスは1883年と1884年にグエン朝とフエ条約を結んでグエン朝を保護国化するが、宗主国である清はこれを認めず、清仏戦争(1884~85年)が勃発。

劉永福も清朝の指揮下でフランスと戦った。


戦況は清の優勢で進むが、清朝は日本や朝鮮王朝(李氏朝鮮)との政情が不安定化していたことから講和を急ぎ、1885年に天津条約を締結。

これによりベトナムの宗主権を失い、ベトナムのフランスによる保護国化が認められた。


フランスは1887年にベトナムとカンボジアからなるフランス領インドシナ連邦を成立させ、1899年にはラオスも組み込んだ。


1904年にはじまる日露戦争で日本が勝利すると、明治維新以降の日本の近代化を学んで独立を勝ち取ろうとファン・ボイ・チャウを中心に維新会が結成された。

維新会は日本に留学生を送るドンズー(東遊)運動を展開するが、日本政府は1907年に締結した日仏協約に従ってこれを弾圧したため、運動は挫折した。


1911年に清で辛亥(しんがい)革命が起こると、ファン・ボイ・チャウは今度はベトナム光復会を組織して中華民国を模範として共和政の樹立を目指したが、これもフランスの弾圧により失敗に終わった。

 

 

■タイ


シャムではバンコクを首都にチャクリー朝(バンコク朝)が成立していた。


貿易についてはかなり閉鎖的な政策をとっていたが、イギリスやフランスによって開国圧力が上昇。

1855年、イギリスはチャクリー朝のラーマ4世とボウリング条約を結び、自由貿易や低い関税率、治外法権などを認めさせると、アメリカ、フランス、オランダなども同様の不平等条約を締結した。


ラーマ4世はイギリスの要請を受けてチャオプラヤ川の水田開発を進め、その流域を大水田地帯へ発展させた。

続くラーマ5世(チュラロンコーン)はシャムを挟むイギリスとフランスの対立を巧みに利用。

その結果、1896年に両国はタイを緩衝地帯として残すことを決定し(英仏宣言)、チャクリー朝は独立を保った。

世界遺産「古都ビガン」
世界遺産「古都ビガン」のクリソロゴ通り。スペインが町を築き、アメリカ=スペイン戦争でアメリカ領となり、太平洋戦争で日本領となった。現地の文化や華僑の文化も溶け込んでおり、多様な文化の影響が見られる

■フィリピン

 

フィリピンはマゼランが1521年に到達してからスペイン領となっていた。

「フィリピン」という名は国王フェリペ2世の「フェリペ」にちなんで名付けられたものだ。

 

フィリピンは16世紀後半から18世紀にかけて、マニラとメキシコのアカプルコを結ぶアカプルコ貿易で繁栄した。

ラテン・アメリカでは16世紀より南米のセロ・リコ銀山(ポトシ銀山)①、プラカヨ銀山②、メキシコのバレンシア銀山③やサカテカス④近郊の銀山など巨大な銀鉱脈が発見され、スペイン銀貨に鋳造されて輸出された。

中米で採れるメキシコ銀はマニラに運ばれ、その銀で中国の絹織物や陶磁器を購入してアメリカ大陸へ戻って大きな利益を生み出した。

メキシコ銀は石見銀山⑤などで採れた銀を鋳造した日本銀以上に流通し、基軸通貨となった。

※①世界遺産「ポトシ市街(ボリビア、1987年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」

 ②ボリビアの世界遺産暫定リスト記載

 ③世界遺産「古都グアナファトとその銀鉱群(メキシコ、1988年、文化遺産(i)(ii)(iv)(vi))」

 ④世界遺産「サカテカス歴史地区(メキシコ、1993年、文化遺産(ii)(iv))」

 ⑤世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観(日本、2007年、2010年、文化遺産(ii)(iii)(v))」

 

スペインはプロテスタントのイギリスやオランダと異なり、カトリックの布教を使命としていた。

物理的な支配を終えると、町を区画整理して中央にカテドラル(大聖堂)を建て、スペイン風の街並みを造り上げると同時に先住民を強制改宗して心の支配を行った。

世界遺産「フィリピンのバロック様式教会群(フィリピン、1993年、2013年、文化遺産(ii)(iv))」や「古都ビガン(フィリピン、1999年、文化遺産(ii)(iv))はその名残だ。

 

[関連サイト]

古都ビガン/フィリピン

世界遺産「フィリピンのバロック様式教会群」パオアイのサン・オウガスチン教会
パオアイのサン・オウガスチン教会。17~18世紀の建築で、バロック様式の重厚な造りが特徴的だ。左のベルタワーに登って街を一望できる。世界遺産「フィリピンのバロック様式教会群」構成資産

 

スペインは、フィリピンのヨーロッパとの貿易を自国に限定し、その他の国々に対しては鎖国政策をとらせていた。

しかしながらイギリスをはじめとする列強の自由貿易の圧力により、1834年にマニラを開港。

砂糖やタバコ、麻のプランテーション開発が進み、輸出が激増した。


19世紀後半になるとフィリピンの独立運動が活発化する。

1896年にホセ・リサールがカティプーナンを組織し、革命運動を開始。

カティプーナンは革命政府を作ってゲリラ活動を展開した。


1898年、キューバ独立を巡って宗主国のスペインとアメリカとの間でアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が勃発。

カティプーナンはアメリカに協力してスペイン軍と戦い、同年にフィリピン共和国の独立を宣言し、アギナルドが初代大統領に就任した。

しかし、アメリカ=スペイン戦争でアメリカが勝利して同年にパリ条約が締結されると、フィリピンはプエルトリコやグアムとともにアメリカ領に組み入れられた。


これに反発してフィリピン=アメリカ戦争が勃発(1899~1902年)。

アメリカ軍は虐殺を行って鎮圧し、フィリピンの支配を進めた。

1905年には日本と桂=タフト協定を結び、日本の朝鮮半島支配とアメリカのフィリピン支配を相互に認めた。



次回は東アジアの開国と滅亡を紹介する。



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